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林哲夫の文画な日々2
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わが町・新宿

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田辺茂一『わが町・新宿』(旺文社文庫、一九八一年一一月二五日、カバー画=辰巳四郎)、産経新聞連載(一九七五〜七六年)の後、サンケイ出版から七六年に刊行された本の文庫化。紀伊國屋書店から二〇一四年に単行本として復刊されている。

本書の扉の裏にはこんなゴム印(?)があった。きっとたくさん謹呈したのだろう。

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この文庫は喫茶店資料(新宿・中村屋が登場)として求めたが、田辺が筆達者なのに驚かされた。テンポよく読ませる文章だ。本書に収められている「紀伊国[ママ]屋書店開店」から一部を引用してみる。

《昭和二年一月二十二日、新宿市電終点に、紀伊国屋書店は開業した。私の数え歳二十二歳の春であった。
 書店の夢は、私の七歳のときからであった。やっと素志を実現したのである。
 父の家業であった薪炭問屋も、盛業中であったので、惣領の私が転業することには、勿論、反対もあった。が、独[ひと]りっ子同様、我儘[わがまま]に育った私には、そんなことは問題ではなかった。》

大正十五年の春、慶應義塾の専門部を終え、尾張町(銀座一丁目)の近藤書店へ勤めた。半日だけ! 朝から出かけて昼飯どきになって「色々有難うございましたが、だいたいわかりましたので……」とあいさつして帰ったのだそうだ。それまでに新宿の本屋で手伝いをしており大体のことは知っていたらしい。それにしても……半日とは。

父親の薪炭問屋は間口九間だった。そのうち塀だった三間分の空き地同様の土地十八坪(奥行き六間)に木造二階造りを建てた。六千円だった。

《本の陳列場は、階下の十五坪だけで、階段下のクボミに事務所一つを置き、これが仕入部、その裏の二畳の部屋が、着替所兼食堂、それに一坪半の主人の部屋兼応接室があった。
 階段を昇[あ]がると、画廊であった。
 この画廊開設については、後述するが、私自身絵心なんて皆目ないほうだが、どうしてこういう思いつきになったのか、今もってわからない。》

問題がひとつあった。店で雑誌が売れないことが分かった。というのは、当時、距離制限というものがあって既存店から三百歩以内の近距離で新規開業した店では雑誌が扱えないという雑誌組合の規則があった。新宿終点の周辺ではすでに池田屋、文華堂、敬昌堂が営業していた。

店員は女学校出の女店員二名、近藤書店の年寄りの古番頭を帳場に、田辺を入れて五人だった。

《開店をすると、雑誌の棚がないから、その代わりに、白揚社、共生閣、叢文閣のプロレタリア思潮風のパンフレットを堆高[うずたか]く積んだ。
 私自身は三田の出身だったが、開店当時の仲間には、東大出身が多かった。
 美学の山際靖、ドイツ文学の伊藤緑良、北條憲政などが集った。》

《客には、竹久夢二、前田河広一郎、生物学の小泉丹、金田一京助など多彩であった。》

画廊は二階の十五坪。天井に曇りガラスをはめた。展示の壁には細い材木の板を何段かに並べ、モスリンの巾[きれ]で蔽った。布上から釘をさしたりした。会場の中央には大きな四角いテーブル、八つばかりの椅子を置いた。卓上には画集を何冊か(しかし画集の一部がはがされて持ち去られた)。

「第一回洋画大家展」は近所の美校出の知人のつてで大家に出品を依頼して回った。牧野虎雄、満谷国四郎、三上知治、南薫造、田辺至、高間惣七、安井曾太郎ら。二回目は持ち込みの「洋画四人展」で木下孝則、木下義謙(二人は兄弟)、林倭衛、野口弥太郎。

二科、一九三〇年協会の人々と親しくなった。里見勝蔵、前田寛治、児島善太郎、野間仁根、中川紀元、東郷青児、阿部金剛らである。パリ帰りの佐伯祐三の初めての個展も開催した。昭和三年春には『アルト』という美術随筆雑誌を発行した(同人は木村荘八、中川紀元、林倭衛、今和次郎、田辺)。赤字ながら二年つづけた。プロレタリア展なども開催した。

などなど引用していてはキリがないが、最後にひとつ、「東郷青児美術館」というエッセイは、新宿副都心に安田火災海上新本社ビル(一九七六年六月一八日竣工)四十二階に落成した東郷青児美術館についてと、東郷の叙勲祝賀会について書かれている。出席者には数々の政治家が並んでいた。田辺は東郷青児の政治家ぶりにあきれながら《東郷青児は独力で、芸術を、政治の上に置いてくれたのだ、と思った》と結んでいる。この辺り気配りの人ならではであろうか。

なお東郷青児美術館(東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館)は二〇二〇年に新美術館に生まれ変わるそうだ。損害保険ジャパン日本興亜の本社敷地内(東京都新宿区)に延べ床面積約4000平方メートル(東京・南青山の根津美術館とほぼ同じ規模)でオープンするとか。

by sumus2013 | 2018-05-25 21:22 | 古書日録 | Comments(0)
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