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船川未乾君の装幀これらの図版は『書影でたどる関西の出版100』(創元社、平成二十二年十月十日)の「自己陶酔 園頼三・船川未乾」(宮内淳子)より。園と船川についてはこれまでも何度か取り上げている。 未乾の一生 『自己陶酔』「園頼三先生の思い出」 竹内勝太郎『西欧芸術風物詩』表紙=船川未乾 船川未乾について未見の資料を中島先生がお送りくださったので、簡単に紹介しておきたい。尾関岩二「船川未乾君の装幀」(『書物倶楽部』第一巻第一号、裳鳥會、一九三四年一〇月五日、掲載)。 《船川君は京都の洋畫家であつた。船川華舟はその兄であるが、弟はその弟といはれることをひどく嫌つて居つた。しかし彼は繪の手ほどきを兄に受けた事は事實であるらしい。彼は太平洋畫會に學んだといつてゐたが、そのことの確實性はあきらかでない。 大正七、八年頃京都南禅寺北ノ坊町に住んで、セザンヌ風な繪を描いてゐた。彼は個人展覧會を四回開いてゐる。》 《彼の死後、夫人咲子さんは友人の誰もに消息を絶つて、その後を知らない。彼はその生立も明かでないし、また、その死後も明瞭でない。彼の一生は戀をする間だけ我々の目にとまる蛍の様であつた。》 兄だとされる船川華舟についての情報もない、と書いたところ、読者の方より御教示いただきました。船川華洲は《未乾の実兄・船川華洲(ふなかわ・かしゅう)は、明治13年6月京都生れで、山元春擧塾、早苗会に所属していました。》とのことです。華舟ではなく華洲が正しい。このように尾関の述べる伝記的な事実については誤謬が多いので富士正晴の年譜を参照していただきたい(上記「未乾の一生」)。 《船川未乾君は或程度まで商業主義を認めながら、その一線を潜つて低下させようとする出版者の要求を一蹴して居つた。その點、船川未乾君ほど、我ままに振舞える装幀畫家は多くはあるまい。彼の要求は承認せずにはゐられないやうにさせる押があつた。押しといふより、人間的魅力といつた方がいいだらう。そしてどんなに算盤に合はない計算でも、彼によつて主張される時には、肯かずにゐられなくなるといふ、さういふ樣な不思議な力を持つてゐた。 だから、彼が殘して行つた装幀は、その發行の都度、讀書家の眼をうばつたものである。 いや、或は最後まで商業主義の充分判らなかつた男であつたかも知れない。時々彼はビツクリするほどうまく商業主義にあてはまつた行動をすることがあつたけれど、しかし、それは意識せずしてさうなつたのかも知れない。 出版者の方で、いくらほどの定價にしたいと思つても、彼にかかると、培[ママ]近い定價をつけるべく餘義なくされるといふ場合が少くなかつた。さういふ意味で彼は傍若無人であつた。》 《「自己陶酔」が船川君の装幀の基調となつてゐた樣である 書物は大型のうすいのが好きであつた。もし許されるならすぐこの大型の薄いものを作りたがつた。背も丸よりフラツトを好いて居た。またサイズも、菊とか、四六とかいふものより、どこか違つたものを作るのが好きであつた。この書は自費出版であつたため、丸善に發賣を依頼したが發行は園君の家であつた。その頃園君の家の表に「表現社」といふ自製の看板がかかつてゐたのを憶えてゐる。 発行日附は大正八年七月一日、私はまだ學生で、休暇明けに訪問して一册を贈られた。》 《「蒼空」はサイズも氏名印刷の工合も前の本と同じだつたけれども、背を丸くしたり、表紙に茶のうすい色の紙を見返しに燃えるやうな赤の日本紙を、本文にノートペーパーを用ひ、本文の活字を舊五號から九ポイントルビつきに變へて見てゐる。 しかしこれは決して成功した作品ではなかつた。園君さへ承諾するなら、全部を焼きすてたいといひいひしてゐた。》 《船川君がスケツチを版にしたのはそれより前、「太陽」に毎號のやうに京都附近のスケツチが出てゐた。野長瀬晩花氏のスケツチがよく出てゐた事から、恐らく同氏の紹介によつたものであらうと思はれる。》 《雜誌の装幀もしてゐた。私達がやつてゐた同人雜誌、「銀皿」の裏繪をよく描いてくれた。また雜誌の表紙では、京都から出てゐた「民衆文化」の表紙を描いてゐた。毎號續けてゐるうちには煩さくなつたと見えて、最後に稲荷さんの繪馬みたいな表紙を描いて、それでおしまひだつた。 ことはるつもりで、わざとひどいものを描いて渡したのだと自分では言つてゐた。》 装幀本としては、松原寛『現代人の芸術』(民衆文化協会)、高倉輝『心の劇場』(内外出版)、川田順『山海経』『技芸天』、尾関岩二『お話のなる樹』、園頼三『怪奇美の誕生』、竹内勝太郎『室内』、関口次郎『からす』。 《園君は表現社以来の親友、関口君は朝日新聞記者をしてゐた頃からの友情、竹内君は南禅寺時代から好きな詩人として、いつも愛してゐた。竹内君の方からも船川君に作品を先ず見てもらふといふ風に相尊敬する間柄なればこそであつた。》 伊藤長蔵が「ぐろりやそさえて[ママ]」を始めたときに伊藤熊三の紀行文『感興處々』、小田秀人の詩集『本能の聲』の装幀を手がけている。小田秀人は京大を退学し軍人になったりしてニーチェを勉強していたという。小田は船川を《無二の畏友》と書いている。 尾関とともにエッチングによるイソップ画集を出版する予定で作業を進めていたが、五十枚のうちの二十三枚が未完のまま、船川は肺患で倒れたのだった。 船川未乾の装幀本を掲げておられるブログは下記。 日用帳 竹内勝太郎『詩集 室内』 モダン周遊 『怪奇美の誕生』 園頼三
by sumus2013
| 2018-02-26 20:11
| 古書日録
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