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林哲夫の文画な日々2
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書物航游

書物航游_f0307792_19322007.jpg

平澤一『書物航游』(新泉社、一九九〇年四月二〇日)。これは思いの外面白かった。著者「ひらさわはじめ」は一九二五年京都生まれ、五一年京都大学医学部卒業、大学講師、病院部長を経て一九七三年より金沢大学教育学部教授、専攻は障害児病理学。本書は中公文庫に入っている。

いろいろ検索してもこれ以上の情報がない。ただ父親も医師だったようだ。平澤興(一九〇〇〜七二)、新潟県西蒲原郡味方村生まれ。京都帝国大学医学部卒。同学助教授を経て、新潟医科大学助教授、スイス・ドイツへ留学後、新潟医科大学教授。一九四六年京都帝国大学教授。医学部長から総長(一九五七)になっている。

著者は理系ながら哲学書、仏教書、美術書など幅広く書物を買い求め、しかも多くは読破しているもの驚きだ。専門分野に近い「わが国最初の西洋精神医学書ーー『精神病約説』と神戸文哉」なども興味深く参考になるし、書物譚も悪くないながら、最も面白いのは、やはり京都の古書店人について書かれた「古本屋列伝」である。若林春和堂らについては、伝記のように詳しく描かれているが、今は略して、白州堂についてのくだりを引用しておきたい。

《私の多くもない漢籍の殆んどが和刻本であり、その大部分は北川白州堂で求めたものである。白州堂の店は、京都の姉小路寺町東入ル、朝日会館の電車通を挟んで向いの小路の公衆便所の前にあった。一軒の家ではなく、家の前の防火用具を入れて置く物置に、トタン屋根をかぶせた空間を店にあてていた。店主の北川光蔵は、毎日、昼前に来て店をあけたが、昼食前には一本をつけるらしく。よく赤い顔をしていた。一見、人を人とも思わぬような入道面であったが、悪い気はない男で、近くの老舗の主人のように、有名な学者や金持には愛想がよいのに、無名の研究者や金のない学生には剣もほろろと、相手によって態度が変わることはなかった。酔うと、商売の道は薄利多売と言い言いした。一度、私の郷里は三重県、いつまで田舎に居ても芽はでない。そう思って郷里をとび出して京都に来ました。頼る人もなく、初めは、車引き(人力車の車夫)をしていたが、後に古本売買の道に入り、細川開益堂の番頭を長く勤めた、白州堂の白州は尺八を習った時の号であると、身の上を語ったことがある。

《ある時、こんな話をした。向いの公衆便所には、よく財布が捨ててある。近くの盛り場の新京極で、修学旅行の生徒や、お上りさんをねらったスリが、中身を抜きとって捨てたものです。悪い奴等です、彼等の末路によいことはない、と。》

公衆便所というと、現在は寺町通りと姉小路通りの角、山本額縁店の脇にある(ここは、ちょいちょい使わせてもらう)。

白州堂の目録は、半紙二枚のガリ版で、二段組であった。零本でも傷み本でも「漢書評林、一冊欠、惜(おしむと読むらしい)」と目録にのせていた。》《目録にも、本のいたみについて記述がなく、全く気にしていないようであった。しかし、玉石混淆とはこのことか、たまには、良い本の出ることもあった。》

半紙二枚の目録と言えば尚学堂さんの目録を思い出す(小生が知っているのはガリ版ではなかったですが)。ちょっと似ているかもしれない。

白州堂の北川は、パリのセーヌ川のほとりの露店の古本屋のように、一生、露店で通すのかと思っていたのに、最晩年になって、一軒の店を借りた。自慢の息子が国立大学の助教授になったので、世間体を気にしたのか、その理由はよく分らない。

この頃から書物より書画に力を入れるようになったそうだ。

北川白州堂は、昭和五十四年二月十四日に、なくなった。七十五歳であった。


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『精神病約説』と神戸文哉


「古本屋列伝」に登場する古本屋を名前だけ数えておく。

創造社 藤原富長
進文堂書店
八木書店 八木敏夫
北川白州堂 北川光蔵
若林春和堂 若林正治
竹岡書店
九如堂
きくや屋書房(菊屋) 斎藤広守


創造社(丸太町新道)藤原富長の未亡人が語る丸太町通りの古本屋。

《「鴨川の丸太町橋から、熊野神社前までに、二十七・八軒ありました。停留所の短い市電の区間で、川端丸太町・丸太町新町・熊野神社前まで、三つしか停留所はないのですが。小学校の遠足で、平安神宮から御所まで歩く生徒が、「また古本屋や、またや」と話していったことがありました。三高の学生も、京大の学生も、その頃は、河原町丸太町で電車をおり、歩いて熊野を通って学校にかよいました。バスが通るようになり、岡崎天王町まで電車がいくようになって、学生さんが丸太町通りを歩かなくなりました。それにつれて、古本屋がへりました。今は、うちをいれて四軒しかありません。今出川通りの方が古本屋は多くなっています。」》

文中の「その頃」は戦前かと思われる。「今」は一九八〇年代だろう。丸太町通りの古本屋ということで、別の本からだが、河盛好蔵の回想も引用しておく。

《私と本の最初の本格的な出会いは大正の末期、京都大学に学んでいたころです。当時の丸太町通りにはいまよりも古本屋が多くて、軒並みに並んでいました。娯楽の少ないころですから、散歩に出て本屋をひやかすのが大きな楽しみのひとつでした。私は丸太町通りの古本屋の棚には、どこの店にどんな本があるかすっかり覚え込んでしまったほどでした。》(「気に入った本を楽しむために」より。地産出版編『私の書斎』地産出版、一九七八年、所収)

『京古本や往来』の創刊号 丸太町通りの古本屋

もうひとつ、若林春和堂伝のなかにスチール本棚が登場している。昭和五十年に、店の隣に建ったビル(甥の医院)の一室を書庫として使うことになった。著者宛葉書にこう書かれていた。

《「建物は三月末にできました。棚もスチール二十五本、丸善より仕入れたのですが、八畳か十畳の大きさですので、とても入りきらないと思います。取り敢えず、幕末の活字本・洋学書・書籍目録位は、納めたいと思います。月末位にはめどがつくと思います」(昭和五十年四月四日)》

丸善も本棚を売っていた、当たり前か。他に石炭箱に本(書籍目録)をいっぱいに詰めて送ったという記述もある(戦前、たぶん昭和十年代)。林檎箱を本箱に転用した話はよく聞くが、リンゴ箱だけでなく石炭箱も使えたし、素麺の箱なども木製だった(小生の子供時代までそうだった)。


by sumus2013 | 2018-02-08 21:02 | 古書日録 | Comments(0)
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