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フェルメールの地図中島俊郎氏より『阪神間から伝えたいー人・まち・文化』(神戸新聞総合出版センター、二〇一七年一二月七日)の抜き刷りを頂戴した。氏は「神戸開港一五〇周年ーー文化の三幅対」と題して、スモール・タニとして英国で有名だった柔術家・谷幸雄(1880-1950)、そのタニの動きを学んであの奇妙なしぐさをあみだした喜劇王チャップリン、そしてチャップリンを神のごとくに崇めた淀川長治、三人の関係をスルスルっとつなげて描きだしておられる。 その枕に使われているのが上の図、フェルメールの「兵士と笑う女」(一六五八〜一六六〇)である。文化交流というテーマを考えるとこの絵が思い浮かぶのだそうだ。 《フェルメールの妻とおぼしき女性の背後に描かれた地図ーー左手にライン川河口、上部に北海を配し、オランダとフリースランド西部を囲んでいるーーには、オランダ東インド会社の商船隊が詳細に描写されている。一目で世界に飛躍していたオランダの交易が鮮明に浮きあがってくる。そして兵士の被っている大きな帽子がカナダの森林で捕獲したビーバーの毛皮であり、また女性が手にしているワイングラスがヴェネチアのムラノグラスであるとするならば、フェルメールが住んでいたデルフトでは、端倪すべからざる文化交流が生じていたのである。》 なるほど、なるほど、とうなづきつつ、フェルメールの小さな画集を取り出してみた。すると地図は他の絵にも描き込まれている。「兵士と笑う女」と同じ地図だと思われるのはこちら「青衣の女」。それ以外はみんなそれぞれ違った地図のようである。三十数点しか作品が知られていないのに、その内の七点に地図が登場する。地図フェチだったか・・・。 《十六世紀には、ヨーロッパ人の世界に対する地理的知識は急速に高まって、地図の需要はますます増大し、また一方、銅板彫刻印刷技術の発達によって精密な地図もたやすくできるようになったので、何枚もの地図をつなぎ合わせた壁掛け用の大型の世界図や、或は多数の地図を一定の大きさにまとめて本にした地図帖など、さまざまな地図がつくられた。》 《十六世紀から十七世紀にかけて、メルカトルをはじめ、多数の有名な地図作成者が相次いで輩出したのはオランダであった。オランダは一五七〇年代まではなおスペインの支配下にあったが、すでに毛織物業が発達し、またハンザ同盟にかわって北欧貿易を掌握していたので、八〇年の独立戦争以後は、新興のオランダがポルトガルに代って東洋貿易を独占して世界で最も富裕な国として繁栄し、学問や芸術の面でも最盛期を迎えた。したがって地図作成においても黄金時代をなし、オランダではおびただしい地図や地球儀が作成され、ヨーロッパの諸国に輸出された。》 十六世紀に先頭を切っていたのはメルカトルであり、アブラハム=オルテリウスだった。そして 《十七世紀のオランダにおける最大の地図出版者はアムステルダムのブラウ一族である。ブラウ家の初代を築いたウィレム=ヤンスゾーン=ブラウはデンマークの天文学者ティコ=ブラーエに師事し、はじめは天文学や航海用の観測器具や天球儀・地球儀の作成に従事していたが、新しい印刷方法の発明によって、アムステルダムに大きな印刷工場を開設し、地図の出版に着手した。》 《一六三八年にはウィレムが没して、ヨハンネスが事業を継承し、弟のコルネリスと協力して、一六六二年には「大地図帖」(Atlas Major)が完成した。》 一六四八年には「新世界全図」(Nova Totius Terrarum Orbis Tabula)と題する206×298センチメートルの大型の世界地図を刊行している(これは江戸幕府にも献上された)。 フェルメールはまさに「地図の黄金時代」を生きた画家だった。 文化交流と言えば聞こえはいいけれども、世界中からかきあつめた贅沢品をこれ見よがしに描いている超バブリーな絵画だと、いう見方もできる。フェルメールその人がそんなに抜きん出た金持ちだったとも思われないが、それでもこのくらいの衣裳や調度は当たり前だったのかもしれない。
by sumus2013
| 2018-01-09 20:55
| 雲遅空想美術館
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