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ボブ・ディラン・モノ・ボックス「BOB DYLAN THE ORIGINAL MONO RECORDINGS ボブ・ディラン・モノ・ボックス」(SONY MUSIC ENTERTAINMENT, 2010)。年末はディラン三昧。初期コロムビアのモノ・アルバム八枚(「Blonde on Blonde」は二枚組)のCDボックスを繰返し聴いている。三枚目まではかつてCDで持っていたので、ほとんどどの曲も耳になじんでいるが、四枚目の「Another Side of Bob Dylan」以降はめぼしい曲だけしか知らなかった。正直なところ三枚目までで充分という気もしないでもない。四枚目がとくにガクンと聴き劣りするが、その後は少し持ち直す。と言っても、すべては二十代前半の仕事なのだ。やはりこれは驚きだろう。 《そうだ、ステレオというものがあった。これら全てのアルバムはステレオでも発売されている。この時期には、楽器と声とがなんとか分離され、右と左のチャンネルから聞こえてきた。もともとは、コンサートホールで聴いているような、シンフォニーではヴァイオリンが左から、チェロが右から聞こえるという、臨場感を出すためのテクノロジーであった。『プレイボーイ』誌がもっとも積極的に、そして魅惑的に推奨していた。輝かしいコンポーネント……アンプ、プリアンプ、レシーバー、ターンテーブル、そして木目調のスピーカー、それらはまだライフスタイルと呼ばれるまでにはいたっていなかったが、自分の洗練された趣味、金銭、皆より一歩すすんでいることを誇示する方法として、流行で仕立てた洋服、アペリティーフの酒、そして「ベイビー、こんなブルーベックはきっと聞いたことがないはずだよ」という殺し文句とともに提供されていた。》 と、このように、解説のグレイル・マーカス(Greil Marcus)はステレオの登場から説き起こしつつ、モノで聴くことの意義について考察する。 《あの単一の音には何か具体的なものがあった、曲と出来事をつなぐ何かがあった。リトル・リチャードの「レディ・テディ」は他の何かである前に、まず事実なのだ。反論できない何か。》 当時、音楽はステレオよりもモノラル(たとえばラジオから)で聴くことの方が当たり前だった、それは聴いていた人々の身の回りの出来事と結びついている、とそういうふうに言いたいのだと思う。 《「やつはサイス(大鎌)みたいにスパッとシーンをぶった切った」とフォークシンガーのサンディ・ダーリントンは、一九六一年、グリニッチ・ヴィレッジにおける十九歳のボブ・ディランの登場について語ったことがある。その登場の音が聞こえる……歌手の背後に吹きすさぶ風、ファーストアルバム、その年の遅くにレコーディングされた……むこうみず、才能、この歌手には歌う権利がないとでもいうような曲の顔付で微塵の穏やかさも拒絶する、勝手にしやがれ。》 《フォーク音楽に商業的な力があった時代……ジョーン・バエズがセカンドアルバムでチャートの13位になり、125週間チャートにとどまった年には、ピーター・ポール・アンド・マリーのファーストアルバムが1位になり3年間以上チャートに入っていた、キングストン・トリオはトップテンに三枚のアルバムが入った……ボブ・ディランのファーストアルバムはアメリカで最大かつ最有力なレーベルから発売され、初版は5,000枚の売り上げだった。これが商業的に失敗だったというのは噂にすぎないが、噂が力を得て、誰もがジョーン・バエズやキングストン・トリオを知っていたとしても、もしボブ・ディランのことを知っていたなら、他の誰もが知らなかった何かを知っていたわけである、もうすぐ誰も知らない人はいなくなる何かを。》 以上拙訳(適当に端折ってます)。二枚目のアルバムからピーター・ポール・アンド・マリーが「風に吹かれて」他をカバーして次々ヒット、それにつれて作曲者のディランも「知らない人はいない何」かになっていくわけだが、まさかノーベル平和賞、じゃなかった文学賞! までもらうとは夢にも思ってなかったろうねえ……。
by sumus2013
| 2017-12-30 21:36
| おととこゑ
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Comments(2)
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