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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


漱石漢詩研究

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和田利男『漱石漢詩研究』(人文書院、一九四〇年三月再版)。奥付の版元住所は京都市河原町二條下ル、発行人は渡邊久吉。文春学藝ライブラリーから同じ著者の『漱石の漢詩』(二〇一六年)が刊行されているが、これは『漱石の詩と俳句』(めるくまーる社、一九七四年)の改題だそうで、目次を見ると内容はかなり広く深くなっているようだ。本書は和田の最初の書物かとも思われ、漱石漢詩研究のスタート地点ということができよう。

ただ、実は、子規関連の次には漱石を、と思ったまでで、まだよく読んでいない。「漱石に及ばせる詩人の影響」というところを少し紹介してお茶を濁しておく。

漱石は書物から漢詩を学んだ。まずは陶淵明。「草枕」に引用があるし、漢詩作品にも影響が認められる。菊の花を好んだことも共通する。「漱石山房蔵書目録」には『靖節先生集』と『靖節先生年譜攷異』が見られるだけだが(靖節先生=陶淵明)、明治二十九年一月十七日付け子規宛書簡のなかに『陶淵明全集』を得て甚だ愉快と書いている。

王維も「草枕」に登場する。自作の漢詩や俳句でも詩句を参考にしている。

寒山子。晩年の作には禅味が勝ち過ぎた作が多く、影響を思わざるを得ない。「漱石山房蔵書目録」には白隠の『寒山子闡堤記聞』が見える。

高青邱(高啓)。大正五年九月二日付け芥川・久米宛書簡に言及がある。学生時代から愛読していたらしい(大塚保治の回想)。影響の明らかな作がある。斎藤拙堂『高青邱詩醇』が蔵書中に見える。

杜甫を愛誦した。蔵書中に『杜律集解』『杜詩鏡銓』『杜詩偶評』『杜工部文集註解』が見える。ただ、作品に杜甫の影響は感じられない。

陸游の影響も言われるが、《う思えばさう感ぜられる程度で、はつきりとは断じ難い》。『三家妙絶』『宋元明詩選』などがあって陸游にも親しんではいたであろう。

本邦の詩人が与えた影響はほとんどない。蔵書中に田邊碧堂『碧堂絶句』がある。旧幕以前の詩人のものは一冊も蔵していなかったので興味を感じなかったのだろう。ただし良寛の詩は好んでいたと思われる。初期に添削を受けた子規や長尾雨山(第五高等学校の同僚、讃岐出身、漢詩人・書家として令名があった)の影響も多少あったかもしれないが、詩作における形式上のことであろう。

以上のような内容である。吉川幸次郎の『漱石詩注』によって少しばかり補えば、

寒山子ーー唐の詩僧。その詩集「寒山詩」は先生の愛読書であり、「文学論」第三編第一章その他に言及がある。

「市中散歩の折古本屋で文選を一部購求帰宅の上二三枚通読致候結果に候」と子規宛書簡で文選を真似たことを告白している。

《蕉堅稿ーー五山の詩僧、絶海中津の漢詩文集。先生の愛読書。》

あたりになろうか。

もうひとつ、いま気付いたが、『漱石漢詩研究』の漢詩と書画を論じたくだりで「草枕」の和尚の会話(頼山陽と荻生徂徠の書を較べるくだり)に言及した後、和田は漱石が森鷗外に宛てた大正五年十月十八日付けの手紙を引用している。そこに山陽の書について漱石はこう書いている。

《嗚呼惜しいと思ふのです。今一息だが、と言ふのです。あの字は小供じみたうちに洒落気があります。器用が祟つてゐます。さうして其器用が天巧に達して居りません。正岡が今日迄生きてゐたら多分あの程度の字を書くだらうと思ひます。正岡の器用はどうしても抜けますまいと考へられるのです。》

子規を評した「最も「拙」の欠乏した男の意味は、具体例をもって語れば、こういうことになるのだろう。


by sumus2013 | 2017-12-19 21:09 | 関西の出版社 | Comments(0)
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