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人間の街パリ小生のパリ好きを知っている方より田村泰次郎『人間の街パリ』(大日本雄弁会講談社、一九五七年七月一〇日)を頂戴した。深謝です。表紙の油画は田村筆。口絵写真も、多数挿入されているパリのスケッチも著者の手になる。田村は絵心があり、元々「現代画廊」を開いたのはこの田村泰次郎だった。洲之内徹はそこで働いていた。田村が商売を止めるときに画廊を受け継いだのである。 書かれている内容はおおむね昭和二十七年と三十一年の体験談。スケッチのサインは1956になっている。 《パリには、いま、常時四百名ほども、日本人がいるそうだ。そのうち、大使館関係の者が、家族もふくめて、五十名くらいで、そのほかは、画家、彫刻家が百名ほど、音楽、文学、その他の勉強に来ている留学生が約五十名、デザイナァや、料理などの研究にきている者が、五十名以上、あとは、旅行者や、短期滞在者というわけだ。》 在住日本人は協力し合わない、と田村は言う。その理由は金を持っていないからにちがいない、と。 《戦前のように、円がフランに対して、絶対的優位を誇っていた時代と、戦後の今日とでは、同じくらいの金を持ってきても、大変なちがいである。公定では、一ドルが三百六十円に対して、三百五十フランであるが、闇相場では、一ドルが四百二十円前後に対して、三百九十フラン前後というところで、円の方が弱い。》 1ドル360円のレートは昭和二十四年から。当時もちょっとした日本ブームだったようだ。 《パリでただ一軒の日本料理屋「ぼたん屋」は、スキヤキを喰べにくる外人で、連日満員である。日本の一流のスキヤキ屋で喰わせるスキヤキの味には及ばないが、五年前に喰べた味よりは長足の進歩をとげている。》 ただ一軒だったとは・・・ブームといってもラーメン屋1000軒(日本人以外の経営も多い)と言われる今日のブームとは少し違っていたよようである。 なかに「小石拾い」というエッセイがあって、これには驚かされた。昔からみんなやっていたんだ。 《近頃、パリの一部の日本人画家たちのあいだに流行(?)しているのは、パリの路上の小石拾いである。パリのところどころに敷いてある小石は、メノウ質でその割れ口のさまざまの多彩な縞目や模様は、マチエール重視の現代絵画とかよいあうものがある。》 《佐藤敬画伯にいわせると、パリの小石拾いは「おれが最初だ」というが、同じく在仏五年の土橋醇一画伯にいわせると、「いや、おれが小石を拾いはじめたときは、まだ佐藤さんはそんなつまらないものをという顔をしていたよ」といっている。》 《そういう私自身も、その採集マニアの一人だが、病みつきになると、これほどたのしいものはない。いまに、パリからのお土産は、小石ばかりということにもなりかねないほど、この流行(?)は全盛である。》 はは、小生も拾ってました。ほんとに美しいものである。 Paris, 18 Nov. 2008 あれこれ引用していてはキリがないが、もうひとつ、志賀直哉と梅原龍三郎が事故に遭った話を。 《志賀さんが、梅原龍三郎、浜田庄司、柳宗悦さんたちと、ヨーロッパへ行かれたのは、二十七年五月下旬だったと思う。私は一週間ほどおくれて、ヨーロッパへ旅立った。 パリへ着いた翌日、同行の小松清、丸岡明、それに同宿の平林たい子、福沢一郎の諸氏と、挨拶に出掛けた大使館の応接間で志賀さんたちにお眼にかかった。》 《それから、またパリに帰って、しばらくしたある日、私は大使館で前日志賀さんと梅原さんとが、シャルトルへ行こうとして、モンパルナスの駅へ行く途中、乗ったタクシイがバスと衝突して、負傷されたということを聞いた。》 《その翌日、私は、同宿の小松清、堂本印象さんたちと、志賀さんたちの泊っていられるセーヌ河畔のオテル・ド・ケイドルセイへ、見舞いに行った。 志賀さんはご自分の部屋で、梅原さんと一しょに、朝食のパンを喰べておられるところだった。高田博厚さんがきていて、お二人と話していた。さすがに、お二人とも、その異国での衝突事件には、かなりなショックを受けていられるようであった。話のなかにもそのことがうかがえた。梅原さんは、眉と眉のあいだの鼻のつけ根に、絆創膏のようなものを貼りつけていられたし、志賀さんも、まぶたのあたりにかすり傷を受けていられたように思う。 「不思議に、眼鏡がこわれなかったのでよかった。こいつがこわれていたら、きっと眼をやられていたにちがいないよ」 志賀さんのそういう言葉には溌剌とした実感が籠っていた。》 志賀直哉はイギリスで体調をくずしていたこともあり、この数日後に帰国したという。志賀は六十九歳を過ぎていた。
by sumus2013
| 2017-12-02 20:54
| 古書日録
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