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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


モナミの思い出

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『本の雑誌』41(本の雑誌社、一九八五年四月二〇日、表紙デザイン=亀海昌次、表紙造形=沢野ひとし)。「青木まりこ現象」特集号。「青木まりこ現象」についてはあらためて。今は沢野ひとし「神田川の思い出」に東中野モナミが登場しているので、その部分を引用しておく。

僕が小学校の頃の遊び場所は、東中野にあったモナミという西洋料理店の裏庭であった。モナミはその当時活躍していた文化人のたまり場で、とりわけ作家、編集者たちが出版パーティーなどで利用していて、人気のあった店である。店の中は落ち着いた油絵が飾られ、窓には白いレースのかかった上品な雰囲気の店であった。そのモナミでコックをしている人の子供の小田切君が僕とクラスが同じであったために、僕は年中モナミの裏庭で遊んでいた。
 ある日その裏庭のとなりにアメリカ軍が使った軍用品が大量に隠されているという噂が耳に入った。厳重な柵が設けられ、中をのぞくこともできなかった。柵には危険と大書された札がかかっていたが、僕と小田切君は庭の木の上に登り、その柵の中をのぞいた。
「アッ、毒ガス用のマスクがたくさんある」
「本当!」僕は小田切君がのぞいている位置まですぐに登りたかった。
「どんなマスク?」「黒いゴムでできたマスクだ。あれは戦争の時にかぶる毒ガス用のマスクだ」

沢野ひとし氏は一九四四年生れなので、これは一九五四年かその前後のことだと考えていいだろう。そのマスクを盗み出して、となり町の中学生たちとのけんかにそれをかぶって参戦し、バツグンの効果をあげたものの、警官がやってきたため、その夜、沢野氏らは神田川へマスク捨ててしまった……というような思い出である。とにかくもモナミのとなりにそんな軍需物資が保管されていたとは。少しだけ検索してみると下記のような説明文を見つけた。なるほどそうだったか。

中野区は都内の西部に位置し武蔵野台地の一角に位置します。江戸時代は畑作農業と味噌・製粉・醤油醸造など食品工業が発達し、江戸町民の食生活を支えました。明治中期以降、都心からの転居者が急増し、関東大震災以降は浅草から寺院が多数移り住み「小京都」の風情と為りました。戦前は陸軍が駐屯し「帝国軍人の街」と言われ、戦後は米軍が駐屯し米軍の物資横流しが有り闇市が形成され、その過程で駅周辺を中心に商店街が確立しました。》(記:田口憲隆)

銀座の「モナミ」/東中野のモナミ

東中野のモナミに関して下記のサイトを御教示いただいた。

軍人とアナキスト―東中野縁起⑦

by sumus2013 | 2017-10-26 16:52 | 喫茶店の時代 | Comments(0)
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