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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


朱欒

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『朱欒』(朱欒プロジェクト実行委員会編、愛媛新聞社、二〇一七年九月一一日、書容設計=羽多良平吉@EDiX)。本書については下記に詳しいので参照のこと。久万美術館による翻刻の力作である。

『座朱欒』(ザシュラン)プロジェクトのお知らせ

《朱欒》翻刻本と自主企画展記録集の通信販売について

『朱欒(しゅらん)』とは旧制松山中学の卒業生たちが東京で作った回覧雑誌。大正十四年十月頃から十五年五月にかけてほぼ毎月一冊のペースで刊行された。全九冊。原稿用紙を綴じて厚表紙を付けたスタイルである。同人は池内義豊伊丹万作、二十五歳)、中村清一郎中村草田男二十四歳、本書に収められている『朱欒』は草田男旧蔵、この度久万美術館に寄贈された)、重松鶴之助二十二歳、画家)、渡部昌二十二歳、後、明治大学教授)、中村明(洋画家)、山内千太郎二十三歳、後、法政大学教授)、八束清二十四歳、松山商業学校出身)、長嶋操(不詳)。以上は中島小巻「『朱欒』同人略歴」による。

表紙画や挿絵について言えば重松鶴之助と池内義豊がもっとも多く手がけているし、二人の岸田劉生ばりの絵柄が生き生きとして目立っている。池内(伊丹万作)は映画監督になる前には挿絵画家としてかなり名を売っていたそうである、さもありなん。重松鶴之助という名前は洲之内徹の『絵のなかの散歩』や『気まぐれ美術館』で初めて知った。劉生に心酔し大正十三年に第二回春陽会展に初入選。昭和五年、共産党に入党し左翼活動を行う。昭和八年に逮捕され堺市の大阪刑務所に収監された。十三年同所内で死亡(この死については洲之内の文章に詳しい)。享年三十五。

洲之内徹は東京美術学校の入試のために上京し、松山中学の先輩だった山本勝巳の下宿へ滞在した。そのときそこにあった重松の絵「閑々亭肖像」を見、本人とも何度か会ったという。

私は、伝説の主の鶴さんその人にもそこで会うことになった。朝、目を覚ますと、昨夜はいなかったはずの、いがぐり坊主の、異様に背の低い、だが、いかにも精悍そのものといった感じの男が同じ部屋に寝ていることがあり、山本さんがその男をツルさん、ツルさんと呼ぶので、それが重松鶴之助だと私に察しがついたのである。あとで知ったが、鶴さんの兄さんと山本(勝巳)さんの兄さんとが中学で同級なのであった。》(ある青春伝説

重松とはこの後にも因縁があるのだが、それは洲之内の文章で読んでいただくとして、四十五年後になって「閑々亭肖像」に再会した洲之内の感慨を引用しておく。

しかし、四十五年前、初めてこの絵を見たとき、白状すると、私はこの絵が欲しくてたまらず、こっそり持ち出して、どこかへ隠しておきたいような衝動に駆られたのだったが、そのときの気持はいまもそのまま思い出すことができる。いまはもう、まさか持ち逃げしようとまでは思わないが、それにしても、私をそんな気持にさせたこの絵の魅力はいったい何であったろうか。この一枚の作品に罩められた若い重松鶴之助の、芸術に対する無垢な信仰と、ひたすらな没入、それらがそのまま私のものとして、私の理想として、私を捉えたのだ。》(同上)

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この絵のモデルは松山の湊町の、ある下駄屋の主人だそうだ。湊町(みなとまち)は重松の生まれた町である。




by sumus2013 | 2017-09-25 21:28 | おすすめ本棚 | Comments(0)
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