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林哲夫の文画な日々2
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瀧口修造とマルセル・デュシャン

瀧口修造とマルセル・デュシャン_f0307792_20070609.jpg

瀧口修造『幻想画家論』(せりか書房、一九七二年六月三〇日、装幀=瀧口修造)の表紙。

土曜日に土渕信彦氏によるギャラリートーク「瀧口修造とマルセル・デュシャン」を拝聴した。先週と重なるところもあったにせよ二時間びっしりと瀧口修造とデュシャンの関係を軸に瀧口の生き方に対する土渕氏の解釈をうかがうことができた収穫は大きい。

瀧口は若い頃には写真館を開こうと考えたこともあった。結局、開かずにPCLへ入社する(写真ではなく映画の世界に入ったわけである)。体が弱かったので映画の仕事は長続きしなかった(それでも四年ほど)。そして次第にシュルレアリスム紹介者としての道を辿るようになった。先週も述べたように評論家を止めてアーティストになった時期には、今度はオブジェの店を開こうと夢想した。デュシャンから「ローズ・セラヴィ Rose Sélavy」というペンネームを使わせてもらう許可を得て、看板にするためその筆蹟を送ってもらい、それを実際に金属板に象って、書斎に掛けた。むろん店の方は実現しなかったのだが、瀧口が詩人や評論家である前に、そしてそこから引退した後に「店」というシステムによって社会にコミットしようという希望を抱いていた、これは非常に重要だと思う。

土渕氏はシュルレアリスムの政治性は認めない立場である。ただ、先週の瀧口の講演で瀧口自身が語った言葉に従えば「当たり前のことができなかった時代」(戦時中、左傾したシュルレアリスムの理論家という誤解により特高に拘束された)があったのである。どんな存在であれ政治から離れていられないということは瀧口自身が痛感していた現実ではないだろうか。そして晩年の瀧口にとってオブジェの店を開くことこそがそんな「社会」にあって「当たり前のこと」として「芸術」(反芸術という意味においても)を通用させるひとつの解決方法だったのではなかろうか。

デュシャンと瀧口が相対したのは一九五八年。瀧口がスペインのポルト・リガトにあったダリの自宅を訪問したとき、たまたまデュシャンが来合わせてダリに紹介された。その一度だけだったという(私事ながら一九八〇年にはダリ美術館になっていた旧ダリ邸を訪れたことがある。冬場だったせいか、あの海辺の村の貧寒な感じが忘れられない)。その後は文通によってやり取りしていたのだが、上記のように二人の信頼はかなり厚かったようである。

一九六八年にデュシャンが急逝した。瀧口はその回顧展(一九七三)に招かれた。初め渡米はすまいと思ったが、考えを翻し、一人で出かけて行った(東野芳明らが偶然をよそおって同じ飛行機に乗り込んでエスコートしたという)。回顧展会場で瀧口をもっとも親しく迎えたのはデュシャン未亡人のティニーであった。ほぼ付きっきりだったのだそうだ。無知な観客の一人がずっと未亡人のとなりにいる男性が「デュシャンなのか?」と東野に尋ねたという(回顧展で主人公がウロウロしているはずもないのだが)。近くにいてその言葉を小耳にはさんだジョン・ケージが「そう言われれば、似ているな」と瀧口の顔を見て納得していたのだとか(東野の回想による)。

『本の手帖』特集滝口修造(昭森社、一九六九年八月三〇日)に池田満寿夫がこんな文章を書いている。

《芸術に於ける個人的な関係、それは批評を通り越した愛の関係に似ている。滝口修造とデュシャン語録の関係はまさにそれにふさわしかつた。このたぐいまれなる両者の結合は滝口修造によつてのみ可能だつたと云えよう。

デュシャンの歿後、瀧口は「急速な鎮魂曲」という追悼文を『美術手帖』に寄せた。それについて池田はこう述べている。

《私はこの追悼文の中に滝口修造の最も完ぺきな、これ以上望むことの出来ないスタイルと詩人のみが持ち得る言葉と観念と遊戯との驚くべき緊張を見た。

 マルセル・デュシャンの微笑。ときに苦笑。ときに冷笑。ときに爆笑。
 私は彼の怒った顔を想像することが出来ない。何かの間違いであろう。
                       ーー急速な鎮魂曲よりーー

 私は右の一節が特に好きだ。》

そして池田は『デュシャン語録』がデュシャンの死までに完成しなかったことがデュシャンにとっても瀧口にとっても不運だったが、二人はこの不幸をおこらなかった、とし、こう結んでいる。

《人生のいつさいが、すさまじい冗談である人生、うたがいもなく厳粛で、まじめな冗談。滝口修造はそれを見つめることにいつさいを賭けてしまつた詩人だ。

結論はよく意味が分らない。そもそも瀧口はそのときすでに詩人ではなかった(たぶんデュシャンと同じ仲間だった)。けれども前段の《愛の関係に似ている》というのはまさにその通りではなかろうか。デュシャンの訃報をティニー夫人から受け取ったのが一九六八年十月二日。翌年二月三日未明、瀧口は脳血栓で倒れ、一時半身麻痺に陥って入院する。二週間ほどで退院できたが、デュシャンを失った痛手がいかに大きかったか、分るような気がするのである。

瀧口修造とマルセル・デュシャン_f0307792_20070216.jpg
デュシャン語録』(これらが緑のボックスに入っている)

ozasa kyoto に展示されているデュシャン語録』は土渕氏が瀧口修造のコレクションへのめりこむ、そもそものスタート地点だったそうだ。池袋の西武美術館で荒川修作展を見た後、その入口にあったアール・ヴィヴァンでそのデュシャン語録』に出会ってしまい、大枚をはたいて購入した。そして何と、それはマン・レイ旧蔵のものだった。ということがごく最近判明したのだそうだ。瀧口が予めデュシャンに著者本の献呈先について問い合わせた手紙が残っていた。デュシャンがこれで問題ないと一筆したためて送り返して来たのである。そのリストの第六番目がマン・レイで、土渕コレクションに入った作品であったという。

西武美術館にあったアール・ヴィヴァンは懐かしい。洋書の画集を立ち読みさせてもらったものだった。


by sumus2013 | 2017-02-05 21:31 | もよおしいろいろ | Comments(0)
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