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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


長崎夜話草

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西川如見『町人嚢・百姓嚢・長崎夜話草』(岩波文庫、一九四三年九月一〇日二刷)。「長崎夜話草」はじつに面白い。長崎における外国船との交流史が語られているのだが、徳川時代を通じて昨今の状況とはまた別の意味でスリルに満ちた外国との折衝が絶えず続いていたことを知った。

長崎へ黒船が初めて入津したのは元亀元年(一五七〇)、それ以来毎年のように来津しそれなりに互に繁栄を享受していた。しかしおよそ五十年を経て、島原の乱(寛永十四;一六三六)が勃発、鎮圧にてこずった幕府は叛乱をバックアップしていたポルトガル船を来航禁止とし(寛永十六;一六三九)オランダ人を出島に移した(寛永十八;一六四一)。

寛永十二年(一六三五)には《日本異国渡海の船御停止》があった。

《長崎より御免許の御朱印給はりて、年々異国へ渡海せし船も留りぬ。長崎より渡海の船五艘は、末次氏二艘、舟本氏一艘、糸屋一艘なり。泉州堺・伊予屋船一艘、京都船三艘は、茶屋角倉伏見屋なり。三所の船合せて九艘の外、他所よりは渡海なし。いづれも皆長崎にて唐船造りの大船に作りて皆長崎の津より出帆す。此時も大明には往事なし。東京[とんきん]・交趾[かうち]・塔伽沙古[たかさご]・呂宋[ろそん]・亜媽港[あまかわ]・柬埔寨[かばうちや]・暹羅[しやむ]等の外国へ往来せしなり。》

中国(明)では倭寇以来日本船は禁止されていたため大内氏の勘合船の外には中国の港へ入る船はなかった。渡海禁止の次には蛮人(ポルトガル人)の子孫二百八十七人を阿媽港に追放とした。寛永十三年(一六三六)。

《たとえば母日本の種ねにて父蛮人の血脈なれば勿論なり。父日本にて母蛮人の血脈なれば、即母のみつかはして子は留む。或は父放されて子は留り、或は子放たれて母とゞまり、母放されて子留る。兄行て弟留り、弟行て兄止る。夫妻相分れ、姉妹相離るゝありさま、町[繰返記号]戸々の悲しみ、いかなるむくつけきあら夷も袖しぼらぬはなかりし。》

寛永十六年(一六三九)さらに続いて平戸・長崎に住んでいた紅毛血脈のともがら十一人を咬𠺕吧[じやがたら]へ追放にした。

《其中に、長崎何れの町の女人、父は紅毛人にて、母方のよしみあるが本に養はれ居たるに、此年十四歳なるを咬𠺕吧へながされたり。此女、顔かたちいとうるはしく、手習ひ常に草紙などならいて、さかしきこゝろばへなりしが、かゝる所に放たれつゝ、何のゆかりもなき程にて、明くれ故郷へ帰らん事を神に仏に祈りつゝ年月を送りしが、かくてひとりありはてぬべきよすがなければ、命の露のよるべをもとめて、もろこし人の妻となりてぞありける。此国には唐土人も多く居住して、又年ごとに日本へ来る唐船もあれば、其便に文おこせしもあり。見る人涙おとさぬはなし。》

この時代からハーフの娘はタレント性をもっていたのだなあ。西川如見の家業は鍛冶業・鉄器販売だったそうだが、天文暦数にも通じてその方面の著書は数多い。享保九年(一七二四)歿、七十七歳。ヨーロッパ事情にもそれなりに通じていたことが本書からでもうかがわれるように思う。

日本では移民の追放や不法な侵入を防ぐために「壁」を作る必要はないが(作れないし、不審船の打ち払いさえできかねている)「フード・インク」(2008)というアメリカのドキュメンタリー映画を見ていると、メキシコ国境に壁を建設するにいたったからくりの一面が分ったような気がした。

アメリカでは肉牛を育てるためにコーンだけを食べさせる。そうすれば牛は早く大きく育つ。そして大量の肉牛を育てるため大量に生産したコーンを今度は国内だけでなく外国、とくにコーン消費国であるメキシコへ輸出する。そのために関税を取り払ったのである。するとメキシコ国内のコーン栽培は安価な米国産によって淘汰されてしまい多数のコーン農民が失業した。彼らは安い労働力としてアメリカ本土へ出稼ぎに行くしか道はなかった……一石二鳥とはこのことだが、大国(大企業)のエゴもいいところである。それにはおまけまであった。コーンだけを食べさせた牛の腸内で大腸菌に突然変異が生じたのである。それが例の人にも害をおよぼす大腸菌O-157なのだった。

by sumus2013 | 2017-01-29 21:09 | 古書日録 | Comments(0)
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