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『風景』と文芸誌の昭和『scripta』no.41(紀伊國屋書店出版部、二〇一六年一〇月一日、デザイン=礒田真市朗)。昨年五月三十日に新宿博物館「田辺茂一生誕一一〇年 作家50人の直筆原稿 雑誌『風景』より」展にちなんで行われた大村彦次郎×坪内祐三対談が掲載されている。雑誌『風景』については二度ほど過去に取り上げた。 坪内氏はまず和田芳恵の「接木の台」が『風景』(一九七四年六月号)に掲載されたことをシンボリックな現象として口火を切っている。大村氏は当時『群像』の編集長で『風景』のような小説家が片手間に作る雑誌に「接木の台」が載って《みなショックをうけ》《色めきたった》と答える。 次いで田辺茂一は純文学の批評家としてデビューしたわけでしょうと坪内氏。大村氏は田辺と梶山季之が飲んでいるところへ訪ねたとき、梶山が「君、たまには田辺さんにも書かせてやってくれよ」と大村氏に言った、梶山は流行作家だったが田辺よりも二十五年下である。 《これはかなり意地悪な言い方ですね。そこで笑いに紛らすようにして梶山季之にそう言われたときの、田辺さんの複雑な顔つきというのは、やはり若いころにものを書こうと志して、その志が半ば遂げられなかった人の複雑さだったのではないでしょうか。》 とは大村氏の感想だが、これは少し違うのではないか。梶山は物書きとしての田辺を認めていたのではないか。冗談めかして言ったとしても、そう思っていなければそんな言葉が出てくるはずもない。坪内氏はこう続ける。 《田辺さんの著書はたくさんありますけど、すごく文章がいいんですよ。味わいがあって。》《田辺さんはあれだけいいものを書いていたのにほとんど書評もされていないんですよね。それはかなり不幸なことだなと思います。》 いや、まさにその通り。なまじ(?)実業家として成功してしまったがために文筆家としての真価を認めてもらえなかった、今も認めてもらっていないかもしれない。しかし、小生も『喫茶店の時代』を書くときに田辺の随筆を何冊も読んだからよく分るが、本物の物書きである。 この話を受けて大村氏は田辺が阿佐ヶ谷会に入ろうとしたエピソードを語っている。木山捷平に斡旋を頼んだそうだが、会員たちにあっさり断られた。木山は中野から吉祥寺までが中央線沿線で新宿は大都会だからダメだとかなんとか苦しい言い訳をしたとか。文学青年としての夢を果たせなかったという気持ちが田辺のなかにあったのだろうと大村氏。 『風景』の母体となった「キアラの会」について。 《戦後すぐ(昭和二三年)に短命に終わった同人雑誌に『文芸時代』というのがあって、そのスポンサーだったのがジューキミシンという会社の社長でした。『文芸時代』の同人のなかで親しく交際をもった作家が結成したのがキアラの会です。キアラの会には、当時流行作家として伸びていた井上靖や源氏鶏太のほかに、北条誠、有吉佐和子、遠藤周作、北杜夫、澤野久雄、芝木好子、林芙美子、日下令光[ひのしたよしみつ]、三浦朱門、水上勉、吉行淳之介、それから三島由紀夫も入っておりました。吉行さんは「伽羅[きゃら]の会」と言っていましたね。》(大村) キアラ(Chiara)はイタリア語で「光輝く、明るい」の意味らしい。 昭和五十一年一月に舟橋聖一が死去し『風景』は廃刊した。その年に村上龍「限りなく透明に近いブルー」が芥川賞をとって百万部を売りつくした。五十二年には和田芳恵が、そして五十三年には平野謙も死去《ここに戦後文学の幕が降りたかなという感じがいたしました》(大村)ということである。
by sumus2013
| 2016-10-02 19:59
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