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林哲夫の文画な日々2
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東福門院和子

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珍しく新刊書店で柴桂子『江戸期に生きた女表現者たち』(NHK出版、二〇一六年七月一日)を買って読んでいる。徳川時代に生きたさまざまな階層の女性たち十三人の生涯をその日記などから語っている内容でたいへん面白い。

京都の歴史を考えるうえで「東福門院と皇女たち〜女帝の母として寛永期の文化を担う(京都)」は参考になったし、とくに後水尾天皇(ごみずのおてんのう)のふるまいには、最近の退位問題ということもあって、興をそそられた。

東福門院和子(まさこ)は二代将軍秀忠とお江与(江=ごう、浅井長政の三女、母は信長の妹お市、姉に千姫、珠姫、勝姫、そして淀殿は伯母)の五女。家康はどうしても皇室に和子を入内させたかった。藤堂高虎が朝廷との斡旋につとめていたところ、後水尾天皇には四辻公遠の娘およつとの間に皇子と皇女ができた。とたんに譲位すると言い出した。もうすでに女御御殿の建設が始まっていたので高虎は天皇に面と向かってもし譲位したらあなたを配流にし自分は切腹すると恫喝して譲位を思い止まらせた。

ところが後水尾天皇は和子がすっかり気に入った。二皇子五皇女をつくったというからたいしたものである。ただし成長したのは四人の皇女だけであった。第一皇子は一歳七ヶ月で、第二皇子はわずか六日の命であった。

慶長十八年に幕府より「勅許紫衣・諸寺入院」「禁中並公家諸法度」が下されたが、後水尾天皇は無断で紫衣勅許を行った。幕府はそれを認めず無効とした。《そのことに加え、元和の法度の矛盾などに反発した大徳寺の沢庵らは抗議書を幕府に提出したが認められず、逆に配流の処分を受けた》。

《後水尾天皇は高仁親王[すけひと、第一皇子]の死去の二か月後、譲位の意志を和子付の女房権大納言局を通して秀忠、家光へ伝えた。二人とも「今しばらく御在位の事を」と書簡で天皇の譲位の思いをとどめた。》

《寛永六年八月、和子は女三宮を出産した。十月には、家光の乳母ふくが、春から病気続きであった家光の病気快癒のお札参りの伊勢参詣を理由に上洛し、天皇への拝謁と和子への見舞いや出産祝いに参内した。この時、ふくは武家伝奏三条西実条の猶妹(義理の妹)という身分で拝謁し、天盃を給わり、「春日」という局名を与えられた。》

《天皇は、ふくの江戸への下向を待っていたかのように、その月の末日、女一宮へ内親王の宣下をし、興子[おきこ]の名を与えた。翌十一月、天皇は幕府へ知らすことなく、突如、七歳の興子内親王に位を譲り上皇となった。奈良時代の称徳天皇(孝謙天皇重祚)以来、八百六十年ぶりの七人目(九代)の女帝明正天皇の誕生である。
 譲位後の翌日、和子は東福門院の院号を与えられ皇太后となった。》

上の肖像画は尾形光琳の筆になる後水尾天皇像(宮内庁書陵部蔵)。光琳の肖像画というのがちょっと意外な感じであるが

《呉服商雁金屋は、東福門院の母お江与の生家浅井家の家臣につながるということで、江戸城にも出入りしていた関係で、女院御所にも出入りした。雁金屋の小袖を記録した衣装図案帳『御用雛形帳』や『御絵帳』などは女院御所の注文の物であるという。女院御所に出入りしたのは雁金屋尾形宗柏、宗謙父子の時代で、東福門院の呉服の注文は五千両以上の年もあったという。》

《宗柏は染織家といわれ、宗謙は画家であり、書家でもあった。ちなみに宗謙の二男が「燕子花図」などで有名な尾形光琳である。光琳の貴族的、装飾的で美麗な作品は女院御所に出入りした父の影響もあったとも考えられる。尾形家三代の芸術品は、女院御所で生まれたともいえよう。》

という関係があった。これなどほんの一例に過ぎない。東福門院和子は幕府から莫大な予算を引き出し、京都の文化的発展に寄与したようである。

《東福門院を通して京都へ持ち込んだ金品は測りしれない。化粧料として一万石、さらに従来の皇室料一万石を加増して二万石とし》《度重なる新造内裏、新院御所、女院御所などの建築費用、数多い門跡寺院の再興費用のほとんどは幕府からの費用で賄われた。》

まさに京のゴッドマザーと呼ぶにふさわしい女性であった。

by sumus2013 | 2016-10-01 21:12 | おすすめ本棚 | Comments(0)
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