林哲夫の文画な日々2
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致堂詩藁自筆稿

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漢文教室のつづき、というわけではないが、今年これまでもっともコーフンした収穫を紹介(いや、自慢ですか)しておきたい。ご覧のように和綴じ本二冊。題簽が刷り物なのでてっきり版本だと思って、ついでに買っておけという感じで求めた。帰宅してからもそのまま机の脇にポンと放置しておいた。

半月ほど経ってふと見ると表紙に「先考致堂府君遺藁」と朱筆で明記されているではないか。先考も府君も亡父という意味である。そこに気づいて改めて本文を開いて見たところ、これは版本ではなく自筆本だ。うかつにもほどがある。

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推敲の跡があちらこちらにある。検索してみると「致堂」は加賀藩の家老にまでなった人物。横山政孝。

1789-1836 江戸時代後期の武士。
寛政元年2月7日生まれ。加賀金沢藩家老。享和元年家督をつぎ,文化13年藩の参政となる。永根伍石,大窪詩仏らと親交をむすび,詩作にすぐれ,「致堂詩藁」「自得論」などをあらわした。天保(てんぽう)7年1月25日死去。48歳。字(あざな)は誼夫。通称は小五郎,多門,図書,蔵人。号は致堂。》(コトバンク)

『致堂詩藁』は八巻、『致堂二藁』が八巻、併せて十冊が、文政八から天保四(1825-1833)に刊行されているし、活字本も明治三十九年に宇都宮書店から出ている。ということは全部で十六巻である。すなわち、第十七と第十八は既刊詩集の続編『致堂三藁』のための原稿ではないか? 『致堂詩藁』の罫線の入った本文紙を使っているのだから、もうかなり整理されて版下にもなろうかというところで更に推敲を加えた、というような原稿なのかもしれない。

ざっとながめたところでは致堂の詩も読みにくそうだが、とにかく、分る範囲内でごく一部でも内容の方も紹介しておきたい。万一研究されておられる方がいらっしゃれば……いないかなあ。

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巻十七巻首の作には《癸巳元日作次内蘭畹取寄韻兼答之 以下正月》という前書きがある。この癸巳は天保四年(一八三三)しかないだろう。歿年の天保七年(一八三六)からすれば晩年にあたる。まだ四十三になっていない。「内蘭畹」は奥方の蘭畹だろうから、奥さんから届いた詩(上の欄外)に次韻した(同じ韻で作った)ということになろうか。ウィキによれば正室だった津田桂(横山蘭蝶)は死産の末に文化十二年(一八一五)に歿しているそうだ。こちらは後妻なのであろう。名前に同じ蘭がつくということは……?

六月「二十七日雨中過遊護国寺」という七言絶句が収められていることからして、この頃、致堂は江戸屋敷に勤務していたようだ。江戸の加賀藩邸は本郷五丁目(現在の東大本郷キャンパス)だった。金沢の妻からこちらは相変わらずで知らぬ間に月日が過ぎていきますという漢詩の便りをもらって、遠く離れた出張で僕もさびしいが、新春がめぐって皆がたっしゃなら何よりのことだ(意訳もいいところです)と返した。

ただ、悲しい出来事があった。三月には蘭畹が男子を生んだという手紙が届いて喜んだのだが……

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八月になると女(妻)の具合がたいへん良くないという手紙があり心を痛める。
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十月一日、子供が死んだという報を受け取って声にならないほどのショックを受ける。ふたたび児を失ったことになる。
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わが子は三月に誕生し九月に亡くなるという短い生涯だった。寸心何耐萬千愁……悲しくてやりきれない。

巻十七に出ている固有名詞を拾っておく。楠堂兄、碧海先生、藤坡先生、姫人錦雲。碧海先生は柴野碧海(1773-1835、柴野栗山の甥で養子)か。

もっとじっくり読み込めばいろいろなことが分りそうな原稿ではある。



by sumus2013 | 2016-09-19 21:12 | 古書日録 | Comments(2)
Commented by 中嶋康博 at 2016-09-20 18:49 x
wikiをみますと、愛妻家の詩人らしく、後妻もまた才媛だったのでしょうか。とまれ地方の文化財級資料ですね。
今夏、私も同様に大垣藩臣の自筆詩稿をオークションで手に入れたのですが、まだ紹介に着手できてゐません。こんなものが今更のやうに出てきてはどしどし処分されてゆく現状に、興奮だけでない文化継承に関する危惧と責任さへ感じさせられてゐます。
Commented by sumus2013 at 2016-09-20 20:46
まったく同感ですね。この価値が遺族(?)の方々のみならず、古書業者さえも理解していないというのは、ゆゆしき事態だと思います。とにかくゴミとして処分されなかったことを喜ぶしかありません。
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