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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


太宰さんの死

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石井立の手がけた小山清の著作



一覧表を見ると、石井立の編集した書籍にはなじみ深いものが多い(もちろん古本者としては、である)。例えば、太宰の『人間失格』はもちろん、渡邊一夫装幀の『中野重治選集』など大好きな本だ。

中野重治選集

他に『井伏鱒二選集』、『中島敦全集』、『小熊秀雄詩集』、坂口安吾『信長』、そして小山清の『小さな町』『犬の生活』『幸福論』『日々の麺麭』、森茉莉『父の帽子』『靴の音』、石川淳『諸国畸人伝』、原田康子『廃園』、萩原葉子『父萩原朔太郎』……さらに佐多稲子、壷井栄、金達寿らの作品をも手がけている。

しかしやはり太宰治との関係は特別であったらしい。石井立資料の中には太宰の自筆資料(『井伏鱒二選集』のための作品選択メモ)や太宰作と見られる油絵までも含まれている。

青柳瑞穂「太宰君の思い出」にはこうある(以下引用文はいずれも「できるかぎりよき本 石井立の仕事と戦後の文学」による。「,」を「、」に換えた)。

《終戦後、僕は太宰君に二度しか会っていない。
 去年(昭和22年)の十月頃だったろうか。一度会って話したい。痛飲したい、というハガキを貰った。そして、太宰君の居場所を必ず知っているという人の住所も教えてくれた。私はその案内人につれられて行ったら、》《今、思えば、これが富栄さんのお部屋であり、そして、その人もたえず僕たちのそばにいた。》

「その人」が石井立であることは言うまでもないが、ここまで太宰に信頼されていた。また井伏鱒二は次のように書いているという(「をんなごころ」)。

《私のそばに、筑摩書房の石井君といふ若い記者が雨にぬれながら青ざめた顔で立ってゐた。この記者は、太宰君に師事してゐた人である。
 「君、遺骸を見ましたか」と私は、石井君に傘をさしかけて囁いた。
 「見ました」と石井君は、ひくい沈鬱な声で云った。「僕が、太宰先生の遺骸を、川から担ぎ上げたのです。太宰先生は、両手をひろげてゐました。」
 石井君は能面のやうに表情を強ばらせて、もうそれっきり黙りこんでしまった。泣くまいと努めてゐたのだらう。さつきから異様なにほひがしてゐたのは、石井君から発散してゐたことがわかった。私はマレー戦線で散々このにほひを嗅いでゐる。》

その石井は太宰の死についてこう考えていた(ショーペンハウエル『自殺について』の解説)。

《太宰さんの死は、全く予期されなかったことではなかったとしても、いや、むしろ、おぼろげに予感されたことであったから、そのことの突発した時、僕は、それこそ全身的なと云ってよいほどの大きな衝撃を受けた。このような魂の底からのすさまじい震撼を、僕は、それまで全く知らなかったし、また、これからの生涯においても、ふたたび、体験することがあろうとは思われない。》

《太宰さんの言葉を借りれば「苦悩する能力を有たない」人は、つまり真の思想家でない人は、太宰さんの死について云々する資格はない》

《僕は思い出す。『人間失格』が、まだ書かれなかった頃、「すべては過ぎ去って行く。すべては過ぎ去って行く。ーーこれだけなんだ」と云われたことを。僕が、ふと「ショーペンハウエルも、そんなことを云っているようです」と云ったら、「そうかね、誰でも、そうなのかね」と何気なく云われたことを。》


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石井立所蔵の油絵(太宰治作とみられる)

太宰治「自画像」1947
http://www.aomori-museum.jp/ja/exhibition/26/


太宰に師事と言えば小山清だが、小山とも親しかったようだ。石井が参加していた『木靴』は小山清の主宰する雑誌である。

《木靴発足時の小山清から石井立宛ての昭和30年11月5日の書簡が遺されている。「れいの同人雑誌のこと、一万五千円位で五十頁の雑誌を印刷してくれる所が横浜にあるとのこと。毎月、五百円位の会費で年四回は出せさうです。そこで、その打ち合わせ会を、十一月十三日(日)午後一時より、拙宅でやりたいと思ひますから、若い連中ばかりなので、是非、貴兄に来ていただきたいと思ひます。」
 『木靴』のなかには、石井立の自宅が発行所になっている号もある。石井立が、太宰治の弟子小山清をいかに大切にしていたか、がよくわかる。》

この時期、小山清の単行本が筑摩書房から次々刊行されている理由が分ったような気がする。石井立の大きな足跡のひとつであろうと思う。

ツリーハウスの小山清

by sumus2013 | 2016-05-29 21:14 | 古書日録 | Comments(0)
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