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花森安治伝 文庫版津野海太郎『花森安治伝 日本の暮しをかえた男』(新潮文庫、二〇一六年三月一日、カバー装幀=平野甲賀、カバー装画=花森安治)を頂戴した。元本についてはすでに紹介している。 津野海太郎『花森安治伝 日本の暮しをかえた男』 このときには詳しく触れなかった佐野繁次郎と花森の出会いについて津野氏の見解を引用しておこう。これには三つの説がある。世田谷文学館『花森安治と「暮しの手帖」展』図録の年譜によって学生時代の昭和十年とする説。佐野のところに押しかけたのが十年で働いたのは昭和十一年だという酒井寛説(『花森安治の仕事』)。そして田所太郎『出版の先駆者』に書かれている昭和十二年説。 花森が大学を卒業した昭和十二年の初め頃、親友の田所太郎からこう言われた。 《「自宅に来ていた友人から、佐野繁次郎がパピリオにいるから会って就職を頼んだらどうか、といわれ、『そうか。』といって、そう言われたその日に麻布四ノ橋のパピリオ本舗へのこのこ出かけてゆき、初対面の佐野に会い、あなたの宣伝部ではたらきたい、といったら、佐野は『いいだろう。』と、たった一言、そう言ったというのである」 そのあと緊張のあまり蒼ざめた顔をして箪笥町の借家に戻ってきた花森は、待っていた友人に「おい、まとまったぞ」と告げ、つづけてこういった。 「こんばんは神楽坂で一本つけるか」 なかなかの臨場感ではないか。こうした親密な語り口からしても、第三者めかして書いてはいるが、この「友人」が田所本人だった可能性はきわめて高いと考えていい。》 津野氏は、花森が山内ももよと結婚したのが昭和十年十月で婚姻届が十一年十二月、というところから、子供が十二年の春に生まれることが分って花森は安定した収入を確保しておかなければならないと就職する覚悟を決めたのだろうと推測する。そして田所の忠告に従って伊東胡蝶園に佐野繁次郎を訪ねた。田所の文に「初対面」とあるのは勘違いだそうだ。 《また、その場で採用ときまったのは、なにも佐野がいい加減な人物だったからではなく、おそらく通常の学生レベルをはるかにこえた花森の「たいへんな男」(武田麟太郎)ぶりを敏感に見てとったせいだったのだろう。この若い男には力がある、というつよい印象があったのだ。》 花森が編輯制作した『帝国大学新聞』をひと目見れば花森の力量は明瞭であろう。また津野氏は佐野の渡仏についてこう書いておられて、なるほどなと思わされた。 《佐野は三七年八月に渡仏し、二つの美術学校にかよって、かねて敬愛する画家、アンリ・マティスに師事している。このままではただの成功した広告美術家として終わってしまいかねないというおそれと、もうひとつ、九年まえにパリで死んだ佐伯祐三の弔い合戦といった意識もあったのだろう。あとのことは若い花森にまかせて、という気持ちもあったにちがいない。》 佐野は《ただの成功した広告美術家として終わってしまいかねない》というような危懼は決して抱かないと小生は思うが、それはともかくとして花森がパピリオ入って来て「後は任せた」と考えて渡仏した、これは大いに可能性がある。 まだ全部は再読していないけれど、いやあ、やっぱりよく書けた評伝だ。 そうそう、こういう記事も出ました。 NHK朝ドラ「とと姉ちゃん」のモデルとは? 「暮しの手帖」元編集部員 唐澤平吉
by sumus2013
| 2016-04-04 20:58
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Comments(4)
田所太郎と佐野繁次郎に「おっ」と思いました。
お陰で疑問が一つ解けました。
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sumus2013 at 2016-04-05 20:40
田所太郎と花森は旧制松江高校以来の親友ですね。
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arz2bee
at 2016-04-06 17:53
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ただの成功した広告芸術家で・・、佐野繁次郎の気持ちではないようですが、津野さんもこうした忖度をしない人の印象があります。筆が滑ったかな?。
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sumus2013 at 2016-04-06 17:56
あるいは何か資料的な裏付けがあったのかも知れません。小生の知見には入っておりませんが。
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