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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


関屋敏子

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菅野俊之氏より『福島民報』の連載記事「ふくしま人196〜200 関屋敏子」を頂戴した。関屋敏子と言えば竹久夢二が作詞した「宵待草」の歌唱で知られるが、それ以上の知識はなかったのでたいへん興味深く読ませてもらった。

宵待草 関屋敏子

明治三十七年三月十二日東京小石川区生まれ。父は福島県二本松出身の関屋祐之介。二本松藩医の家に生まれたため医師をめざしてドイツ留学までしたが、一転、日本郵船に入社、実業家として成功したそうだ。

敏子の母愛子は明治政府の外交軍事顧問だったル・ジャンドル(Charles William[Guillaum]Joseph Émile Le Gendre)と松平春嶽(第十六代越前福井藩主)が腰元に生ませた池田絲(絲の母が自害したため家臣の池田兵衛に預けられた)との間にできた子。池田家が貧窮したため絲は芸者になっていたが大隈重信らからル・ジャンドルの妻(米国に本妻があった)になるよう説得されたそうで、長男の録太郎は十五代目市村羽左衛門(敏子の伯父)となり、孫の敏子は世界的な声楽家となった(母に関する情報はウィキより)。

ル・ジャンドル(ルジャンドルとも)の父は彫刻家(Jean-François Legendre-Héral)でリヨンの素描学校の教師だった(フランス語のWikipediaによる)。フランス各地に新古典派風の写実的な人物像などを残している。リヨンのサン・ピエール公園に息子(すなわち敏子の祖父)をモデルとした少年ジョットー像(画家の Giotto)が設置され今も見られるようだ。

Statues dans le jardin Saint-Pierre à Lyon

ル・ジャンドルはアメリカ人の娘と結婚して渡米、帰化した。アーティストの息子だったにもかかわらず戦争が大好きな人物だったようで南北戦争に志願。頤と首、鼻と左目を撃たれながらも生き延びたという猛者。その後米国領事となり厦門(アモイ)に着任、中国政府との折衝に当った。帰国の途中日本に立ち寄り台湾問題の武力解決を政府に勧めたことがきっかけで米国領事を辞して明治政府の軍事顧問となった。その結果、絲を日本人妻とすることになり、ひいては敏子も生まれたわけである。

敏子は三浦環やイタリア人テノールのサルコリーにレッスンを受け、東京女子師範学校から東京音楽学校へと進む。しかしドイツ系音楽教育になじめず一年で退学。大正十四年に初のリサイタルを開いた。東京放送局から敏子のアリアが放送され広く名前を知られるようになる。昭和二年から三年にかけて父とイタリアへ。ミラノやボローニャで学んだ後、ミラノ・スカラ座のオーディションに合格、ヨーロッパ各地の舞台に立ちSPレコードも吹き込んだ……さらに活躍は続くが、それは菅野氏の記事で読んでいただきたい。昭和初期における絶頂を過ぎると悲惨な最期が待っていた。

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by sumus2013 | 2016-03-05 21:07 | おすすめ本棚 | Comments(0)
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