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鶴見俊輔さんのこと鶴見俊輔さんが亡くなられた。記憶では二度ほどお会いしたことがある。一度目は編集工房ノアの二十周年記念パーティで。そのときはお見かけした、といった程度であるが、二度目は徳正寺での鶴見さんを囲む茶会に参加させていただき、じっくりお話をうかがうことができた。それは拙文によって『季刊銀花』二〇〇六年夏号に「矩庵茶会記」として掲載された。 記事ヴァージョンでは紙数の都合で省略せざるを得なかったが、初稿の段階では鶴見さんのたいへん貴重な回顧談が記録されている。じつに魅力的な話し振りだった。以下に省略された部分を含む文章を掲載しておく。鶴見さんは矩庵(徳正寺内にある樹上の茶室、藤森照信設計)の茶室開きのときには茶室内に上がられなかった。それが心残りだとおっしゃっておられた。 ここは彼岸か? 夕刻になり、客がそろそろと集まってくる。晶文社を退いたばかりの編集者中川六平氏と週刊誌記者のF氏、編集出版組織体アセテートの中谷礼仁氏、北浦さん、前田君。やはり筆者と同じ雑誌をやっている山本善行氏。扉野君に近代ナリコさん。皆でしばらく雑談しているところへ鶴見さんがいらっしゃった。鶴見さんは八十四歳になられるというが、いたってお元気そうだ。寄付に入って来られるなり 「一度、あそこに上がってから死にたいと思ってね」 と人々を笑わせる。冗談めかしてはおられたが、茶室開きの心残りを晴らそうという気迫が察せられた。 茶席の用意が整い、客たちは住職に促されて庵へ向かう。一席目。鶴見さんがまずそろりそろりと梯子を上る。七段ほどではあるが、ほとんど地面から垂直に立て掛けられているので若い者でも気は抜けない。正客の鶴見さんが奥の隅、横へ横山貞子女史、筆者、そこから縦に中谷、山本、F氏の六人がL字に並ぶ。開け放った窓の傍らに住職が座を占める。この窓にはガラス張りの引き戸が入っており、茶室としては異例な大きさである。 床、壁、天井、すべて漆喰で白く塗り固められた室内は窓からの光を受けて微妙な陰影を見せる。正面には秋野不矩のデッサンが住職手製の額縁に収められて掛かっている。不矩さんの故郷静岡県天竜市には、やはり藤森氏設計になる秋野不矩美術館が建っているが、この開館(一九九八年)に合わせて長さ十二メートルにも及ぶ大作「オリッサの寺院」が制作された。そのためのエスキースであろう。赤褐色の堂塔が漆喰に映えている。 天井中央に取り付けられた銅の円盤ひとつ。内側に照明器具が隠され、ちょうど日蝕を振り仰ぐような効果が演出されている。窓近くに炉のための丸い穴が切ってあるが、煎茶道は「随所に茶を煮る」がモットー、炉は無用ということで、水盤が置かれ小手毬などが生けられていた。二畳半という制約から煎茶のしつらえも座右飾と手前座を折衷してコンパクトにまとめてある。炉敷はザイールの草ビロード。茶壷は住職が銅管から打ち延べて作り上げた自慢の作。錫の建水も茶托も自作である。しかもすべてが正五角形を基調としている。 「六角形は簡単やけど、五角形は難しいんよ、ふふふ」 妙にうれしそうな住職の言葉を聞きながら、ふと、にじり上がり口を見ると、やっぱり五角形に抉り空けられていた。天井の照明が太陽ならば、道具は星星ということだろうか。 「ほんまは炉で沸かさな、師匠に怒られるのやけど、不肖の弟子やさかい、今日はこれ」 背後から魔法瓶を取り出す住職。一座に苦笑がもれる。 鶴見さんが窓から庭を見遣りながらこうおっしゃった。 「上がってみると、ぜんぜんキッチュじゃないね。死者の世界から生きている人を見ているみたいだ」 なんと鮮やかな感想だろう。先に述べたように、つまるところ矩庵は樹木である。例えば、インドネシアのトラジャでは小さな子供が死ぬと樹木の幹に穴を空けてそこに葬るというし、北米のモーチュアリー・トーテムポールには死灰を入れる穴がある。また一方で『南柯太守伝』の淳于〓は槐の木のうろに潜り込んで一生を夢に見、『呂氏春秋』の伊尹は桑の木から生まれた。あるいは、かぐや姫伝説と割竹形木棺の関係を持ち出してもいい。樹木の幹というのは生を育む母胎であり、同時に死者を受け入れる冥界でもあった。筆者はつねづねそういうようなことを漠然と考えるともなく考えていた。しかし、その考えと矩庵はまるで結びつかなかった。脱帽である。また藤森氏は先の『人類と建築の歴史』なかで「建築の外観は精神に働き、内部は感情に働くのである」とも書いておられるが、鶴見さんの卓見はこの文章を裏書きした恰好になっている。 住職は当然ながら慣れた手つきで茶瓶に玉露を入れポットの湯を注ぐ。一文字盆に並べられた茶碗は陶芸家秋野等の作である。それぞれに「天上大風」と染付けられている。良寛が子供の凧に書き与えた四文字。そこへ丁寧に茶を注ぐ。最後の一滴まで惜しむように絞り切る。茶碗を茶托に移し手で渡してゆく。軽やかな香りが鼻を打つ。そっと含む。芳醇な爽快さが口中に満ちる。 茶菓子を盛った佐波理(さはり、銅と錫の合金)の鉢が回される。漉し餡の蕨餅。懐紙の持ち合わせもなく直に手でつまんでいただく。甘さも控えめな逸品だ。指先の感触がなんとも言えず良い。鶴見さんからも「ほお」という嘆声がもれた。どこの品だろう? 「知らはらへんと思うけど、うちの檀家さんで松寿軒というお店ですわ」 松寿軒は建仁寺のそば、弓矢町にある。祇園も近い。 二碗目を喫する。一椀目の密度は失われているものの、かえって清涼感は増している。 さらに三椀目。 「白湯です」 旨味がほとんど出切った茶を白湯と呼ぶらしい。楷行草の三碗。最後をさっぱりと濯ぐことによって一碗目の旨味が際立った。 入室とは逆の順に梯子を降りる。鶴見さんは寄付の応接間に戻り、肘掛け椅子に腰を落ち着けながら、にこやかにこうおっしゃった。 「いやあ、生涯の大事を成しとげた」 学びほぐす われわれが茶を喫している間に座敷には宴席が設けられていた。二席目も終わり、皆が座敷に集まって乾杯が行われた。胡麻豆腐、湯葉、粽寿司、鮒寿司など京都ならではの珍味佳肴に舌鼓を打ったのであるが、それらはすべて省略して、鶴見さんの叡智にあふれるとっておきの談話をひとつだけ記録しておこう。 鶴見さんは十六歳のとき、一九三八年、ハーバード大学に入学した。今でも、一年生の夏休みに完成したばかりのMOMA(ニューヨーク近代美術館)で見たエルンスト・バルラッハの彫刻が忘れられないという。ちょうどこのとき京都の近代美術館でバルラッハ展が開催されていた。 「ものすごく感心したんですがね、記憶って残るもんですね。はっきり残ってますよ。それからもう七十年近くたって、それが京都に来てんだから、私の目もまんざらじゃなかった」 ハーバードの夏休みは三ヶ月あったという。住職が「アルバイトはなさらなかったんですか?」と問うた。 「私は二年生のときは図書館の本運びをやった。本運びをやってるときにヘレン・ケラーがやってきたんですよ、ね。ヘレン・ケラーは周りにいる人をね、どういう人かって訊くんですよ。私の前に来たら、私はハーバード大学の学生ですと答えた。そしたらヘレン・ケラーは、私はハーバード大学の隣のラドクリフに行きました、そこで私はたくさんのものを学びました、しかしその後、私はたくさんのものを、アンラーン、なんてのかな? ラーン、学ぶってことの逆ですね、つまり、学びほぐしました、そういうふうに言いました。“ I learned many things, but after that I unlearned many things”うまいこと言うんですよね」 横山貞子女史が言葉をはさむ。 「アンラーンして良かったと彼女は思ってるわけね」 「そうそう。私にある影響を与えましたね。私は十年前から、自分がもうろくしてきたと思って、それからもうろく帳って帳面をつけてんです。全部のことを、もうろくによってほぐしていって、アンラーンして、何か形が残るから、それを書く。だから、もうろくし始めたなと思ってからもう十年経った。それは考えてみると、ヘレン・ケラーの影響かもしれないね」 ゆっくり的確に語る鶴見さん。もうろくからはほど遠い。 「ヘレン・ケラーが日本の音楽を蓄音機で聞くんだよね」 「聞けないじゃない」 「そうするとね、ヘレン・ケラーは耳が聞こえないでしょ。蓄音機にこうやって手を当ててね、振動から何か別のものを復元しようとするんです。そのときにかけたのがね、『春の海』ですよ」 「お琴の?」 「そう、私がアルバイトしていたのはジャパン・ライブラリーってとこですからね。指の振動によって復元するんですよね、それは驚きましたね。それが私のヘレン・ケラーとの対話ですけど、私がハーバードの学生だってとこから、スッとそこまで行くんですよ、すごい人だと思ったですね」 九年前のことで、ここに集っていた人達にもそれぞれなりの変化があった。小生の隣に席を占めていた中川六平さんが真面目な顔をして「俺、鶴見さん、苦手なんだよな」と小声でもらしたのが、なつかしく思い返される。心より御冥福をお祈りしたい。
by sumus2013
| 2015-07-24 17:47
| 文筆=林哲夫
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Comments(4)
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