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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


衣更着信と中桐雅夫

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衣更着信『『荒地』の周辺』(書肆季節社、一九九一年七月一五日、装訂=政田岑生、装画=三好豊一郎)と衣更着信訳『人生摘要 英米現代詩集』(書肆季節社、一九八三年一二月一〇日)。

ごく最近、衣更着信の葉書を二枚求めたため、これらの著作を取り出してみた。他にも何冊か郷里の書庫に眠っている。二枚はともに中桐雅夫宛。右が昭和五十一年十一月二十一日香川三本松局消印、官製葉書。左が同じく昭和五十二年三月十一日消印、清水寺三重塔の絵葉書。

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官製葉書のスダチの話はたいへんよろしい。わが家にもスダチの木があるが、この時期までは徳島西部でしか生育しないと思われていたようだ。

三重塔はがきには《今度訳詩集を出すことになり後書きにあなたのことを書きました 夏までに出るだろうと思います》とあるが、この訳詩集が『人生摘要 英米現代詩集』になるのだろう。とすれば「夏まで」どころか六年半かかっている。その後書きを引用しておく。

《わたしが詩の翻訳をするようになったのは、あきらかに中桐雅夫の影響による。終戦間もなくの香川県知事選挙が、戦後の地方選挙を占うモデルとかで、各新聞社の本社記者がそろって高松へ来た。読売の政治部の少壮、中桐記者もその一人だったわけだが、顔を合わすなり、シットウエルの詩の一行の意味がなっとくできいなが[ママ]、おまえどう思う?といって、手近のメニュかなにかにそれを書いて見せた。それは戦雲の迫る昭和十六年にわたしが東京を離れて以来、戦争をへだてての再会であった。戦中戦後の一時期は、とてもカレンダーでは測れない長い苦しい時間であって、その間両人の生活にも兵役、病気、失業といろいろあったのだけれど、かれにとってはそんな話題は二の次なのであった。
 訳詩がそれほどの情熱に価するなら、自分もひとつやってみようと思ったのがきっかけであった。》

『『荒地』の周辺』の方には「中桐雅夫のこと」という一文がある。昭和十四年三月、神戸へ中桐を訪ねた。

《初対面の印象はやはり神戸の町なかの育ちらしい都会的な青年という感じがした。メイン・ストリートと思われる賑やか通りを、それから話しながら歩いたが、元町通りというところであったのかもしれない。国鉄の高架が商店街の片側をずっと走っているようであった。そのガード下の古本屋でどんな掘り出しものをしたかという話を中桐はした。そのころわたしたちは新刊はめったに買わず、古本屋でなにを見つけるかというのが大きな興味であった。後のち、古本探しは中桐の得意わざの一つであって、当人も自信をもっていた。ずっと後のことだが、銀座の教文館で偶然中桐に行き合わせたことがある。あそこは帰国するアメリカ人の宣教師が処分して行くのであろう、古書をたくさん置いてあった。その棚を彼が捜すのを見ると、一冊一冊指で抑えながら丹念に見て行くのである。なるほどあれなら掘り出しものもするであろうし、見逃しもなかろうと思ったことであった。》

衣更着信については以前も何度が触れている。

衣更着信詩集

笠原三津子宛葉書

衣更着信の死亡記事も何故かまったく関係のない文庫本の間からひょいと現れた。朝日新聞二〇〇四年九月二〇日。

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また書肆季節社の政田については頻繁に言及した時期があったが、久ぶりの登場となった。

政田岑生

北園克衛と政田岑生

by sumus2013 | 2015-06-06 21:30 | うどん県あれこれ | Comments(0)
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