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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


畢竟如何

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達磨の画を求めた。マクリ(表装されていない状態)なので値段はあってなきがごとし。なんとも言えないこの達磨の表情も面白いと思ったのだが、それよりも賛の書きぶりが気に入った。

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 不喞𠺕漢
 畢竟如何

達磨大師の絵なのだから禅語だろうと検索してみたら『碧巌録』第一則に見えるようだ。

《擧梁武帝問達磨大師 説這不喞𠺕漢 如何是聖諦》

『碧巌録』の訳本を架蔵しないので不確かながら、梁武帝が達磨大師に「聖としてもっとも大事なことは何ですか?」と質問したということだろうが、「説這不喞𠺕漢」は見当もつかない。あえて推測すれば、不平をかこつことなく愚かな漢人におっしゃってください……くらいの意味?(岩波文庫版があるようなのでいずれ参照してみましょう)

「畢竟如何」も『碧巌録』から。「それで、つまりどうだ?」。さらりと書いてあるが、なかなか蘊蓄の深い賛である。

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賛の署名は「星石」、印は「戢之名山」。「星石」とは宗星石(そうせいせき、1866-1923)ではないかと思う。

《南画家・対馬藩主・伯爵。名は重望、字は千里、別号に白雲山樵。経学を亀谷省軒・三島中洲、画を大倉雨村に学ぶ。東京南画会・中央南宗画会会長。貴族院議員。大正12年(1923)歿、57才。》(コトバンク)

とあるが、生年からして対馬藩主はないだろう。対馬藩の最後の藩主は父の宗義達。

《宗星石は、下村観山が「彼が画を業としたのであれば、玄人はさぞ難儀するであろう」と語っているほど画の才能に恵まれており、中国に渡航した事のある経験から、中国の風景を描いた山水画を多く残しています。

宗星石は、明治から大正時代を生きた華族で、宗氏第34代にあたる宗重望の雅号で、別号に白雲山樵、小雲山房主人、疎雨亭などがございます。》(いわの美術

「戢之名山」という印文も凝っている。「戢」は「収める」という意味で、おそらく古くから用いられている「藏之名山,傳之其人」(著作を山中に隠して、これぞという人にだけ見せる)からきているのかとも思う。

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絵の方は見ての通りのマンガだ。プロの筆ではない。署名も印も「東海」。これが誰なのか断言はしないが、伊藤東海(1893~1983)だったらいいなと。

《伊藤東海 明治26年 愛知県生まれ。書家。住友銀行行名執筆。「書之研究」「学書大道」各主幹。「青藍会」「游神会」「山鹿聖学養正会」各会長など歴任。昭和58年歿。主な作品集に「古希東海」「喜寿東海」「東海・心画」「上寿記念作品集」他。》(『西田幾多郎の書』燈影舎、二〇〇九年、著者略歴より)

要するに、絵が得意な星石翁が字を書き、字が専門の若い東海が絵筆をとった、そういう趣向なのではないだろうか。畢竟如何?


by sumus2013 | 2015-05-10 21:24 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)
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