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林哲夫の文画な日々2
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現代詩手帖

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『現代詩手帖』三冊。一九七〇年一月号(表紙=林静一、題字=赤瀬川原平)、七一年五月号、七月号(共に表紙=谷川晃一、題字=波羅多平吉)。ある古本屋さんで本を買って支払おうと思ったら、ご主人が帳場の下からこの三冊を取り出しながら「こんなのありますけど、いりませんか? 安くしときます」とおっしゃるので有り難く頂戴した。「稲垣足穂の対談があって面白いですよ」と。

さっそく七〇年一月号掲載の足穂と加藤郁乎との対談「地上とは思い出ならずや」を帰りの電車内で読んでみた。足穂はけっこう酔いが回ったふうでもあり、そうとうズケズケとしゃべっている。たしかに面白い。《アポロが月へ行っちゃいましたね》と始まる、そんな時代だったのか……。

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《死ねばおしましだというけど、バカな、そんなことないですよ。そうは問屋が許してくれませんよ。だから、ぼくは死んでもいいと思うんだ。ところが、志賀直哉さんがこのあいだ随想を書いていたけど、人間なんて流れる河の水と同じだというんです。それはそれでいいですよ。だけど、こんなバカなことを言うんだ、自分はこの一点にあって水の雫にすぎないけれども、無限に流れている現在の今いるこの自分しかないんだ、と。それは嘘でしょう。そんなことはない。自分が今いるという時間をどこで決めるんですか。そんなものは十九世紀の個人主義の言明ですね。そんなことはないでしょう。現在を切ることはでけへんですよ。今のどの点にいるんですか。素粒子だったらどうですか。ぼくは無限だと思いますよ。単位なんかない、上も下も無限ですよ。》

志賀直哉の書いたことはよほど足穂の気に障ったとみえる。どうして怒っているのかよく分らないのだが、後でまた蒸し返している。

《志賀さんなんかそこまでも書き切れていない。ナイルの河が流れていて、自分はこの一点で先も何もない、なんて、くだらないセンチメンタリズムですよ。武者小路と同じで大馬鹿野郎です。》

とは言いながら志賀には「さん」をつけているし、何より書いたものを読んでいたというのが驚きだ。

《自分しかないなんて、そんなことあらへんでしょう。無限にいるんじゃないですか。それをもってきたほうがわかりやすくなる。自分にはこの一点しかないなんていうのは、それは非常に勝手な邪険な考え方ですね。昨日まで話していた人がいなくなる、死んだというのはまことに痛ましいことですけど、それは一つの現象にすぎなかったと思うだけであって、そんなことはなんでもないんです。百人であっても千人であっても、なんでもないんですよ。どこにもいる、ここにもいるということです。それから逃げられない、それを解脱というんですよ。ただ、死ぬときの苦痛が恐いんですね。死そのものじゃないんです。》

どうも論点がすれ違っているような気がする。志賀の考え方は(原文を読んでいないので想像に過ぎないが)センチメンタリズムというよりも絶対観念論に近いものか。足穂の方は素粒子を引き合いに出しているように唯物的と言っていいだろう。解脱はその唯物的世界(無限の輪廻転生)から文字通り脱することのはずなのだ。《それから逃げられない、それを解脱というんですよ》は中間の言葉が飛んでいるのかもしれない、足穂の良き読者ではないためこれはただの当て推量に過ぎないけれども。

この号には第十回現代詩手帖賞発表の記事がある。山口哲夫と帷子耀が同時受賞。山口二十三歳、帷子は十五歳である。

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帷子耀の受賞は寺山修司の強い支持によって決まった。その支持の理由がふるっている。

《帷子君の詩は、なかにし礼とかと安井かずみの詩と全く同じだと思う、何も言っていないという意味でね。単なる現象の反映でしかない。ただ「賞」そのものに対する批評を含めたら、こういう十五才の何も言っていない人にやることによって「賞」そのものを支えているひとつの詩壇ヒエラルキーみたいなものに対するパロディになるというふうに考えると、この詩を一年間騒いできた詩人たちへのいい贈り物になる。

帷子耀の彗星のような出現と消失は若き読者たちに少なからぬ印象を残していたようである。五年ほど前に間村俊一さんがそのような発言をしていたのを思い出した。

山上の蜘蛛ー神戸モダニズムと海港都市展

消えた幻の詩人 帷子耀(かたびらあき)

どんな雑誌でも四十五年も経つとあだやおろそかにはできないな、というのが本日の感想なり。その証拠にこの辺の『現代詩手帖』には古書価もそこそこついている。

by sumus2013 | 2015-04-25 21:38 | 古書日録 | Comments(0)
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