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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


BOOKMAN

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読書雑誌『BOOKMAN』のほぼ揃い(一冊欠)。今年になってから頂戴してようやくざっと目を通し終えた。一九八二年創刊で九一年に終刊というから、主にエンターテイメント中心の編集ながら、バブル時代の読書(古書)界がおおよそ見渡せるような感じを受けた。

内容については重宝な総目次サイトを参照していただきたい。

BOOKMAN(1982年10月~1991年6月 トパーズプレスイデア出版局)

個人的には山下武の連載「忘れられた作家・忘れられた本」を刮目して眺めた(読んだわけではないです)。山下の選択眼の見事さを改めて知らされた。加能作次郎、藤沢清造、中戸川吉二、サッカレーなどなど今でこそ再評価が進んだ人たちだが、おそらく当時はまだ日蔭に置かれていただろう。

山下連載終了の後を受けて二十一号から荒川洋治が「ひとりぼっちの本」と題して偏愛作家を紹介している。これも渋い。ただし少しシブ過ぎる感じ。もうひとつ連載では荒俣宏のまさにバブリーな古書獲得話があっけにとられるほど面白い。

古書店案内も東京近辺だけに限られるものの何度も特集が組まれており、今となっては店舗の姿をとどめた写真が貴重である。以前もここで話題にした阿佐ヶ谷川村書店の写っているページを御覧いただく(二十一号、一九八八年三月一五日)。

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記事のなかで特に興味をもったのは大井良純(翻訳家)「ある洋書露店のおじいさんの思い出」(六号、一九八三年九月一日)である。時は一九六〇年頃。場所は神田神保町のパチンコ屋「人生劇場」わきの路地。そこに露店の洋書店があった。

《昼の十二時ごろになると、店主である六十がらみのおじいさんが、ものすごく重そうなリュックサックを背負って、出現する。その中味は、店の主力商品である米国製の廉価・紙表紙本(すなわちペイパー・バック)と雑誌だった。路地到着後、おじいさんは近くのラーメン屋にあずけておいた露店のセットを引きずりだしてきて、店づくりをやる。かくして、なかば開店である。

 すると、靖国通りとの角あたりで満を持していた数人のこの店の熱狂的ファンが、それっとばかりかけつけてくる。そして、おじいさんが板の上に並べていくペイパー・バックや雑誌をわれさきに手にとり、買う、買わないを決めていった。のちに、この開店待ちの状況はエスカレートして、ラーメン屋の前にたむろして待つようになり、リュックサックがおろされると同時に、だれかが勝手に口を開けてしまい、手当たり次第好きなものを選び、これとこれ、という買い方が行われるようになった。

 ほとんど毎日のように、この路地に出没する数人の男たちは、今様のはやりことばでいえば、「ほとんどビョーキ」の人たちばかりだったようだ。せっかくでてきたのに、おじいさんがなにかの都合でこないとなると、えらくがっかりして、後ろ髪を引かれる思いでラーメン屋を離れることがしばしばあった。》

「ほとんどビョーキ」の人たちのなかには出版社務めの中島信也(小鷹信光)、石油会社務めの大塚勘治(仁賀克雄)、早稲田の学生だった片岡義男、同じく大学院生だった青木日出夫、そして浪人生だった著者らがいた。著者は一週のうち三日か四日通い、ふところの資金は百円か二百円だった。渋谷の恋文横丁にある植草甚一も常連だった洋古書店の店頭で出会った客からこの露店商のことを教えられたのだそうだ。

《おじいさんの店のものは、ペイパー・バックにしろ雑誌にしろなにしろ安かった。一冊が十円ないし二十円というのである。ノーマン・メイラーの「裸者と死者」とかアリステア・マクリーンの「ナバロンの要塞」とかコーネリアス・ライアンの「最も長い日」なんかもそういう値段で買った。

《少しずつききだしたことだが、おじいさんはあのころ東京近辺にいくつも残っていた米軍基地に出入りする屑屋の仕切り屋を仕入れ先にしていたようだ。米軍の将兵と家族が読み捨てたペイパー・バックと雑誌を目方いくらで買ってきて、自宅でアイロンをかけ雑巾できれにふいてから、神田にもってきたのである。

う〜ん、こんな露店の本屋があったら直ぐにでも駆けつけたい。今ならひょっとして田村書店の店頭百円均一がそれに近いのかもしれないが……。






by sumus2013 | 2015-04-22 20:58 | 古書日録 | Comments(0)
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