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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


剣聖塚原卜伝

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『あやめ文庫 剣聖塚原卜伝』(あやめ書房、一九四九年五月三一日)。あやめ書房は奈良県生駒郡伏見村菖蒲池一三〇三の松浦重夫が発行人である。昭和二十三年から二十四年にかけて多数の少年向けの読物などを出版していたようだ。

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口絵には「信廣画」とある。おそらく四代長谷川貞信であろう。

四代 長谷川貞信
http://www.ypc.co.jp/bunka/bun5.html

塚原卜伝は伝説的な兵法家である。この本の表紙にもなっているように食事中に宮本武蔵に斬り込まれとっさにナベブタで応戦したというのがお決まりのシーン(もちろんこれはフィクション、武蔵は卜伝歿後の生まれ)。本書は少年時代からの妖怪退治なども織り込まれたさまざまな武勇伝を語って名調子だ。講談調と言ってもいいが、戦前マンガ調と言う方がより似つかわしいかもしれない。

好敵手亀井新十郎との立ち合いシーンを引用してみる。文中、小太郎が卜伝のことで本書では《初めの名は塚原勝義》としている。実際には、幼名は朝孝、諱は高幹。卜部覚賢の子として生まれ塚原安幹の養子となった(ウィキより)。

《此れこそその頃日本一の槍の名人と言われました亀井新十郎、後に太閤秀吉に仕えて、関西の鳳凰とまで云われ、槍で三位(さんみ)の位まで貰つたほどの達人でございます。西の鳳凰に東の麒麟の大立合だから、滅多に見られぬ一生一代の大試合。双方暫くにらみ合つておりましたが、仲々どつちからも仕掛けて行かない。小「エイツ」新「ヤア!」暫くの間、かけ声のみがひゞいておりましたが、やおら小「エイツ」!と一喝、小太郎が気合諸共、とび込みますと、亀井もさる者、心得たりと、さつと身をかわして、すぐさま槍をとり直して、新「ヤツ」と叫んで突き返えす。小「さしつたり」と小太郎、体を左に捻ねると、又繰り出して来る、いなづまの如き槍先。全く数万の見物、只恍惚として美酒に酔えるが如く、シーンとして誰一人声を出す者もをりませぬ。ほんとうに息もとまつた如きしづけさがつゞきますと、その中、如何なる隙があつたりけん、新「エイツ」と突き出して来ました亀井の槍先、塚原は突かれたと思いきや、ヒラリとかわした身のかるさ。スツと槍の流れる所を、「エイ、ヤツ」ピシリツと打込みました木剣、あなやとみますと槍の穂先が、スツカリ折れてしまいました。いや折れたのではなくて、切れたので……。更に切れたと見えしその瞬間、「エイツ」と飛込んで行きますと、あわや近江典膳(おうみてんぜん)の体は真二つと思えましたが、近「ヤツ」と一声(せい)、するどい声がかゝつたと見れば、やにわに、典膳の姿は何処へ行つたか、かき消す如くに見えなくなつてしまつたのでございます。

近江典膳というのはここでは亀井新十郎の偽名である。卜伝も仁科與四郎と名乗っている。亀井新十郎は弘治三年(一五五七)の生まれで慶長十七年(一六一二)歿。卜伝は元亀二年(一五七一)に八十三で歿したと伝えられている(『鹿島史』)から、史実に照らせば試合できる可能性があるとすれば新十郎はローティーン、卜伝は七十代から八十代になっていたであろう。秀吉に重用されたのは事実で、新十郎と卜伝は秀吉の面前で再び立ち合う。しかし二人は身構えたままじっと動かない。

《○「オイ、こりやどうなるんだい。」×「大方、にらめつこと間違えているんだろう、そうすると早く笑つた方が負となるかーー」なんて他愛もない口をきいておりますと、其の内に双方の顔の色が次第に青くなつて来ました》

ということで秀吉は「勝負あった」と声をかけ、相打ちを宣言した。そして卜伝に向かって一万石をやるから家来になれと命じる。卜伝は即座に断る。

《秀「厭だと申すのか、一万石の知行であるぞ」卜「ハツ、塚原は天下を歩きまする武芸者、一万石や二万石でしばらるゝものではござりませぬ、涯なき青空の下(もと)に、日本六十余州は愚か、外国までも股に掛け、身を自由に、「一生涯浪人で了(おわ)る覚悟でござる」と云いつゝ秀吉公の顔をみてニヤリと笑いました。》

この心がけはたいへんよろしい。なお上記の宮本武蔵との闘いは収録されていない。なぜならその話はあやめ文庫の『宮本武蔵』に収録されているから、そちらをお読みください……とな。

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裏表紙


by sumus2013 | 2015-03-11 21:44 | 古書日録 | Comments(2)
Commented by yf at 2015-03-12 09:11 x
 今日の「塚原卜傳」の発行所は小生の仕事先、直ぐ近くでしたが、この付近は「マンガ本」の発祥地と言われているはずで「手塚治虫さんもこの辺の出版社から出発したはずです。小生が此処で仕事を始めた頃は、「漫画雑誌問屋」がありました。
この町の裏筋、東横堀川に沿って北上しますと、中央大通りに突き当たります。元サントリー社員の書かれた本を読みますと、裏の川の川面の揺らぎが『ガラス窓」に映っていたありますから発祥地はこの辺りだと思っています。
 序でながら小生の出生地、東区(現中央区)釣鐘町はサントリーを起業された鳥井さんの「父上」が両替商をなさっていて、その頃からサントリーは宣伝が「派手」だったと亡父に聞きました。
Commented by sumus2013 at 2015-03-12 20:07
松屋町は古くから玩具卸問屋の町だったようですね。そのオマケとして赤本も需要があったようです。
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