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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


山本牧彦

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『山本牧彦短歌写真作品集』(新月短歌社、一九八五年三月一日、装幀、挿画、外函意匠とも天野大虹)。これは俵青茅との関連で求めたもの。山本は大正八年に俵、木村皓花とともに『揺籃』という短歌雑誌を創刊している。実際どういうものか何冊出たかも不明ながら同年十一月に廃刊した。山本は二十六歳、俵が十七歳、木村は不明。

さらに昭和三年八月、年刊詩集『詩経』(京都詩話会)を俵が編集したときにも山本、木村ともに参加している。翌四年には『歌垣』(青樹社、一九二九年五月一五日、装幀=西桜州)が発行された。これは俵、山本、鑓星美の合同歌集である。というように山本と俵は年齢差はあるものの親しい間柄だったことが想像されるし、青樹社から本を出していることからして天野隆一とも親しかったに違いない。


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山本牧彦の略年譜を少し間引いて写しておく。

 明治26年3月1日 兵庫県豊岡市(旧城崎郡百合地)に生る。
 大正7年3月 京都にて歯科医院開業
 昭和3年 日本写真美術展覧会にて写真作品「少婦立像」が文部大臣賞を受ける。
 昭和4年 日本光画協会を興し会長となる。
 昭和10年 京都歯科医師会々長となる。
 昭和17年 市会議員に当選〜22年迄。
 昭和28年 新月短歌社主宰

本書には昭和二十五年から四十一年までの短歌が収められており、それとともに初期の代表的な写真作品も掲載されている(別に『山本牧彦写真集』一九六八年がある)。そのうちから四点ほど引用しておく。

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上から「庭の聖女」「少婦立像」(共に一九二八)、「赤絵の壺のある静物」(一九二九)、「画家たち」(一九二七)。明らかに岸田劉生の影響が感じられる絵画的作風だが(四枚目は小出楢重を連想させる。あるいはまた安井仲治のピクトリアリズムにも近い)、それはそれとしてなかなか見所のある作品だと思う。野島康三、中山岩太、木村伊兵衛らが『光画』を創刊したのは昭和七年だから、山本の「日本光画協会」は彼らより一歩先んじていたのかもしれない(?)。

《僕は別に短歌、或は詩もつくるが、歌にしても、詩にしても、又写真にしても、要するにこれ等の文学芸術は、すべて僕自身作者自身の内部衝動を表現するための手段となるべきものである。そこに表現の形式の差のみがあって、根本に於ては、自身の「心」の他にはなく、相違があるとすれば、それは写真で言えば写真術の側から観るか、作者の側から見るかの相違であろう。》(「我観写真画」)

また昭和四年の『歌垣』の序文ではこう述べている。

《僕にいたつては、たゞ歌が、形に簡素で折ふしの発想を盛るに手頃であるといふ程の考で、研究も乏しく歌格に合はぬものも多いゝ[ママ]のは恥かしい。
 だがしかし、歌が『其人の呼吸とともに』歌はるべきものであるならば、こゝに蒐めた僕らの歌は、各の環境とともに、その風貌をも、最もよく表はしてゐるかも知れない。》

山本はまた宗教映画「毛綱」(マキノ正博監督、一九三三年)の原作者でもあるそうだ。本書の製作に関しては以下のような謝辞が「後記」に見えている。

《装幀に就ては例によって天野大虹画伯を煩した。

《文童社主山前五百文氏が営業の採算をも無視した熱意を以て終始協力せられたことをここに特に銘記して置きたい。》

俵、天野、そして山前実治文童社、双林プリント)らと山本牧彦の長い友情というものを感じる。


by sumus2013 | 2014-05-02 20:29 | 古書日録 | Comments(0)
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