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林哲夫の文画な日々2
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生誕130年永久保存版 竹久夢二

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竹久夢二 大正ロマンの画家、知られざる素顔』(河出書房新社、二〇一四年一月三〇日)。表紙の執筆者でおおよそ分るように、実際に夢二を知る人間から最近の夢二ファンまで、広く夢二に関する言説をコレクションし、読物として夢二の全体像に迫った一冊である。夢二といえば画集やカタログ類、また雑誌特集など多数出ており、それぞれに研究者なり、誰なりが文章を寄せているのだが、本書は「永久保存版」と謳うだけに、選び抜かれた貴重な記録が採録されて、たしかに書架にとどめておきたいと思わせるものになっている。

しかし、何と言っても、岸たまき「夢二の想出」(初出は『書窓』、昭和十六年から十八年にかけて六回連載された)がキョーレツである。以下少し抜き書きしてみる。

二十四歳で未亡人になったたまきは兄の家にいる母をたよって上京した。独立して子供を育てたいという願いが容れられて絵葉書店を早稲田鶴巻町に出したのが明治三十八、九年。当時は早稲田が大人気で中国留学生が千五百人もいたそうだ。絵葉書もよく売れた。開店五日目に《長髪の異様の青年》夢二が客としてやって来た。早慶戦のエハガキを夢二がスケッチして売り出したり、絵葉書の仕入れ先を教えてもらったりした。

《店が少しハヤリ出すと青年達からいろいろと求愛される求婚される、中には支那の貴族の留学生などダイヤの指輪をくれたり困ってしまいました。夢二もその中の一人で第一に申込を兄夫婦にしたのでした。》

ほどなく二人は結婚。夢二は読売新聞に入社する。月給は十五円で小川未明の十三円より高かった。しかし主任ともめて退社。太平洋画会の画塾に通ったりするようになる。

《暫くは遊んでいましたけれど、そろそろ嫉妬が始まり出し、私を焼火箸でついたり、大きなお腹の上に板をのせて、坐ったり、乱暴を始め出しましたので、それでも皆が私の為によく慰めてお手伝いして下さいました。》

《それから早稲田大学の裏に小さな家を借り移りました。宮崎与平氏が田舎上りの草鞋をぬいだのもこの家でした。少しの金もなくて私のコートを質に入れて六十銭作り、おそばの御馳走をしました。》

《その頃は毎日カタパン二銭が常食でした。八日に本屋の名は忘れましたが音楽の本の装幀を頼まれて八円ほど金が入りましたが、金を受取りに行きながら帰ってきません、夜十二時頃、そして懐におすしを入れ、牛乳を二本と、私にクリームを買って帰りました。お金は、と聞きますと前を通ったので芝居をのぞき、おすし屋で一喰やったのでなくなっちゃったとて五十銭私に渡しました。泣くにも泣かれぬ気持でした。また十六日までに蒲団まで質に入れて過ごしました。》

この生活破綻ぶりを見かねた親たちが、二人を無理矢理に離縁させ、子供は九州に預けられた。

《折角自立の為のつるやも兄の手に渡ってしまい資本もないしいろいろ考え洗濯屋がよろしいと思いましたけれどやはり資本が出来ないし、幼稚園の保母になる決心をして、神田橋の和強学堂にある東京府保母伝習所に入り、昼は岸辺先生の東洋幼稚園(牛込時代)に通い、四時には学堂の伝習所に通う事となりました。

ところが夢二とたまきは偶然にも同じ下宿に引っ越して再会、結局そこで復縁してしまう。しかしそれもそう長くは続かず、夢二は余所の女に入れあげて別居状態になった。

《大森の家は懇意な人と母とで引き上げて荷物が運ばれ、私は本の行商でもしてゆく事にきめ、向横町の裏に四畳半と二畳の家を借り住い、やれやれと少し落着きましたら、夕方十月頃に白がすりの単衣もの一枚で夢二が顔を出し、すまなかった、もう一度救って呉れと頭を下げて帰って来ました。》

洋行するつもりだと言い出し、京都の堀内氏の世話で湯浅半月が図書館長をしていた市立図書館で展覧会を開くことになった。恩地孝四郎や田中恭吉が手伝いに京都へ出かけた。しかし売り上げの大半を芸者遊びに費やしてしまい、東京に帰って来たときには十五円しか残っていなかった。

《どうしてそればかり残したのですと聞きますと春芝居も見なきゃならんし春相撲も見なきゃならんし残して来たのだと、おれはもう駄目なやつだと泣き出してしまいました。私も泣かされました。

大正二年。

《その秋五ヶ月の流産が因で貧血に陥り寝込んで了いましたが、その時医者を迎えにゆくとて貯金帳を持って出た儘一ヶ月も帰らず、徳田秋江[ママ]氏と東北に雪見をして来たと十二月も末に戻って来これから楽しませると大晦日の前日に連れ立って出かけ、向島の太陽閣で昼食、言問だんごを喰べ、竹やの渡しから三や森に渡り、夕方「仲」に繰込みました。

う〜ん、夢二も夢二だが、たまきもたまきか……。大正三年になると、突然たまきは離縁状を渡され、その代わりと日本橋の呉服橋通りに「港屋」を開いてやると言われた。下は港屋の前の夢二。

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夢二は彦乃と親しくなる。まだ十八九だった東郷青児が店を助けてくれたが、夢二は二人の仲を疑って、画会で滞在していた富山へたまきを呼びつけた。このくだりに凄みがある。

《泊の近くの海岸で私を責め、一夜中九寸五分をつきつけてひき廻し、顔をまず五寸ほど切りましたが血がにじむ程度でしたが、雨で濡れたお召縮緬は足にからみ歩けず余り座ると髪の毛を握っては立たすので毛がむしれて銅銭程のはげが幾つも出来た程でした。虐めるだけ虐めて少し気が収ったか丁度夜がしらんで来たし宿の温泉場へかえりました。》

《謝れときかぬのでその様にいいますと、急に猛り立って短刀で私の左腕を刺し、骨に通った刀が抜けず、血が止る迄ハンケチで縛って止血し、看視につけた知人を電話で呼ぶ始末、夢二も其人もその刀が抜けず、私が自分で抜きました。》

港屋の店頭に立つたまき(他万喜)。

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今の世の中でもドメスティック・ヴァイオレンスは決して珍しくはないのだろうが、夢二描く女性たちにはこういう精神疾患とも思える妄執が潜んでいるということは頭の隅に置いていてもいい……。

夢二の長男・竹久虹之助が父の言葉として次のように書きとめている。

《その方ではお前達よりずっと苦労してきた俺が、言っておくが、女房というものは決して替えるものではない。幾度かえてみたところで決して自分の希望通りの女なんて、あるものではない、幾人かえても結局はもとの女房が一番自分にしっくりするものだ。》(「父夢二を語る」本書所載、初出は『書物展望』)

なるほど永久保存版である。








by sumus2013 | 2014-02-12 21:26 | おすすめ本棚 | Comments(4)
Commented by maru33340 at 2014-02-13 06:36
はじめまして。
先日金沢湯涌の竹久夢二館で、少し夢二についてお話をさせていただいた縁でこちらの記事にたどりつきました。
たまきの人生壮絶ですね。
他の記事も大変興味深いタイトル、ゆっくり読ませていただきます。
Commented by sumus2013 at 2014-02-13 17:49
こちらこそよろしく。たまきの職歴にも興味をひかれました。働く夢二の女性たち、なんていう展覧会はどうですか!
Commented by kaguragawa at 2014-02-13 22:35
他万喜の手記を久しぶりに読みました。何度も読んだことがあるはずなのに、他万喜が岸辺福雄の東洋幼稚園に関係していたことはまったく頭に入っていませんでした。なお、他万喜がここにで言っている「つるや」とは他万喜が店を任されていた「つるや絵葉書店」のことで、もともと「つるや」は兄・他丑が開いた店の出店です。この「つるや」がどういう意味なのか書かれたものがなく不明ですが、私の大仮説では堀田善衛の生家・廻船問屋の「つるや(鶴屋)」と関係があるのではないかと・・・・。他丑は外国語学校(ロシア語)で、堀田家の縁戚のIと同級のはずなのです。
maruさん、思いがけないところでお会いしましたね。では。
Commented by sumus2013 at 2014-02-14 11:40
さすがkaguragawaさま、勉強に成ります。たまきの記述はそのままでは意味不明のところも多く、どなたかの詳しい註釈つきで読めばさらに興味深いと思いました。
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