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本の配達人ペリカンは中世キリスト教ではチャリティー(慈悲)の象徴とされたところから力は気に入って書店にもその名を用いた。 《したがって、商いとか儲けは二の次であった。重きを置いたのは、常連の学者や作家たちが必要とする文献を探し出し、それを配達することであった。北川太一は「高村光太郎」、大島吉之助は「森鴎外」、粉川忠は「ゲーテ」、式場隆三郎は「ゴッホ」、木下順二は「馬」といった具合に、五、六十人の常連客のテーマが頭に入っていた。 移動手段は専ら自転車であった。遠くは東中野の紅野敏郎宅へ寄り、その足で小金井の串田孫一宅に本を届けた。往復で七〇キロの道のりである。暑がりの力は、冬でもカウボーイハットにワイシャツ姿で、東京中を駆け回った。》 自らは『内村鑑三研究文献目録』を出版し、ゲーテ、ポオ、ホイットマンの文献にも精通しており書誌学者としても評価された。駒場の日本近代文学館には品川文庫と呼ばれる二万点におよぶコレクションがある。昭和三十八年から半世紀にわたり力が自転車で運んで寄贈した文献類である。織田作之助の品川力宛書簡六十七通を含む書簡類が千点余りも含まれているという。 力の文学館通いは八十三歳まで続けられた。その後は職員がペリカン書房へ通ったそうだが、たしかに《「ペリカン」の意である慈悲を、書物を介して終生実践した人であった。》 ペリカン書房のレッテル *** 『ちくま』二〇一四年一月号、鹿島茂「神田神保町書肆街考 43」に興味深い記述があった。 《明治三十九年(一九〇六)年、一誠堂の前身たる酒井書店が神田猿楽町に開店したときをもって神田古書肆街史の中間点とするのが適当と思われる。だが、なぜ一誠堂でなければならないのか? 一誠堂を一つの突破口として越後長岡の人脈が一気に神田に流れこみ、神田古書肆街が長岡人の街として形成される下地がつくられたからである。》 一誠堂の主人となるべき酒井宇吉は十三歳で上京し博文館で働く兄のつてを頼りに東京堂に入社している。博文館は長岡人・大橋佐平が創業した出版社、東京堂はその取次のため佐平の息子省吾が経営していたのだった。 《長岡の野心的な青年たちはみな、これらの郷土の成功者にあこがれて、出版業と書店業に入っていったのである。》 品川豊治もそうだったかどうか分らないけれど(直接には江原小弥太との関係かもしれないが)、神田猿楽町に出店したというのも無視できない符号だと思う。
by sumus2013
| 2014-01-14 20:59
| 古書日録
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