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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


浜田杏堂

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おおよそ一年ほど前に浜田杏堂「山水人物図」を入手した。ほとんど知られていない画家だから値段はあってなきがごとくであった。先日の古今日本書画名家辞典』には次のように書かれている。

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《濱田杏堂(はまだけうだう) 名は世憲(せいけん)、字は子微(しび)、杏堂は其号又癡仙(ぎせん)と号す、通称希菴(きあん)大阪の人、少より画を好み先哲の遺蹟を学びて大に山水花卉を能くせり 文化の頃の人。》

このくらいの情報である。五行。これを多いとみるか、少ないとみるか。それはともかく小生がこの画家を知ったのは中谷伸生氏の論文「近世絵画における浜田杏堂」(『関西大学東西学術研究所創立六十周年記念論文集』)による。そこで中谷氏はまず藤岡作太郎『近世絵画史』における杏堂像を考察している。

《「濱田杏堂、名は世憲、字は子徴、通称を希庵といひ、別に痴仙の号あり、医を業とす。幼より畫を好みて福原五岳等に学び、かつ行書をよくす、山水蕭疎にして頗る気韻あり、文化十一年、四十九歳にして没す。」と述べている。杏堂は、木村蒹葭堂、森川竹窓、谷文晁、篠崎小竹らと交流しているが、墓碑銘に刻まれた碑文は、小竹が撰し、竹窓が書いたものである。杏堂は行書や詩文にもすぐれていたと伝えられ、能もよくしたという。墓所は高津中寺町の法雲寺である。蒹葭堂没後の十三回忌書画展には、《淡鋒山水図》を出品した。

杏堂についてはこの記述で充分だろうが、もう少し中谷論文から補足すると。生年は明和三年(一七六六)、歿したのは文化十一年(一八一四)十二月二十二日。呉北汀が所蔵する明人の墨竹を杏堂は見事に模写したという言い伝え、そして頼山陽に杏堂を讃えた詩がある。たとえサインがなくても杏堂の作品は一目で分るという意味のようだ。

 尺幅渓山爾許長 雲嵐清潤墨猶香
 何妨紙尾無題識 数筆知吾老杏堂

また田能村竹田『山中人饒舌』に《大雅翁に至っては則ち其躅を踵ぐ者、五岳福元素最も著はる。杏堂、春嶽、熊嶽の数子皆五岳の門より出づといふ》とも。

以下は杏堂の作品分析。まず中国絵画からの影響、そして文人画から写生画へと変る作風についても触れられているが、ここでは省く。作品としては《大きな特徴や目立った個性を示すものではない》けれども《東アジアに共通する文人画、あるいは水墨画として、文化史的、文明史的な意味を担っていると考える必要があろう》、《杏堂らを軽視してきた従来の価値評価では、日本美術史研究は成り立たない状況を迎えつつある》という結論である。

画風としては大人しくて物足りない、これは見た通りだ。ただ、素直に気持ちのいい絵じゃないかな。むろん中谷氏も基本的にそこを認めての論考であろうと思うが。

後日、中谷先生にこの絵を見ていただく機会があった。「杏堂です。間違いない。杏堂の贋物というのは見たことないですね」と。これも少々さびしい話ではあった(著名作家ほど贋物が多い)。





by sumus2013 | 2014-01-11 20:51 | 雲遅空想美術館 | Comments(4)
Commented by kat at 2014-01-14 18:52 x
良い絵ですね。
遠山の奇峰は、シュールです。
ジグザグに描かれた家屋も面白い描きぶりで、
立派な松と樹木の表現も楽しめました。
江戸時代の忘れ物を大切にしたいです。
ありがとうございました。
Commented by sumus2013 at 2014-01-14 19:26
清代の画風を模しながら、柔らかいタッチで描いていますね。これがほんとに新刊の単行本一冊くらいの値段なんです。
Commented at 2018-08-24 18:55 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by sumus2013 at 2018-08-24 19:45
カギコメ様 詳しくはメールにて。
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