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林哲夫の文画な日々2
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奥山儀八郎の版画展

『松戸教育委員会所蔵 奥山儀八郎作品目録』(松戸教育委員会、二〇一四年一月一八日)を頂戴した。深謝。二〇〇四年に子息の奥山義人氏より寄贈された一千点を越える作品を含む1201点および参考作品を収録した目録である。すべて図版入り。

奥山儀八郎の版画展_f0307792_19371315.jpg


奥山は明治四十年二月十七日、山形県西村山郡寒河江町に生まれた。大正九年十三歳で上京、働きながら版画を独習。十四歳で慶応義塾商業学校に入るも中退。大正十三年大連に半年滞在、帰京後は川端画学校でデッサンを学ぶ。大正十四年、池辺釣、上阪雅之助にデッサンを見てもらう。昭和三年、第八回日本創作版画協会展に初入選。ニッケ(日本毛織)の広告部嘱託となり版画ポスターを制作する。昭和四年、個展(NIKKE画廊)。昭和五年ナップのクロッキー研究所に通う。

昭和六年、河野鷹思山名文夫らとともに東京広告美術協会を結成。七年、ニッケを退社、フリーとなる。翌年まで山名文夫と共同で仕事をする。昭和九年、広告版画個展(銀座・伊東屋)。この頃から日本珈琲飲用史の研究に着手。昭和十一年、石井研堂に出会い、唯一の弟子となる。その指導により伝統版画に開眼。

奥山儀八郎の版画展_f0307792_19371054.jpg


昭和十五年、前川千帆、畦地梅太郎とともに新版画会に参加。十六年、原弘を通じて東方社より依頼され謀略宣伝ポスターを制作(十八年まで)。十八年、日本版画奉公会に参加。二十年、敗戦直後、日本版画研究所を創立。二十七年、広重の東海道五十三次続絵の覆刻版を完成するも日本版画研究所は解散。二十九年、松戸市下矢切に工房を開設。五十一年、個展(銀座・ロイヤルサロンギンザ)。昭和五十六年十月一日脳溢血のため死去。

以上、本書の年譜をはしょって引用した。珈琲研究家としては知っていたが(「かうひい異名熟字一覧」というコーヒーの名称を一覧表に彫った版画は広く流布している)、石井研堂の弟子だったり、東方社に関係したり、思わぬ活動を知ったのは収穫だった。石井研堂は『明治事物起原』の著者として知られる人物。東方社と言えば『FRONT』だから、多川精一『戦争のグラフィズム』(平凡社ライブラリー、二〇〇〇年)に奥山の名前が出て来ないかと自作の人名索引をチェックしてみたが、残念ながら見あたらなかった。

作品は多彩だ。線描は骨太で繊細、テクニックは安定している。浮世絵や油絵を木版画で複製する技術には驚かされるものの、やはり初期のニッケやニッカ・ウィスキーの広告が素晴らしい。

by sumus2013 | 2014-02-14 20:27 | もよおしいろいろ | Comments(0)
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