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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


花森安治伝

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津野海太郎『花森安治伝 日本の暮しをかえた男』(新潮社、二〇一三年一一月二〇日、装幀=平野甲賀)読了。まずは津野氏の飾らない文章が心地よい。冒頭はこんな感じだ。

《夕暮れどき、国電(現・JR)新橋駅にちかい外堀通り(電通通りとも。現在の西銀座通り)の交差点だった。小柄だが、がっちりした体形の男がひとり、連れの勤め人ふうの男と並んで、こちらのほうをじっと見ている。こちらというのは、いまかれの前を通過しつつある五十人ほどの小規模なデモ隊のことで、その隊列のなかに一か月まえに大学生になったばかりの私がいたのだ。》

《「おい、あれ花森安治じゃないか?」
 となりで腕をくんでいた見知らぬ学生が私にささやいた。それがあの男だった。平家ガニみたいに顎の張ったいかつい顔。眼力がやけにつよい。なのに、どことなくオバサンふうのおかっぱ頭で、パーマまでかけているようだ。有名なスカートこそはいていないが、まちがいない、まさしく女装の編集長として知られる『暮しの手帖』の花森安治である。
 ーーふうん、やっぱりなァ。
 私は好奇心にかられて交差点に立つおかっぱ男を横目でジロジロ見つめた。それに気づいた男はさり気なく目をそらし、となりの男になにかひとこといったーー。
 そこで私の記憶はおしまい。その間十五秒もあったろうか。それでもこの一瞬の記憶は、いまこの稿を書きはじめた私にひそかな自信を与えてくれる。若いころ、たしかに私はあの花森安治をじぶんの目で見たことがあるぞ、という自信である。》

『考える人』(新潮社)に連載中の「花森安治伝」については小生の名前が出ていると教えられて触れたことがあるが、本書はその連載を元にしたものだから、当然小生の名前も何度か登場している。佐野繁次郎に関するところと生活社に関するところ(「神保町系オタオタ日記」も出て来るよ)。多少なりともお役に立てたようで喜ばしい限り。

花森安治はハイカラな貿易商の長男として神戸板宿に生まれた。一九一一年。しかしほどなく家運が傾き、火事にも遭い、小学校の頃にはまったく没落していた。母親が一家のかなめとして生活を懸命に支えたという。そして《子どものころから絵をかくのが好きで、またそれが得意でもあった》。

神戸三中(長田高校)から旧制松江高校(戦後、島根大学に包括。同校の一年後輩に杉山平一がいた)そして東京帝大の美学美術史学科へ入る。このあたりのコースについても津野氏は独自の解読をしておられて傾聴に値する。とくに神戸と松江で花森が得たものが『暮しの手帖』の編集にまで影響を与えているというのは卓見であろう。

《同時代のアヴァンギャルド芸術運動が発見した機械や建築の「美」と、古い城下町の日常のうちに保存された伝統的な「美」と、その双方に同時に敏感に反応してしまう。》《花森安治が少年から青年になる一時期を、神戸と松江という対照的な二つの町ですごした。それは編集者としてのかれの人生にとって、なかなかに重要な体験だったのである。》

津野氏は花森が編集した松江高校の交友会雑誌を閲覧して、非常に重要な発見をしておられる。花森による編集後記の文言。

《本号の責任はすべて僕にある。
 この編輯は全く僕によつて、その独断のもとになされた故にーーこの点、委員田所、保古の厚意に感謝したいと思ふ。》

『暮しの手帖』編集における花森安治の「独断」のはげしさには多くの証言がある。要するに栴檀は双葉より芳しだった。またこうも書いているという。

《本号の組み方についてーーこれはすべて、九ポイント一段組を以て構成された。紙面の変化を図るために、一部分は二段組に、との話もあつたが、僕は独断を以て、全部一段に組んでもらつた。僕自身の考へを言へば、二段組の、あのゴミゴミした感じがいやなのである。》

他に体裁について、表紙について、カットについて、もいちいち見解を述べているのだが、それにしても、高校生でこれだけはっきりした編集術についての思想を持っているというのは驚きに値するかもしれない。驚く方が凡庸だと言われればそれまでなのだが。津野氏はこういう感想を記す。

《雑誌のなかみよりも、その「体裁」についてまっさきにのべる。そのことから、このとき花森がどこで勝負をかけようと思っていたのかが、まっすぐに伝わってくる。いかにも気負っている。でも、よくあるような旧制高校ふうの自己陶酔的な観念癖などは、みじんも感じられない。さすがだね、花森安治ーー。》

……とこんなふうに紹介していてはキリがないので、以下ざっと要点を列記するに留める。

東大の学生時代に伊東胡蝶園で働き始めるが、それはどうして、いつ、という問題。ここには佐野繁次郎との邂逅もからんでくる。

従軍手帖の発見。これによって昭和十三〜十四年の従軍の細部が見えてくる。

そして大政翼賛会での役割、その伝説と本気の度合い。一方で生活社の『婦人の生活』シリーズへ関わる姿勢の本質。

再度の召集と召集解除。戦争末期のアジテーション詩。

敗戦直後の雑文家、画家としての奮闘ぶり。

「衣裳研究所」。なぜ女装だったのか?

『暮しの手帖』の創刊の周辺とその編集内容の吟味。商品テスト、料理記事、ある日本人の暮らし。花森のオリジナリティ。

京都での大患、公害問題への取り組み、著書『一銭五厘の旗』。そして死。

《「その責任は、はっきりぼくにある」
 いまの目から見れば、進歩派インテリの空虚な決まり文句としか思えないかもしれない。
 しかし、そうではない。
 このことばのうちに、戦後まもないころの「ぼくは執行猶予された戦争犯罪人だ」という発言のこだまをきかずにいることはむずかしい。もしまた日本が最悪の事態におちいったら、そのときじぶんはどうふるまうことになるのだろう。戦後の三十年間、花森はついにこの問いから逃げおおせることができなかった。》

今こそ、花森みたいな人間に声を挙げてもらいたい、と思うのは津野氏だけではないだろうが、本書はがむしゃらにも見える戦後の花森の生き様をその動機の根底からきわめて明快に描きだした見事な評伝であろうかと思う。

久し振りに人名索引を取りながら読んだ一冊である。ざっと270人ほど登場。ひとつだけ。召集令状は役場の兵事係から本人や家族に直接渡されたはずである。《ハガキ一枚で兵隊に召集され》(p282)はおそらく誤解であろう。
by sumus2013 | 2013-12-02 21:38 | おすすめ本棚 | Comments(4)
Commented by 牛津太郎 at 2013-12-02 22:42 x
花森さんは、京都にいた頃、私の先生のお宅へしばらく寄寓されていました。百万遍の知恩寺の裏です。先生とエリック・ギルを読んだそうです。しばらくすると彫刻家の流もやってきたとか。先生の翻訳本『衣装論』(創元社)は花森が序文(スカートかズボンか?)を書き、流政之が装幀をしています。花森がスカートでウロウロするので目のやり場に困ったとのこと。
Commented by sumus2013 at 2013-12-03 08:36
増野正衞氏ですか、それは貴重な証言です!
Commented by arz2bee at 2013-12-03 17:27 x
私も津野さんの文章が好きで、同好の士を発見し膝を打っています。花森安治は母の読んでいた暮しの手帖で半世紀以上前から知っていますが、未だ謎の人です。伝、正月休みに読んでみましょう。
Commented by sumus2013 at 2013-12-03 20:40
いろいろ教えられ、かつ考えさせられる本だと思います。
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