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蒐集vs集古

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柳宗悦『蒐集物語』(中公文庫、一九八九年一一月一〇日)。これは元本を以前紹介したが、先日の上京中に某書店の店頭百円均一で見つけたので、ちょうどホテルで時間つぶしに読むのにいいかも、と思って買ったもの。実際、重宝した。

しかし、再読してみると、最初に読んだときほどの感激はなかった。民芸館のために集めるという柳のお題目が鼻につく。カラー口絵に載っている品物も、とくに陶磁器はいまひとつパッとしない。行者の墨跡も、文章で読むだけだと、どんな凄いのかと思うが、図版で見るとそれほどでもなく、また、その入手の方法も強引で好きになれない。

例えば、柳は大正十二年に甲州へ旅に出て木喰上人の彫刻に出会う。二体の仏像が暗い庫の前に置かれていた。

《私は即座に心を奪われました。その口許に漂う微笑は私を限りなく惹きつけました。尋常な作者ではない。異数な宗教的体験がなくば、かかものは刻み得ないーー私の直覚はそう断定せざるを得ませんでした。》

あまりに柳が執心なので仏像の持ち主は一体を柳の許へ送り届けてくれた。

《再びその不可思議な仏は私の心を全く捕えました。私はそれに見入り見入り見入りました。[略]その日私は発願し上人の研究に入ることを決心しました。》

以上は本書所収の「木喰上人発見の縁起」(大正十四年)からの引用。木喰というのも、たしかに異色のある作風で、柳好みだということは言えるだろう。

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ところで、ホテルで感じた違和に関係してくるのだけれど、先日来何度か引用している林若樹『集古随筆』(大東出版社、昭和十七年十月二十日)に次のようなくだりがあるのを最近見つけて、さもありなんと納得したのである。「「彗星」の使命」(大正十五年十一月二十七日読売講堂における講演)のひとくさり。この講演は雑誌『彗星』の創刊を記念して行われたもので、日本と外国の交流史を話題にしている。そのなかで信仰心と美術について言及したところがある。

《現代の工芸美術は進歩してゐる。私はこれを見て藉すに時間と金とを以てせば古代のいかなるものでも復元は出来ると云つたのであります。すると或人は現代の人は信仰心が欠けて居るから駄目だと云ひますが、信仰心と美術家の伎倆とは自ら別であります。》

その例として吉祥天女の像の内部に職人の落書きがあったことを例に挙げて、発願人はともかく、製作する人々までが信心深いとは思われないと断言する。

《この頃特に持囃される木食上人の作品、あれなどは慥かに信仰から来たものでありますが、その代り美術品としてはさのみすぐれたものではないと思ふのです。信仰と美術上の伎倆とが一致する時があれば、それは立派な作品が出来るに相違ありませんが、さういふことは先づ無いと云つてよろしい。》

根っからのリアリズムであって、小生などは無論こちらの論理に加担したい方だし、何より、柳が夢中になっていた時に「あんなもの」と木喰上人を軽く一蹴しているのも気持ちがいい。林若樹の蘊蓄も相当なものだし、負けん気もあるだろう。

柳は言う。

《吾々の眼の対象は主として民器であった。雑器であった。それらのものは下品[げぼん]のものと考えられていたから、そんなものの価値を認めないのも、また値が安いのも当然であった。多くの蒐集家は有名なもの、在銘のものをと追うが、私達は逆に無名なもの、見棄てられたものをと探した。》(「民芸館の蒐集」)

《それではどうして他人が今まで認めないものを認めるに至ったのか。匿れているものをどうして見つけ出すのか。この問いへの答えは実に簡単なのである。別に秘訣などは少しもない。ただ物をじかに見さえすれば、それでよいのである。それ以外に何ものもない。この何ものもないというこおとが、秘訣といえば秘訣である。》(同前)

ある意味「自信」過剰な言葉だが、しかし蒐集家はこうでなければならないとも思う。ただ、最後は集めたモノが全てを語るというだけなのだ。


# by sumus2013 | 2020-01-25 20:42 | 古書日録 | Comments(0)

豊橋 一誠堂書店

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「一誠堂書店/豊橋市外高師」の書皮を頂戴した。「兵用図書」「普通図書」とも印刷されている。愛知県豊橋市の高師原(たかしはら)には明治四十一年から大正十四年まで第十五師団が置かれ、豊橋は軍都として栄えた(ウィキ「豊橋市」)というから、師団に隣接する書店だったのか。神保町の一誠堂書店(長岡市で明治三十六年に創業、神田移転が三十九年)とは無関係のようにも思われるが、どうなのだろう。大正風な飾りケイだが、左書きなので昭和時代か・・・高師村が豐橋市に編入された(「市外」ではなくなった)のが昭和七年九月だというご指摘もいただいた。いずれにせよ、極めて珍しい書皮である。

# by sumus2013 | 2020-01-24 17:08 | 古書日録 | Comments(0)

Bonne année 開催中

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林哲夫作品展 Bonne anée
2020年1月8日〜1月30日

ウィリアムモリス珈琲&ギャラリー
東京都渋谷区渋谷1-6-4 The Neat青山2F
開廊時間 12:30 -18:30
休廊日 日・月・第3土曜

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# by sumus2013 | 2020-01-24 07:52 | 画家=林哲夫 | Comments(0)

台風15号による被害報告の記

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上京中に『古書月報』2019年12月号(東京都古書籍商業協同組合)を頂戴した。そこに月の輪書林・高橋徹「台風15号による被害報告の記」という記事があった。そう言えば、千葉県だけでなく、東京でも多摩川の沿いの地域などかなり浸水したというニュースがあったが、まさか月の輪書林に被害が及んでいるとは。

《9月9日(月)
 朝8時、昨夜の暴風雨が気になり、店へ自転車を走らせる。店は、東急池上線蓮沼駅近く、多摩堤通り沿いの3階建てのマンションの1階にある。
 入口の事務机まわりが無事でホッと息をつくも束の間、店の通路中央付近に大きな水たまりを発見してガクゼン。》

《天井を見上げると、一番上の棚に置いてあるダンボール箱に大きな水染みがある。》

《水滴が棚からポタリと本に落ちる。あわてて本の救出作業に入る。水を食ってダメになった本を棚から抜き、店の外に投げ出していく。》

管理会社に連絡して調べてもらうと、三階の採光窓が破壊され、階段をつたって雨水が流れ落ちたため、階下は水浸しになったのだろうと言われる。保険会社代理店のKさんに電話すると被害状況を写真に撮るように指示される。

《9月10日(火)
「被害本リスト」を書き始める。仕入れ値ではなく、「売り値」を書くようにとKさんからの指示。古書目録を書くのは手慣れた日々の仕事で楽だけど、水ぶくれの本を手にとるのはチト心が痛む。》

しばらくして保険会社より保険金請求書が届く。写真を貼付けた「台風被害報告書」と「被害本リスト」を速達で出した。

《10月18日(金)
[中略]保険金、満額査定が決定したとのこと。請求額の2割程度の査定と思っていたので安心を通り越してひょうしぬけした。》

《台風は、年々強烈になってくるように感じる。幸い今回は「軽症」ですんだが、何が我身にふりかかってくるかわからない。25年前、この保険に入ることを強くすすめてくれた石神井書林さんに改めて感謝した。》

水は本の大敵。軽症で、保険も降りて、ほんとうに良かった。準備中の目録もいくつもあるようだし、早くなんとか刊行してもらいたいものです。

写真は山王書房のシオリ。長辺13cm。


# by sumus2013 | 2020-01-23 17:33 | 古書日録 | Comments(0)

復興期の精神

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花田清輝『復興期の精神』(眞善美社、昭和23年4月15日四版、装幀=上野省策)を街の草にて入手。以前、我観社版を入手していたので、この眞善美社版が欲しかった。

復興期の精神

錯乱の論理初版



# by sumus2013 | 2020-01-22 20:24 | 古書日録 | Comments(0)

極私的坪内祐三

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坪内祐三『極私的東京名所案内』(彷徨舎、二〇〇五年一〇月一五日、ブックデザイン=奥定泰之)。

ウィリアムモリスでの個展のために東京へ出かけていた。スマホも持たず、PCもタブレットもない環境だったため、妻から宿にかかった電話で坪内祐三急死を知った。言葉を失った。まだまだ若いはずと思ったら、六十一だという。今年の五月で六十二になるはずだった。早すぎる。

初めて会ったのはいつごろだったのか、今、はっきり思い出せないが、最後に会ったのは二〇一八年のぽかんの集いのときである。「あ、林さんだ」「ご無沙汰してます」というやりとりをした。特段に調子が悪そうには見えなかったように思う。昨年のぽかんの集いでは坪内氏は来ておらず、佐久間さん(坪内夫人)に挨拶しただけだった。

坪内氏は『sumus』の創刊号「三月書房特集」が出たとき(一九九九)真っ先に取り上げて評価してくれた。『彷書月刊』へ『sumus』同人たちが寄稿するようになった一九九〇年代後半から二〇〇〇年代には、小生が上京するごとに小宴を張って、そこへ坪内氏も駆けつけてくれた。個展にも何度か来てくれ、その後、飲み会ということもあった。

一九九九年五月から六月にかけて銀座六丁目の肥後静江さんの空想・ガレリアで個展をやらせてもらったときには素晴らしい美女を連れてやって来た。

《坪内祐三氏、美女と現われる。美女は例の荒川さん担当の朝日の記者山脇さん。AREは面白いですねと言ってくれる。表紙を手描きする話などで盛り上がる。》(六月四日の日記)

山脇さんとあるのが後の坪内夫人である佐久間文子さん。坪内氏周辺の人はブンちゃんと呼んでいる。荒川さんは荒川洋治さんのこと。この記述からすると『ARE』の時代から知り合っていたわけだ。扉野君のコネクションだったような気もする。山脇さんがすらっと伸びた脚にぴったりと張り付いた明るい色のジーンズを履いていたのが目に焼き付いている。こんな新聞記者がいるのか、というカルチャーショックというか、驚きがあった。

一九九九年は、画廊に来てくれただけだったが、初めていっしょに飲んだのはどうやら二〇〇二年四月に六本木で個展をしたときだったようだ。それ以後、上京時には皆で集まって歓迎してくれるような感じになった。坪内氏は毎回別の親しい編集者を呼んで、小生に紹介してくれるようになった。これが坪内流の気遣いなのかと後で思うのだが、それらの編集者の方々とはあまりに住む世界が違うというのも小生にははっきり感じ取れた。

今回の滞在中に坪内氏をよく知るAさんとBさんのお二人と話し込む機会があった。お二人はごく内輪の通夜にもかけつけている。そのとき佐久間さんが、いちばんに語り出したのが八羽事件のことだったと聞いて、本当にビックリしてしまった。八羽事件は二〇〇七年三月に小生が東京美術倶楽部のアートフェアーで個展をしたときに起こった。例によってAさんからお誘いがあって八羽(神保町の居酒屋)に集まることになったのだが、そのときに一悶着があったのだ。その顛末については以前詳しく書いた。

2007年3月16日

この文章でDさんとなっているのが坪内氏である。佐久間さんはこのときのことがよほど気になっていたのだろう。この後坪内氏が宴席などで突然キレはじめるようになった、その最初の事件だった、と通夜の席で言ったというのである。当時の日記を探し出してみると、その事件について書いたページの間にスナップ写真の入った封筒がはさまれていた。それは二〇〇九年に五反田駅前の大陸という中華料理屋で集まったときのものだった。八羽の二年後である。坪内夫妻とAさんBさん、もう一人N君が写っている。写真に添えられた一筆箋に佐久間さんがこう書いている。

《先日はひさしぶりにお目にかかれて楽しかったです。今回は大惨事もなく・・・よかったです。》

大惨事とは八羽事件のことに違いない。たしかに、その写真の坪内氏はたいへん上機嫌、ニコニコしている。他の皆も何がそんない可笑しいのかというほどの破顔である。楽しかったという気分だけがよみがえる。

今回、Aさんが、どうしてあのとき坪内氏が急に立ち去ったのか、八羽事件の起こった原因を教えてくれた。それはここでは書かないが、やはり坪内さんらしい繊細な気質に由来するものである。

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坪内祐三氏 一九九七年頃

Bさんがコピーしてくれた集合写真から。AさんもBさんも若い。坪内さんもいい顔しているな。まだまだ仕事をし続けて欲しかった。

【2020年1月17日記】

* * *

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街の草さんより、本日(1月22日)『本の雑誌』No.197(本の雑誌社、一九九九年一一月一日)が届いた。この号の「坪内祐三の読書日記」が「『sumus』創刊号は素敵だよ」と題して創刊号の紹介をしてくれている。もちろん出た当時に買って郷里に置いてあるはずだが、この間の大掃除で処分してしまったかもしれないので有り難かった。

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やはり扉野氏からの紹介だったのだ(川崎長太郎研究家だったのか!)。こんなに絶賛してもらっていたとは・・・改めて感謝しかない。書肆アクセスの皆さんとともに『sumus』の恩人である。

街の草さんのメモが挟んであった。それによれば、お邪魔した日、

《ちょうど拾い読みしていて、「sumus」に言及したところに行きあたったので、送ります。この『本の雑誌』もひと束、会館の前に捨てられていて店に持ち帰ったのですが、拾っておいてよかった!》

とのこと。会館というのは神戸の古書会館であろう。捨てられているというのも寂しいものがある。



# by sumus2013 | 2020-01-22 17:44 | 古書日録 | Comments(0)

ふくしま人 久保猪之吉

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菅野俊之氏の「ふくしま人」シリーズの新しい記事が届いた。今回は久保猪之吉、歌人・医学者、およびその妻で歌人・俳人の久保より江。猪之吉は明治七年に安達郡荒井村(現・本宮市)生まれ。明治のスーパーエリートの一人である。一高時代に落合直文の門下生となる。明治二十九年、東京帝大医学部に入り、三十一年には短歌革新を旗印として「いかづち会」を結成、その短歌は若き与謝野晶子に刺激を与え、新しい歌作りの道を志す決意をうながしたそうだ。

明治三十四年に宮本より江と恋仲となり、『明星』に二人の連作短歌「小百合」が掲載された。三十六年、結婚。猪之吉はドイツ留学。四十年に帰国し京都帝大福岡医科大(現・九州大学医学部)へ赴任、耳鼻咽喉科講座を解説した。

より江という女性が興味深い。愛媛県の松山で生まれた。小学生のときには夏目漱石の下宿と廊下続きの家に住んでいたため漱石に可愛がられた。その漱石の住んでいた離れ屋は愚陀仏庵と名付けられ、正岡子規が同居していた時期もあって、毎日のように句会が催された。より江もそんな文学的な環境から影響を受けているようだ。

《夏目漱石の「吾輩は猫である」に登場する女学生雪江は、より江がモデルである。泉鏡花の小説「櫛巻」の主人公、ベゴニアの花を愛するほっそりとした美女にも彼女のイメージが投影しているという。》

《新婚早々のより江は夫の留守中、まだまだ女学生気分で自由に過ごしていた。当時東京の千駄木に住んでいた夏目漱石の所へ、さっそうと自転車に乗って遊びに行くモダンガールであった。漱石の鏡子ともすっかり仲よくなり、一緒に三越や白木屋へ買い物に行ったり、芝居見物に出かけた。漱石との交遊エピソードについては、岩波文庫「漱石追想」に収められた久保より江「松山と千駄木」が興味深い。》

九州に落ち着いた久保夫妻は文芸サロンをつくった。

《グランドピアノのある二人の邸宅には地元の文化人たちが集まり、文芸サロンとなっていた。華族出身の美しき歌人、柳原白蓮(びゃくれん)。筑豊の石炭王伊藤伝右衛門と再婚した彼女はより江と親しくなり、サロンではひときわ華やかな存在であった。》

大正二年には夫妻が中心となって文芸誌『エニグマ』を創刊。九州帝大の文学好きな教授や学生、地元の文学愛好家なども参加して二年ほど続いたそうだ。

昭和七年に猪之吉は句集『春潮集』(京鹿子発行所)を刊行し、十年には定年退職して東京へ。聖路加病院顧問となる。昭和十四年十一月、麻布の自宅で歿、享年六十五。より江は翌年五月死去、享年五十九。昨春『久保猪之吉・より江作品集』が福岡文学館から出版されている。


# by sumus2013 | 2020-01-21 17:35 | おすすめ本棚 | Comments(0)

三ノ宮・元町・武庫川

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「25年目の1.17」展(〜22日)を見るためにギャラリー島田へ。それぞれの作家の1.17が表現されていて、やはり圧倒されるところがあった。この黒煙を上げて燃える長田の絵(拙作)は当時の自宅近くから見た光景である。後日、リハビリのような気持ちで描いた。

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同時開催は木下晋展。洲之内徹と切っても切れない作家。以前、島田さんでトークをごいっしょさせてもらった。独特な境地であろう。

ギャラリー島田


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元町へ降りて行って(ギャラリー島田は三ノ宮山側のやや小高い場所にあるのです)、花森書林さんで開催中の「イマヨシハヂメ原画展 古本屋にいこう」(〜27日)を見る。シンプルな線で的確に古本屋の雰囲気がとらえられている。なんと、ゆずぽんと遭遇。ちょっと立ち話。いろいろ目移りしたが、フランス語の本を二冊ほど買った。

阪神電車で武庫川へ。新年最初の「街の草」参詣。久方ぶり。なんと、ここでは高橋輝次さんと出会った。古本の世の中は狭い。『タイトル読本』、荻原魚雷氏が『図書新聞』(2020年1月11日号)に書評を書いてくれたと喜んでおられた。バンバン売れてるらしい(たぶん)。目下、新たに古本屋さんのエッセイ集を企画中と聞く。これは楽しみ。街の草さんのエッセイ集もぜひ企画してもらいたい。加納さんの嘆き節がなんとも言えずいいんですよ。

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久しぶりなのでゴチャゴチャと買い物をする。山積みの本を崩して金鉱を掘り当てる勢い。すると、電話が鳴り出した。加納さんは店の外で本を縛っている。「電話ですよ」と呼んだら、切れた。が、またすぐかかってきた。加納さん、しばらく話して切った後、「季村さんやった」と。狭いです。

『石神井書林古書目録』106号が街の草に届いていた。帰宅してみると、わが家にも届いておりました。ゆっくり見させてもらいましょう。

# by sumus2013 | 2020-01-20 20:49 | 古書日録 | Comments(0)

恋の唄

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マラルメ『恋の唄』北園克衛訳(ボン書店、昭和九年五月十五日)。東京滞在中にある古書店にて買い求めた。A版60冊と奥付に記されている。内堀弘『ボン書店の幻』(ちくま文庫、二〇〇八年)によれば、A版は「厚表紙」で60冊、B版が「薄表紙」で90冊刊行されている。ほんとうなら幅広の帯が付いているのだが、残念ながらありません。

詩集がひとまとめにしてある平台の上、無造作に小ぶりな本が三、四冊ヒラ置きされていた。その上から二冊目にあった。ちょっとシャレタた装幀だなと思って手に取り、奥付を見ると「あ、ボン書店だ!」。値段は? とさがしてみても、どこにも書いてない。ちょうど帳場から他の本を調べに出てきたご主人に「これ、値段がないんですけど、いくらですか?」と手渡した。「ほんとだ、書いてないねえ」と、ご主人が奥付を見たり、傷み具合をチェックしている一分ほどの間の、長かったこと・・・。貧生でも買える値段が、ご主人の口から発せられたときには、心のなかで「ヨッシャー」と叫んでいた。有難いことである。

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独特な奥付の組み方




# by sumus2013 | 2020-01-19 15:39 | 古書日録 | Comments(0)

砂まみれのビートルズ

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あいちあきら『ペリーの巣』(編集工房ノア、2019年12月1日、装幀=平野甲賀)読了。60s〜70sの青春を描いた私小説。川崎彰彦、小沢信男のお二人に師事されたとのこと。「ペリーの巣」「砂まみれのビートルズ」「絶望のスパゲティ」の中編三作が収められている。

「砂まみれのビートルズ」が高校時代、「ペリーの巣」が大学時代、「絶望のスパゲティ」が社会へ出たばかりの頃を描いている。それぞれの時代の雰囲気をうまく捉えて、そういう時代もあったな、と思い出させてくれる一方で、文体はフレッシュだと感じた。発表はそれぞれ一九七四、九二、八六年だから、そこそこの時間が経ているにもかかわらず。

「砂まみれのビートルズ」、美術部とバレーボール部が登場する。小生もバレー部だったのでなんだか自分のことのように思われた。ただし著者は昭和二十四年生まれ(六歳年長)、その意味ではかなり違っている。なにしろ学校を休んで武道館のビートルズ公演へ出かけたのだから、まだこちらは小学生だった。

当時、ビートルズ(およびその東京公演)が一般にどのように受け取られていたのかがよく分かる。熱狂的なファンがいる一方でかなりの拒絶反応もあった。

《ビートルズの公演は六月三十日と七月一日と二日の三日間で計五回行われる。合計三万人の入場者に対し、二十二万八千六百通の応募があたとか。》

友人や先輩の名前を借りて主人公は応募ハガキを二十八枚送ったところ、三枚が当選した。その「ビートルズ東京公演鑑賞チケット引換券」が届いた先輩からこう言われる。

《「ふん、言うとくけどな、オレはビートルズなんか鼻くそ以下や、興味ゼロや、富田、おまえはビートルズやなくて、ビールスにアタマ侵されてるのや、目を覚ませ、ボケ」》

また、親戚からこんなことも言われる。

《「だいたいあいつらは武道館という場所がどういうものか皆目わかっていない。あそこは日本の国技を行う神聖な場所なんや、あんなチャラチャラした毛唐どもに穢されるわけにはいかんやろ」》

しかし、なんとか友人の母親からお金を借りて、主人公の富田は難波の高島屋でビートルズ東京公演のチケットを購入することができた。入場料C席一五〇〇円。


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いよいよ、六月三十日午後一時、富田と友人の高杉は東京へ着いた。北の丸公園の入り口から武道館へつづく長い行列ができていた。大勢の警察官がいた。司会はE・H・エリック、日本のバンドの演奏が始まる。ザ・ドリフターズ、ブルージーンズ、尾藤イサオ、望月浩、内田裕也、ジャッキー吉川とブルーコメッツ。・・・一時間以上の空白の時間があってようやく四人が登場した。

《ぼくの席からは、斜め左横からビートルズの四人が見下ろせた。ポール・マッカートニーもジョン・レノンもマッチ棒くらいにしか見えなかった。客席は二階と三階席だけで、アリーナにはお客は入れない。代わりに警備員がずらりと並び、客席のぼくらの方をじっと見上げている。》

全十一曲、約三十五分間、あっという間だった。当日中に新幹線で大阪へ戻れるはずだったが、公演が終わったときにはすでに午後九時を過ぎていた。市ヶ谷の駅前で夕食をとり、四ツ谷の駅に近い公園のベンチで眠り込んだ。夜中に警察官に起こされ名前と住所をたずねられた。翌日、金曜日の夕方、家にもどった。土曜日に学校へ行くと、そこでひと騒動がもちあがる・・・

近所のレコ屋、エンゲルスガールのご主人にこの話をすると、ご主人は中学生だったとのことで、行きたかったが、さすがに行けなかった。テレビで放送された番組をテープレコーダーで録音したという。ひどい演奏だったそうだ。それでも感激した。みなさん、それぞれのビートルズ体験がある。

# by sumus2013 | 2020-01-11 21:19 | おすすめ本棚 | Comments(0)