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恋の唄

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マラルメ『恋の唄』北園克衛訳(ボン書店、昭和九年五月十五日)。東京滞在中にある古書店にて買い求めた。A版60冊と奥付に記されている。内堀弘『ボン書店の幻』(ちくま文庫、二〇〇八年)によれば、A版は「厚表紙」で60冊、B版が「薄表紙」で90冊刊行されている。ほんとうなら幅広の帯が付いているのだが、残念ながらありません。

詩集がひとまとめにしてある平台の上、無造作に小ぶりな本が三、四冊ヒラ置きされていた。その上から二冊目にあった。ちょっとシャレタた装幀だなと思って手に取り、奥付を見ると「あ、ボン書店だ!」。値段は? とさがしてみても、どこにも書いてない。ちょうど帳場から他の本を調べに出てきたご主人に「これ、値段がないんですけど、いくらですか?」と手渡した。「ほんとだ、書いてないねえ」と、ご主人が奥付を見たり、傷み具合をチェックしている一分ほどの間の、長かったこと・・・。貧生でも買える値段が、ご主人の口から発せられたときには、心のなかで「ヨッシャー」と叫んでいた。有難いことである。

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独特な奥付の組み方




# by sumus2013 | 2020-01-19 15:39 | 古書日録 | Comments(0)

極私的坪内祐三

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坪内祐三『極私的東京名所案内』(彷徨舎、二〇〇五年一〇月一五日、ブックデザイン=奥定泰之)。

ウィリアムモリスでの個展のために東京へ出かけていた。スマホも持たず、PCもタブレットもない環境だったため、妻から宿にかかった電話で坪内祐三急死を知った。言葉を失った。まだまだ若いはずと思ったら、六十一だという。今年の五月で六十二になるはずだった。早すぎる。

初めて会ったのはいつごろだったのか、今、はっきり思い出せないが、最後に会ったのは二〇一八年のぽかんの集いのときである。「あ、林さんだ」「ご無沙汰してます」というやりとりをした。特段に調子が悪そうには見えなかったように思う。昨年のぽかんの集いでは坪内氏は来ておらず、佐久間さん(坪内夫人)に挨拶しただけだった。

坪内氏は『sumus』の創刊号「三月書房特集」が出たとき(一九九九)真っ先に取り上げて評価してくれた。『彷書月刊』へ『sumus』同人たちが寄稿するようになった一九九〇年代後半から二〇〇〇年代には、小生が上京するごとに小宴を張って、そこへ坪内氏も駆けつけてくれた。個展にも何度か来てくれ、その後、飲み会ということもあった。

一九九九年五月から六月にかけて銀座六丁目の肥後静江さんの空想・ガレリアで個展をやらせてもらったときには素晴らしい美女を連れてやって来た。

《坪内祐三氏、美女と現われる。美女は例の荒川さん担当の朝日の記者山脇さん。AREは面白いですねと言ってくれる。表紙を手描きする話などで盛り上がる。》(六月四日の日記)

山脇さんとあるのが後の坪内夫人である佐久間文子さん。坪内氏周辺の人はブンちゃんと呼んでいる。荒川さんは荒川洋治さんのこと。この記述からすると『ARE』の時代から知り合っていたわけだ。扉野君のコネクションだったような気もする。山脇さんがすらっと伸びた脚にぴったりと張り付いた明るい色のジーンズを履いていたのが目に焼き付いている。こんな新聞記者がいるのか、というカルチャーショックというか、驚きがあった。

一九九九年は、画廊に来てくれただけだったが、初めていっしょに飲んだのはどうやら二〇〇二年四月に六本木で個展をしたときだったようだ。それ以後、上京時には皆で集まって歓迎してくれるような感じになった。坪内氏は毎回別の親しい編集者を呼んで、小生に紹介してくれるようになった。これが坪内流の気遣いなのかと後で思うのだが、それらの編集者の方々とはあまりに住む世界が違うというのも小生にははっきり感じ取れた。

今回の滞在中に坪内氏をよく知るAさんとBさんのお二人と話し込む機会があった。お二人はごく内輪の通夜にもかけつけている。そのとき佐久間さんが、いちばんに語り出したのが八羽事件のことだったと聞いて、本当にビックリしてしまった。八羽事件は二〇〇七年三月に小生が東京美術倶楽部のアートフェアーで個展をしたときに起こった。例によってAさんからお誘いがあって八羽(神保町の居酒屋)に集まることになったのだが、そのときに一悶着があったのだ。その顛末については以前詳しく書いた。

2007年3月16日

この文章でDさんとなっているのが坪内氏である。佐久間さんはこのときのことがよほど気になっていたのだろう。この後坪内氏が宴席などで突然キレはじめるようになった、その最初の事件だった、と通夜の席で言ったというのである。当時の日記を探し出してみると、その事件について書いたページの間にスナップ写真の入った封筒がはさまれていた。それは二〇〇九年に五反田駅前の大陸という中華料理屋で集まったときのものだった。八羽の二年後である。坪内夫妻とAさんBさん、もう一人N君が写っている。写真に添えられた一筆箋に佐久間さんがこう書いている。

《先日はひさしぶりにお目にかかれて楽しかったです。今回は大惨事もなく・・・よかったです。》

大惨事とは八羽事件のことに違いない。たしかに、その写真の坪内氏はたいへん上機嫌、ニコニコしている。他の皆も何がそんない可笑しいのかというほどの破顔である。楽しかったという気分だけがよみがえる。

今回、Aさんが、どうしてあのとき坪内氏が急に立ち去ったのか、八羽事件の起こった原因を教えてくれた。それはここでは書かないが、やはり坪内さんらしい繊細な気質に由来するものである。

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坪内祐三氏 一九九七年頃

Bさんがコピーしてくれた集合写真から。AさんもBさんも若い。坪内さんもいい顔しているな。まだまだ仕事をし続けて欲しかった。


# by sumus2013 | 2020-01-17 21:14 | 古書日録 | Comments(0)

Bonne année 開催中

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林哲夫作品展 Bonne anée
2020年1月8日〜1月30日

ウィリアムモリス珈琲&ギャラリー
東京都渋谷区渋谷1-6-4 The Neat青山2F
開廊時間 12:30 -18:30
休廊日 日・月・第3土曜

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# by sumus2013 | 2020-01-17 08:50 | 画家=林哲夫 | Comments(0)

砂まみれのビートルズ

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あいちあきら『ペリーの巣』(編集工房ノア、2019年12月1日、装幀=平野甲賀)読了。60s〜70sの青春を描いた私小説。川崎彰彦、小沢信男のお二人に師事されたとのこと。「ペリーの巣」「砂まみれのビートルズ」「絶望のスパゲティ」の中編三作が収められている。

「砂まみれのビートルズ」が高校時代、「ペリーの巣」が大学時代、「絶望のスパゲティ」が社会へ出たばかりの頃を描いている。それぞれの時代の雰囲気をうまく捉えて、そういう時代もあったな、と思い出させてくれる一方で、文体はフレッシュだと感じた。発表はそれぞれ一九七四、九二、八六年だから、そこそこの時間が経ているにもかかわらず。

「砂まみれのビートルズ」、美術部とバレーボール部が登場する。小生もバレー部だったのでなんだか自分のことのように思われた。ただし著者は昭和二十四年生まれ(六歳年長)、その意味ではかなり違っている。なにしろ学校を休んで武道館のビートルズ公演へ出かけたのだから、まだこちらは小学生だった。

当時、ビートルズ(およびその東京公演)が一般にどのように受け取られていたのかがよく分かる。熱狂的なファンがいる一方でかなりの拒絶反応もあった。

《ビートルズの公演は六月三十日と七月一日と二日の三日間で計五回行われる。合計三万人の入場者に対し、二十二万八千六百通の応募があたとか。》

友人や先輩の名前を借りて主人公は応募ハガキを二十八枚送ったところ、三枚が当選した。その「ビートルズ東京公演鑑賞チケット引換券」が届いた先輩からこう言われる。

《「ふん、言うとくけどな、オレはビートルズなんか鼻くそ以下や、興味ゼロや、富田、おまえはビートルズやなくて、ビールスにアタマ侵されてるのや、目を覚ませ、ボケ」》

また、親戚からこんなことも言われる。

《「だいたいあいつらは武道館という場所がどういうものか皆目わかっていない。あそこは日本の国技を行う神聖な場所なんや、あんなチャラチャラした毛唐どもに穢されるわけにはいかんやろ」》

しかし、なんとか友人の母親からお金を借りて、主人公の富田は難波の高島屋でビートルズ東京公演のチケットを購入することができた。入場料C席一五〇〇円。


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いよいよ、六月三十日午後一時、富田と友人の高杉は東京へ着いた。北の丸公園の入り口から武道館へつづく長い行列ができていた。大勢の警察官がいた。司会はE・H・エリック、日本のバンドの演奏が始まる。ザ・ドリフターズ、ブルージーンズ、尾藤イサオ、望月浩、内田裕也、ジャッキー吉川とブルーコメッツ。・・・一時間以上の空白の時間があってようやく四人が登場した。

《ぼくの席からは、斜め左横からビートルズの四人が見下ろせた。ポール・マッカートニーもジョン・レノンもマッチ棒くらいにしか見えなかった。客席は二階と三階席だけで、アリーナにはお客は入れない。代わりに警備員がずらりと並び、客席のぼくらの方をじっと見上げている。》

全十一曲、約三十五分間、あっという間だった。当日中に新幹線で大阪へ戻れるはずだったが、公演が終わったときにはすでに午後九時を過ぎていた。市ヶ谷の駅前で夕食をとり、四ツ谷の駅に近い公園のベンチで眠り込んだ。夜中に警察官に起こされ名前と住所をたずねられた。翌日、金曜日の夕方、家にもどった。土曜日に学校へ行くと、そこでひと騒動がもちあがる・・・

近所のレコ屋、エンゲルスガールのご主人にこの話をすると、ご主人は中学生だったとのことで、行きたかったが、さすがに行けなかった。テレビで放送された番組をテープレコーダーで録音したという。ひどい演奏だったそうだ。それでも感激した。みなさん、それぞれのビートルズ体験がある。

# by sumus2013 | 2020-01-11 21:19 | おすすめ本棚 | Comments(0)

太陰太陽暦沿革

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『明治十六年引証/太陰太陽暦沿革/こよみのわけかき』(田口宗七、明治十五年十二月刻成発兌)。編輯および出版人である田口宗七の住所は京都の下京区第壱組今新在家西町二十四番戸。小生の現住所からそう遠くない場所である。

巻頭に新暦と旧暦の由来を説き、つづいて明治十六年の新旧両方の暦を並置している。上段が旧暦、下段が新暦で、この年は、新暦の一月一日は、旧暦では前年明治十五年十一月二十二日にあたる。旧暦の元旦は新暦の二月八日になっている。

旧暦では、納音(なっちん)、五行、六曜、方角など旧来の情報を記し、新暦には諸事の吉日と忌む日を記してある。

《このほんをしるすハ こよみのはじまり また しんれきと きうれきとの ちがふありさまとを しめすがためなれバ わかりやすきために ことしのこよみのありさまをしるすものなり》

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新暦が取り入れられたときの混乱を記した「改暦の影響」という一文が、林若樹『集古随筆』(大東出版社、一九四二年)にある。参考までに一部を引用してみる。明治政府が明治五年に太陽暦を採用したところ《人心は頗る動揺した》という。

《明治五年十二月三日ヲ以テ六年一月一日ト為ス 是日改暦式ヲ行ヒ太廟及ヒ歴代皇霊ニ告ク尋テ太陽暦ヲ頒行シ仮ニ祝日祭日ヲ定ム 又昼夜十二時ヲ改メテ二十四時ト為ス》(明治史要明治五年十一月九日の条)

《政府が断然太陽暦を採用した動機に就いては、陰暦では閏年の為に官員に支払ふ月給に違算を来す、それが断行の動機であると消息者はいふ。
 かくの如く突然正月が来る、五節句が廃されて新に祝日が出来る、十二時[トキ]が二十四時に変る、何が何やら一般の人民には訳が分らぬ、其一月元日に福沢諭吉先生は改暦弁の一書を著はされて縷々陽暦に就て説かれて居るが、一般の耳には這入らなかつたらしい。》

明治八年に出版された小川為治の『開化問答』のなかにも太陽暦の問答があるそうだ。舊平と開次郎の対話になっており、舊平は文字通り旧弊な人物としてすべからく古きを愛するのだが、この旧暦擁護については筋が通っているようにも思う。かいつまんで紹介すると、まず

《これ迄世間に於て旧来の暦を用ひ来り何一つ差支ふることもなかりしに、何を以て先年政府に於て足下より鳥の起つ如く急に太陽暦をとり用ゐこれをお廃しなされしか、更に合点の行かぬことで御座る。》

としごくまっとうな反論で始る。

《全体暦は百姓が耕作する目的となるが第一の役目なるに、太陽暦には気候寒暑の事を明に書載せざる故、百姓は之を用ゐて其仕事の目的を定むる事が出来ません。婚礼家造り其他祝儀不祝儀に付き、吉日を選ばんとすれども、太陽暦にはこれを書載せざる故、遂に悪日を用ゐ、これが為めに悪事災難を引起す者も御座り升。》

《其上改暦以来は五節句盆などゝいふ大切なる物日を廃し、天長節、紀元節などゝいふわけもわからぬ日を祝ふ事で御座る。》

《かゝる世間の人の心にもなき日を祝せんとて、政府より強て赤丸を売る看板のごとき幟や提灯を出さするは、なほなほ聞えぬ理屈でござる。元来祝日は世間の人の祝ふ料簡が寄合ひて祝ふ日なれば、世間の人の祝ふ料簡もなき日を強て祝はしむるは最無理なる事に心得ます。》

舊平さん、なかなかいいこと言っている。日の丸も無理強いと感じられたわけだ。そして林若樹はこれらに加えて文学への打撃を挙げる。

《商家農家に次いで最打撃を受けたものは、文学の中でも詩歌俳諧で、就中季題を以て生命とする俳諧に至つては四季の区分がメチヤ〜〜になつて了つて、一時は混乱の状態に陥つた。》

そのため俳諧では「新年」という季語を設けて一月中の行事はこれに取り入れるようになったという。この文章は大正十一年三月『ホトトギス』に発表されているが、筆者はまだまだ旧暦が人心から去っていないとし、

《吾々から三代位、今から百有余年経つたなら、旧暦も一月遅れも無くなつて、初めて実際に将た完全に日本に太陽暦の行はれる時が来るのであらう。》

と結んでいる。今年はこの記事から98年目になる。

# by sumus2013 | 2020-01-09 20:16 | 古書日録 | Comments(0)

25年目の1.17展

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25年目の1.17展
2020年1月8日〜22日

ギャラリー島田


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『神戸新聞』2019年1月9日



# by sumus2013 | 2020-01-09 10:33 | 画家=林哲夫 | Comments(0)

もよおしいろいろ

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イマヨシハヂメ原画展
古本屋にいこう
2020年1月17日〜27日

花森書林
https://hanamorishorin.com/aboutus/






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永田耕衣展
2020年1月11日〜4月5日

姫路文学館北館







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中戸川吉二展
2019年10月26日〜2020年1月26日

釧路文学館






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犀星スタイル
武藤良子原画展
2019年11月16日〜2020年3月28日

室生犀星記念館
https://www.kanazawa-museum.jp/saisei/






# by sumus2013 | 2020-01-07 17:37 | もよおしいろいろ | Comments(6)

アメリカ史物語

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レイモン・コフマン『アメリカ史物語』神近市子訳(桐書房、1947年2月10日)。表紙の絵柄にひかれて買ってしまった。装幀者などの名前はない。桐書房は『童話教室』という雑誌を戦後すぐに発行していた版元で、昭和二十年代は坪田譲治などの本を出している。だから挿絵や装幀についても一定の見識を持っていたようだ。発行者は大島美代。東京都麹町区九段一丁目四。

本書はアメリカの歴史を、マヤ時代から第一次世界大戦まで、簡潔に叙述した内容である。ここでは「スペイン戦争」だけ引いておく。

《一八九八年、合衆国はスペインに対して宣戦した。この直接原因は、キューバに於ける一つの港でアメリカの一軍艦が沈没した事と、スペインに対するキューバの反乱が、アメリカの商人が所有する財産に損害を与へる危険があつたためであつた。
 この軍艦はメイン号であつた。メイン号がスペイン人によつて沈没せしめられたことは証明されなかつた。この沈没はボイラーの爆裂によつたものかも知れない。
 スペインは僅か八ケ月続いたこの戦争に破れた。その結果として、合衆国はスペインからキューバとポルト・リコを取り、二千万弗の代償によつてフィリッピン群島を自国のものとした。
 フィリッピン人は、スペインに反乱を起して自由を得ようとして戦つてゐた。スペインとの間に平和条約が作成されて後、合衆国は如何なる外国の支配も受けるを欲しない土人を鎮圧するために、フィリッピンに軍隊を送つた。フィリッピン人との戦争は数年間続き、一億六千万弗を要し、双方多くの人命を失つた。》

アメリカ合衆国もまた「帝国」のための戦争ばかりしてきたのである。

# by sumus2013 | 2020-01-06 17:18 | 古書日録 | Comments(0)

薔薇の名前

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昨年十月、善行堂の表の均一台から拾い出して読みはじめ、この正月にようやっと読了した。ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』河島英昭訳(東京創元社)。上巻は一九九〇年三月五日再版、下巻は一九九〇年一月二五日初版。原著『Il nome della rosa』はボンピアーニ社から一九八〇年に刊行されている。たまたま本日はエーコの誕生日(一九三二年一月五日、北イタリアのアレッサンドリア生まれ)。

この日本語の全訳が出た頃、読んでみたいなとは思ったのだが、上下合わせて税込み4000円では手が出なかった。ひょんなことで英訳のペーパーバックを古本屋で安く見つけたのが間違いのもと。つい読みはじめてしまった。英語で、しかも舞台は中世の修道院ときては、この万華鏡のような言葉の洪水のなか、見たことも聞いたこともない単語が半分以上はあっただろう。それでも分かるところだけ跳ばし読み、ときどき辞書を引く、という感じで最後までページをめくり終った記憶がある。よくぞ辛抱した(ガマン較べじゃないんですけど)。その後、ジャン・ジャック・アノー監督による映画「薔薇の名前」を観るにおよんで、なるほどそういう内容だったのか、とようやくにして得心したような次第。

日本語に訳されていてもほぼ理解不能な単語の羅列には閉口するが、まあそれはキラキラの装身具か重厚な鎧兜のようなもの、芯となるストーリーやトリックについては、新味がほとんどないと言っていいだろう。それもそのはずである。訳者の「解説」に次のようにある。

《一九六〇年代から七〇年代へかけて、イタリアの文学者たちはーー無邪気な作家は別としてーー創作の困難性の前に立たされていた。責務の文学をどの方向へ切り開いたらよいのかという新前衛派(エーコ自身もこれに属していた)と前衛派(モラーヴィアやパゾリーニなど)の激しい論争のなかで、作品のうちから物語生が閉め出されていくために、小説は息絶えだえになっていた。モーロ事件によって、それが、ほとんど止めを刺されたのである。繰り返して言うが、そのような文学的状況が、エーコに小説を書かせる直接の動機となった。》

モーロ事件とはBR(赤い旅団)がモーロ元首相を誘拐した事件を指すが、要するに、現実が小説を蹴散らしていた。そこでエーコは、あるいはその直接のきっかけとなったのはカルヴィーノの文学なのだが、物語性をふたたび取り戻そうとした、それが本作だということになる。名探偵ホームズ、デカメロン、神曲・・・そんな形式を借りて、そこに作者を取り巻く現実の事件を重ねながら、作り上げた記号の大伽藍である。

《『薔薇の名前』が出版されたのは、一九八〇年九月のことであった。たまたまその年の十一月半ばから、自分の別個の目的のために、私はトリーノに住んでいて、大学の研究所へも出入りしていた。どこの書店のウィンドーにも、ランスの聖堂の床に描かれていたという迷宮の図柄をあしらった『薔薇の名前』のハードカバーが並んでいた。前評判もかなりのものであった。記号論で一家をなしたエーコが、小説を書いた。中世の僧院を舞台にした推理小説仕立てであるという……「きみは読んだ?」そうたずねると、「いいえ、まだ」という答ばかり返ってきた。エーコはトリーノ大学の同じ文哲学部の出身で、彼らは直接にせよ間接にせよ、エーコと近い関係にある研究者のはずであった。いや、それだからこそ、そういう返事ばかりが返ってきたのかも知れない。一本を求めようと思っているうちに、すぐに書店のウィンドーから『薔薇』の姿が消えた。再版中だという。

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しかし、それはすぐに手に入った。仕事が一区切りした所で、ある日、ホテルのベッドに寝ころんで読みだした。当時、私は自分なりの考えを追って、トリーノ駅前にあるホテルのパヴェーゼが自殺した部屋に寝起きしていたのであるが、そのころは、自分の目で物事を見ないようにする努力をしていた。それゆえ、パヴェーゼならば、『薔薇の名前』をどのように読むであろうか、そう思いながら読み進めていった。それなのに、ある瞬間に、私は自分の目でしか読めない自分を感じた。先に掲げた、長い引用の、ドルチーノ派の事件を、読んでいたときのことである。》(「解説」河島英昭)

# by sumus2013 | 2020-01-05 20:49 | 古書日録 | Comments(0)

普選運動の示威

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木佐木勝『木佐木日記 滝田樗陰とその時代』(圖書新聞社、一九六五年一二月一日)を読んでいる。これまでも読みたいとは思っていたのだが、ちょうどいい具合に手に入らず、そのままになっていた。やっと先月のゴーリーにて入手できたので読み始めると、これが面白すぎる。上の口絵、右上が滝田樗陰、左下の青年が木佐木勝でどちらも大正八年ごろ。木佐木は早稲田を出て『中央公論』の編集所へ見習いとして配置されたばかり。滝田樗陰の行動に振り回されながらその人柄に魅かれていく。日記ならではの忌憚のない意見が表明されており、リアリティというか臨場感に満ちている。

大正九年の日記から。たまには政治ネタをば。

二月十一日[略]
新聞を見ると、今日は日比谷に百十一団体七万五千人が芝と上野の両所から集まって来て、普選運動の示威を行うと出ていたので、急に行ってみたくなったが、風邪気味でどうしようかと思っているところへ、ちょうど宗川君がやってきた。》

二人は結局こたつで話し込んでしまい、デモには参加しなかった。

《ことによると噂どおりに原首相は解散の手を打つのではないかという話になった。解散になれば、政府が選挙干渉をやって、結局政友会が勝ち、ことによると政友会が議会で絶対多数党になる可能性もある。そうなれば当分普選の実現は望み薄すになるだろう。その結果はどういうことになるのか。》

《しかし、普選派の三派はーー憲政会、国民党、普選実行会のうち、憲政会が余りにも消極的で弱腰なので、尾崎行雄氏なども脱党するかも測られず、解散となっても、すでに意気において負けているので、選挙ではまず勝算はないと見るべきだ。結局そうなれば、吉野(作造)さんのいうとおり、普選は十年遅れることになるかもしれないと自分が言ったら、そうなれば日本の前途はお先まっくらだ、現状を打開するものはデモクラシーではなく、革命運動による外に道はないと宗川君は悲観していたが、自分も宗川君の気持ちに同感だった。》

普通選挙法は大正十四年、この日記から五年後、憲政会の加藤高明内閣のときに成立することになるのだが、大正九年二月のデモはどうだったかというと、

《あの日は、日比谷の示威運動とは別に、労働団体が政友会本部に迫り、居合わせた政友会の壮士団の暴行から大衝突が起こり、警官たちがまたこれを包囲して労働団体を検束し、なぐる蹴るの乱暴を働いたので、一般民衆も労働団体に加勢して大混乱を生じたという話から、昨日あたりから衆議院内外の各団体から警官の暴状を挙げて政府の責任をただす質問書が出されたということまで話しに出て、いつものことながらどうして政府が一方的に民衆運動を取締り、警官の暴行を黙認しているのかと二人で大いに憤慨した。》

というように、昨今の香港状態だった。苦しい時には解散するというのも、なんだか今の状況に似ているのだろうか。ま、それはともかく文学関係者の描写もきわめて興味深いので、これからときおり引用していきたいと思う。

# by sumus2013 | 2020-01-04 20:58 | 古書日録 | Comments(0)