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蒐集品目録

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中野書店の古本倶楽部三百号の末尾に『蒐集品目録』(ガリ版刷り)というちょっと気になるタイトルが載っていた。あまり期待せず註文してみた。無事に届いたのがこちら。表紙の題簽は手書き毛筆。B5判、本文は西洋紙の袋綴じ四十八丁(九十六頁)というずっしりした体裁。奥付などはなく、前書きとして、蒐集者・吉井由太郎の「蒐集趣味三十周年ヲ迎ヘマシテ」という文章が置かれている。それがなかなか読ませるので部分的に引用してみたい。

《顧ミレバ實ニ早イモノデシタ私ガ蒐集趣味ヲ創メマシタ動機ハ今カラ恰度三十年前ノ明治三十八年日露開戦中デ當時非常ニ絵葉書ガ流行シマシテ次カラ次ギト色々ノ変リモノガ出マスノデ見ルカラニ面白クテ堪リマセンデシタノデ遂ニ一枚二枚ト集メマシタ》

戦地の兵隊から来た通信葉書、新聞の号外、古郵便切手、商標など手当たりしだいに集めて行ったそうだ。

《然ルニ私ハ翌三十九年志シテ新潟郵便局集配人ニ奉職シマシタ後逓送人トナリマシタガ当時朝早ク夜ハ遅イノデ休日以外ハ殆ド趣味ニ親シムコトガ出来マセンデシタノデ遂ニ蒐集品ハ局ヘ持チ行キ服務ノ暇々ニ整理ヲシ或ハ眺メテ唯一ノ娯シミトシテ居リマシタ處ハカラズモ同四十一年ノ大火ノ際不幸ニモ蒐集品ハ家ニ置キマシタ僅カ一部ノモノヲ残ス外全部郵便局ト共ニ焼失シテ仕舞マシタ》

明治三十九年に就職したとしたら、明治二十年前後の生まれと考えていいかもしれない。ところが、職場に持ち込んで楽しんでいたコレクションの大部分が大火により焼失してしまった。

《一時ハ大イニ落膽シマシタガ再ビ意ヲ決シテ更ニヨリ以上ノ蒐集ニ努力シタノデアリマス或時ハ屑屋ヲ漁リ或ハ路傍ニ落チテアル燐寸ノ空箱ヤ色々ノ商標ナド拾ヒ之ヲ石鹸水ニ清洗シテ帖ニ貼付シ或ハ商標ヲ目的ニ不用ノ品ヲ買ヒ集メ或ハ趣味交換会ヘ入会シ或ハ休暇ヲ利用シテ蒐集旅行或ハ日夜怠タラズ少シの暇アレバ友人知己ヲ巡訪シテ歩キマシタ何時シカ友人等カラ高等屑屋ノ称號サイ戴キマシタ》

家族の迷惑など考えず汚かろうと重かろうと何でも貰って帰ってきた。

《常ニ私ノ趣味ニ理解アル家内ノ者デスラ堪ヘ兼ネマシテ石バカリハ持ツテ来テクレルナ床ガ下ルト時折叱言モ耳ニシマシタ斯ノ如クシテ一箇ノ石一葉ノペーパータリ共入手シマシタ時ノ私ノ喜ビハ何ニ譬ヒン様モアリマセン實ニ愉快サハ到底趣味ナクシテ誰カ味フコトガ出来マセウカ》

大正大典を記念して名家の《御染筆》(要するに有名人の肉筆)を集めることを思いついた。それは直接旅館を訪問して断られても五度十度足を運んで嘆願したり、縁故をたよったり、並大抵の苦労ではなかったらしい。

《諺ニ苦ハ樂ノ種子トカマウシマスガ今日斯ノ如キ貴重ナル品々ヲ山積スルコトヲ得マシタコトハ何等私ノ力デハアリマセン是畢竟御名家先輩友人諸賢ノ一方ナラヌ御同情ト御援助ノ賜物ニ外ナラヌノデアリマス》

いやいや、あなたの執念の成せる業でしょう。前書の日付は昭和九年十一月三日となっている。吉井由太郎を検索してみてもほとんど何も情報は得られなかった。念のため『昭和前期蒐書家リスト』を参照すると、同じ新潟県出身の吉井八百吉(北蒲原郡聖籠村丸潟、1938古通、人類学、伝記)の名前があっただけ。その八百吉さんの名は『蒐集品目録』には見当たらない。名家に当らなかったのだろうか。しかし人類学に興味があるとすれば、二人がまったく没交渉だったとも考えにくいようにも思う。

以下、コレクションの分類だけ引用しておく。名家肉筆葉書揮毫者については、あらためて後ほど。

名家肉筆葉書揮毫者

石器時代の遺物
古瓦之部
化石之部
孔銭之部
各国貨幣之部
藩札及紙幣之部
大日本郵便切手之部
記念切手之部
郵便葉書之部
封緘葉書之部
万国聯合郵便葉書之部
記念郵便絵葉書之部
郵便封皮之部
郵便帯紙之部
郵便電信封緘紙之部
各種印紙之部
外国郵便切手
外国郵便葉書
汽車電車乗車切符之部
全国鉄道沿線駅弁当及名物包装紙
自動車乗車券及乗船券
博覧会展覧会及宝物其他入場券
マッチペーパー「明治大正時代ノモノ」
一般商標
雜之部


# by sumus2013 | 2021-02-25 20:23 | 古書日録 | Comments(0)

ファーリンゲッティ訃報

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二月二十二日、ローレンス・ファーリンゲッティが死去したとシティライツ書店のFBで知った。百一歳だったそうだ。

《We are sad to announce that Lawrence Ferlinghetti, distinguished American poet, artist, and founder of City Lights Booksellers and Publishers, has died in San Francisco, California. He was 101 years old.
Ferlinghetti was instrumental in democratizing American literature by creating (with Peter D. Martin) the country’s first all-paperback bookstore in 1953, jumpstarting a movement to make diverse and inexpensive quality books widely available. He envisioned the bookstore as a “Literary Meeting Place,” where writers and readers could congregate to shares ideas about poetry, fiction, politics, and the arts. Two years later, in 1955, he launched City Lights Publishers with the objective of stirring an “international dissident ferment.” His inaugural edition was the first volume of the City Lights Pocket Poets Series, which proved to be a seminal force in shaping American poetry.
Ferlinghetti is the author of one of the best-selling poetry books of all time, A Coney Island of the Mind, among many other works. He continued to write and publish new work up until he was 100 years old, and his work has earned him a place in the American canon.
For over sixty years, those of us who have worked with him at City Lights have been inspired by his knowledge and love of literature, his courage in defense of the right to freedom of expression, and his vital role as an American cultural ambassador. His curiosity was unbounded and his enthusiasm was infectious, and we will miss him greatly.
We intend to build on Ferlinghetti’s vision and honor his memory by sustaining City Lights into the future as a center for open intellectual inquiry and commitment to literary culture and progressive politics. Though we mourn his passing, we celebrate his many contributions and give thanks for all the years we were able to work by his side.
We love you, Lawrence.

A FAR ROCKAWAY OF THE HEART

シティライツ書店

CITY LIGHTS BOOKSELLERS AND PUBLISHERS



# by sumus2013 | 2021-02-24 17:16 | 古書日録 | Comments(0)

猫との対話

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昨日は猫の日だったと気づいたので、渡部義通『猫との対話』(文藝春秋、昭和四十四年四月五日第三刷)を開いてみたところ(均一で買ったためカバーなし)、「不倶戴天」というエッセイが目に飛び込んできた。

《サンスクリットの akhubuj(ねこ)は"鼠を食うもの"という意味だという。"猫"という文字も宋代の陸佃[りくでん]編の辞典に「鼠善害苗。而猫能補鼠。去苗之害。故猫之字従苗。」(鼠はよく苗を害す。而して猫はよく鼠を捕らえ、苗の害を去る、故に猫の字は苗に従う。)(『埤雅』)と釈義してあるとおり、"鼠を捕える"性能に由来している。》(p39)

ただし白川静『字統』によれば

《声符は苗[びよう]。〔説文新附〕九下に貍に作り「貍(狸)なり」という。家猫を狸奴[りど]という。》(p728)

ということなので「猫」の「苗」は「描」や「錨」と同じく音を表わしているだけのようだ。漢音で「ビョウ(ベウ)」、呉音で「ミョウ(メウ)」、 miao:みゃ〜お。猫の発音はビョウ(ベウ)、ボウ(バウ)、またはミョウ(メウ)、mao:ま〜お。

ただし『字統』で「苗」を見ると《〔詩、魏風、碩鼠〕「碩鼠碩鼠 我が苗を食ふことなかれ」とは、領主の搾取をうらむ詩である》とあって、鼠が苗を食い荒らすというのは古くからあったらしく、それが比喩的に暴政に対して用いられていたわけだ。

一方、「ねこ」はどうなのか。『猫との対話』所収の「ねこ・語義と名前」にはさまざまな例が挙がっている。

日本霊異記(弘仁年間) 狸に禰古(ねこ)と註記

和名類聚鈔(十世紀初) 禰古万(ねこま)

源氏、枕草子、今昔物語 ねこ

鴨長明「四季物語」 ねこま

契沖 鼠子待[ネコマチ]の略か

貝原益軒《猫、ねはねずみ也。こはこのむ也。一説、猫はよくねるもの也。ねるをこのむ意か。順和名鈔に、ねこまと訓ず。まはむと通ず、このむのむの字也。のを略せり……」(『日本釈名』)

新井白石《猫ネコマ……ネとは鼠也。コマといひクマといふは転語也。鼠の畏るゝ所なるをいひし也。即今俗にネコというは其語の省ける也。」(『東雅』)》

賀茂真淵《ただ睡獣[ねむりけもの]の略なるべし。》

『名言通』《猫ネ(寝寐)コマ也、……ネハソノヨク寐ルヲ云フ。コマは古ノ猫名、クマと呼ビ、或ハ通ジテコマトイフ。クマハ熊ナリ、強キモノヲ取リテソノ名トス。》

谷川清士『和訓栞』《ねこ、猫をいふ、寝子[ねこ]の義、睡[ねむり]を好む獣也。》

滝沢馬琴《猫はねう〜〜鳴くけものなれば、ねこまと名づけたり。》《コマはケモにて、けものゝノを略したり。是"ねう〜〜と鳴くけもの"といふ義にて、ねこまといへり。》

以後、近代の辞書類にいたってもこれらの解釈以上のものは出ていない。寝るか? ネ音からか? 漢字の「猫」の成立とも照らして、鳴き声説を取りたいような気もしないではないが。

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# by sumus2013 | 2021-02-23 20:36 | 古書日録 | Comments(0)

春琴後日の陰翳

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春日井ひとし『昭和八年の谷崎潤一郎(下)春琴後日の陰翳 昭和八年 文学者のいる風景 その12』(掌珠房、二〇二一年二月)を頂戴した。これにて昭和八年シリーズは一区切りとのこと。

昭和八年の谷崎潤一郎(中)

昭和八年の谷崎、承前として「春琴抄」発表以降の出来事がまとめられている。『経済往来』昭和八年夏季増刊「新作卅三人集」、『青春物語』、戯曲「顔世」、「文章読本」、創元社版『春琴抄』、「陰翳礼賛」など、旺盛な執筆の様子、そして恒常的な金欠状態だったことがよく分る。

個人的には『青春物語』の装幀についてのいきさつには興味を惹かれた。この若き日の自伝を谷崎は初め自分で装幀するつもりだったが、普通の四六判で出すと版元の中央公論社に言われ、そのサイズだと凝った本造りができないから、旧友の木下杢太郎に装幀を丸投げしたのだという。木下は快諾したものの、谷崎の本ということを意識し過ぎて、大いに苦しんだ。この件に関する詳しいいきさつは下記サイトにも出ているので参照あれ。

『青春物語』 四六判は苦手、杢太郎に頼む 本のアート散歩①

《最後にたどり着いたのが、銘仙の柄のような"やたら縞"であった。生家が呉服太物商だった木下は幼少から着物になじんでおり、子どもながらに模様の好悪、縞柄の粋無粋を品評できたという(木下「本の装釘」『文学』昭和一八年一月)。》(p18)

苦しんだ末に原点に帰ったわけである。だが、谷崎はその"やたら縞"が気に入らなかった。昭和八年七月二十日に谷崎の元へ装幀見本と校正刷りが届いたのだが、

《〈こゝだけの話〉とことわって、社長の嶋中雄作[四七歳]に〈装幀がどうも気に入りません やはり他人に頼むのは懲り〜〜です〉(昭和八年七月二七日付)と手紙で愚痴をこぼす。》(p18)

友人に頼むと気に入らなくてもやり直しを主張できない。あらかじめラフを見るとか相談して進めてもいいようだが、これもまた友人だと任せてしまうことになる。それにしても、裏で社長に不平をもらすというのは褒められたことではない。

谷崎だけでなく木下にとってもこの装幀は気に入らない結果になった。

《数本の黒や藍の太い縦縞の間に臙脂、代赭、浅緑の細い線を引いてみる。境目で日本絵の具の色がにじむ効果もねらった。》(p18)

にもかかわらず

《出来上がってきたものは、藍や生臙脂の絵の具の色調が、手摺木版でも西洋インクのインディゴやエオシンを使ってでは再現できてなく、不満が残る仕上がりであった。》(p22)

というが、これも本当なら気の済むまでやり直せばいいわけだ。手摺木版なら出来るはずだけれども現実問題としてはそうもいかないか、谷崎の本だし、中央公論だし。

ところが面白いことに世間の評判は良かったようで、秋朱之介が『書物』創刊号で『青春物語』の装幀が《どんなに出版界に大きなセンセエシヨンをまきおこしたか》(p22)と書いた。春日井氏は秋朱之介は木下ファンだったのでこの表現は割り引く必要があると釘を刺しておられる。

たしかにデザインとしてはそう悪くないが、谷崎本にしてはちょっと硬いような感じがしないでもない。なまめかしさが欲しいところ。


# by sumus2013 | 2021-02-22 20:38 | おすすめ本棚 | Comments(0)

往生要集

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『往生要集』巻上(全三冊のうち)。かなり状態は悪いが、寛政二年再刻の菱屋治兵衛版であろう。国文学研究史料館の蔵本と同版かと思える。


『往生要集』というのは平安時代以来の隠れたベストセラーで、文学や絵画に強い影響力を及ぼして来た。執筆されたのは撰者の源信が横川(よかわ、比叡山延暦寺の一区域)に隠棲した後、永観二年(九八四)とのことで、六ヶ月足らずのうちに三巻を書き上げたという。

例えば『往生要集』の人気を証明する有名なくだりが『方丈記』にある。

《長明は、日野山に隠れて、隠遁の生活を送るにあたって、西に閼伽[あか]棚をつくり、障子をへだてて阿弥陀の画像を安置し、落日を白毫の光りと感ずることができるように期待したが、そうした生活の無聊を数冊の書物に託して、そのなかに『往生要集』を忘れなかったのである。

 北の障子のうへに、ちいさき棚をかまへて、くろき皮籠三四合を置(り)。すなはち和哥管弦、往生要集のごときの抄物を入れたり。傍に箏琵琶おの〜〜一張をたつ。……

 ここに『往生要集』の名だけ記されているのをみると、他のいずれのものにもまして、この書によって信仰のまことを温めようとしたことが推測される。》(石田瑞麿訳『往生要集1』東洋文庫、一九九二年版「解説」より)

というか、死後の行方は誰しも気になる。単純に、凄まじい地獄の様子に対する恐いもの見たさの興味が強かったのではなかろうか。極楽のイメージはそう楽しそうでもないのだ。本巻(地獄の巻)の見開き挿絵すべて掲げておく。

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そう言えば、以前にも『往生要集』の端本を紹介したことがあった。

『往生要集巻上末』の端本


# by sumus2013 | 2021-02-21 19:42 | 古書日録 | Comments(2)

パリの本屋さん

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高橋輝次さんから文庫本サイズの『パリの本屋さん Le Passage - よりみち案内』という冊子を頂戴した。深謝です。阪急芦屋川近くにある風文庫で求められたそうだ。タイトル通りパリの本屋(新刊・古書)を案内しているのだが、著者名も発行所、発行年などの情報もまったく記載されていない。表紙はパッサージュ・ヴェルドーのサントン書店(古書店)。

セーヌ川のブキニスト、パッサージュ・ヴェルドー、ラ・ベル・オルタンス、その他にもジュンク堂などが手短に紹介されていて、パラパラとするだけでパリの本屋巡り気分にどっぷり浸れる。なかでも頁数の費やされているラ・ベル・オルタンスはいかにもパリらしい雰囲気。マレー地区のヴィエイユ・ジュ・タンプル通りにあるブック&ワインバー(librairie-cave à vins)。

《一体どんな風にワインと本が融合しているんだろうか?とても興味があって小さな地図を片手に探し回ってようやくたどり着いたのだが、そこはとても魅力的な場所。オーナーの心意気で2つの要素が見事に溶け合う。
 私は度々訪れては、カウンターでグラスワインを飲み、読めないフランス語の本を眺めて過ごした。もちろんカウンターでは常連達が、飲むでもなく、読むでもなく、たゆたっているのは世界中どこでも一緒。
 隣の席は、写真家が自分の作った写真集のプロモーションに来たり、美しいレズビアンカップルが仲良くワインを買って帰ったり、入れ替わり立ち代わりでとても賑やかだ。》(本書より)

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小生、ここから歩いて五分くらいのところに何度も宿を取っていたのだが、外で酒を飲まない身としては、素通りしていたのだろう、まったく知らなかった。検索した「Time Out」の紹介記事によれば一九九七年から営業しているそうで、出版社アクト・シュドに勤めていた女性と食堂チェーン経営者が手を組んではじめたとか。新刊、独立系小出版社の詩集や哲学書、ガリマールの古典叢書などが揃っているという。

本書の写真に見えているオルタンスの棚に並んでいるのは、例えば、次のような本で、どちらも二〇一六年に刊行されているから、写真もその頃に撮影されたのだろうということが分る。ジャック・アタリは経済学者でこの頃よくテレビでその姿を見たことを思い出す。

100 jours pour que la France réussisse: Tout peut changer en 2017
Jacque Attali, Fayard (6 avril 2016)

Les Lois naturelles de l'enfant
Celine Alvarez (Auteur) ,Les Arènes (31 août 2016)

数日前、たまたま、パリ在住の古本屋さんから次のようなメールをもらった。

ブラッサンスはなんとか開いていますが、サンシュルピスは去年はできませんでした。フェアはどれも現状況では無期延期です。なにしろカフェ&レストランが閉まってますから、買い物をして「さて」と座って中を楽しむこともできません。先週の土曜日は寒波でブラッサンスのように屋根があっても、とても長くいることができなかったそうです。初夏、のんびりと青空の下で古本がみれるようになる日を待ちつつ》

そういう日が早く戻ることを祈りたい。


# by sumus2013 | 2021-02-20 17:04 | 巴里アンフェール | Comments(0)

亀田小蛄句短冊

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先日の河東碧梧桐展に並んでいた多くの弟子たちの短冊から亀田小蛄の作を求めた。碧梧桐ばりの書風だが、文字通り小蛄は『碧梧桐句集』(輝文館、一九四〇年)を編集している。

 簑渓兄/台湾行
  征事としもなけれども
        思ふ幟の句

簑渓兄については不明。亀田小蛄(かめだしょうこ)は本名・喜一、別名・糸瓜子、斎女子。大阪生。『俳星』『懸葵』同人、『糸瓜』主宰。

《亀田小蛄の著書『明治俳壇史』について記す。現在のところ所蔵を確認できるのは、北海道大学付属図書館のみであるが、そこには奥付がなく、発行者は不明である。本文末に昭和4(1929)年の記載があり、そのころの刊行と思われる。A5版、洋装247ページで、子規以降の明治俳壇について詳細に述べられている。巻末には、原稿を子規を知る人に送り、確認後に刊行したことが記されており、信用すべき資料と思うが、この資料について触れた文献を見ない。
 著者の亀田小蛄は、明治18(1885)年、大阪に生まれ、鉄物商を営みながら、子規を中心とした明治俳句を研究した俳人である。昭和42(1967)年に没している。著書に『子規時代の人々』(うぐいす社, 昭和42(1967)年)、編著に『碧梧桐句集』(輝文館, 昭和15(1940)年)、『深山柴』(安藤橡面坊著, 糸瓜社, 大正10(1921)年)がある。》





# by sumus2013 | 2021-02-19 17:51 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

秀吉になった男

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『木村生死傑作集 秀吉になった男』(盛林堂ミステリアス文庫、二〇二一年二月二十二日)読了。木村生死はかなり風変りな人物だったらしい。生死(しょうじ)は本名だというから驚く。ということは両親も普通ではなかったということだ。父は観自在術で名を知られた木村秀雄、母は女優の木村駒子とのこと(宮武外骨『奇想凡想』一九二〇)。

生死は十歳でニューヨークへ渡り、十八歳で帰国してジャパン・タイムスの記者となった。新聞連合社、ジャパン・アドヴァタイザーなどに移った後、ジャパン・タイムスに戻り、兵隊にとられて北支へ派遣、そこで敗戦を迎えた。引揚げ後ジャパン・タイムスに復帰、早稲田大学などで英語講師も務めた。AFP(フランス通信社)の東京支局編集部長で定年を迎えた。森の道社社長太田千鶴夫らと日本科学小説協会をつくり雑誌『星雲』を創刊(一九五四年一二月)、以後、科学小説の翻訳と創作に取り組んだ。以上は高橋良平「科学小説の先達・木村生死のこと」(本書所収)より。

本書は横田順彌旧蔵の『秀吉になった男』(森の道社、一九五六年)、『月国の女王』『水星軍来襲』(ともに『中学時代二年生』付録、一九六一年)などを底本として復刻したもので「秀吉になった男」他五編を収める。

全体としては、まずは面白く読み通せた。冷戦と原水爆に支配された世界(多少の変化はあったにしても今もってそれは続いている)における科学小説の可能性と限界を考えさせられる。その意味で、アイデアとかプロットはそう奇抜なものではないが、書き振りはなかなかいい。あっけらかんとしたエロ描写が多いのは時代背景か。やはり「秀吉になった男」が最も読ませる。要は「慶長の役」頃の秀吉にのりうつった電子工学の専門家が武器を考案して歴史を変えようとする。特に朝鮮半島におけるの籠城を詳しく描いてある所は、ガトリング砲などが登場して漫画的な痛快さがあるように思う。


# by sumus2013 | 2021-02-18 20:05 | おすすめ本棚 | Comments(0)

『古本倶楽部』300号

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『古本倶楽部』300号(中野書店、2021年2月)が届く。今でも届く数少ない目録のひとつ。三百号はスゴイです。中野さんには、ほんとにお世話になりました。内容も、漫画、大衆文学を中心に充実している。表紙を眺めているだけでワクワクしてしまう。注文は・・・ま、ともかく最後まで読み通しましょう。

# by sumus2013 | 2021-02-17 20:34 | 古書日録 | Comments(0)

コラージュの「発見」

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『美術史』125(美術史學會、一九八九年三月)。均一棚に五冊ほど『美術史』が並んでいたが、目次だけペラペラめくっていると、本号に速水豊「マックス・エルンスト コラージュの「発見」について」という論文が載っていたので買って帰ることにした。

エルンストがコラージュを「発見」したのは一九一九年だとされている。それはエルンスト自身が一九三六年に『カイエ・ダール』誌に発表した文章が根拠となっている。

《一九一九年のある雨の日のことだが、ライン川のほとりのとある町にいるとき、人類学や微生物学、心理学、鉱物学、古生物学などの標本を載せたある挿絵入りのカタログのページが私の苛立った視線にひきおこす妄想に私は驚かされた。そこには図版の非常にかけはなれた要素の集まりが見出されたので、その組み合わせの不条理そのものが、私のうちに幻視能力の突然の強化をひきおこし、情事の思い出や半睡状態に特有の執拗さと迅速さで互に重なり合う、矛盾するイメージ、二重の、三重の、多重のイメージの、幻覚を起こさせる連続を生んだ。》(『Cahier d'Art』6-7号、一九三六年より。速水訳、本書、p17)

だが、実際はこのような突然の発見ではなかったのではないか? そして、発見年も違っているのではないか? という点について速水は検討している。一九一九年の時点でエルンストはピカビアやアルプからの影響で活字や幾何学的な図形を組み合わせた作品を制作していた(フロッタージュや転写によって)。その次に「上塗りの技法」(übermalung)を始める。それは、既製の図版を部分的に塗りつぶし、そこへ何かを描き加えるという方法である。これが事実上のコラージュの萌芽だとみなされる。上の文章に出ている《挿絵入りのカタログ》というのは当時ケルン教材協会によって使用されていた学校用教材のカタログだということが特定されている。そういう方法はマルセル・デュシャンによってすでに行なわれていた(例えばモナ・リザの図版に鬚を描き加えるなど)。既製品を使うというやり方をダダイストたちが有効な手段として認識していたわけで、エルンストの独創ではない。

一九一九年、エルンストはトリスタン・ツァラと手紙のやり取りをし、作品を送ったりしていたが、「上塗りの技法」については何も言及がないし、一九二〇年四月に開催されたケルン・ダダの展覧会「早春のダダ」展にも出品された形跡がない。よって「上塗りの技法」による作品はこの展覧会より後の制作だと推定される。

そもそもエルンストはパリにおける初めての個展の日付を間違えて記憶していた。その個展には多数の「上塗りの技法」作品やコラージュが出品されたのだが、実際は一九二一年五月から六月にかけてサン・パレイユ画廊において開かれたにもかかわらず、その案内状には一九二〇年と記されていた。これはダダイストが混乱を起こさせるために意図的にしたことだった(晩年のエルンストがそう証言している)。

この一年のズレが初期のエルンスト研究者を惑わせた。本当は一九二〇年五月以降に制作され、翌年のパリ個展に出品されたにもかかわらず、一年繰り上げられ一九一九年に制作され、二〇年に出品されたと考えられたのである。上の文章を書いた時点で、エルンスト自身も忘れていたのか(ひょっとして意図的に?)、パリ個展の年月を一年繰り上げたため、コラージュの開始も一年早まった。

《彼はコラージュ発見の体験を、少しずつ表現を変えながら何度も文章にしているが、それを一九一九年のことであると初めて記したのは、上に引用した「カイエ・ダール」に寄せた文章においてのことであった。その有名なくだりの前後で、彼がパリでのコラージュ展のことについて触れ、それに二〇年の五月という間違った日付を与えていることは注意すべきことのように思われる。これを書いた時点でエルンストはダダイストの期日の間違いにならっており、それに合わせればコラージュ発見は、実際には一九二〇年のことであったにせよ、一九一九年としなければならなかったことであろう。》(p24)

案内状の日付も安易には信用できないわけである。ダダ的な意図でなくとも単純な誤植も少なくないだろうし。奥付も同じ。

上の写真は八尾西武でのマックス・エルンスト展のちらし。一九八三年。画像はコラージュ「近づく思春期(プレイヤード)/1921」。所蔵するちらしのなかでもお気に入りの一枚。このちらしにもこう明記されている。

《1919年 ケルンのダダに参加。最初のコラージュ制作。》



# by sumus2013 | 2021-02-16 20:00 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)