林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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古河力作の生涯

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水上勉『古河力作の生涯』(文春文庫、一九七八年一月五日)読了。雑誌『太陽』に連載された後、平凡社から一九七三年に単行本として刊行されている。大逆事件については大雑把な理解しかなかったのだが、今更ながら本書を読んでその全体像がかなりはっきり判ったような気がする。ただ、水上勉の書き方(事件に関する出来事などについての解釈の仕方)には賛同できない部分も多く、とくに古河力作の身長が小さかったことをことあるごとに強調しているのは気に入らない。小柄だということは、もちろん人生を決める上で非常に重要なファクターであろう。しかし何でもかんでも小柄のせいにするというのはいかがなものか。

慈母の許で、力作は不自由なく育った。ただ、一つだけかなしみはあった。友達はみな背丈がのびてゆくのに、自分だけはのびない。かなしみは根を張った。次第に、友達づきあいもしなくなった。山や川や草木と話しあう子供になってゆくのである。足もとにころがっているようなありふれたことにも、ほかの子とちがった、奥深い考えをめぐらせる子に育ったのは当然である。環境がそうさせてゆく部分もあるが、力作自身が芽ぶかせた感受性の成長である。》(二章)

あまりにも恣意的なロマンチックな描写である。だいたいその背丈が何尺何寸だったのか、本書には記されていない(と思うのだが?)。それは一四〇センチ足らずとも言われているものの、ただし明治初期の日本人男性の平均身長は一五五センチ、女性は一四五センチだった。大正にかけて一〇センチほど増えていくことになるが、明治十七年(六月十四日)生れの力作である、一四〇センチだったから性格が歪むほど飛び抜けて小さかったとも言えないだろう。

力作が雲城校(雲浜小学校)高等科を卒業したのは明治三十二年三月。その卒業写真を描写しているくだりはこうである。

校舎前に椅子を積んで四段にならんだ生徒は二十一名、うち女子二名。九名の教師が前列に腕を組んだり、膝上にこぶしをつくったりして、ならんでいる。力作は左手二列目の二人目にいる。小躯なのですぐわかる。どの生徒も高等科卒業故に、十六歳の年恰好を示して、肩を張っているが、力作だけは小さく、ひきしまった顔で、みなのうしろに立っている。この顔は誰よりも童顔、丸顔である。立縞の袷に共生地の羽織、胸に高く、紐をむすんでいる。つまり、この日に、力作は、一寸法師、小人と渾名された屈辱の学窓八年の生活から解放された。三樹松氏の記憶だと優秀な成績だったというから、おそらく賞状を貰っての卒業だったと思われるが、》(四章)

これも不思議な描写である。生徒二十一人が四段に並ぶと一列五人か六人、前に先生が九人並ぶという構図はおかしくないか? 生徒が三段(一段七人)先生が前列と考えた方がいいのかもしれない。すぐわかる小躯なのに《みなのうしろに立っている》というのはどういうわけだろう? 写真を見れば一目瞭然なのだが。《十六歳の年恰好を示して》としてあるところ、明治十七年生れなら力作はまだ満十五歳になっていない。

それからこれは弟の古河三樹松が抗議していることだが、事件後判決が下りて後、幼い弟(十五歳下)の三樹松と妹のつなが特別の計らいで市ヶ谷の東京監獄において面会の機会が与えられたとき、力作の背が低くて弟と妹には兄の顔が見えなかった、と水上が書いているのは大嘘である。

と建物と建物のあいだに腰板を張っただけの屋根ふき廊下があり、その廊下を動く編笠がみえた。さあ、兄さんを早くみなさい、と看守は指さした。三樹松とつなは、背のびしてみようとするが、兄の姿はみえず、ただ、編笠が、腰板の上をうごくだけで、やがて、それは建物に吸われてみなくなった。(十四章)

三樹松氏はこう記憶している。

そこから三メートルほど奥に、横に板敷の廊下が走っているのが見えました。
 そこに、左手の方から前後を看守に警護された力作が腰なわ付で姿を見せ、編笠をあげるようにしてこちらに顔を向けながら通り、私たち弟妹の姿を見返りつつ、無言で右手の方へ歩き去ったのです。
 私たちも、はっきりと兄の顔を見ました。》(『大逆事件ニュース』二七号、大逆事件の真実をあきらかにする会、一九八八年一月二三日)

三樹松氏はこの通りのことを水上勉に話したと言っている。まさに芝居の演出、捏造だ。この一事だけをしても『古河力作の生涯』を鵜呑みにする危険が強く感じられるのである。あるいは「伝」でなく、あくまでフィクションとして読んでおく方が無難だとも思えるのである。


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# by sumus2013 | 2017-08-10 20:59 | 古書日録 | Comments(0)

檸檬

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梶井基次郎『檸檬』(発行者=折原カズヒロ、二〇一七年八月四日、装画=日野洋子、装丁=石間淳、本体造本=石間淳)。これは「梶井基次郎「檸檬」装丁展」(OPA gallery)において企画制作された一冊である。日野洋子さんの装幀になる。「檸檬」の他に「愛撫」「桜の樹の下には」「冬の蠅」「ある崖上の感情」が収められている。合計八組の装幀グループ(デザイナー+イラストレーター)がそれらの作品を思い思いの意匠で飾った。

梶井基次郎「檸檬」装丁展
2017年8月4日(金)ー 8月9日(水)
OPA gallery


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本体造本は共通して石間淳作。アンカットかと思いきや、カットされていない内側は全頁レモン色、いや、これには感服した。レモンっぽい雰囲気を十二分に出している。

本ブログでは『檸檬』については何度か言及しているので今日は何も書かないが、

梶井基次郎『檸檬』(武蔵野書院、一九三一年)

「「檸檬」を挿話とする断片」

今、本書をあちこち拾い読んでいるとつぎのようなくだりが目に留まった。「ある崖上の感情」より。ある蒸し暑い夏の宵、山ノ手のとあるカフエで二人の青年が話をしている。

あっはっは。いや、僕はさっきその崖の上から僕の部屋の窓が見えると言ったでしょう。僕の窓は崖の近くにあって、僕の部屋からはもう崖ばかりしか見えないんです。僕はよくそこから崖路を通る人を注意して見ているんですが、元来めったに人の通らない路で、通る人があったって、全く僕みたいにそこでながい間町を見ているというような人は決してありません。実際僕みたいな男はよくよくの閑人なんだ」
「ちょっと君、そのレコード止してくれない」聴き手の方の青年はウエイトレスがまたかけはじめた「キャラバン」の方を向いてそう言った。
「僕はあのジャッズというやつが大嫌いなんだ。厭だと思い出すととても堪らない」
 黙ってウエイトレスは蓄音器をとめた。

「キャラバン」! 先日ここに書いた映画「セッション」でこの「キャラバン」がなかなか重要な役割を担っていたので、梶井の時代にも山ノ手のカフェで鳴っていたのか……と思ってちょっと感慨をもよおした(?)。

Duke Ellington - Caravan

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# by sumus2013 | 2017-08-09 20:45 | おすすめ本棚 | Comments(0)

暗黒街の群狼

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ジェームズ・バーナード・ハリス『暗黒街の群狼』挿絵=伊勢田邦彦(書肆盛林堂、二〇一七年八月二一日、表紙デザイン=小山力也)が届いた。ハリスについてはとにかくウィキを。

J・B・ハリス(James Bernard Harris、日本名:平柳秀夫(ひらやなぎ ひでお)、1916年 - 2004年8月16日)は、日本の英語教育者、旺文社元役員。/作家・ラジオパーソナリティのロバート・ハリスは息子。/兵庫県出身で、新聞特派員だったウェールズ系イギリス人の父と、日本人の母との間に生まれた。》(ウィキ)

父を早く亡くしたため苦学したそうで第二次大戦にも日本兵として従軍した。戦後は旺文社の経営に関わる一方、『大学受験ラジオ講座」(1952-95)、「百万人の英語」(1958-92、ハイドンの交響曲101「時計」が番組テーマに使われている、そう言われれば覚えがあるような)の講師を永年務めた。その一方で昭和二十年代には多数の児童向け読み物を執筆していたのだ。それらは英語で書かれ、瀧口直太郎、窪川泰子、志賀政喜らが訳しているとのこと。

橘外男の『双面の舞姫』の挿絵でも知られる伊勢田邦彦との渾身の合作『暗黒街の群狼』第一部をあますところなくみなさんに伝えるために、総天然色[カラー]で(といっても、ほとんど二色ですが)、完全紙面覆刻することにしました。
 本作にかぎっていうと、伊勢田邦彦の絵物語作家としての技量は、永松健夫や小松崎茂、山川惣治の絵物語に勝るとも劣らないくらい渾身の力をもって、シビれっぱなしのイケてる超弩級娯楽作品に仕上げています。》(善渡彌宗衛「ジェームズ・B・ハリスは、日本男児」本書所収)

伊勢田邦彦については大貫伸樹さんのブログが詳しい。展覧会も開かれていたのだ。

【Pinterest】伊勢田邦彦の世界

挿絵画家・伊勢田邦彦のタイポグラフィー

これが伊勢田邦彦の挿絵界デビュー作か?

挿絵画家・伊勢田邦貴宅訪問

伊勢田邦彦展&粋美挿画展


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ご覧のように絵と文が紙面上で切結ぶというのか、絵物語の醍醐味を堪能できる内容である。とくに毎頁のように大胆なレイアウトを繰り広げる伊勢田のタッチに苦心がうかがえる。絵柄そのものも日本人離れしているというのか、戦前の探偵小説挿絵の余香を濃く残しながら、それらよりもダイナミックで、アプレゲール的なカッコ良さにあふれている。本文にさっくりとしたマット紙を使ったのも昭和二十年代の雰囲気をうまく出して成功しているように思う。

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# by sumus2013 | 2017-08-08 21:07 | おすすめ本棚 | Comments(0)

レッテル新収

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少し前になるが、珍しいレッテルを頂戴した。最近あまり古書レッテルの収穫がなかったので嬉しい。送って下さった方のコメントを引用しておく。

ささま315円均一の一冊に貼られていたもお。阿佐谷となると、少なくとも昭和50年代の後半以降、古書店あるいは新刊書店でも「春光堂」という書店名には記憶がありません。品揃えはよさそうな気配のするシールです。「中央線古本屋合算地図」フロクの昭和30年代地図にも見えないようなので、あるいは昭和20年代でなくなってしまったのでしょう。

昭和三十四年版 中央沿線古書店案内図


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もう一枚、こちらは東大赤門前。

本棚の裏から(笑)出てきましたが、何を買ったかまるで覚えていません。そもそも本郷の古本屋には数える程しか行ってないので、あるいは古書展ではなにか買ったのかも知れません。


本郷の古本屋と言えば梶井基次郎「泥濘」である(以前にも引用したが、いま一度)。大正時代末頃。大山堂はすでに営業していたのだろうか。

買ひ度いものがあつても金に不自由してゐた自分は妙に吝嗇になつてゐた。「これを買ふ位なら先刻のを買ふ」次の本屋へ行つては先刻の本屋で買はなかつたことを後悔した。そんなことを繰り返してゐるうちに自分はかなり参つて来た。

古本屋と思つて這入つた本屋は新しい本ばかりの店であつた。店に誰もゐなかつたのが自分の足音で一人奥から出て来た。仕方なしに一番安い文芸雑誌を買ふ。なにか買つて帰らないと今夜が堪らないと思ふ。その堪らなさが妙に誇大されて感じられる。誇大だとは思つても、そう思つて抜けられる気持ちではなかつた。先刻の古本屋を亦逆に歩いて行つた。矢張買へなかつた。吝嗇臭いぞと思つて見てもどうしても買へなかつた。雪がせはしく降り出したので出張りを片付けてゐる最後の本屋へ、先刻値段を聞いて止した古雑誌を此度はどうしても買はうと決心して自分は入つて行つた。

然しそれはどうしても見付からなかつた。さすがの自分も参つてゐた。足袋を一足買つてお茶の水へ急いだ。もう夜になつてゐた。

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# by sumus2013 | 2017-08-07 19:46 | 古書日録 | Comments(0)

JAMES NEWTON WITH…

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「JAMES NEWTON WITH BILLY HART ANTHONY COX MIKE CAIN」(DELTA-Music GmbH, 1989)。先月みどり文庫さんで入手して以来くり返し聴いている。今、リーダーでフルーティストのジェイムズ・ニュートン(1953- )のウィキを参照してみると、このアルバムは彼のディスコグラフィに入っていなかった。おや? と思ってよくジャケットを見たらケルンで録音されている。ドイツ盤なので省かれたか。

クラシック調で始まり、現代音楽やフリージャズの要素もちりばめられている。フルートを中心としたクァルテットのバランスがいい。ジェイムズはいかにも上手いが、器用すぎるかなとも感じられるプレーヤーである。小川隆夫の解説を引いておく。

たとえクラシックを演奏しようが現代音楽に接近しようが、彼は紛れもなくジャズ・フルーティストであることを雄弁に物語っているのがこの作品というわけだ。ここにはエリントン、ドルフィー、モンク、ミンガスといったニュートンにとってかけがいのない音楽家たちが生み出した伝統を血肉として彼自身の音楽が創造されている。

さて、ジャズつながりということで映画の話を。最近やっと、「ラ・ラ・ランド」の監督デイミアン・チャゼルの出世作「セッション」(2014)を見た。監督も主演のマイルズ・テラーと助演のJ. K. シモンズも皆この「セッション」で一躍有名になったというあげまん作品。

十九歳のニーマン(マイルズ・テラー)はシェイファー音楽院(ジュリアードがモデルですな)の一年生でドラマー、練習しているのを聞きつけた鬼教師フレッチャー(J. K. シモンズ)が彼を抜擢して自分のクラスに入れる。そこには地獄の特訓が待っている……

ストーリーはもう初めから分っているようなもの。予想通りの展開、ただしラストシーンだけはちょっと意外だった(やや不条理なラストだが、まあそれも許せる範囲内)。いずれにせよ筋書きよりもその描き方がうまい。鬼教師フレッチャー(J. K. シモンズ)がなんとも憎々しく見えて来るのは成功している証拠。低予算でもこのくらいは作れるぞというお手本映画である。

音楽といえば、六月のパリでは夕刻から夜にかけては外出もせず、ほとんどTVばかり見ていた(なんのためにパリにいるのやら)。フランスではどんな歌が流行しているのかと思ってCSTAR(シースター)チャンネルでTOP CLIP(ミュージック・ヴィデオばかり流す番組)を見てみると、ジャスティン・ビーバー風が主流で今回はあまりピンとくるものがなかった。アデルの「Hello」も放映されていたのには、今ごろ、と思ったが。


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# by sumus2013 | 2017-08-06 20:28 | おととこゑ | Comments(0)

fashion MACHINE

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fashion(fash'un)3 MACHINE
発行 1980年8月1日
訳者 豊田菜穂子 勝本哲也 リン・ジェコブセン 堀野加寿子
写像 中野泰伸
編集 阿木譲 嘉ノ海幹彦
ブック・デザイン 阿木譲
写植 恭誠社
製版 山口製版所
印刷 山幸印刷
製本 大同紙工
発行者 阿木譲
発行 ロックマガジン社
〒五五〇 大阪市西区新町一-六-八 ソラル清賀五〇二
〒一五〇 東京都渋谷区千駄ヶ谷四-十三-二


大阪の出版社ロックマガジン社が刊行した隔月刊の雑誌『ファッション』第三号「マシーン」。発行者である阿木譲についてはウィキが詳しいのでその一部を引用しておく。

1971年、一年近くサンフランシスコに住み、写真家の福田という人物に連れられコミューン「モーニングスター(Morningstar)」に出入りする。
 その後ファッションブランド「I Am A Boy」を立ち上げ、高島屋デパートで企画を担当していたが、もう一度音楽の仕事に戻りたいと考えていた1974年に、KBSラジオのディレクター奥田靖彦と出会い、1975年4月2日から1978年3月までラジオ番組「ファズ・ボックス・イン」でDJをつとめる[6]。
 同番組で雑誌編集を企画し若者に呼びかけ、集まってきた三田村善衛、渡辺仁らと共に、1976年2月、阿木を編集長に『ロック・マガジン』を創刊。この雑誌のディスクレビューでテクノポップという言葉を初めて使用したことがよく知られている(1978年、クラフトワーク「THE MAN MACHINE」の評において)。
1978年に、日本初のインディーズ・レーベル「ヴァニティ・レコード」を設立。関西のバンド「DADA」、「EP-4」らのアルバムをリリースする。

同社は『ロック・マガジン』を皮切りに以下のような雑誌を発行していたもようである。

『ロック・マガジン』1976年〜1984年、1988年(復刊)
『fashion』1980年
『EGO』1985年〜1987年
『infra』1999年〜2001年
『BIT』2002年

『fashion(fash'un)』第三号には奥付の前に既刊広告がある。それによれば第一号(一九八〇年四月)は「1960'」、第二号(一九八〇年六月)が「Plastic」特集だったことが分る。断言はしないが、この三冊で終刊したのかもしれない。

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「マシーン」特集の内容はニューヨーク近代美術館で一九六八年に開催された展覧会図録「The Machine」を翻訳したもの。この展覧会は非常に重要なものだったと評価されているらしい。ざっと見てもなかなか刺激的な内容である。一九八〇年の時点でも、ここに掲載されている作品は日本ではまだ実物を見ることができなかった(あるいはそれまで展示されたことがなかった)ようなものが多いように思う。無論、今の目で見ると(五十年を経過しているので)かなり事情は変ってはいるが、機械主義という捉え方そのものがある意味アナクロニズム的な面白さがある。

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序説のなかでちょっと気になったところ。

科学と産業革命が人間の社会及び政治上にもたらした驚異的変化は、文学の中では頻繁に扱われたが美術にはそっぽを向かれていた。その種のテーマを何らかの形で描いた数少ない絵画でも、説明的なものとか、ただ話のタネで終るようなものが殆んどだったのである。

これは大きな勘違い。印象派は機械時代の申し子である(チューブ入絵具の発明などによる)。モネの「印象、日の出」の背景を見てご覧なさい。煙突がずらりと並んで煙を吐いている、すなわち沿岸工場地帯が描かれているのだ。また新印象主義の点描(スーラら)は科学(光学)の応用だし、写真の登場とその使用が十九世紀絵画に与えた影響は計り知れない、すべて機械主義の産物である。

オリジナルのカタログは下記のようなもの。

The machine as seen at the end of the mechanical age,
K. G. Pontus Hultén, Ausst. Kat. Museum of Modern Art, New York, 1968

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# by sumus2013 | 2017-08-05 21:40 | 関西の出版社 | Comments(0)

俵山を歩いて暮らしの伝承を学ぶ

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俵山を歩いて暮らしの伝承を学ぶ
2017年8月6日発行

編者 辰巳佳寿子
発行 「互助組織の社会経済的機能の変遷と現代的役割に関する比較社会学的研究」研究グループ
製作 みずのわ出版
装幀 林 哲夫
印刷製本 山田写真製版所

210×148mm

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# by sumus2013 | 2017-08-04 20:43 | 装幀=林哲夫 | Comments(0)

いただきもの

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『シグナレス』第貳拾参号(蒼幻舎、二〇一七年六月三一日、表紙・デザイン=irori)特集;作家の人生相談

『よくがある』139(さとうなお、二〇一七年八月号)



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『apied』vol.29(アピエ、二〇一七年六月二〇日、表紙装画=山下陽子)
 THEME:夢野久作



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『gui』111号(株式会社ドゥカム、二〇一七年八月一日、表紙=高橋昭八郎)



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【古書目録】『MATATABIDO』17号(股旅堂、二〇一七年六月)
 巻頭小特集:原比露志



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【古書目録】『風船舎古書目録』13号(風船舎、二〇一七年六月)
 特集:都会交響楽

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# by sumus2013 | 2017-08-04 20:33 | おすすめ本棚 | Comments(0)

旅する巨人2

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渋沢敬三をただのパトロンだったように書いてしまったが、そうではなく、彼も民俗学者として重要な著作を数多く著している。上の写真は『宮本常一コレクションガイド』に掲載されている宮本常一旧蔵の渋沢敬三著作ひと揃い。『日本魚名集覧』『祭魚洞雑録』『豆州内捕漁民史料』『日本釣魚技術史小考』『日本魚名の研究』。《特に水産史研究、民具研究、塩業研究は、渋沢のライフワークであり、その研究姿勢、豊かな構想力と実行力に宮本も多大な影響を受けた。》(図版キャプション)

宮本常一と武蔵野美術大学の関係を拾っておく。昭和三十八年、早稲田大学教授で武蔵美の評議員でもあった武田良三から武蔵美に勤めてみないかと声がかかった。武田とは昭和二十七年の能登調査で知り合っており、宮本に学位を取ることを勧めた。それまでも大学奉職の誘いはあったようだが、渋沢敬三が許可しなかった。アカデミズムの垢にまみれさせたくなかったのだという。しかし武蔵美の話が来たときには「いいだろう」と首を縦にふった。渋沢は自らの死期を感じ、自分の死後の宮本を案じたのである。それから間もなく同年十月二十五日に渋沢は歿した

三十九年四月に非常勤教授になり昭和四十年四月から教授。昭和五十二年三月に退職している。五月に名誉教授を授与された。小生が入学したのが四十九年四月である。当時のノート類などは郷里に置いてあるので今はっきり思い出せないが、とにかく一年間、宮本先生の「民俗学」の講義を受けた。たしか七号館の大講義室だった。ここは当時ムサビでもっとも広い講義室だったと思う。

何年か前にその頃のノートブックを見つけて書棚に差してあったのだが、引っ越しのときにどこかへ移動させたか直ぐに見つからない。毎回休まず出席しているわけでもなかったけれど、講義の概要は分るくらいの内容はあったように覚えている。瀬戸内海の話が中心だったようにも思うが、ひとつだけハッキリ記憶しているのは、宮本常一という名前についてである。

父は常に一番になれと付けてくれた。けれども、わたしは人間は常に一人だ、と理解している。

だいたいこのようなことを宮本先生は学生たちの前でしゃべった。かっこいいと思った(だから忘れられないのだが)。ただ、この話は『旅する巨人』では採用されていない。宮本の父善十郎は明治六年生れ。祖父市五郎の代に火事を出して没落したため善十郎は小学校にあげてもらえず、村の綿屋、塩の行商、染物屋の奉公などをした後、オーストラリア・フィジー島へ渡り甘蔗栽培人夫として働いた。しかし疫病のため一年足らずで引き上げる。その後はずっと郷里で農業に携わり養蚕や果樹栽培の指導もしたという。

その父が、大正十二年四月十八日、常一が大阪へ出るとき、これだけは忘れぬようにせよと取らせた十カ条のメモというのが素晴らしい。常一十六歳、父は五十である。以下部分的に引用する。

1 汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。
2 村でも町でも新しく訪ねていったところは必ず高いところへ登ってみよ。
3 金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。
4 時間のゆとりがあったらできるだけ歩くことだ。
5 金というものは儲けるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。
6 三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十をすぎたら親のあることを思い出せ。
7 自分で解決のできないようなことがあったら、郷里へ戻って来い。
8 これから先は子が親に孝行する時代ではない。親が孝行する時代だ。
9 自分でよいと思ったことはやってみよ。
10 人の見のこしたものを見るようにせよ。そのなかにいつも大事なものがあるはずだ。

父の忠告はその後の常一に大きな指針となった。10番目は渋沢敬三の忠告とまったく同じであることに驚く。……このくだりを読んで思ったのだが、こんなに解明なお父さんが「常に一番になれ」というような名前をつけるだろうか? どうも宮本先生のフィクションなのではないか……などと今になっていきなり邪推しているしまつ。

宮本が大阪へ出て入ったのは逓信講習所だった。養成期間は一年。卒業後各地の郵便局に配属されることを条件に、授業料、食費、寮費とも免除された。大阪の逓信講習所は桜宮にあったそうだ。木造二階建ての校舎が三棟、淀川の葦原にそって建てられていた。

このくだりも印象深い。というのは先年亡くなった義父がやはり大阪の逓信講習所を出ている。昭和三年生れで年齢を一歳ごまかしたと言っていたから昭和十八年に入所した。一年後に卒業し、満州からモンゴル国境へ送られたと聞いた。敗戦間近である。現地で肺結核にかかりそれでも命からがら帰国した。要するに、もし、年齢をいつわらなければ義父の人生はまったく違ったものになっていた。

宮本の方は高麗橋郵便局へ配属された。しかし通信係の待遇は酷いものだった。同僚たちが結核でバタバタ倒れたため、このままでは自分も危ないと思った宮本は天王寺師範学校二部へ入学して教師の道へ進むことになる。

時代は二十年ほどもへだたっているが、宮本と義父の人生が逓信講習所への入所をきっかけに大きく歪んだことは確かである。この事実を知っただけでも本書を読んだ価値はあった。なお、同所は無料だけに定員百人のところ千人以上の受験生が詰めかけたという。

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# by sumus2013 | 2017-08-03 20:56 | おすすめ本棚 | Comments(2)

旅する巨人

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佐野眞一『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』(文藝春秋、一九九七年二月一五日二刷、装丁=坂田政則)読了。平安神宮の東側にあるブックスヘリング、やっと店頭の均一台にいい本を出し始めた。一冊三百円(二冊なら五百円)という感じ。その気になればできるじゃない、と喜んで二冊ほど買ったうちの一冊がこれ。佐野氏には『spin05』で海文堂書店でのトークを掲載させていただいたこともある(その日の二次会をご一緒しました)。このトークのなかでも宮本常一の発見について語っておられる。

spin05

「宮本常一と渋沢敬三」とあるように本書は宮本にとっては恩人(パトロン)であった渋沢敬三の事蹟についても十二分に触れられており、渋沢栄一の孫として生まれたプレッシャーのなか敬三が大きな人物へと成長する過程にも読み応えがある。宮本が活字になった初めての本『周防大島を中心としたる海の生活誌』(アチック・ミューゼアム彙報、一九三六年三月)を出してから二人の行き来は頻繁になったという。そのとき渋沢は宮本にこう語った。宮本二十九、渋沢は四十だった。

大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況をみていくことだ。舞台で主役をつとめていると、多くのものを見落としてしまう。その見落とされたもののなかにこそ大切なものがある。それを見つけていくことだ。人の喜びを自分も本当に喜べるようになることだ。人がすぐれた仕事をしているとケチをつけるものも多いが、そういうことはどんな場合にもつつしまねばならぬ。また人の邪魔をしてはいけない。自分がその場で必要を認められないときは黙ってしかも人の気にならないようにそこにいることだ」
 渋沢の言葉は宮本の心に強くしみとおった。》(第三章 渋沢家の方へ)

またこうも諭したという。

日本の文化をつくりあげていったのは農民や漁民たちだ。その生活をつぶさに掘り起こしていかなければならない。多くの人が関心をもっているものを追求することも大切だが、人の見おとした世界や事象を見ていくことはもっと大切なことだ。それをやるには、君のような百姓の子が最もふさわしいし、意味のあることだと思う》(第七章 父の童謡)

これだけでも渋沢敬三がどういう人間だったか分ろうというもの。宮本の本質を見抜いてその道を示した、だけではなく、長年にわたって宮本を経済的にも援助し続けた(むろん宮本だけではなく様々な分野でパトロンとなっていたようだ)。

渋沢敬三は昭和十九年三月に第十六代日銀総裁に就任した。東条英機にサーベルで脅されて引き受けたとも書かれている。しかしこの時期すでに日銀総裁は何もできないポストになっていた。吉野俊彦『歴代日本銀行総裁論』ではこう批判されているという。

昭和二十年八月の終戦にいたるまで、従前どおり赤字国債を無制限に引きうけただけでなく、軍需融資のため必要とされた資金であって民間で調達しきれない分をこれまた無制限に日本銀行貸出の増加という形で供給しつづけたのである〉》(第九章 悲劇の総裁)

むろん政府や軍部の責任であって敬三個人ではどうしようもなかったことである(それにしても赤字国債を無制限に引き受けるというのは、いまの日銀もやっていることなんじゃないのかな?)。敬三は後年この記事を読んで実に悲し気な表情を浮かべこうつぶやいた。

僕はたしかにたいへんな罪をおかした。批判されるのは当然だ。だけど僕は日銀時代、一つだけいいことをしたつもりだ。日本を含めた東洋の貨幣のコレクションを日銀が買ったことだ。あれは将来、たいへんな日本の文化財になる。》(同前)

田中啓文の銭幣館コレクションを譲り受けたことを指す。買ったとあるが、寄贈されたようである。現在これは貨幣博物館に所蔵されている。

銭幣館コレクションと貨幣博物館の設立

コレクションを受入れただけではなく渋沢の意向で銭幣館で研究していた専門家・郡司勇夫もいっしょに雇ったという。占領下では郡司の交渉によって進駐軍による金銀貨の接収を免れた。さすが民俗学の大パトロンだっただけのことはある。コレクションとともにそれを守る「人」が大事だということを分っている。


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# by sumus2013 | 2017-08-02 21:01 | 古書日録 | Comments(2)