林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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gui 112, 左庭38

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森原智子さんよりいただいた平成十年二月十三日付けの葉書。森原さんのことはあまりよく存じ上げなかったが、この時期には雑誌のやり取りをしてこうした礼状などを何通か頂戴している。また一度だけだが、京都へ来られた折りに連絡があり、萩原健次郎さんの事務所を一緒に訪ねた。錦の商店街の漬物屋の脇を奥へ入ったところだった。当時お二人はともに『gui』の同人である。

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届いた『gui』112号(ドゥカム、二〇一七年一二月一日)をめくっていると森原さんのお名前が目に入ったので、なつかしくなって上の絵葉書を取り出してみた。奥成繁さんの「下町のボクシング・ジムにguiがあった。」に「船木仁のこと」として次のように書かれている。

「ギャラリー ときの忘れもの」の美術商が、ブログで船木さんとの出会いと感謝を述べられ、「遺稿詩集『一本の虫歯のための道具』の巻末に奥様の森原智子さんが詩人らしい簡潔な筆致でご主人の生涯を書かれています。」とある。奇跡のような機会なので全文を引用する。

全文は下記より。

船木仁『風景を撫でている男の後姿がみえる』

船木仁は『gui』の創刊同人で、森原さんは船木夫人だったわけである。知らなかった。

ぼくは一、二度は船木氏にお目にかかったのだろうか。記憶が不鮮明。遅れて同人になった森原さんは、例会やイベントに熱心に参加された。居酒屋ではなく、珈琲や紅茶での例会を、兄に直訴していた。ネットの情報では二〇〇三年に亡くなっている。

船木仁遺稿詩集『一本の虫歯のための道具』(あざみ書房、一九八八年一一月一八日)の発行人は藤富保男である。その藤富氏が亡くなられたということが、本号の巻末に記されている。

冥途への道は坂道で 舗装していないンだ[ンは小文字]

そんな呟きも遺して九月一日午前八時十二分 藤富保男は永眠いたしました。

この葉書が、高橋肇、四釜裕子、奥成繁の家に配達されたのは、九月十二日の午後でした。訃報記事が朝日新聞に掲載されたのは九月十七日の朝刊。
 ご冥福を心よりお祈り申し上げます。合掌
                  gui一同

そしてその数日前にいただいていた『左庭』38号(山口賀代子、二〇一七年一二月一五日)の後記にあたる「つれづれ」には、やはり藤富保男の訃音についてと、藤富氏との手紙のやりとりが紹介されている。

藤富さんとは「左庭」をお送りしたころ「左庭はエリック・サテのサテ?」というお手紙を頂戴し、「そうです」とお返事すると、「サテイ…ちょっと詳しいのだけれど」というようなやりとりの後、次のようなお返事を書いたことを覚えています。

藤富保男様
 サテイのお墓へ行かれたとは…何とも羨ましいこととおもいつつ、お手紙嬉しく読ませていただきました。
 ご著書「エリック・サテイ詩集」…実は、手持ちではなかったので、ダメもとで思潮社営業部様に問い合せたところ、小田啓之様から「カバーがすこしいたんでいるけれど在庫がありますが、どうしましょう」とお返事をいただき、もちろん、即、購入の意志を伝えましたところ、本日、無事届きました。なんともしあわせは春のはじまりです。

サティの墓はパリ南郊、アルクイユの墓地にある。サティの掃苔……これまで全く思い浮かばなかった。もし次の機会があれば、アルクイユを訪ねるのもいいなと思った次第です。


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La tombe en 1994




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# by sumus2013 | 2017-12-10 20:30 | おすすめ本棚 | Comments(2)

ぼっこう饅頭

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倉敷名物「ぼっこう饅頭」を頂戴しました。素朴なおいしさ。ごちそうさまです。「ぼっこう」は岡山弁。同封されている説明書きには次のように書かれている。

ヅドホン「ぼっこう」
 お美味しゆうござんすゾナ
 一ぺんおあがんさってみて
        ツカァセェ

 岡山県地方の代表的方言「ぼっこう」とは大層とか甚だという意に用いられます。「ぼっこう饅頭」は大層おいしいお饅頭という意味でつかいました。

本当は「ぼっこう饅頭」よりも「ぼっこうおいしい饅頭」とすべきなのだろう。というのは名詞を形容するためには別に「ぼっけえ」という言葉があるからだ。形容詞や動詞など用言にかかるのが「ぼっこう」である。ただし今日ではさほど厳密に区別はされていないようでもある。


ヅドホンもまたちょっと変った表現。これはそのまま検索しても何も出て来ない。いろいろ条件を変えて「ヅ」ではなく「ズ」で探してみると以下のような記述がヒットした。井上円了編『南船北馬集第十一編』(国民道徳普及会、一九一五年一二月一八日)より。

ここに岡山県巡講第一回を終わりたれば、その間に伝聞せし方言を記せんに、一国特殊の語と三国共通の語との二様あり。その中にて最も名高きはズドボッコー、オエンなり。ズドとは意を強むる語、すなわち最もとか、はなはだしとかいう意なり。ボッコーとは大層とか、ヒドクとかいう意なり。このズドボッコーを山口県にてはチウニゴッポーという。そのゴッポーはボッコーに当たり、チウニはズドに当たる。もしその意を今一層強めんとするときは、ズドホンボッコウという。ホンとは真にの意なり。

なるほどねえ・・・。お菓子の姿はこちらのサイトでご覧あれ。

木本戎堂のぼっこう饅頭と村雀

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# by sumus2013 | 2017-12-09 17:30 | コレクション | Comments(0)

木下杢太郎詩集

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『木下杢太郎詩集』(野田宇太郎編、新潮文庫、一九六六年九月二〇日八刷)を求めた。普通ならスルーなのだが(といってもこれが初版ならぜひとも捕獲しておかなければならない)、表紙に鉛筆書きされているように「製本ミス」すなわち乱丁(?)のある一冊だったので、どうしても素通りできなかった。

パラパラッとめくってみた。なるほど、128頁の次にダブリの扉がある。これはちょっと珍しいかも。

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そして129頁目から十六頁分が、扉から十六頁分に誤って取り違えられている。扉と目次のダブリである。下の写真では見づらいと思うが、右頁のノンブルが16で左頁が145。

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それだけのことです。せっかくだから、詩も引いておこう。杢太郎の珈琲関連の引用は以前にもしている。

『詩ぃちゃん』

Pippo『心に太陽を くちびるに詩を』

よって、この度は巴里を。杢太郎は大正十年、アメリカへ渡った。さらにキューバからロンドンへ。そしてパリに至り、そこでパスツール研究所に通いながら、ドイツ、イタリア、エヂプト、エスパニヤ、ポルツガルなどを旅した。大正十三年に帰朝、昭和五年に出版した『木下杢太郎詩集』にそれらの時期に書かれた詩も収められている(本書解説より)。


   巴黎山歌

 月亮一出、第一に
 異國巴黎のパンテオン
 賑ふ宵のサン・ミシエル
 支那料理屋の奥の間は
 呉越の客の六七人。

 橋は名高きポン・ヌフの
 十時に近き人流れ。
 
 今日珍しく初夏の
 けはひに浮かれ、つぶつぶと
 巴黎景緻を口ずさむ
 黄黒き人のさびしさよ、
 秦淮の水こそ優るめれ。

    ルビ
    月亮一出[げつりやういつしゆつ]
    巴黎[ぱりい]
    景緻[けしき]
    秦淮[しんわい]



   小風景

 窗から雨を見る。
 羅甸区
 寒くなつかし。
 日曜、
 朝遅き珈琲。
 近頃はマリイラン、
 それも残り少し、
「アロオ、アロオ、
 小厮は居るの?
 コメヂアにマタン、
 マリイランの黄いろの包一つ。
 それに昨日の NOUVELLES LITTERAIRES もあつたら。」

    ルビ
    珈琲[かふえ]
    小厮[しやつそえる]
    NOUVELLES LITTERAIRES[ぬうゑるりてれえる]




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# by sumus2013 | 2017-12-08 20:58 | 古書日録 | Comments(0)

今川状并腰越状

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双白銅文庫の最近の収穫。元来の題簽は摩滅したのか、「今川并腰越」という手製の題簽が貼られている。おそらく『今川状并腰越状』であろう。「今川状」「腰越状」はともに江戸時代を通してもっとも流布した手習いの教科書だが、本書はそれらを一冊に合わせたものである。奥書もないため時代や版元などは不明。類書も見当たらなかった。きっと子供(たち)が使ったに相違なく、かなり傷んでいる上に楽しい落書きがあちこちに見られる。よって二百円です。

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「今川状」の一丁表。画像検索してみると、版本では、ページの上部に挿絵が入っている本が多いようだ。手前勝手に考えれば、こちらは絵入りより古いタイプなのかもしれない。一行目に《一品尊親王御筆》と明示してあるが、これも他の本には見られない(今ざっと検索しただけの範囲内です)。

それはそうだろう「今川状」というのは二行目に《今川了俊愚息仲秋制詞條々》とある通り今川貞世(了俊)が養子で弟の仲秋に与えた指南書で、それは応永十九年(一四一二)のこと。青蓮院流の祖であり名筆として知られる親王は正平十一年(一三五六)に歿しているから、考えるまでもなく清書できるはずがない。

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「腰越状」は源義経が頼朝に宛てたとされる書簡。処遇に対して不満を述べている。頼朝に叛旗を翻す、そのウップンがたまっていたことがよく分かる手紙なのだが、義経が書いたという保証はなく、後世の創作であろうと考えられる。こちらも手紙文(往来物)の習字手本として明治頃まで使われ続けたという。

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元暦二年(一一八五)の日付。尊円法親王は永仁六年(一二九八)生まれ。古いものは写せるわけだから、その点、問題はないということにはなる。



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# by sumus2013 | 2017-12-07 21:13 | 古書日録 | Comments(0)

荒野の竪琴

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串田孫一『荒野の竪琴』(新潮社、一九七二年九月二五日、装幀 装画=著者)。某氏(昨日の某氏とは別の方)より頂戴したもの。『季刊暮しの創造』第十三号(創芸社、一九八〇年六月一日、特集=理想の装幀)に掲載された「自装について」のなかで串田孫一は次のように書いている。

荒野の竪琴 一九七二年 表紙は布に印刷と金版。この本にはいたずらが一つしてある。これまでにそれを発見した人は一人

某氏はこれを「暮しの創造」のコピーに『荒野の竪琴』造本の仕掛について書いてありますが、見つけた人は一人、は串田さんの読者サービスでしょうと考えておられるが、たしかに、発行から八年近く経っていて一人というのは、どんなものだろう。もちろん、どこが「いたずら」なのかひと目見て直ぐには分からない。しかし、そのつもりでチェックすれば、容易に気付く。

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ご覧のように、天と地とで、ハナギレの色を変えてあるのだ。おそらくこれが「いたずら」なのであろう。色違いのハナギレですぐ思い浮かぶ本があるが、本書よりもずっと新しい。本書以前にもあるのか、ないのか、ちょっと気になるところ。

本書のエッセイにも装幀について触れた文章がある。

駅で用事を一つした。それは友人の本の装釘のことで、色の指定なども細かに書き添えては置いたが、出版社のそれを担当している人に直接会って、了解を求め、念を押すところまではこちらの責任であるから、郵送せず手渡したかった。》(「晩夏」)

これだけなのだが「装釘」という字を使っているところに注意したい。扉の前には「装幀」と表記されているので、特別に「釘」にこだわったという訳でもないかもしれないが。

全体に季節や気分の移り変わりについて感慨を述べたようなエッセイばかり。半年余りの間に書き上げたということだ。なかで小生の好みは「墨狂」と題された一篇。友人から呼び出され、懐素の千字文を渡される話。

懐素の千字文であった。しかし千金帖と言われているそれとは違って、若い頃書いた連綿草で、これは珍しいものだから見せてくれるというのだった。彼はこの拓本を何年か前にある篆刻家から貰い、無造作に新聞紙にくるんだまま戸棚の奥にしまい込んであったが、千字文を書いた書家のことを調べている時に、思い出してこの拓本を出してみると、なかなかいいので、少しお金をかけて巻物にしたという話であった。

その友人の父は書家で、友人も習字を教えているらしい(詳しくは串田も知らない)。彼からは以前、水巌(端渓の老坑から掘り出される石)の硯、そして「古銅印彙」などの印譜を借りたことがあった。懐素の連綿草とは下のようなものだろうと思う。

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懐素小草千字文


串田はここで話をオーレル・ニコレというフルート奏者のレコードのために文章を草したことへ転ずる。ニコレの演奏をレコードで聴いているとき、ふと古筆の仮名の続け文字が思い浮かんで、早速そのことを書いた。その後は、音楽、とくに無伴奏の独奏曲を聴いていると快く崩された草書を思い浮かべるようになった。達者に崩された文字はスラスラとは読めない。そこで気が付く。

直ちに読めてしまう書からは音楽が浮かんで来ない。読めたからと言って、それで終わるわけではなく、そこに書かれている言葉なり詩の意味をよく理解したところから書の鑑賞ははじまる。そして悦びの交感に似た気分が起る。だが読む前に、あるいは残念ながら最初から読むのは自分には無理だと諦めざるを得ないような書にも魅力はある。それは曲線の組み合わせとしての魅力であって、私にはそういうところから音楽が現われたのであろう。

草書には苦しめられている(笑)。読めなくても鑑賞には全く問題はない。が、読めたら読めたで、別のパースペクティヴが開けることも事実である。




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# by sumus2013 | 2017-12-06 20:42 | 古書日録 | Comments(0)

アリストフィル・コレクション

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フランスのオークション・ハウス、アギュット(AGUTTES)が今月二十日から行うオークション『アリストフィル・コレクション LES COLLECTIONS ARISTOPHIL』のカタログを某氏より頂戴した。

LES COLLECTIONS ARISTOPHIL

アリストフィルというのはジェラール・レリチエ(Gérard Lhéritier)が設立した会社で、この人物は以前このブログでも紹介した「書簡と原稿の博物館 Musée des lettres et manuscrits」の設立者でもある。自筆ものの値段を急騰させた人物として知られる。この図録を見ながら、そう言えば、前回のパリで「あそこが潰れて、たいへんなのよ」と古書業界の知人に聞いたことを思い出した。そのときは「へええ、そうなの」と聞き流していたのだが、こういう形で散逸することになったわけなのだ。

書簡と自筆の展示館

検索してみるとアリストフィルは二〇一五年に破綻していた。ようやく整理がついて、そのコレクション13万点余が順次競売にかけられることになったようだ。幅広いジャンルに亘る自筆資料など、お宝がたんまり含まれているらしい。

そして、その口切り展示での目玉、それが表紙にもなっているこの巻物。なんと、サド侯爵による『ソドム120日』の原稿なのだとか!

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解説の内容をざっくりと訳しておく。

まずこの原稿の体裁は、33枚の紙をつなぎ合わせた巻物で、幅11センチ3ミリ、長さは12メートル10センチあり、表裏にびっしりと焦茶のインクで記入されている。

サドは一七八四年二月二九日にバスティーユ監獄へ移送された。そこで、二年前頃から手をつけていた『ソドム120日』の清書にとりかかったらしい。サド自身がこの原稿の脇にメモを書き残している。

表側の終りに《この帯[bande]を書くために夜の七時から十時にかけて二十日間かかり、一七八五年九月(7bre)十二日に終了》。そして巻末に《この長い帯の全部を一七八五年十月(8bre)二十二日に開始し三十七日間で終了》と書かれているそうで、ようするに一七八五年の八月から十一月にかけて仕上げたということらしい。この巻物にはオリジナルの収納函があり、それに収められてバスティーユ監獄内のサドの独房の石の隙間に隠されていた。

サドがシャラントン監獄へ移された後、アルヌー・ド・サンマキシマン(Arnoux de Saint-Maximin)なる人物がそれを発見し、ヴィルヌーヴ・トランス(la famille de Villeneuve-Trans)へ売却した。

一九〇四年、当時の所有者であったドイツの精神科医イヴァン・ブロッホ(Iwan Broch)が初めてこの作品を公刊。一九二九年にはノアイユ子爵夫妻(Chales et Marie-Laure de Noaille)が購入し、モーリス・エーヌ(Maurice Heine)に委託した。エーヌは註釈版を出版した(一九三一〜三五年)。

ノアイユの歿後、娘のナタリー(Nathalie)へ受け継がれたが、一九八二年に出版人のジャン・グルエ(Jean Grouet)が盗み出して、スイスの愛書家ジェラール・ノルマン(Gérard Nordmann)へ売ってしまった。ナタリーの息子カルロ・ペロンヌ(Carlo Perrone)が訴訟を起こしたのだが、スイスの裁判所はフランス側の訴えを退けノルマンの所有権を認めた。一時期ジュネーヴのボドメール(Bodmer)財団に寄託された後、ノルマン家とカルロ・ペロンヌとの和解を経て二〇一四年五月にアリストフィルが購入した。

ついでに補足しておけば、マリ・ロール・ド・ノアイユは富裕な銀行家の娘で、芸術の庇護者、画家、文筆家であった。マリ・ロールの母マリー・テレーズ・ド・シュビネ(Marie-Thérèse de Chevigné)がサドの家系に連なるということで『ソドム120日』には浅からぬ縁があったわけである。またマリー・テレーズはプルーストの『失われた時を求めて』におけるゲルマント侯爵夫人のモデルだとされているそうだ。

エスティメイトは「4 000 000 / 6 000 000 €」……。ダ・ヴィンチ「救世主」の例を見たばかり、十億円からの値がつくかもしれない(?)



また、アンドレ・ブルトンの自筆原稿が四点出品されるようだ。

シュルレアリスム宣言 自筆原稿
溶ける魚 自筆原稿
溶ける魚I 溶ける魚II 自筆原稿;学生用ノート[下写真]
シュルレアリスム第二宣言 自筆原稿 校正紙と自筆メモ

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これら四点まとめての予想落札価格は「4 500 000 / 5 500 000 €」・・・これまた驚きである。

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# by sumus2013 | 2017-12-05 20:43 | 古書日録 | Comments(0)

50 BEST MAN RAY

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マン・レイスト石原輝雄さんのプライヴェットプレス「銀紙書房」の新刊『50 BEST MAN RAY』(SILVER PAPER PUB., November 18, 2017)を入手した。今回は限定五十部と、銀紙書房としてはかなり多い方なのだが、即日完売のようである。

『50 BEST MAN RAY』刊行のお知らせ

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石原コレクション(正確には石原輝雄・純子コレクション)のなかから自撰の五十点。写真、版画、オブジェ、ドローイング、本、ポスター、エフェメラ、そして油彩画まで。見れば見るほど奥深さが伝わってくる構成になっている。氷山の頂ではあろうが、ここまで到達するために氏はどれほどの苦悩と悦楽をくぐってきたのだろうか、思わず手を合わせてしまう。

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# by sumus2013 | 2017-12-04 17:28 | おすすめ本棚 | Comments(2)

はしだのりひこさん

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「ザ・フォーク・クルセダーズ ゴールデン・ベスト」(東芝EMI, 2004)。数ヶ月前に買ってひさしぶりに「帰ってきたヨッパライ」など青春、いや、まだ小学生だったけど、の思い出にひたった。この曲が発表された年末(一九六七)、小生はある手術のため病院で年越しをした。誰もいない夜の病院、ラジオから流れる「帰ってきたヨッパライ」が、コミックソングのはずなのに、なぜかひどく幼い心に沁みたことを憶えている。

はしだのりひこさん、72歳で死去 「悲しくてやりきれない」などのヒット曲

「ザ・フォーク・クルセダーズ ゴールデン・ベスト」にははしださんの曲は一曲だけ。「何のために」(作曲:端田宣彦)。「悲しくてやりきれない」は加藤和彦の曲である。フォークルという意味では間違いではないけれど、誤解を与えかねない見出しである。フォークルを離れてからの大ヒット、「風」(一九六九)か「花嫁」(一九七一)にすべきだろう。

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じつは娘さんの端田新菜さんと愚息は小学校で同じクラスだった。一九八一年から京都にまる四年ほど住んでいた時期のこと。誕生日会にも呼ばれるほど仲がよかったらしい(クラスの男の子で呼ばれたのは愚息だけだったそうだ)。その愚息が、土曜日の夕方、数時間行方不明になるという事件があって、そのときにはクラスの役員をしておられた端田さんにも大変お世話になった。直違橋通りに面したご自宅をお訪ねしたことを思い出す。ご冥福をお祈りしたい。

息子のクラスメートのお父さんだったはしだのりひこさん

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# by sumus2013 | 2017-12-03 16:29 | おととこゑ | Comments(4)

人間の街パリ

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小生のパリ好きを知っている方より田村泰次郎『人間の街パリ』(大日本雄弁会講談社、一九五七年七月一〇日)を頂戴した。深謝です。表紙の油画は田村筆。口絵写真も、多数挿入されているパリのスケッチも著者の手になる。田村は絵心があり、元々「現代画廊」を開いたのはこの田村泰次郎だった。洲之内徹はそこで働いていた。田村が商売を止めるときに画廊を受け継いだのである。

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「モンパルナスの筆者」と説明文がついているが、モンマルトルの間違い。


書かれている内容はおおむね昭和二十七年と三十一年の体験談。スケッチのサインは1956になっている。

パリには、いま、常時四百名ほども、日本人がいるそうだ。そのうち、大使館関係の者が、家族もふくめて、五十名くらいで、そのほかは、画家、彫刻家が百名ほど、音楽、文学、その他の勉強に来ている留学生が約五十名、デザイナァや、料理などの研究にきている者が、五十名以上、あとは、旅行者や、短期滞在者というわけだ。

在住日本人は協力し合わない、と田村は言う。その理由は金を持っていないからにちがいない、と。

戦前のように、円がフランに対して、絶対的優位を誇っていた時代と、戦後の今日とでは、同じくらいの金を持ってきても、大変なちがいである。公定では、一ドルが三百六十円に対して、三百五十フランであるが、闇相場では、一ドルが四百二十円前後に対して、三百九十フラン前後というところで、円の方が弱い。

1ドル360円のレートは昭和二十四年から。当時もちょっとした日本ブームだったようだ。

パリでただ一軒の日本料理屋「ぼたん屋」は、スキヤキを喰べにくる外人で、連日満員である。日本の一流のスキヤキ屋で喰わせるスキヤキの味には及ばないが、五年前に喰べた味よりは長足の進歩をとげている。

ただ一軒だったとは・・・ブームといってもラーメン屋1000軒(日本人以外の経営も多い)と言われる今日のブームとは少し違っていたよようである。

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キャフェ「クーポール」


なかに「小石拾い」というエッセイがあって、これには驚かされた。昔からみんなやっていたんだ。

近頃、パリの一部の日本人画家たちのあいだに流行(?)しているのは、パリの路上の小石拾いである。パリのところどころに敷いてある小石は、メノウ質でその割れ口のさまざまの多彩な縞目や模様は、マチエール重視の現代絵画とかよいあうものがある。

《佐藤敬画伯にいわせると、パリの小石拾いは「おれが最初だ」というが、同じく在仏五年の土橋醇一画伯にいわせると、「いや、おれが小石を拾いはじめたときは、まだ佐藤さんはそんなつまらないものをという顔をしていたよ」といっている。》

そういう私自身も、その採集マニアの一人だが、病みつきになると、これほどたのしいものはない。いまに、パリからのお土産は、小石ばかりということにもなりかねないほど、この流行(?)は全盛である。

はは、小生も拾ってました。ほんとに美しいものである。


あれこれ引用していてはキリがないが、もうひとつ、志賀直哉と梅原龍三郎が事故に遭った話を。

志賀さんが、梅原龍三郎、浜田庄司、柳宗悦さんたちと、ヨーロッパへ行かれたのは、二十七年五月下旬だったと思う。私は一週間ほどおくれて、ヨーロッパへ旅立った。
 パリへ着いた翌日、同行の小松清、丸岡明、それに同宿の平林たい子、福沢一郎の諸氏と、挨拶に出掛けた大使館の応接間で志賀さんたちにお眼にかかった。

《それから、またパリに帰って、しばらくしたある日、私は大使館で前日志賀さんと梅原さんとが、シャルトルへ行こうとして、モンパルナスの駅へ行く途中、乗ったタクシイがバスと衝突して、負傷されたということを聞いた。》

その翌日、私は、同宿の小松清、堂本印象さんたちと、志賀さんたちの泊っていられるセーヌ河畔のオテル・ド・ケイドルセイへ、見舞いに行った。
 志賀さんはご自分の部屋で、梅原さんと一しょに、朝食のパンを喰べておられるところだった。高田博厚さんがきていて、お二人と話していた。さすがに、お二人とも、その異国での衝突事件には、かなりなショックを受けていられるようであった。話のなかにもそのことがうかがえた。梅原さんは、眉と眉のあいだの鼻のつけ根に、絆創膏のようなものを貼りつけていられたし、志賀さんも、まぶたのあたりにかすり傷を受けていられたように思う。
 「不思議に、眼鏡がこわれなかったのでよかった。こいつがこわれていたら、きっと眼をやられていたにちがいないよ」
 志賀さんのそういう言葉には溌剌とした実感が籠っていた。

志賀直哉はイギリスで体調をくずしていたこともあり、この数日後に帰国したという。志賀は六十九歳を過ぎていた。

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# by sumus2013 | 2017-12-02 20:54 | 古書日録 | Comments(0)

岡崎和郎 - HISASHI

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『岡崎和郎 - HISASHI』(ART OFFICE OZASA、二〇一七年)図録。瀟洒な出来映え。図版十四点、磯崎新、巖谷國士、南條史生、加冶屋健司、執筆。本日展示を拝見した。小さな金属の「ひさし」なのだが、空間の質を一瞬にして変えてしまうような力がある。ブランクーシを連想してしまった。展示は明日(十二月二日)まで。

OZASA氏としばし雑談。『現代思想』のバックナンバーが事務所の方に展示されていたが、それらの表紙は岡崎和郎作品によって飾られいている。なかなかいい感じ。一年間で十三冊あるそうだ。三冊がまだ見つかっていないと。昔コツコツ古本屋で集めたのだという。OZASA氏もかなりの古本者である。

ART OFFICE OZASA

十二月四日から十七日までは岡部昌生フロッタージュプロジェクト「伝える」。こちらも滅多に見られない空間になりそうだ。


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# by sumus2013 | 2017-12-01 20:38 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)