林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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東中野

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『机』第九巻第二号(紀伊國屋書店、一九五八年二月一日、表紙題字=伊藤憲治、表紙デザイン並カット=北園克衛)。編集人も北園克衛である。

少し前に以下のような問い合わせを頂戴していた。

《『喫茶店の時代』 183頁、「女たちの東中野」の見出しで、――

  震災後の中央線開発はまず新宿周辺から始まり、その延長として東中野にはいち早く喫茶店が誕生した。東口に 「ミモザ」「ユーカリ」(「ゆうかり」とも)。中央口に「暫」、線路の右手裏には「夜」があった。

と記述しておられます。これにつき、3件、ご示教をお願い申し上げます。

① 「夜」という店が存在したことは何を典拠とされたものでしょうか。「夜」に言及した文献を探しております。

② 「線路の右手裏」はどちらの方向に向かってのことでしょうか。現在の東京駅(東)、高尾駅(西)方面の、いずれでしょうか。

③ 「中央口」とはどこを指しているのでしょうか。東中野の「中央口」という呼称は珍しいもので、管見では、往時の資料に未確認です。現在の東口、西口の位置関係で具体的に知りたく思います。》

この質問メールをいただいたとき手許に喫茶資料を置いていなかった。なにしろ喫茶店を調べていたのは十五年以上前のことなので、多くの関連書籍は処分し、めぼしい資料も郷里の押入に片付けてしまっていた。つい先日の帰郷で、この質問については失念していたにもかかわらず、たまたま整理中にこの『机』を見つけたのはラッキーだった。

①は上記『机』第九巻第二号「特集喫茶店」の巻頭、井上誠「喫茶店の変遷」である(第二〜五頁)。該当する記述は第四頁に出ている。

②と③については原文をそのまま引用する。『喫茶店の時代』では要約しつつ言い換えてある。関東大震災後から昭和に移る時期。

中央線の入口になる東中野には逸早く喫茶店が出来ていた。駅の東口にはミモザとユーカリ。中央には暫[しばらく]。また線路の右手の裏には夜があった。まだ見すぼらしい林芙美子が、同じような連れと一緒にその夜に来ていたが、間もなくつぶれた。ユーカリのヨッペは東京不良少女の名流で、そこには銀座の老雄雨雀や、北原白秋や大木惇夫が来ていた。また直ぐ卓をひっくり返すので怕がられた畑山という中央線の顔や、ピストン堀口などもいた。

「中央口」と書いたのは誤りで「中央」としてあるだけだった。訂正しておく。「線路の右手」はどちらなのか? これは井上の記述だけでは判断しかねる。内容が面白いのでもう少し引用しておこう。

小滝橋に少し入るとグローリーには戦旗の上野壮夫達、ナップがいた。第百銀行の頭取の養子の野々村恒夫と壮夫とは、友達でそのこ幸ちゃんを張り合っていたが、飲むといよいよ上機嫌になったり泣き出したりする幸ちゃんは、上手に二人を手玉に取っていた。
 やがて東中野にはざくろやノンシャランが出来た。詩王の余波に乗じた詩洋の同人達が次々に開いた店で、ざくろには阿佐谷から井伏鱒二や久野豊彦が来るかと思うと、辻潤の一派がいたりした。まだ東大の学生であった中村地平は酔うと冬でも裸になって防腐剤を塗った屋内の柱を攀じ登り、忍術使のように逆様になって天井の梁を伝わったりした。ルネには小林秀雄の別れた妻君がよく来ていたた[ママ]。「たかりや姫」と言われていたが、誰でも悦んで飲ませた。哀れな者を慰わる気持を、誰しも持っていたのであった。

小林秀雄の別れた妻君」というのは長谷川泰子のことか。結婚はしていなかったはずだ。

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# by sumus2013 | 2017-04-24 20:56 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

曖昧な物言い

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ジャン・ポーラン(Jean Paulhan)『les incertitudes du langage』(idée nrf, 1970)を読んでいるのだが(本書には邦訳がないようなので仮に「曖昧な物言い」としておいた。直訳調なら「言語の不確実さ」)、そのなかに現今のきな臭い情況を皮肉るのにぴったりの発言があった。引用しないではいられない。下手な訳文はお許しを。このインタヴューは一九五二年にラジオ・フランセーズで放送された。

聞き手のロベール・マレ(Robert Mallet)が「第三次世界大戦についてどう思われますか?」と尋ねると、ポーランは次のように答えている。彼は基本的に戦争はそれまでの二度のように(第一次と第二次大戦を指す)不条理には勃発しないと考えている。

《ここ何年か、皆が皆、そんなことを言っていますね。でも私はそうは思いません。理由はこうです。
 子供の頃、近所のふたりの男が路上で話しているのを見かけました。一人はもう一人に向って言いました。
「おまえさんは、あれやこれやをやっただろう。下司野郎(mufle)だな」
もう一人は答えました。
「下劣(salaud)なのはおまえさんだよ」
私は思いました、二人はすぐにも決闘するんじゃないかと。それをどうやって見物しようかと馬鹿みたいなことを考えたんです。八日後、二人はまた出会いました。
「おやおや、この哀れな野郎(ce triste personnage)が」
と一人は言いました。
「なんじゃ、アホ(petit imbécile)が」
ともう一人は言いました。さらに十五日後。またもや二人は罵り合いました。
「ばあ〜か(Idiot)!」
「鼻持ちならん奴め!(Paltoquet)」
その頃には鼻持ちならん奴(paltoquet)などと言っていたんですな。一週間が経つと、また同じことが起こりました。私は、あっけにとられたんです。そしてやっと分りました。あの人たちは絶対に殴り合いの喧嘩はしないなと。どうしてなら、毎日のように喧嘩してるからです。それでまったく満足なんですよ。
 ある大使が不注意にも別のある大使の足を踏みつけたという理由で宣戦布告する、今はもう、そういう時代じゃないでしょう。》

非常識で理屈に合わない命令(ordre d'absurdités et de mauvais raisonnements)によって戦争は起きないだろう……そうジャン・ポーランは語っているわけだが、さてそれから六十年以上が経って、必ずしもそうとは言えないような事態が迫っている。何しろ salaud、idiot、paltoquet たちを誰もがその頭にいただいている時代なんだから(人ごとじゃない)。

今宵はとにかくポーランのような常識を多くのフランス人がまだ持ち合わせていることを祈りたい。


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# by sumus2013 | 2017-04-23 21:43 | 古書日録 | Comments(2)

地獄の季節 コラージュ展

無事終了いたしました。みなさまに御礼申し上げます。

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*会期中のお休みは
9日(日)、15日(土)〜18日(火)連休、23日(日)です


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# by sumus2013 | 2017-04-23 09:38 | 画家=林哲夫 | Comments(8)

ぽかんのつどい冊子

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「ぽかんのつどい」のために作られた冊子。200円(恵文社一乗寺店などで入手できると思います)。中野もえぎ、服部滋、林哲夫、外村彰、福田和美、佐久間文子、佐藤靖、佐藤和美、澤村潤一郎、井上有紀、岩阪恵子、内堀弘、涸沢純平、能邨陽子、出海博史、山田稔、秋葉直哉、郷田貴子、扉野良人、真治彩……それぞれがぽかんの読者にすすめる五冊を選び短いコメントを添えている。「ぽかんの読者にすすめる」というところがポイントである。各人が気配りをし(しないで)書いているのが面白い。知らない本がたくさんあって楽しいな。

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ちょっと讃岐へ戻っていた。書棚を整理していたらこんな雑誌が出てきた。『海燕』第九巻第四号(福武書店、一九九〇年四月一日、表紙画=国吉康雄、表紙|目次|本文構成|=菊地信義)。特集が「文芸雑誌と私」。そこで山田稔さんがこう書いておられる。「「ちとせ」の一夜」。太字のところ、原文は傍点。

《京都の四条畷を下った西側に「ちとせ」という酒場があった。今から三十年ほど前の雨の日の夕方、私は河出書房の坂本一亀氏に会いにその店に足を運んだ。坂本氏の「日記」(「『文藝』復刊まで」)によるとそれは一九六一年六月二十七日のことである。坂本氏は「文藝」復刊に備えて新しい書き手を発掘すべく、京阪地方にのりこんで来たのであった。
 「ちとせ」には私のほかに多田道太郎、高橋和巳、杉本秀太郎、沢田閏の四名が集った。当時の「VIKING」の同人または会員のうちの大学教師組である。》

《その夜どんな話が出たかこまかいことは忘れたが、ひとつ憶えているのは、伝統ある「文藝」復刊の意気ごみに燃えて「小説をかいてください!」とかきくどく坂本氏の話はそっちのけにして、私たちが冗談ばかりとばして大いにいちびったことである。こいつら何だ、と彼は憤慨したにちがいない。いや、大いに楽しんだのか。そのことは「日記」には触れていない。このいちびりのなかで高橋和巳だけはまじめに話を聞いていたらしく、坂本氏の目にとまった。彼をこれを機に『悲の器』を完成し「文藝賞」を受賞する。》

《声を大に「小説を、文学を」と熱っぽく叫ばれても、照れくさいというか、アホラシ、という気分になってしまうのだった。いまでもこうした京都の「冷却的」雰囲気は大して変っていないと思う。》

山田さんはほぼこれと同じことを「ぽかんのかい」でも喋ってくださった。高橋和巳の受賞祝賀会に集った教授連中が祝辞で揃いも揃って「小説なんぞ書いていないで研究に身を入れろ」とぶったというのも学都ならではの興味深い逸話であった。山田さんはこれを自身が周囲に与える「冷たさ」についての説明として語られたわけだが、その当否はおくとして、しかしさすが坂本編集長だ、この人選は当を得ている(たしか杉本秀太郎にも高橋和巳の追悼としてこのときのことを書いた文章があったように思う)。

なお「ちとせ」は生田耕作氏の生家で氏の父上が富山から出てきて修業した後、昭和十二年に開店、その後を次いだのが生田誠氏の父上(耕作氏の弟さん)である。少なくとも小生が知っている感じでは居酒屋というのとは少し違う。ただ料理屋というほど敷居が高いわけではなく、その中間くらいの店だった。

現在は誠氏の弟さん(三代目)が経営されており、店舗は小川通り丸太町下ルに移転している。こちらはまさに居酒屋と呼ぶにふさわしい庶民的な店作りだ。

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# by sumus2013 | 2017-04-22 20:33 | おすすめ本棚 | Comments(0)

金福寺

都合により一週間ほどブログを休みます。

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「ぽかんのつどい」のため一乗寺へ出かけたので、せっかくだからと金福寺を訪れた。初めて。小雨の後で潤った苔の緑が目にしみる。上は蕪村が呼びかけて再興した芭蕉庵。

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芭蕉庵の脇を山手へ少し登ると与謝蕪村の墓所がある。周辺には江森月居、松村呉春、松村景文、吉分大魯、森川曾文、青木月斗らの墓も築かれている。

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芭蕉庵から本堂と庭を見下ろす。本堂にも蕪村や村山たか女の関連遺品が展示されている。梁川星巌の漢詩屏風が気に入った。

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白川通りの一乗寺下り松町バス停からまっすぐ山側へ上がって行く道、正面の桜は本願寺北山別院の門前。その手前を右に折れるとすぐ金福寺になる。

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# by sumus2013 | 2017-04-15 21:20 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

ぽかんのつどい

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「ぽかんのつどい」楽しい時間だった。会場は四十から五十人ほどの入りでほぼ満席。山田稔さんの記憶明瞭な語り口が会場を驚かせ、忌憚のない率直な意見が笑いを誘うことしばしば。お人柄と言うしかない。能邨さんのテキパキとした司会進行が冴えていた。一時間二十分ほど。録音されていたようなので、詳しい内容はおそらく文字化されると思う(断定はしませんが)。深沢七郎からどら焼きを二十個おみやげにもらった話はウケた。久し振りにお会いする方も多かったので出かけて良かった。上はトークショー終了後の記念撮影が終わったところをパチリ。手前の横顔が編集工房ノア社主である。所用あって二次会を失礼したのが心残りである。


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ぽかんのつどい
2017年4月15日 11時〜17時

『ぽかん』最新6号の刊行を記念したイベントを行います。
◇トークショー「公開「ぽかん」おしゃべり会」
 山田稔
 真治彩・扉野良人・能邨陽子(恵文社)

恵文社一乗寺店/COTTAGE

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# by sumus2013 | 2017-04-15 08:23 | もよおしいろいろ | Comments(0)

昭和十二年の大阪市政

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『昭和十二年の大阪市政』(大阪市役所、一九三七年五月五日)。残念ながら架蔵書ではないが、なかなかに興味深い内容である。総説の「1 大阪市政の特色」から一部を引用してみる。太字はママ。

《近年各地の市政界にとかくはしたなき[五字傍点]紛争が絶えず、中には忌はしき不祥事さへ取沙汰されつつあるに反して、大阪市のみはかゝる悪声を耳にしないのみか、着々健全なる発達を続けてゐる。》

《池上市長が在職十年、関市長が助役を通じて在職二十一年、市政の上に大なる功績を残したのは、わが国自治政治発展史上、特筆に価するものであるが、こゝにも穏健和平の大阪市政の面目が窺はれるのである。》

《明治三十年の大阪港築造、三十六年の電車市営主義の確立、大正十年以来の尨大なる都市計画事業の達成、十二年の電燈買収、十四年の市域大拡張、昭和二年の学区廃止、四年の地下鉄の経営、九年の風水害の自力復興などの大事業が着々と功を奏し、今日の大をなすに至つたのは、大阪市民の企業的精神と奉仕的努力の賜でなくして何であろう。》

「2 本邦経済の中心として」からも少し引いておく。

《即ち昭和十年に於ける本市の港湾貿易は、輸出入年額十一億六千六百万円、噸量六百五十二万噸に上り、噸量に於て三百七万噸の入超となつてゐるが、価額に於ては実に七千三百四十万円の出超を示してゐる。これは大阪港の躍進振とともに全国にその類例を見ないところである。輸出において注目すべきは綿織物で二億五千八百万円の巨額に上り、輸出総額の四二%を占め、これに綿糸、毛織物、人絹、人絹織物を加算すれば、優に三億四千八百万円となり、大阪港輸出総額の五六%を占め、大阪港の輸出は全く繊維工業製品が中心であることが判る。その他、巨額を占めるものは、鉄製品、機械、自転車などの工業製品及び紙類、ガラス製品、缶詰などの各種雑貨であつて、いづれも本市工業力の生み出したものである。》

大阪市の人口は三百万、大阪府の七割を占める。昭和十二年度の純歳出は二億一千四百万円、府の財政の六倍に当るという。

《しかるに現在の制度は市が府の中にあるため、勢ひ府市の間に仕事の競争が起り、産業、保健、教育、社会事業などに不統制な二重行政が行はれ、甚だ不経済である。そのために市民は市税、府税を二重に負担させられ、しかもこの市民の納める府税のうちから郡部の施設に流れるものが、昭和十年度に於て、三百七十万円、すなわち一戸当りにして五円余りが市民の懐から郡部に流れ出る勘定であり、その結果府の財政は余裕ができても、市の財政はます〜〜困る一方である。》

どうしても特別市制を布き、市内のことは大阪市だけで切り盛りしなければならない。》

戦前から二重行政の問題はくすぶっていたわけだ。

以下、小生が気になる図版だけピックアップしてみる。かなり尖端的なモダン都市だったことが分るように思う。

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淀屋橋から御堂筋付近


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新築中の屠場と取引中の家畜市場


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都島の水上生活者


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水上生活の学童


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塵芥焼却場


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車両工場と流線型電車(市電)


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明朗な地下鉄


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電気科学館


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プラネタリウム


《本市は早くから家庭電化を目指して電気知識の普及に努めて来たが、一層これを拡大強化するため約二百万円を投じ、規模の大なる点に於て本邦に未だその例を見ない電気科学館を、四ツ橋に建設し、三月には市民待望裡に開館せられた。》

《一階は電気機械器具を陳列販売し、二階は弱電、無電の応用方面を、三階は電力、電熱の応用方面を、四階は照明に関する方面を展示し、五階は電気に関する原理方面を瞭然たらしめ、六、七、八階はこれをブッ通して、東洋唯一のプラネタリウム(天象儀)を据付け、その電気科学の粋を蒐めた装置を以て、天体運行の状況を如実に観察せしめる。また九階以上は防空塔として、非常時に際しては空襲監視をなし、全市十二ヶ所の防空サイレンは、こゝのボタン一つで統轄する。なほこの防空使命のほか、測候所とタイアップして天災非常時の予報をも行ふ計画である。》

赤字は筆者による。こういう機能も持たされていた。現在の大阪市立科学館のサイトではさすがに触れられていない(目下の状勢では再びそういう機能が必要かも!)。

大阪市立科学館
http://www.sci-museum.jp/about/history/denki_kagakukan/

手塚治虫や織田作之助がこの館のファンだったことはよく知られている。

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# by sumus2013 | 2017-04-14 20:37 | 関西の出版社 | Comments(0)

パリ美術館ガイド

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GERMAINE BARNAUD『GUIDE DES MUSÉES DE PARIS』(ARTS ET MÉTIERS GRAPHIQUES, 1968)。著者のジェルメーヌ・バルノーについては詳しくは分らないが美術官僚のようで一九八八年に亡くなっている。

ある古書店にて。500と巻末ページに鉛筆で値段が書かれていた。少々高い。パリで買うなら1ユーロかせいぜい2ユーロじゃないと……。どうしようかな、と思いつつ表紙から見直しているとこんな書き入れが目に留まった。

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これなら安いや、ということで帳場へ。念のため尋ねる。
「これ、いくら?」
主人は表紙を開いて書き入れを見つけこう答えた。
「杉本秀太郎さんの旧蔵書やね……千円」
「千円! 裏に500って書いてあるけど」
少々意地悪とは思いつつ異を唱える。
「え、あ〜、これは……サインを見落としてたなあ」
ということでめでたく五百円にて落掌。

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このような二つ折の「クロード・モネと仲間たち」展の案内状(マルモッタン美術館)が挟み込まれていた。一九七一年六月から展示が開始されたモネの息子ミシェルおよびドノプ・ド・モンシー夫人から同館に遺贈された作品群である。おそらく杉本さんもこの展示を見たのであろう。

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# by sumus2013 | 2017-04-13 21:10 | 古書日録 | Comments(0)

ぽかん06

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留守中に『ぽかん』6号(ぽかん編集室二〇一七年四月一五日、コラージュ=林哲夫、レイアウト=西田優子)が届いていた。今号もやはり当方の予想もしなかったコラージュが使われており「なるほど、そうきたか!」とビックリ、感心させられた。

ぽかん05

ぽかん04

執筆は山田稔、中野もえぎ、外村彰、岩阪恵子、扉野良人、能邨陽子、澤村潤一郎、秋葉直哉、服部滋、内堀弘、真治彩(編集後記)。山田さんの少年期の回想も見事だし、澤村氏の武田豊とラリルレロ書店についての文章も引用したくなる内容なのだが、何と言っても今号の注目は服部氏がウェッジ文庫の顛末を語った「W文庫盛衰記」であろう。二〇〇七年十月創刊から二〇一〇年二月の休刊まで二年五ヶ月。詳しくは本誌を読んでいただくとして、創刊はリーマンショックの前だったにしてもよくこんな文庫が出せたなあというのが率直な感想である。以下は過去記事よりウェッジ文庫を紹介したリンクである。

岩本素白『東海道品川宿』

楠見朋彦『塚本邦雄の青春』

岩佐東一郎『書痴半代記』

内堀さんの連載「千代田区猿楽町1−2−4」は其の四となった。『彷書月刊』にからめて林達雄のパックインミュージック、三菱重工ビル爆破事件などが取り上げられている。終刊間際の借金問題についても内堀さんにはいまだに釈然としない思いがあるようだ。

実は内堀さん、コラージュ展に足を運んでくださった。そのとき『ぽかん』の話も出て今度書いた原稿があまりに暗いので編集長の真治さんに電話したそうだ。誰か他の人の原稿と差し替えて欲しいと。ピシャリと断られたと苦笑しておられた。真治さんと田村さんが、どこか、重なるそうである。そうそう、田村さんの息子さんが早稲田に入ったと聞いて驚いた。あの少年が……年取るはずだ。

2007年10月27日 土曜日(田村さんと息子さん)

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裏表紙


『ぽかん』6号、今、小生のなかでは最高の雑誌である。四月十五日のぽかんのつどいも楽しみだ。



『ぽかん』に『海鳴り』29号(編集工房ノア、二〇一七年五月一日)が同封されていた。どうしてかな?と思ったら、真治さんが「暮らしのなかで」というエッセイを寄稿している。『ぽかん』とかまくらブックフェスタについて。

山田稔さんが京大時代の同人雑誌について書かれた「「季節」を出していたころ」をはじめとする常連の書き手にまじった彼女の文章は、重々しい空気のなかにすっと通った春風のように感じられた

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涸沢さんの「御報告」によれば堂島ジュンク堂の編集工房ノア棚は今年二月で撤収されたそうだ。《このコーナー撤退は、ひとえに当方の事情による》とのことだが、やはり残念なり。




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# by sumus2013 | 2017-04-13 07:54 | 装幀=林哲夫 | Comments(0)

ブリダンの驢馬

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花田清輝『復興期の精神』(我観社、一九四六年一〇月五日)。前から手に入れたいと思っていた一冊。本日、ひょこり現れた。この本については以前少しだけ触れた。

小沢信男『捨身なひと』〜花田清輝『復興期の精神』

ここで「ブリダンの驢馬」から「ポアール」について引用したのだが、今回は表題の「ブリダンの驢馬」(普通は「ビュリダンの驢馬 paradoxe de l'âne de Buridan」)という逆説について紹介してみたい。その昔『復興期の精神』を読んでいちばん印象に残ったのはこのくだりだからである。花田はこう書いている。

《砂漠の中のオアシスのように、乾燥したスピノザの著作のそこここにばら撒かれている比喩のなかで、これは「石」のばあいとちがい、まったく人口に膾炙していない「ブリダンの驢馬」というのがある。ーーブリダンはいった、驢馬には自発的な選択能力がないから、水槽と秣桶との間におかれると、どちらを先に手をつけていいものかと迷ってしまい、やがて立ち往生して、餓死するにいたる、と。》(講談社文庫版より)

「石」のばあい……は石に意識があったとすればどうなるか? というこれまたやくたいもない論争を指す。秣(まぐさ)とあるところフランス語のウィキによればひと盛りの「からす麦」(一八五一年刊のフランス俚諺集による)。どちらにしても食物と水とどちらから始めようか決めかねてどちらも摂れずに死んでしまう驢馬の比喩である。優柔不断の極みとも言えるし、あるいは「中庸」の弱点を衝いた説だとも言える。

ジャン・ビュリダン(Jean Buridan、1295年頃 - 1358年)という過激な唯名論を唱えた聖職者が言い出したのでビュリダンの驢馬のパラドクスと呼ばれるが、これはあくまで伝説で、残された著作のなかには見えない。ビュリダンはオッカムのウィリアムの生徒であった。しかし後に師とも対立するようになる。唯名論というのは、例えば驢馬というとき一般的な「驢馬」という存在を認めず、個別の驢馬の集りとみる考え方。

ビュリダンには淫蕩なフランス王妃に招かれネスルの塔から袋詰めにされてセーヌ川に投げ込まれたという伝説もある。ネスルの塔(la tour de Nesle)は高さ二十五メートルもあったそうで王妃(誰なのかは不明、フィリップ・ル・ベル王の妻かという)はいつもここで逢引きをして相手の男をその度ごとにセーヌ川に流していたという。この話は有名だったらしくジャック・ヴィヨンも「そのかみの貴女を歌へるバラード Ballade des Dames du Temps Jadis」で引用している。

  同じくいづくぞビュリダンを
  袋にこめてセーヌ河に
  投ぜよとこそ宣りし女后も。
  さあれ古歳の雪やいづくぞ


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この本にはこんな真善美社の出版案内の栞が挟んであった(二つ折両面印刷、タテ24.5cm)。実は『復興期の精神』第二版は真善美社の処女出版として一九四七年二月に刊行される。これも貴重だ。田村書店のレッテルが栞に貼ってあるのも珍しい例ではないか。他にもう一枚、入場券も挿まれていた。

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「新日本文学会議講演会 伝統と現代芸術」、講師は岡本太郎、花田清輝、杉浦明平。豊島公会堂で11月17日(水)に開催されている。何年の十一月か? 豊島公会堂は一九五二年に開館、また花田が『新日本文学』の編集長だったのは一九五二年から五四年の間である。そして何より十一月十七日が水曜日なのは一九五四年だ、ということで昭和二十九年の講演会だと推定しておく。三越池袋店は二〇〇九年五月閉店、現在はヤマダ電機本店になっている。


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# by sumus2013 | 2017-04-12 21:51 | 古書日録 | Comments(0)