林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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ある日の続き

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吉上恭太さんのセカンドアルバム「ある日の続き」(Shinobuphon Record, 2017)聴かせてもらった。ファーストの「On Shinobazu Book Street」(Shinobuphon Record, 2013)も久し振りに取り出して聴き較べてみた。ファーストはファーストでもあり、また東北震災後間もないこともあったのか、やや大人しいと言うか、サウダージどっぷりというのか、渋いボサノヴァ、ブルーズのトーンだった。セカンドの方はベースは変らないものの、もっとずっと肩の力が抜けて洒脱でありながら演奏の楽しさが伝わってくるアルバムになっていると感じた。バックバンドがいい(「かもつせん」が好きです)。アルバム廻りのデザインも秀逸。付録の小冊子、鶯じろ吉『ある日の続き』も洒落ている。

吉上恭太 - ぼくが生きるに必要なもの

セカンドアルバム完成のお知らせ

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# by sumus2013 | 2017-08-21 19:58 | おととこゑ | Comments(0)

三四郎

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夏目漱石『三四郎』(名著複刻漱石文学館、日本近代文学館、一九八二年六刷)読了。ずっと昔、文庫本で読んだ。青木堂という喫茶店が登場することは覚えていたが、それ以外はほとんど記憶の外であった。明治四十一年、東京朝日新聞と大阪朝日新聞に連載され、四十二年五月に春陽堂から単行本として刊行された。主人公である三四郎は熊本から上京し東京帝大に入ったばかり。時代設定は明瞭ではないが、憲法発布の時(明治二十二年)に森文部大臣が暗殺されたという広田先生の回顧談のなかに《それぢや、まだ赤ん坊の時分だ》とあるから三四郎は明治二十一年頃の生れと思っていいだろう。とすれば、ほぼ連載と同じ時代を描いていることになる。

広田先生の話にはこういう分析もある。

近頃の青年は我々時代の青年と違つて自我の意識が強過ぎて不可[いけ]ない。吾々の書生をして居る頃には、する事為す事一として他[ひと]を離れた事はなかつた。凡てが。君とか、親とか、國とか、社會とか、みんな他本位であつた。それを一口にいふと教育を受けるものが悉く偽善家であつた。其偽善家が社會の變化で、とうとう張り通せなくなつた結果、漸々[ぜんぜん]自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展し過て仕舞つた。昔しの偽善家に對して、今は露悪家許りの状態にある。

ここを読んでいて『古河力作の生涯』に引用されている力作が獄中で書いた「僕」という文章を連想した。

僕は無政府主義者です。然し献身的のことは実際ようやらぬ。又主義にも囚はれても居ない。ドグマのために自由を束縛されるのはいやだ。僕は人智の進歩は近き将来に於て私有財産制度を廃滅して無政府共産制となす事を確信する。
 生活難、貧困、生存競争、弱肉強食等の存する社会よりも、自由、平等、博愛、相互扶助、万人安楽の社会を欲す。戦争なく、牢獄なく、永遠の平和、四海兄弟の実現を望む。僕の理想は個人の絶対自由と社会の幸福とことごとく一致せん事である。

力作の思想の大元には広田先生の言う自我の意識の強さあるに違いない(力作は三四郎より四つほど年上)。しかも個人本位を突き詰めて世界の完全平和を目指すというのだから驚かされる。そういう意味で広田先生の造語「露悪家」という響きは何とも皮肉に聞こえる。なぜなら力作の描くユートピアは国家基盤の脆弱な明治政府にとって「極悪」に違いないと思われるからである。それはこんな世界なのだ。

僕の理想社会は、先づ金銭の必要なき社会にして、空中飛行機によつて交通自在となり、世界の人種、言語、風俗、文明の程度ことごとく同一となり、地図の上に画したる国境と称する一仮定線は除かれて、世界一国となり一家族となり、何処に至るも帰宅するの必要なく、我家なく家庭なく、親子、兄弟、姉妹、叔姪等の関係分明ならず、他人の如くにして他人ならず、他人ならずして他人なり。而して思想、容貌の美醜、賢愚の差消滅し、心欲する所を行ふて、則を超えずと言ふ様なのだ。

この力作のユートピアに対して広田先生がどうコメントするのか想像してみるのも、ちょっと面白いが、上の発言のもう少し先で次のようなことを喋っている。

形式丈美事だつて面倒な許だから、みんな節約して木地丈で用を足してゐる。甚だ痛快である。天醜爛漫としてゐる。所が此爛漫が度を越すと、露悪家同志が御互に不便を感じて来る。其不便が段々高じて極端に達した時利他主義が又復活する。それが又形式に流れて腐敗すると又利己主義に帰参する。つまり際限はない。

広田先生の考えでは人間そう極端に振れたままでいることはできないらしい。

それにしても、力作の空想していた世界は今われわれを取り巻く世界にかなり似ているように思う。とくに、インターネット時代の仮想世界において力作のユートピアが実現されようとしているのではないだろうか? まあ、地上ではミサイルを射つとか射たないとか、明治時代とそう変らないパワーゲームが続いているわけではあるのだが……。

広田先生は森文部大臣が暗殺されたときに学生だった。二十年を経て《我意識が非常に発展し過て仕舞つた》若者たちが目立つ社会になっている。この唐突に登場するテロリズム(その葬式に並ばされたとき美しい少女を見たという話題である)と自意識過剰の組み合わせというのは漱石が「大逆事件」を予見したと考えてもいいくらい鋭い構想であったと思われる。

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# by sumus2013 | 2017-08-20 21:53 | 古書日録 | Comments(0)

CUBISM

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『CUBISM』(James Goodman Gallery, 1989)。下鴨での一冊。ニューヨークのジェイムズ・グッドマン・ギャラリーは一九五八年に創業、アメリカでも最も有力な画廊のひとつのようだ。この冊子には、ル・フォーコニエ、グレーズ、クプカ、マルクーシス、メッツィンジャー、ヴァルミエ、ヴィヨンの作品図版が収められている。展覧は一九八九年二月一〇日から三月一一日まで開催された。すっきりした表紙デザインが秀逸。

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Mountaineers Attacked by Bears


この展覧会の目玉はアンリ・ル・フォーコニエ(Henri le Fauconnier)の「熊に襲われた登山家たち Mountaineers Attacked by Bears」(1910-12)。これは一九四八年に展示されたのを最後に行方不明になっていた作品だそうだ。ジェイムズ・ニール・ニューマンがカタログに書いている序文が興味深いのでかいつまんで紹介しておく。

二十世紀の初め、若きフランス人アンドレ・ルヴェル(André Level)がコレクターたちのグループを作った(アメリカ合衆国で)。月に一度、彼らは小さなレストランに集り、どんな絵を見たか、とかどれが興味深い作品だったか、などということを話し合った。そして資金を出し合ってプールし、これぞという作品が見つかると購入した。一九〇八年頃にはじまり第一次大戦前夜まで続いたそうだ。ちょうどキュビスムの発展期と重なる。彼らのグループは十八世紀新大陸におけるフランス人の心意気を見習って「熊の皮 Peau de L'Ours」と名付けられた。もっとも有名な購入品はピカソの「サルタンバンクの家族 Family of Saltimbanque」(現在はワシントンD.C.のナショナル・ギャラリー・オブ・アートが所蔵)である。

そして十年ほど前(一九八〇年頃ということか)、全米にちらばったコレクターたちのグループによって「熊の皮2」が結成されることになった。小振りな作品ばかりを収集していたのだが、四年前、運命の風によってル・フォーコニエの「熊に襲われた登山家たち」という大きな絵画を入手したのである。作品を購入したはいいものの、あまりにサイズが大き過ぎて、どのメンバーの居間にも飾れなかった。その話をメンバーの一人から聞いたジェイムズ・ニューマンは、その大作を目玉にマイナーなキュビストたちの作品と組み合わせて展覧会を構成することを思いついた、というのである。

なかなかいい話ではないかな。

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# by sumus2013 | 2017-08-19 16:36 | 古書日録 | Comments(0)

詩ぃちゃん

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『詩ぃちゃん』(大阿久佳乃、二〇一七年八月一二日)。昨日、ちょっとだけ立ち寄った善行堂で「お客さんがつくったんやけど」と見せられたフリペ。葉書大、中綴じ二十頁。作者はまだ高校生だそうだ。まだ、は失礼かもしれない。スポーツ界では十代が世界的に活躍している時代だし、「十七歳にもなれば、真面目なんかじゃいられない」と十六歳で吼えていたランボー君もいることだし。実際、この冊子はよくできている。『詩ぃちゃん』というタイトル、これが、まず、われわれロートルには思い浮かばない、すてきな語感ではないか!

みんな(同級生、即ち高校生)どうして詩を読まないのだろう。考えて、浮かんだのは、いま、十代にとって、詩の扉がとてもちいさくて、少ないということです。その中は壮大な宇宙であるというのに。思い返してみれば、家族の読んでいる本は実用書中心。小学校からずっと、先生が薦めたり、図書館のおすすめコーナーにあったりするのは評論と小説でした。つまりここまで、詩を視野に入れようとしなければ、入らない状況にあったわけです。興味はおろか、詩の本を読むという発想がなくなるのもうなずけます。
 だから、まず、詩の扉をひとつでも増やしたい。ここでは高校生の状況中心に書きましたが、どの年代でも、小説・新書の読者よりも詩の読者が少ないのは事実でしょう。それでも詩は誰に向っても開けています。ぜひ、一度覗き見してほしい。そんな思いでこのフリーペーパーを発行します。》(はじめに)

なかなかしっかりした文体である(これもちょっと上から目線の感想です)。以下、引用されている詩人はと言えば、高田敏子、ヴェルレーヌ、大手拓次、八木重吉、山之口獏、萩原朔太郎、木下杢太郎。詩へのアプローチ第一歩としてアンソロジーから入ることを勧めるあたり、ストレート勝負という感じでいい。

個人的には、文学としての詩に無関心な若人たちに対して詩を説くとすれば、Jポップの歌詞あたりから入るのがいいような気もする。例えば漢詩が隆盛したのもそもそもは唐の時代に歌謡として流行したからで、そういった意味で、詩は歌ともっともねんごろな関係にあるようだから、詩集を読むだけが詩への入門ではないのかな、と思ったりする。谷川さんの「鉄腕アトム」とか知らない人はいないし(これはやや世代的偏見かな)。まあ、作者の意図はそういうところにはないのかもしれないが。


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本書に引用されている木下杢太郎「珈琲」…これは『食後の唄』(大正八年)に収められている。《酒宴のあと》とあるからメイゾン鴻ノ巣での情景かと思う。【喫茶店の時代】

メイゾン鴻ノ巣


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# by sumus2013 | 2017-08-18 22:04 | おすすめ本棚 | Comments(0)

メグレと老外交官の死

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夏場のパリは昼が長い(夜十時になってようやく黄昏れてくる)。古本としては読めそうもない本ばかりに目が行くのだが、長い夕暮れまでの時間をふさぐためもあって、毎回とにかく何か一冊は読むために買って、実際に読むことにしている。これまではトポールの評伝、ジャン・ジャック・ポヴェールの自伝、マン・レイの自伝(仏訳)、ジョゼ・コルティの自伝など伝記ものばかり読んでいた。今回はトポール展を見ることがメインで他に何も予定も目的もなかったため、サン・シュルピス古本市もぶらぶらしてばかりでほとんど何も買わなかったが、ある古本屋さんが、メグレ・シリーズが好きだということで、ポケット版を1ユーロ均一で平台に数十冊並べていたのが目に付いて、雑談しながら眺めていると、初期の表紙が「買ってちょうだい」と訴えかけてくるような気がしてきて、つい買ってしまった。「メグレはいいよ、すらすら読めるよ」とのオススメだ。

とにかくこのシンプルなデザインがいい。後の版では写真を使う表紙が主流になるが、今となってはこのモダンデザインの時代の古臭さがかえって新しい。以前にも一冊、神田の田村書店で買ったものを紹介したことがある。

『Maigret Chez le Coroner』(PRESSES POCKET, 1957)

『Maigret et les vieillads』(PRESSES DE LA CITE, 1960)、直訳は「メグレと老人たち」、邦訳は『メグレと老外交官の死』(長島良三訳、河出書房新社、一九八四年)。たしかにフランス語としてはそう難しくはない。ただ、平生、探偵小説など読まないものだから単語に馴染みがないのがやっかい。例えば「P.J.」(ペー・ジィ)これは司法警察、ようするに警視庁というようなものだろう。これすら分らないのだから初めはなかなか進まなかったが、指紋(empreintes digitales)とか薬莢(douille)とか手がかり(piste)などもそうだが、何度も出てくるのでなんとか覚えて後半はわりとつっかからず読めた。

シムノンの文章は平易だが、おっとりとした気品があってただ読みやすいだけというのとは少し違うような気がする。俗に言えば、文学の香がするとでも。例えば、ヘミングウェイ「移動祝祭日」には次のような評価が書きとめられている。彼はガートルード・スタインに勧められてマリー・ベロック・ラウンズを読み漁った。

登場人物はいかにも本当らしいし、行動や恐怖も常に真にせまっていた。仕事をしたあとで読むのに申し分がなく、私はある限りのベロック・ラウンズ夫人の作品を読んだ。けれど、それだけのことで、最初の二つに匹敵するものはあとにはなかった。昼や晩の空虚な時間を埋めるのに、シムノンの最初の良い書物が出るまでは、これほど面白いものはなかった。
 ミス・スタインはシムノンの良い作品ーー私がはじめて読んだのは、『第一号水門』か『運河の家』だったーーを好んだだろう、と私は思う。でも、確信はもてない。私がミス・スタインと知り合ったとき、彼女はフランス語を話すのは好きだったが、それを読むのを好まなかったからだ。私が初めて読んだシムノンの本二冊をくれたのは、ジャネット・フラナー(アメリカのジャーナリスト)だった。彼女はフランス語を読むのが好きで、警察廻りの記者をしていたころ、シムノンを読んでいた。》(『老人と海・移動祝祭日』福田恆存+福岡陸太郎訳、三笠書房、一九六六年二月一〇日)

もちろんヘミングウェイがパリに新聞社の特派員として滞在していたのは一九二一年から一九二八年五月までである。その頃シムノンはまだ有名になっていなかった。処女作は一九二一年に出版され、数多くの作品を発表してはいたが、それらはペンネームを使っていた。出世作はやはりメグレ警視シリーズであり、その第一作は一九二九年からスタートしているからパリで読んだわけではない。ヘミングウェイのいう『第一号水門』は『水門』(Le Charretier de la Providence、1930)だろう。『運河の家』は?

とは言え、本作はあまりにも動きの少ない密室殺人もので、推理小説としてはかなり退屈である。ただ、色々な仕掛けというか、装飾的な逸話が物語の味わいになっていると思ってもらえればいい。また、たまたまではあるが、本書の事件の舞台がヴァレンヌ通りだったり、サンジェルマン大通りだったり、ジャコブ通りの骨董屋だったり、と今回小生が滞在したアパルトマンの界隈だったのは読書の別の意味での楽しさを味わうことができた。例えばこんな

C'était un soulagement de retrouver la lumière du jour, les taches de soleil sous les arbres du boulevard Saint-Gérmain. L'air était tiède, les femmes vêtues de clair et une arroseuse municipale mouillait lentement la moitié de la chaussée.
 Il trouva sans peine, rue Jacob, la boutique d'antiquités dont une des vitrines ne contenait que des armes anciennes, surtout des sabres. Il poussa la porte, faisant ainsi tinter une sonnette, et il se passa deux ou trois minutes avant qu'un homme sorte de l'ombre.

どうということのない描写がなつかしく感じられるのはサンジェルマン大通りの太陽がほんとうに眩しかったためであろう。



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# by sumus2013 | 2017-08-17 22:10 | 巴里アンフェール | Comments(0)

古河力作の生涯4

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『舊新約聖書』(米国聖書協会、大正三年一月八日)。このブログでしばしば引用する聖書の文言はほとんどこの本によっている。古い聖書というのは思ったより高価なもので、そのためか、あまり均一では見かけないのである。これはもう四十年ほども前に求めたもの。何度か、創世記から順に読破しようと試みたが、どうしても読み通せず、必要なときに必要な章句だけを参照するにとどまっている。

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古河力作が獄中で読んでいた『新約全書』に関する資料を某氏が送ってくださった。感謝です。『一滴』第八十六号(若州一滴文庫 一滴の会、一九九五年一〇月一〇日)に水上勉が「古河三樹松さんと力作さんの遺品「聖書」のこと」を執筆している。その記事コピーである。若州一滴文庫というのは水上が郷里の福井県おおい町(大飯町)に私財を投じて建設した総合文学館。二〇〇三年よりNPO法人一滴の会が運営している。

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昭和四十六年秋ごろのことだった。三樹松さんは、当時、東京牛込の四谷見附の公設市場のなかにあった書店を経営しておられた。私を三樹松さんに紹介したのは、当時平凡社の太陽編集部におられた吉浜勝利氏である。吉浜さんの依頼で、古河力作さんのことを調べていたのだが、力作さんの実弟であられる方が東京におられる、ときいて、吉浜さんに四谷の市場までつれて行ってもらった。三樹松さんは、大正時代から昭和初期にかけ平凡社の創始者である下中弥三郎氏宅の書生をしておられたので、平凡社と縁が深く、四谷の書店も同社発行の百科事典をはじめ、美術書や歴史書を中心に販売され、開店以前は本をリヤカーにのせて、行商した、とご自分でおっしゃっていたから、書生をやめられて、社会で独立するためには店舗をもたねばならなかったので、その資金をつくるための行商であった、というような話もされた。

いよいよ力作さんに死刑執行がきまって、家族との面会が許された日、幼い弟妹が市ヶ谷刑場で、力作さんに会われた時のことなども、くわしく話して下さった。なんども目頭をうるませておられた。

詳しく聞いていたのだ、それなのに……。

その三樹松さんが平成七年五月十八日に亡くなられた。私は当時二どめの胃の手術で入院直前で病中だったため、お葬式にゆけなかったが、三樹松さんには、五人のお嬢さんがおられ、三女のさゆみさんが、私の住む長野県下に嫁がれていて、ご夫君が長野放送の専務多賀清雄氏だったご縁もあり、このたび、三樹松さんのご遺品のなかから、さゆみさんがご父君からいただかれていた「聖書」を、ごきょうだいご相談の上で、若州一滴文庫におあずけくださることになった。この「聖書」は堺利彦氏が市ヶ谷刑務所に拘禁中だった力作さんに面会した際、差し入れとして贈られたもの。力作さんが、死刑執行の当日までよんでおられたとつたえられる貴重な聖書だった。

堺利彦が差し入れた? すでに引用したように『古河力作の生涯』にはこうある。

残されたものは、堺枯川から、慎一氏に手渡された獄中遺品の小さな聖書であった。これは、前にもふれたようにクリスチャンの花つくり印東熊児氏が、獄中の読書にと差し入れたタバコ箱大くらいの豆聖書である。》(十五章)

差し入れたのは印東である。堺枯川(利彦)から力作の父である慎一に手渡された、というところを勘違いしたのかもしれない(?)。

私は、同郷出身の作家として、また、力作さんご兄弟の故郷に近い大飯町に図書館を建てさせていただいたご縁をもつものである。この館の一隅に、古河力作さんの遺品、獄中の愛読書だった「聖書」の保存をたのまれた光栄をふりかえって感慨ふかいものをおぼえる。

若州一滴文庫-水上文学と竹人形文楽の里-

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# by sumus2013 | 2017-08-16 21:11 | 古書日録 | Comments(0)

刑法第73条

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下鴨納涼古本まつりの帰途、素通りできずに立ち寄った某書店にて入手。手に取ったときには「誰だろう?」と思った。ただこの出で立ちはただものではない。帰宅して画像検索してみると、この写真と同じ画像は見つからなかったが、案の定、ただものではなく、嘉仁親王のようであった。要するに大正天皇の幼少時代である。明治十二年生れだから、この顔立ちからして明治二十年頃に撮影されたものか?

大正天皇と言えば漢詩に熱心だったという印象がある。実際、歴代天皇のなかで嵯峨天皇を凌いで最も多くの漢詩を残しているという。『大正天皇漢詩集』(大修館書店、二〇一四年)も刊行されている。一例、「春夜聞」。

  春城瀟瀟雨
  半夜獨自聞 
  料得花多發 
  明日晴色分 
  農夫応尤喜 
  夢入南畝雲 
  麦緑菜黄上 
  蝴蝶随風粉  


古河力作の獄中手記「余と本陰謀との関係」の一部が『古河力作の生涯』に引用されているが、力作の本音が出ていて興味深い。

今度の様なアヤフヤな事が、それに自分もやる積りもなかった事だから、不敬位で済〈む〉だらうと思つて、それで予審庭〈廷〉でも偉らさうな事も言つた。所が豈図らんやだ。僕は死刑の宣告を聞いた時には、余り滑稽でポカンとして呆気にとられて居た。死刑と知つて居たら無論初めから皆言つて仕舞つたのだ。今更何を云つたとて仕方がないが、余んまり馬鹿々々しいので、つい愚痴も出る。》(十四章)

また第三回予審の調べ(明治四十三年六月八日)での判事と力作の問答が引用されているので、それも少しだけ引いておく。

問 被告ハ法律書ヲ読ミタル事アルカ
 答 アリマセヌ
 問 天皇ニ爆裂弾ヲ投スル所為ハ如何ナル刑罰ニ当ルカ知リ居ルカ
 答 昨年頃刑法注釈書(縁日テ刑法注釈書トカ何トカ云フノヲ買ツテ見マシタ)ニ天皇ニ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタルモノハ死刑ニ処ストアリマシタカラ無論死刑ニ当ルト云フ事ハ承知シテ居リマス(十二章)

ここで言う刑法とは大日本帝国憲法制定後の明治四十年四月に帝国議会において裁可され明治四十一年十月一日に施行されたものを指す。刑法第二編 罪/第一章 皇室ニ対スル罪。『改正日本六法 袖珍軽便』(文明堂、明治四十年五月)より。

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旧刑法では第百十六条(明治十五年施行)に《天皇三后皇太子》とあった。四十年の改正でその表現と対象範囲(皇太孫を加えた)変えたのである。力作が不敬位と書いているのは第七十四条を指す。三月以上五年以下ノ懲役ニ處ス》と《死刑に處ス》ではあまりにも大きな違いであろう。また「皇室ニ対スル罪」は総則の法例第二条で《本法ハ何人ヲ問ハス帝国外ニ於テ左ニ記載シタル罪ヲ犯シタル者ニ之ヲ適用ス》の第一に挙げられている。国外においても適用されるとは意外だが、国際的なテロリズムということをすでに視野に入れていたのだろう。第七十三条の適用は四例ある。幸徳事件(すなわち力作の巻き添えになった本件)、虎ノ門事件、朴烈事件、桜田門事件(李奉昌大逆事件)。昭和天皇は皇太子時代も含め二度狙われたことになる(そのためか戦前にはその姿を国民の前に現さなかった、玉音放送まではほとんどの国民は声すら聞いたことがなかった)。

読むこともないだろうとは思ったが買っておいた『改正日本六法 袖珍軽便』を改めてめくってみるといろいろと面白い発見がある。例えば、あまりに周知の事かも知れないが、大日本帝国憲法(明治二十二年発布)の第一章は天皇の定義から始まっている。ということは、当時、天皇の地位がいかに不安定であったかということを明らかに示しているとも考えられよう。

企てただけで死刑という法律、ひょっとして似たような法律をわれわれも許容してしまったのではないか、あらためて事の重大さを感じるしだい。


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# by sumus2013 | 2017-08-15 21:35 | 古書日録 | Comments(0)

古河力作の生涯3

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岸田劉生「童女像(麗子花持てる)」(一九二一年)。学生の頃、この麗子が持っている花の名前が知りたいと思っていたところ、たまたま植物に詳しいと自慢する友人ができたので、力試しに「この花なんだ?」と質問をぶつけてみた。彼によれば「これはダリアの一種ではないかな」という返事だった。なるほどダリアと言われればダリアに見える。そして、ダリアは大正時代にはもう一般的な花だったのだな、と感心したことも覚えている。

『古河力作の生涯』によれば、力作が神戸の永井草花店を辞めて上京し印東熊児経営の康楽園(北豊島郡滝野川村一三二番地)に務め始めたのは明治三十六年十一月である。印東熊児の父玄得は嘉永三年紀州新宮の生れ(坪井氏の出)、東京で医学を修め明治十一年に新宮に戻って開業医となった。熊児は明治四年四月七日生れ。ドイツのブラスラウ大学農学部で花卉栽培を学んだ。明治三十六年に帰朝。滝野川に康楽園を開いた。力作は開園の年に入店したということになる。

敷地千数百坪、宏大な苗圃や栽培花壇をもつ有名な店で、店主の印東熊児は、西洋草花栽培の草分けといわれ、ダリアの権威であった。

あるいは、出張して庭園の手入れをする力作に対して顧客がこんな声をかける小説的なシーンもある。

「古河先生……こんどはひとつ、ドイツ産のダリアをわが庭に植えてみてください。ダリアは何といっても、印東先生の金看板じゃでのう」
 老伯爵は花を愛するがゆえに、小躯の力作に微笑をなげたかもしれぬ。大八車をひく小男が、小さな胸の中に、どのような闘志を培っていたかは知るよしもなかった。》(七章)

小躯、小男と、水上はどこまでも小柄にこだわっている。

印東熊児の著書『西洋草花』三版の部分コピーを某氏より頂戴したので参考までに掲げておく。初版は明治四十一年九月二十四日、再版が明治四十二年五月五日発行。国会図書館で検索すると本書は図譜とともに二冊である(明治四十四年版の図譜はデジタルコレクションで閲覧できる)。三版は二円もしている(現在の価値ならおそらく一万円以上だろうか)。

この本の目次を眺めていると、すでにこの当時、たいていの西洋草花は出そろっていることが分る。問題はダリア(目次では「ダーリア」)がどうなのか、ということである。本文のコピーはないので目次だけから判断するのだが、花は五十音順に配列されており、ダーリアは本文六四頁、そしてその次のヂギタリスが七七頁となっている。要するにダーリアには十三頁が割かれているという単純な計算になる。これ以外は目次で見る限り、各花ごとに一頁から二頁の説明で済ませていることから判断すれば、ダーリアが「金看板」だったというのは間違いではないようだ。

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印東熊児著『西洋草花』服部書店+文泉堂書房
明治四十四年四月十日増訂三版・表紙



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同書口絵「康楽園・景之一部


康楽園は大正三年に閉園したとのことであるが、岸田劉生が描いているように、熊児が普及に力を注いだダリアは日本人にとってなじみ深い西洋花のひとつとなった(日本に初めて持ち込まれたのは天保十三[1842]年)。

ついでに書いておけば、大逆事件の一斉検挙が始まった明治四十三(1910)年五月、岸田劉生は白馬会第十三回展(五月十二日〜六月二十日、上野竹之台陳列館)に九点の作品を並べていた。劉生十九歳(明治二十四年六月二十三日生)。同じ六月生れの力作は二十七だった。処刑は翌四十四年一月二十四日である。

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# by sumus2013 | 2017-08-13 21:48 | 古書日録 | Comments(0)

古河力作の生涯2

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『月の輪書林古書目録9 特集 古河三樹松散歩』(月の輪書林、一九九二年六月)。二十五年前の発行とは! 表紙写真に写っているのは向って左前列から岡本潤、古河三樹松、百瀬晋、宮山栄之助、飯田徳太郎、植村諦(巻末の解説によればこれでいいはずだが)。後列左から岡本潤の恋人H・G、もう一人の女性(ともに芝浦の単式印刷のタイピスト)、学生服の人物は不明のようだ。平凡社の『大百科事典』刊行時のある日ということで昭和七、八年頃。

目録巻頭に小柄だったことについての三樹松氏の回想が引用されている。『素面』(昭和三十七年)に掲載された「小男の得」。

私の家系は若狭の旧家に有り勝ち従兄妹同志の血族結婚が、五代も六代も続いた結果が矮人になった由で、私の兄も妹も同様に小さかった。十才で上京する時には汽車賃は勿論ロハ。五才位に見える樣に仕立てられたのに、途中の駅名を読んだりするので連れの大人が閉口したといふ。十三、四才でも友達に背負はれて映画館はロハ、十五、六才まで女湯に入っても怪しまれなかった。

大正大震災で都落ち大阪の仲間を訪ねると、表は刑事が張り込んでゐて、東京から逃げて来た主義者は片ぱしから検挙する方針だったのに、廿三才の私を子供だと思って見逃してしまった。国事犯?で牢屋入りした時には掛けられた手錠がスッポリと抜けて看守を弱らせたし、他の囚人は蒲団や着衣が短いので素足が出て寒中でふるへてゐる時でも、私の手足は充分に包まれてゐて助かった。

たしかに小柄だったことは間違いないようだ。ただそれが思想的にどれほど影響したのか、そう簡単に結論付けられることでもあるまい。

水上勉は『古河力作の生涯』で力作が監獄で精読した聖書について書いている。力作の雇い主であった滝野川康楽園の主人印東熊児(園芸家でクリスチャン)が獄中の読書にと差し入れたタバコ箱大くらいの豆聖書である。

いま、その聖書が、私の手許にある。黒色の皮表紙のカバーがついている。New Tastament & Psalms と金の押し判があり、背には「新約全書 詩篇付」と同じく金文字が押してある。見返しに、黒字で、
『基督は禁欲主義に非ず。自然に従ふ充欲主義なり。
 基督は無抵抗主義に非ず。強烈な抵抗主義なり。恰も空気の如し。
 基督は無神無霊魂論者なり。
 基督は熱烈火の如き革命家なり。
 噫偉大なる哉。基督、彼は労働者なり。
 基督をして現時に在らしめれば必ず無政府共産主義者(以下不明)
とかなりな太字で書かれている。力作が獄中で誌したことはあきらかである。「米国聖書会社」発行の扉裏には「古河」の丸判が捺されている。》(十五章)

この描写からは特定できないが、『新約全書 詩篇付』というのは米国長老教会派遣の宣教師ヘンリー・ルーミス(明治五年初来日、十四年再来日、大正九年軽井沢で死去)が刊行した明治三十七年版(初版、四六判)を縮刷にしたものだったのだろうか? 水上勉は力作による線引きや欄外の書き入れが多数あることに触れながら、心に残る一章節として路加伝第十九章「ザアカイの章」をわざわざ取り上げている。

イエス、エリコに入てすぎゆくとき、ザアカイと云へる人あり。みつぎとりの長にて富める人なり。イエスは如何なる人なるか見んとおもへども、身の丈ひくければ、大衆[おほぜい]なるによりて見ることを得ず。彼を見んとてはしりゆき桑の樹にのぼれり。》(水上の引用しているまま)

やはりここでも身の丈の低いというところだけに反応しているのだ。しかも、力作は水上の引用箇所には何の印も施さず、この章の終部、『既に近づけるとき城中を見て』から数行にわたって傍線をひき、欄外に細かい感想を述べていると書かれている。ところが水上はそこは無視してこういうふうに締めくくる。

力作がこの章に眼をとめた心奥に、おのれをザアカイに重ねてみた一瞬がなかったであろうか。

要するに背が低いというところに自分を重ねたからこの章に注目したと言いたいわけである。ただし、水上があえて(?)触れなかったルカ伝第十九章の終部には以下のような記述がある。イエスがオリーブ山で弟子たちに垂訓した後、エルサレムへ入城するくだりである。四十一節以下(引用は架蔵の『新旧約聖書』米国聖書協会、大正三年)

既に近づきたるとき、都を見やり、之がために泣きて言ひ給ふ。『ああ汝、なんぢも若しこの日の間[うち]に平和にかかはる事を知りたらんには然れど今なんぢの目に隠れたり。日きたりて敵なんぢの周囲[まはり]に塁をきづき、汝を取り囲みて四方より攻め、汝と、その内にある子らとを地に打ち倒し、一つの石をも石の上に遺さざるべし。なんぢ眷顧[かへりみ]の時を知らざりしに因る

と宣言し、イエスは城中に入り寺院で商売をする商人たちを追い払う。革命のスタートである! 眷顧とあるところ英訳では「visitation」すなわち「(神などの慰め・助け、または苦痛・罰をもっての)訪問;天恵、恩ちょう、祝福(divine favour);天の配剤、天の怒り(divine dispensation, divine wrath);天罰のような事件[経験]、災やく、禍(calamity)」(『新英和大辞典』研究社辞書部、一九六〇年第四版)であって厳しい迫害が待っているぞと予言していることになろう。

力作がこの部分に線引きをし、感想を記すのは当然だ。あまりにも力作たちの置かれた情況にびったりあてはまるではないか。もし自分を重ねたとしたらザアカイではなく、イエスの弟子またはイエスその人ではないだろうか。

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# by sumus2013 | 2017-08-12 21:29 | 古書日録 | Comments(0)

第30回下鴨納涼古本まつり

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下鴨の初日。もう三十回にもなるのか、早いものだ。今年は百円均一テントはなし。やっぱり寂しい。それでもあちこちで三冊五百円コーナーができているので、買う気になればガツガツいけそう。「今年はどこが穴場なんでしょうね?」などという話題も出たが、正直分りかねます。初日を見た感じ、また何人かの古本者の意見を聞いてみたところ、石川古本店のカタログ200円均一が一番じゃないか、という結論だった。どこか大阪の画廊の旧蔵だったのかもしれない。一九七〇〜八〇年代あたりの画商系作家の図録が多かったし、海外のギャラリーが発行したカタログも少なくなかった。マチスの分厚い図録(オランダの展覧会だったか)があって、その厚さに躊躇して目を離している間に誰かに抜かれた。それでもジャック=ヴィヨン、キュビスム、池田満寿夫、麻生三郎、坂田一男を確保。いずれもツカ五ミリ以内の薄いものばかり。

拙著『古本屋を怒らせる方法』があった。思ったより高かったので見送ったが、安ければ欲しかった。

第30回下鴨納涼古本まつり

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# by sumus2013 | 2017-08-11 20:43 | 古書日録 | Comments(2)