林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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河原温渡墨作品頒布会

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某氏より頂戴した『ユリイカ』第四巻第八号(書肆ユリイカ、一九五九年八月一日、表紙=長新太)に珍しい資料が挟んであった。「河原温渡墨作品頒布会」のパンフレットである。

《今度私達の久しい友人である河原温君が、メキシコを経てヨーロッパに旅行することになりました。そこで私達友人が集つて、旅費の足しにと、かれの作品の頒布会をつくつて、ひろく愛好家の協力をえたいと存じます。なにとぞ、ご協力をお願いいたします。/河原温作品頒布会》

とあって、瀧口修造、池田龍雄、飯島耕一、佐々木基一、江原順、野間宏、奈良原一高、山本太郎、針生一郎、渡辺定俊、東野芳明が短い推薦の言葉を寄せている。その頒布作品の値段を見て驚きを禁じ得ない。

 油絵(8号〜40号、1947年〜55年)……号・¥5,000
 水彩(メキシコの風物をかいた作品・予約品)……¥6,000
 デッサンA(約4号・1947年〜56年)……¥8,000
 デッサンB(2号〜3号・1950年〜58年)……¥5,000
 デッサンC(メキシコの風物をかいた作品・予約品)……¥4,000
 面(表紙の写真以外も何種類かあり)……¥3,000
 印刷絵画No.4 砦(1200部限定版)……¥800
 
コーヒー一杯の価格が六十円くらいの時代である。六倍と考えて油絵一号あたり三万円はかなりきばった値段ではあろう。河原温は一九三二年クリスマスイブ生まれだからこのときまだ二十七歳になっていない。むろん現在の物故巨匠としての地位からすればタダみたいな値段だが……それはそれとしてお面が二万円くらいならひとつ欲しいところ。

「その後の河原温」

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多摩美の瀧口修造文庫には当然ながら入っているようだが、それ以外ではちょっと珍しいものかもしれない。そこで気になるのは『ユリイカ』発売当初から挟み込みだったのか? という点である。パンフの活字と本誌の活字を較べるとどうも同じ印刷所のような気がするし、このちょっとひねったレイアウト感覚はひょっとして伊達得夫のものかもしれない。

本誌もなかなか面白い。巻頭「きのう・きよう・あす」欄の丸谷才一。伊達得夫宛に手紙を書くというスタイルの文章。仮名遣いはママ。

《伊達得夫様
 先日は写真、有難うございました。名声の高い大兄の写真術をもってしてもこの程度ならば、ぼくがカメラフェイスが悪いのは宿命的なことだ、と考えながら、負けた横綱のような顔をしてゐるぼくを眺めました。つまり大兄は大変教育的であったわけです。厚く御礼申し上ます。別便で本を一冊(ウィリーハース『文学的回想』原田義人訳紀伊国屋書店)送りました。差上げます、と言いたいところだけど、読み終わったらぜひ返して下さい。そのうちもういちど読みたい本です。》

と前置きして戦前のドイツでウィリーハースが編集していた『文学的世界』の意義について語り、伊達に対して『ユリイカ』を『文学的世界』のような雑誌にして欲しいと(かなりまだるっこしい書き方で)提案し、こう付け加える。

《大兄はおそらく、そんなことをしたら売れなくなる、今のやり方がギリギリの抵抗なのだ、と呟くでしよう。そのときの声や表情まで、判るような気がする。だけどぼくは、損はしないでしかももう一歩前進することはできないものだろうかと、敢えて苦言を呈するのです。
 伊達さん、ぼくを含めて、人々がみな大兄の商才をたいへん高く評価していることを忘れないで下さい。そう、すくなくとも大兄の写真術などとは比較にならぬくらい高く評価していることを。

……商才があるとは興味深い評価ではないか。

この『ユリイカ』はジャック・プレヴェール特集。谷川俊太郎の寄稿「惚れた弱み」の冒頭に翻訳についての考えが披瀝されていてなるほどと思った。

《アテネフランセに二年間も通っていたくせに、僕はフランス語がからきし出来ない。だから僕がいくらプレヴェール、プレヴェールと云ったところで、それは日本語におきかえられたプレヴェールのことなのです。それじゃ困ると云う人もいるだろうし、それで結構と云う人もいるでしょう。ほん訳じゃ絶対に分らない部分もある代りに、ほん訳で読んでさえ分りすぎる程分る部分もあると思います。ほん訳じゃ絶対に分らないところは、フランス人にまかせておいて、僕はもっぱら、ほん訳でも分る方を楽しむことにします。プレヴェールって詩人はそれでも結構楽しめるのではありませんか? 勿論ほん訳で読んでいるせいで、とんでもない誤解をすることだっておおいにあり得ますが、それならそれでいいと思います。プレヴェールを正確に理解することは、僕にとってそんなに大切なことではないとも云えるのです。プレヴェール流に云えば、僕はプレヴェールを考えない[四字傍点]で、プレヴェールを眺める[三字傍点]のが本当は好きなのです。ここだけの話ですが、それよりももっと好きなのは、プレヴェールを夢見ることです。》

これは谷川氏の言うのが正しいとかどうかではなく、そうするしかないのだな、外国文学を読むためには。参考までにプレヴェールの翻訳についての過去記事を引用しておく。

ジャック・プレヴェール『歌の塔』

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# by sumus2013 | 2017-03-06 21:48 | 古書日録 | Comments(0)

古本屋にて

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トランスポップギャラリーで開催中のうらたじゅんさんの個展(〜12日、月火休)を拝見。いつもながらのうらたワールドにひたる。ノスタルジア……というだけでもない、今を生きている感じの描写にうらたさんならではのメッセージを感じる。

トランスポップギャラリー道順 うらたじゅん道草日記

そこから善行堂へまわって岡崎詩集の進行や次の企画について立ち話。ゆずぽん発行の『古本屋にて』(二〇一七年二月)という小冊子をもらう。ハガキサイズの横長判、中綴じ十六ページ。作者は若い人で善行堂のお客さんだそうだ。奥付などの情報が皆無なので詳しいことは分らないが、よくできている。紙質、文字、写真、そしてそのレイアウト、いずれについても吟味が行き届いているように感じる。内容は古本屋の店頭写真を見開き右ページに、対面に短い文章を置いただけ。さらりと読めて古本屋への真摯な思いが伝わる内容だ。

上に掲げた二番目の写真の見開きは大阪の「青空書房」。

《某月某日。青空書房店主の訃報を知る。
昔一度だけ、自宅で開かれていた店に伺った。店主は、戦中戦後の闇市の話、太宰治や織田作之助の話などを聞かせてくれた。帰るころには、正座で足が痛くなった。店を出たら、外はもう暗くなっていた。

「本の中に行間があるように、人生も間が大切だよ。」と店主は教えてくれた。今でも大事にしている言葉である。》

収録古書店は、蟲文庫、善行堂、上崎書店、青空書房、トンカ書店、徘徊堂、ちんき堂、あかつき書房、うみねこ堂書林、おひさまゆうびん舎。入手については善行堂へ。

古本ソムリエの日記・古書善行堂

帰りがけにヨゾラ舎へちょっと立ち寄りクリームのCDを入手。穏やかな一日だった。

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# by sumus2013 | 2017-03-05 21:28 | おすすめ本棚 | Comments(0)

松倉と勝と光永と継吾

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昨夕は京都のライブハウス「拾得」で松倉と勝と光永と継吾のライブを聴いた。松倉如子、何とも個性的な歌い手である。どのようにユニークなのか、ご存知ない方はぜひYouTubeなどでご確認あれ。

「拾得」は有名なライブハウスなのだが、これまでライブに縁のなかった小生には初めての場所。土蔵を改造したなかなかに居心地のいいスペースだ。そんなにキャパはないが、手頃な広さだと思った。壁面にはその名の通り寒山拾得の大きな拓本(版画?)が飾ってある。エンゲルスガールのご主人と隣り合わせたのでムッシュかまやつ死去の話を向けると「拾得」で一度だけライブを聴いたことがあるとのこと。カッコよかったあ〜、らしい。

ただ、大きなアンプでガンガン鳴らすのには閉口した。音に吹き飛ばされそうになった。この感触が好きな人もいるかもしれないけれど、せっかくの演奏や歌を聞き取り難くしてしまうほどの大きさだった。このていどの空間ならマイクなどいらないだろう。ロームシアターくらい広くても同じような感想を持ったが、拾得ならなおさらである。アンプラグドでやってほしかった(またそういうタイプのバンドであろう)。とは言え、渡辺勝の旋律はピアノであれギターであれ、なんともなつかしく心落ち着くものだった。

上は松倉と勝と光永と継吾の自主制作CD「SETSUBUN」。今年の二月三日にアケタの店にて行われたライブ録音。100部制作。

松倉と勝と光永と継吾

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# by sumus2013 | 2017-03-04 21:08 | おととこゑ | Comments(0)

長寅

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「長寅」と署名されたマクリを入手。虫食い穴(上部で鳥のように見える)もあり、きわめて安価だった。長寅というからには与謝蕪村の系統かなと思って検索してみると、どうやら名古屋のブルジョア画家・立松義寅ではないかと推察できた。

立松義寅
文化7年熱田大瀬子町生まれ。富豪・鈴木七左衛門長の八男。名は義寅、字は長寅、通称は太左衛門。号は嘉陵。幼い頃は野村玉渓について四条派を学び、のちに京都に出て松村景文に師事した。また、清水雷首の教えも受けている。中国南海の山水、名勝をさぐって研鑚につとめ、名古屋に戻り宇治川先登の図を熱田神宮に納めて画名をあげた。笠寺の富豪・立松太左衛門義民の養嗣となり、家業のかたわら画を描き、のちに名古屋市島田町に隠棲した。明治16年12月16日、74歳で死去した。名古屋四条派、松村景文の系譜

下のような義寅の絵もあるので先ず間違いないだろう。

立松義寅 擬月渓翁採芝図

言うまでもなく月渓は蕪村の弟子である。

「俳画の美 蕪村・月渓」

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印文……上は「長寅」だろうが、下は「疑…?」。

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# by sumus2013 | 2017-03-03 16:44 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

京二中鳥羽高ものがたり

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先日、二中時代の淀野日記を引用した。そのなかに「塾」という言葉が何度か出ていた。それについて具体的にどんなものか分らなかったのだが、藤田雅之『京二中鳥羽高ものがたり』(京二中鳥羽高校同窓会、二〇一六年二月二四日)には詳しく説明されていて腑に落ちた。ありがたいことである。

一九二二年十二月三日
私がまだねむつて居たとき芳兄がたづねてくれた。私はしばらく清水とねながら話して居た。後、十一時頃から二人は書斉で話し合つた。彼は又塾での出来事を話した。それによると寮長と五年の生徒とが会見して、塾生の自由〜それは青年としての自由〜を尊重することを守らしめることを約したんだそうだ。今塾生は団結して居る、そしてこの団結が貴いのである。この力をもつて塾風改善に努力するならば必ずよくなることを信ずるのである。》(淀野日記)

この「塾」、正しくは「浴風塾」というそうだ。

《この「浴風塾」というのは、かつてその場所にあった、京都二中の寄宿舎(寮)の名前です。
 「浴風塾」は、京都二中開校二年目の一九〇一年(明治三四)年に完成し発足しました。
 最後、一九三四(昭和九)年、室戸台風の強風によって全館倒壊し、そのまま閉鎖されるまでの三三年間、常時二〇〇名あまりの少年達が、日夜寝食を共にして青春を謳歌していたのです。
 「浴風」とは中国の故事から山本良吉教頭が命名したもので、初代寮長は山本教頭でした。
 それが、三年目から中山再次郎校長がみずから塾長として住み着きました。そして校長退職後の塾の最後のときまで、先生はほとんど塾周辺に住まわれたのでした。》(本書

この中山再次郎という初代校長がじつに興味深い人物だ。『中山再次郎先生を憶う』(京二中同窓会、一九六四年)という書物も出ているそうだが、その拾遺として面白い記述が本書にも収められている。いろいろ引用したいが、くわしくは本書を参照していただきたいので、ここでは夏目漱石との関わりについてのみ引用してみる。

同い年の漱石と中山再次郎は同じ年(明治十七)に大学予備門(当時五年制、十九年より四年制の一高になる)に入学したそうだ。二人ともにボートに熱中していた。再次郎は熱中のあまり手を痛めて一年落第、漱石は腹膜炎で留年、ふたたび同じ学年になる。明治十八年大学予備門の成績表というものが残されている。それによれば中山再次郎は二十六位、塩原金之助(漱石)は二十七位、南方熊楠は三十九位、山田武太郎(美妙)は六十四位、正岡常規(子規)は六十九位(不合格)。なんとも凄い学生が同学年にいたもんだが、この他にも中川小十郎(立命館創立者)、柴野是公(中村是公、満鉄総裁〜東京市長)、芳賀矢一(国語学者)、平岡定太郎(樺太庁長官、三島由紀夫の祖父)らを数えるという。単なるエリートというよりも何かもっとずっと濃〜い学生たちである。

《ただし、全員を調べてみると、地方の中学校長、旧制高校教授などを終生勤めた人物も多数存在しています。あの漱石も、東京帝大卒業後、まず松山中学校(『坊ちゃん』の舞台)に赴任しています。
 当時はまだ、全国に中学校は少なく、その教師のポストは難関でした。さらに中学校の校長・教頭は、天皇から直接任じられる奏任官でした。実は、宮内庁書陵部の『明治天皇御手許書類』の中に、一八九八(明治三一)年の中山再次郎の任官書類が存在しています。閲覧はできませんが、目録で確認できるのです。それほどに社会的な地位の高い、おまけに給与の良い職業でした。
 中山再次郎が、帝大卒業でありながら、「エリートコースを外れて、生涯一教師に甘んじた変わり者」というような、ためにする大げさな形容は、決して正しいとは言えません。》(本書)

『坊ちゃん』に描かれる教師たちのどこか鷹揚な感じはこのあたりの事情からきているのかもしれないと納得できるような気がする。ただし漱石は必ずしもそうは思っていなかった。それもまた『坊ちゃん』に描かれる通り。漱石詩集にはもっと直接的な恨みがましい表現が見える。例えば漱石が松山で作った七言律詩のひとつから尾聯。引用・読み下しは『漱石詩注』(吉川幸次郎、岩波文庫、二〇〇二年)より。

 一任文字買奇禍 ひとえにまかすもんじのきかをかうを
 笑指青山入予洲 わらうてせいざんをさしてよしゅうにいる

買奇禍について吉川は《予想しない災難をひっかぶる。何かそうした事件が、そのころの先生にあったのであろう。しかしそんなことはどうでもいいというのが、「一任」の二字》と註している。それに続く「笑って伊予に入る」というのがどう読んでも負け惜しみだ。あるいは同じ頃の五言律詩はこうである。全文(松山の下宿から東京の正岡子規に宛てた葉書にしたためられている)。

 海南千里遠 かいなんせんりとおく
 欲別暮天寒 わかれんとほつしてぼてんさむし
 鉄笛吹紅雪 てつてきこうせつをふき
 火輪沸紫瀾 かりんしらんをわかす
 為君憂国易 きみのためにくにをうれうるはやすく
 作客到家難 きやくとなりていえにいたるはかたし
 三十巽還坎 さんじゅうそんにしてまたかん
 功名夢半残 こうめいゆめなかばざんす

流謫の心境だったとしか思えない。三十にして人生終わったな……。

むろん中山再次郎は漱石とは違ったのだろう。しかし、その言動は風変わりだったと本書にはある。

《何より、その変人振りを雄弁に物語るのは、その服装・風貌でした。
 いつでもどこでも、上下黒の詰襟服の一点張りに、古ぼけた中折れ帽子、生徒と同じゲートルを足に巻き付けて、ランドセルを背負うという質素な服装は、いつしかトレードマークとなりました。大きな会場に入ろうとして、受付の係官に怒鳴られたというエピソードもありました。》(本書)

何かもっとずっと濃〜い」と上に書いたのはこういうところも含めてのことである。

たまたま先年、古書店の店頭で見つけた「京都府立京都第二中学校一覧表」(昭和六年)。何かの参考になるかと買ったままでよく調べてもいなかったが、本書を読んだ後だと、見え方が変ってくる。

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目に留まったのは教員や生徒数とともに記されている「浴風塾」の現在人員。一年一、二年三、三年八、四年十七、五年九、合計三十八である。昭和六年ともなると塾生も減っていたようだ。他府県出身の生徒が三十四人いるのだが、学年別でみると必ずしも塾生とは重ならない。

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# by sumus2013 | 2017-03-02 21:25 | おすすめ本棚 | Comments(7)

カッコわるい人

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『シグナレス特別号 カッコわるい人』(蒼幻舎、二〇一七年一月二二日、表紙・デザイン=irori)および『シグナレス特別号 詩集「カッコわるい人」早川知行』(蒼幻舎、二〇一七年一月二二日、表紙・デザイン=irori)。これらは一月にみやこめっせで文学フリマが開催されたのに合わせて刊行されたもの。紹介しようと思いつつ今日になってしまった。季村さんの『河口から』が大人の(あるいは少々大人より歩み出ているかもしれないが)雑誌なら、森野氏の『シグナレス』は働き盛りの雑誌という感じで気持ちがいい。デザインセンスもストレート、これがまたいい。

《文学の世界にはなぜこんなにカッコわるい人たちが多いのでしょうか。//しかし、僕たちがそんなカッコわるい人をちょっと愛さずにはいられないのは、やはり僕たちもカッコわるいからなのだと思います。//今回はカッコわるい僕たちが文学の世界のカッコわるい人たちを紹介します。》

カッコわるいというか…昨日も書いたけど、極道なんだな。で、シグナレス的なカッコ悪い文学者というのは……宇野浩二、葛西善蔵、近松秋江、田山花袋、西村賢太、李龍徳、岩野泡鳴、獅子文六、山田風太郎、尾崎放哉、尾形亀之助……。

結局《カッコわるいことは、ときに、なんてカッコいいんだろう。》という結論になるのでありました。


『シグナレス』第二十二号(蒼幻舎、二〇一六年七月三一日)

SIGNALESS

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# by sumus2013 | 2017-02-28 20:54 | おすすめ本棚 | Comments(0)

河口から 特別号

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『河口から』特別号(季村敏夫、二〇一七年二月二五日、装幀=倉本修)。

《ちょうど一年前、個人誌をおもいたった。意外であった。漁港の近くに転居、海と河の風を浴びる暮らしが始まっていたので、『河口から』と名づけて、十五部作った。精一杯だった。だから、少部数とはおもえなかった。河口からという開かれた場所が支えてくれたのだろう、そのことに従った。自己充足は警戒した。
 出会いが重なり、個人誌が他者の寄りそう特別号となった。同時に、昨年の初夏より、岩也達也氏の最新詩集『森へ』(思潮社)を巡る冊子を作っていた。本号も冊子も、執筆メンバーは同じである。この偶然、時間を重ねる度に意味を持ち始めた。待つこと、そして、沈黙を抉るということ、二つの動詞をあらためて考える契機が訪れた。》(季村敏夫「特別号、あとがき」)

執筆メンバーは季村さんの他に、岩也達也、瀬尾育生、時里二郎、宗近真一郎、細見和之、瀧克則、水田恭平の各氏である。『たまや』が停滞して久しいが、大人の同人雑誌の雰囲気が『河口から』特別号にも漂っているのが、何とも好ましい。

『河口から』特別号が生まれた。 森のことば、ことばの森

『河口から I』(二〇一六年三月四日)

『河口から II』(二〇一六年十月念[二〇日])

文字の話/本の話 『たまや』をめぐって

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# by sumus2013 | 2017-02-28 20:29 | おすすめ本棚 | Comments(0)

島尾敏雄生誕100年

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『脈』92号(脈発行所、二〇一七年二月二五日)、特集・島尾敏雄生誕100年/ミホ没後10年。巻頭を飾る島尾伸三「おかあさんの謎」はちょっと凄い。

《1 むかつく
 数年前あたりから島尾ミホ伝を完成させたいという梯久美子[かけはしくみこ]さんが、月刊誌へ連載を始めたものだから、おかあさんのことを毎月根掘り葉掘り聞かれたので、梯さんがいくら礼儀正しく接してくれても、嫌な事を次から次へと思い出さなければならなくなったので、ぼくの不機嫌は益々悪化して気持ちを重いものにしていました。
 その連載が終わって2016年11月に『狂う人』(新潮社)という単行本に収まったので、ほっとしていたのに、おとうさんとおかあさんについて原稿を10枚から20枚も書けという「脈」の発行人は残酷です。おとうさんが死んだ直後にも「脈」には原稿や似顔絵を要求され、気持ちに反して字を書いたり絵を描いたりしなければならなかった息苦しかった時のことさえ思い出しました。しかも原稿料はありません。いったい、文芸の世界に興味の無いぼくに何を望んでいるのでしょうか。ぼくの存在が奇妙な経験をした見せ物に過ぎない事は百も承知で、さらし者にされるのもおとうさんとおかあさんの為だと思ってはいますが、どうしてぼくは嫌々ながらも字を書くのでしょうか。これが鬱憤ばらしになるのでしょうか。
 あんなにぼくや妹に失礼極まりないことをやっておきながら、おとうさんとおかあさんは死んでからも、生前そうであったようにぼくのお金や精神や肉体を奴隷のようにこき使います。いいえ、そんなことが負担になっている訳ではありません。彼らはまだ死んでいないかのように不気味です。》

……う〜ん。

中尾務さんも執筆しておられる。「島尾敏雄、再会した富士正晴に「小説ノタネニハ苦労シマセンワ」」。一九六五年、十三年ぶりに島尾敏雄は富士正晴に会った。富士はジャーナリズムで活躍するようになった島尾らに対して批判的であった。

《そう、この日の日記にでる小川国夫、島尾敏雄にあとひとり、埴谷雄高を加えた三人の作品が、富士正晴のいうところの「年とるほどにあかんようになる〈男前の文学〉」。富士は、山田稔に宛てたハガキでも〈埴谷とか島尾とか小川とかは余り有名になると魅力うすれます。所詮男前の文学なり〉(一九七四年六月二一日付)と三人を切りすてている(『富士さんとわたしーー手紙を読む』)。》

〈男前の文学〉とは言い得て妙なり。島尾に会った日の富士日記にこう書いてあるそうだ。

《細君は120%元気ノ由、上ノ子ハ高校一年デ島尾ヨリ高ク、次ノ子ハ中学生ダガ、3ツノコロカラモノガイエナクナツタ由、「小説ノタネニハ苦労シマセンワ」トイツタ》

細君がミホ、高校生が伸三、次ノ子は長女マヤである。伸三氏はまたこのようにも書いている。

《妹マヤが骸骨のように痩せ細って死んだのは、おかあさん、あなたの無神経な仕打ちのせいであったこと、よくご存知のはずです。ですから、おとうさんの死体も、マヤの死体も、ひと目につかぬように蓋をし隠し通して火葬場へ運んだのではないですか。ぼくは、おかあさんの家族の尊厳を無視した日々にとても怒っています。》

《その礼儀知らずは文学に夢中の人たちにも共通で、いくら彼らが周囲の人に対する尊大な思考や態度であっても、周囲をかき回すばあかりで、収拾のつかないまま放置する様は、戦争を始めた張本人でありながらうやむやに逃げきろうとする政治家や官僚の輩と精神構造は似たり寄ったりに見えるのです。
 哲学も文学も科学も、毎日を穏やかに生きるものには迷惑なのです。彼らは言葉を支える嘘に鈍感で、思い込みを表現としているらしいのです。あーむかつく。》

文学なんてロクなもんじゃない。美術だって同じこと。極道ですよ。

島尾敏雄と写真 『Myaku』15号

『脈』は三月書房の通販で購入できます。

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# by sumus2013 | 2017-02-27 20:27 | おすすめ本棚 | Comments(0)

新発見 花森の原画

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花森安治による雑誌『文明』(文明社)の表紙原画である。これらは某氏が古書店で求めて画像を提供してくださった。以前いくつかすでに紹介したが、今回はみつづみ書房での26日のトークにおいて全三十二点、見ていただけることになった(画像だけですが)。むろん初公開。どうぞふるってご参加いただきたい。

表紙版下だけでなく扉絵およびカットの原画も含まれる。ここではごく一部だけ紹介しておく。

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この『煙管』の扉の原画にはホワイト修正がほどこされている。参考までに印刷された扉と表紙も掲げておく。

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2017年2月26日(日曜日)
14時〜16時
【無事終了しました】

古書 みつづみ書房

古書 みつづみ書房Facebook

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# by sumus2013 | 2017-02-25 20:39 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

京二中 野球部記

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京二中鳥羽高ものがたり』(京二中鳥羽高校同窓会、二〇一六年二月二四日)の著者である藤田雅之氏より京二中の野球部および淀野隆三に関する資料を恵投いただいた。すでにコメント欄でご教示いただいたように淀野は野球部の捕手として活躍していた。その試合記録などが鳥羽高校に保存されている「野球部記」に克明に記されているのである。

まだじっくり目を通していないが、ハイライトはもちろん第一回全国中等学校優勝野球大会(一九一五)の優勝ということになる。ただしこのとき淀野はまだ二中に入学していない。その三年後、一九一八年の第四回大会で淀野も加わった二中野球部は京都予選を勝ち抜き、鳴尾浜球場で行われる全国大会へと駒を進めた。

《尼崎の宿舎に入って、組み合わせ抽選も終えた時に、信じられないことが起こります。この年、七月二三日、富山県魚津の「越中の女一揆」に端を発した「米騒動」が全国に波及し、野球どころではない事態となり、痛恨の中止決定となりました。二中の選手は泣きながら荷物をまとめて帰京することになりました。》(京二中鳥羽高ものがたり』第一巻より)

この件について淀野隆三のご子息がこういう思い出話をしてくださった。

《それから親父の野球ですが、中等野球で1年生の時に、甲子園の前の鳴尾浜球場に京都滋賀の代表で出場、相手が一回戦は弱いものだから、淀野出してやる、と言われていたそうです。ところが米騒動で大会が中止となります。その頃の写真で記憶に有るのは、NHKの野球の名解説者だった小西得郎さんが、現在の明治大学選手として、京都二中に指導にこられた全員の記念写真があります。》

また「野球部記」にはこういうことも書かれている。昭和二十一年、京津予選に優勝し、戦後初めての夏の大会出場(西宮球場)が決定した。予選で優勝した七月二十八日、OBが選手たちを招いて四条縄手上ル寸田氏邸の屋上でスキ焼パーティを催した。寸田氏というのは第一回優勝メンバーの野上実(のち寸田)である。日誌には《寸田、淀野、小城、小西、寺田……諸氏》と淀野隆三の名前も記されている。

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この件についてもご子息隆さんは以下のような思い出話をしてくださった。

《戦後第一回の中等野球では、予選から優勝までの全試合を親父に連れられて見に行きました。親父はその頃の向島で畑をやっていました。もちろん農家に手伝ってもらっていたのでしょうが、毎試合にそこで取れるトマトをいっぱいぶら下げて、私も持たされ差し入れしていました。優勝したのですが、その時に一塁手だった下村というよく打つでかい選手が、親父のスパイクを履いていました。いつもピカピカでずーっと靴箱に保管されていたのです。親父の靴が甲子園の土を踏んだことになります。

余談ですが、電通のSP局の企画部長で、故、森川英太郎というのがいました。ある日仕事で行った私のところにやってきて、
「あんたは淀野のボンボンですか?」
と聞かれ、
「そうですけど」
と答えたら、あの浪商との優勝戦まで、「レフトで7番を打っていた」というわけです。「あの頃お父さんに連れられて、トマトを運び応援に来てくれていたあのボンボンですかいな」てなことになり、他の連中も驚いたわけです。当人同士はそれから極めて仲良く仕事させていただきました。彼は京都「浜作」さんのご長男で、映画監督になりたく、店は弟に任せ松竹の助監督。松竹がつぶれて、電通に入って来られたようです。

ついでに言えば、一高三高の45歳以上の試合というのがありました。親父は三塁手(三高からキャッチャーから三塁手に転向)でしたが練習なしでも、飛んでくると結構うまく球をさばいて、一塁に送るわけで、びっくりしました。この中に、宇野ガンボーと言われていたスラッガーがいました。現役時代からスラッガーだったらしいのですが、この方が巨人軍の当時の球団代表でした。私が中学2年生で親父は、三笠書房の編集長と明治の講師だった時です。

藤田氏に頂戴したコピー(当時の新聞記事)によれば昭和二十一年の試合ではたしかに一塁で四番の下村、左翼の森川の名前がある(森川は予選決勝では九番)。宇野ガンボーというのは宇野庄司(一九〇三年兵庫生まれ、神戸二中〜三高〜京大〜読売新聞社)のことであろう。

京二中鳥羽高ものがたり』は他にも面白い話がいろいろ出ているので改めて紹介したい。

なお、ご子息、淀野隆氏についてネット上で捏造話が流布されているようだが、御本人は事実無根と一蹴しておられるので、念のために記しておく。

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# by sumus2013 | 2017-02-25 17:45 | 古書日録 | Comments(5)