林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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武庫川詣で

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小磯記念美術館で「生誕150年記念 藤島武二展」(感想は後日にでも。珍しい作品、書籍、絵葉書なども多数出品されていました)を見た帰途、武庫川で下車。久し振りの「街の草」詣で。

いつにもまして詩集や詩誌が目立っていた。まだ杉山平一旧蔵書の残部があるようだし、それ以外にも別の詩人のところから来た蔵書も混じっているそうだ。下の写真の『詩祭』(奈良で発行されていた詩誌)には「平一」の印があった。これらはごく一部、他にも奥に積み上げられている中に、かなりいい本が目に付いた。値段は街の草さんならではののんびりしたもの。ただ、今は詩の関係にはさほど熱中していないため、珍しいものもあるもんだ、と思って本を崩したり積んだり小一時間楽しませてもらっただけ。

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ただ、詩の関係ではないが、ちょっとエキサイティングな一冊を発見。いずれ近いうちに報告します。

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# by sumus2013 | 2017-12-22 20:09 | 古書日録 | Comments(0)

渋谷毅+鈴木常吉

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昨夕、京都は島原大門前のギャラリーのざわで行われた「エンゲルスガール10周年記念ライブ 熱烈歓迎 渋谷毅さん & 鈴木常吉さん」に参加。細長い町家でのライブだったが、ほぼ満席、かぶりつきに陣取って楽しませてもらった。渋谷さんの左手がしなやかだった。

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# by sumus2013 | 2017-12-21 16:08 | おととこゑ | Comments(2)

レッテル便り


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少し前に頂戴していたレッテル葉書より。

《今までお届けした中ではおそらく最大のラベルでしょう。百円均一棚にあった、やはり音楽関係の古本に貼ってあり、このラベル目当てで購入しました(笑)。想像ですが、大判の楽譜の古本に貼るために、このサイズになったのでしょう。神保町の店舗にはほとんど入ったことはありません。
 
 待晨堂も、おそらく一度しか入ったことはないと思います。これまた他店の均一棚にあった一冊に貼られていたもの。》

古賀書店のレッテルサイズはタテ36ミリ、ヨコ30ミリ。たしかにかなりの大物である。図は竪琴をかなでる文芸の女神ムサイだろう。なお「待晨」は「見張りの者よ、今は夜の何ときか。『夜明けは近づいている。しかしまだ夜なのだ』」(旧約聖書「イザヤ書」21章9節)にちなむ言葉。


KOGA MUSIC BOOK STORE

待晨堂

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# by sumus2013 | 2017-12-20 17:14 | 古書日録 | Comments(0)

漱石漢詩研究

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和田利男『漱石漢詩研究』(人文書院、一九四〇年三月再版)。奥付の版元住所は京都市河原町二條下ル、発行人は渡邊久吉。文春学藝ライブラリーから同じ著者の『漱石の漢詩』(二〇一六年)が刊行されているが、これは『漱石の詩と俳句』(めるくまーる社、一九七四年)の改題だそうで、目次を見ると内容はかなり広く深くなっているようだ。本書は和田の最初の書物かとも思われ、漱石漢詩研究のスタート地点ということができよう。

ただ、実は、子規関連の次には漱石を、と思ったまでで、まだよく読んでいない。「漱石に及ばせる詩人の影響」というところを少し紹介してお茶を濁しておく。

漱石は書物から漢詩を学んだ。まずは陶淵明。「草枕」に引用があるし、漢詩作品にも影響が認められる。菊の花を好んだことも共通する。「漱石山房蔵書目録」には『靖節先生集』と『靖節先生年譜攷異』が見られるだけだが(靖節先生=陶淵明)、明治二十九年一月十七日付け子規宛書簡のなかに『陶淵明全集』を得て甚だ愉快と書いている。

王維も「草枕」に登場する。自作の漢詩や俳句でも詩句を参考にしている。

寒山子。晩年の作には禅味が勝ち過ぎた作が多く、影響を思わざるを得ない。「漱石山房蔵書目録」には白隠の『寒山子闡堤記聞』が見える。

高青邱(高啓)。大正五年九月二日付け芥川・久米宛書簡に言及がある。学生時代から愛読していたらしい(大塚保治の回想)。影響の明らかな作がある。斎藤拙堂『高青邱詩醇』が蔵書中に見える。

杜甫を愛誦した。蔵書中に『杜律集解』『杜詩鏡銓』『杜詩偶評』『杜工部文集註解』が見える。ただ、作品に杜甫の影響は感じられない。

陸游の影響も言われるが、《う思えばさう感ぜられる程度で、はつきりとは断じ難い》。『三家妙絶』『宋元明詩選』などがあって陸游にも親しんではいたであろう。

本邦の詩人が与えた影響はほとんどない。蔵書中に田邊碧堂『碧堂絶句』がある。旧幕以前の詩人のものは一冊も蔵していなかったので興味を感じなかったのだろう。ただし良寛の詩は好んでいたと思われる。初期に添削を受けた子規や長尾雨山(第五高等学校の同僚、讃岐出身、漢詩人・書家として令名があった)の影響も多少あったかもしれないが、詩作における形式上のことであろう。

以上のような内容である。吉川幸次郎の『漱石詩注』によって少しばかり補えば、

寒山子ーー唐の詩僧。その詩集「寒山詩」は先生の愛読書であり、「文学論」第三編第一章その他に言及がある。

「市中散歩の折古本屋で文選を一部購求帰宅の上二三枚通読致候結果に候」と子規宛書簡で文選を真似たことを告白している。

《蕉堅稿ーー五山の詩僧、絶海中津の漢詩文集。先生の愛読書。》

あたりになろうか。

もうひとつ、いま気付いたが、『漱石漢詩研究』の漢詩と書画を論じたくだりで「草枕」の和尚の会話(頼山陽と荻生徂徠の書を較べるくだり)に言及した後、和田は漱石が森鷗外に宛てた大正五年十月十八日付けの手紙を引用している。そこに山陽の書について漱石はこう書いている。

《嗚呼惜しいと思ふのです。今一息だが、と言ふのです。あの字は小供じみたうちに洒落気があります。器用が祟つてゐます。さうして其器用が天巧に達して居りません。正岡が今日迄生きてゐたら多分あの程度の字を書くだらうと思ひます。正岡の器用はどうしても抜けますまいと考へられるのです。》

子規を評した「最も「拙」の欠乏した男の意味は、具体例をもって語れば、こういうことになるのだろう。


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# by sumus2013 | 2017-12-19 21:09 | 関西の出版社 | Comments(0)

臘八の禅堂

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子規とのつながり、というほどのことでもないが、年末なので何か俳句の短冊を紹介したいな、と思いながら数点取り出した。そのなかに、この一枚があった。

 臘八の禅堂雪に沈みけり 一杉

臘八は月(十二月)八日ということで、釈尊の成道の日だそうだ。とくに禅宗では臘八接心と称する坐禅会を行うという。しかし小生にとって十二月八日と言えば、ジョン・レノンがダコタハウスの前で射殺された日。ただ、ここでは昭和十六年、真珠湾攻撃の日ではないだろうか……?

署名をどう読んでいいのかさっぱり分からなかった。ダメモトと思って、この俳句で検索をかけたところ、イッパツで本田一杉の作品だと判明。サインもよくよく見れば「一杉」と読めるようだ。「一」は「沈」のサンズイとひっついている「フ」みたいな形。最下段の三つの記号の左が「木」で中が「彡」、右が「り」。かなりの達筆である。

本田一杉(1894-1949 ほんだいっさん)、本名喜良。医師、昭和九年「ホトトギス」同人となる。ハンセン病療養所を巡り療養者の俳句を指導したという。

「子規居士と女性・本田一杉」について



* * * * * *


えびな書店古書目録『書架』121号「特集 画家になる時」が届いてビックリ。宮崎与平の絵葉書が九点も掲載されている!

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《ある書画屋さんから割愛を受けた中に渡辺(宮崎)与平の葉書が九枚も含まれていたのに驚いた。明治45年に亡くなった万24年足らずの生涯で、新資料の発見は難しいと思うのに、その動向を後[ママ]付ける資料の発見は嬉しいものだった。諸家の封筒コレクションを少し前に目録に載せたことがあるが、漱石や鏡花よりも与平が入っているのが実はうれしかった。この人の奥さんの渡辺ふみ子は会津八一と恋仲だったという噂もあり、余計気になる存在だった。夭逝の画家はとかく悲劇的な様相を帯びることが多いが、与平には暗さがないのが好ましい。》(編集後記より)

売価もやはり……かなりのもの。

渡辺与平『ヨヘイ画集』

さらに亀高文子



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# by sumus2013 | 2017-12-18 20:32 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

漱石と子規

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『漱石と子規 松山・東京 友情の足跡』(新宿区立新宿歴史博物館、二〇一七年九月二四日)図録を頂戴した。深謝です。同展は九月二十四日から十一月十九日まで開催されていた。同じ慶応三年(一八六七)生まれの二人の交友を書簡や原稿、書画などから辿り、年表と詳しい関連地図も付すという非常に内容の濃い編集になっている。や、これは便利だ。

「子規」「漱石」というペンネームも明治二十二年五月頃ほぼ同時に使い始めたそうだ。同月九日、子規は喀血した。そこで「鳴いて血を吐くほととぎす」からホトトギス=子規とした。その頃、子規がまとめた回覧文集『七草集』に対する批評文で漱石は初めて漱石という号を用いた。それをしたためたのが五月二十五日である。文末に《辱知/漱石妄評》と署名している。

なお「漱石」の出典は『世説新語』の故事による。

孫子荊、年少時欲隠、語王武子当枕石漱流、誤曰漱石枕流。王曰、「流可枕、石可漱乎。」孫曰、「所以枕流、欲洗其耳、所以漱石、欲礪其歯。ー

晋の孫子荊(孫楚)がまだ若かった頃、厭世し隠遁生活を送りたいと思い、友人である王武子(王済)に、「山奥で、石を枕に、清流で口を漱ぐという生活を送りたい」というところを間違えて、「石で口を漱ぎ、流れを枕にしよう」といってしまった。王武子が「流れを枕に?石で口を漱ぐ?できるものか。」と揶揄した。すると孫子荊は負けじと「流れを枕にするのは俗世間の賤しい話で穢れた耳を洗いたいからだ。石で口を漱ぐのは俗世間の賤しいものを食した歯を磨きたいからだ。」といい返した。》(ウィキ)

いまさらながら、これは非常に面白い。明治二十二年と言えば、漱石は二十二歳(明治の年号と同じ年齢)、もうすでに隠遁生活に魅かれていたのか……。

また本書に収められている復本一郎「漱石の「守拙」と子規の「守愚」〈あづま菊〉の歌をめぐって」という論考にも関わってくる。あづま菊の歌というのは、上に掲げた病床の子規が漱石に贈った菊の絵に付されているもの。復本氏によれば、漱石は「守拙」を、子規は「守愚」をモットーとした。

 木瓜[ボケ]咲くや漱石拙を守るべく  漱石
 夕顔の居る糸瓜の愚を守る  子規

明治三十三年六月、子規が漱石に送った上掲の絵に添えられた歌は見ての通り、

 あづま菊いけて置きけり火の国に住みける君の帰りくるか[が]

である。ところが、子規歿後、漱石は朝日新聞(明治四十四年七月四日)に発表した「子規の画」という文章で、末尾を《帰りくるか》として紹介している。現在の全集にもこの形で収録されている。

ところが、ちょっと待った、と、柴田宵曲が、この画賛を実見して末の字は「な」ではなく「ね」であることを『日本及日本人』(昭和三年九月十九日)誌上で指摘しているそうだ。「がね」は万葉集に多用されている終助詞(接続助詞とする説もある)。意味は「〜だろうから/〜のために」。

 梅の花我は散らさじあをによし奈良なる人も来つつ見るがね
 (万葉集一九〇六)

 佐保河の岸のつかさの柴な刈りそね在りつつも春し来たらば立ち隠るがね
 (万葉集五二九)

誤植ということも考えられないわけではないが、漱石は上代語に不慣れだったため「かね」を「かな(那)」と読んだのだろう、という。そして復本氏が問題にしているのは、子規の生き方に対する漱石の評価である。漱石は、東菊の絵はまったく拙なのだが、

子規は人間として、又文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。

と断定している。しかし

《子規が紅緑に宛てた手紙を通して窺うことのできる、子規の「小生ハどこ迄も正直にやるつもりにて、馬鹿といはるゝ覚期[悟]に御座候」との生き方は、まさに「愚」そのものの生き方。「拙」の生き方肯定宣言とも言うべきものである。最晩年の一句である、
 大三十日[おおみそか]愚なり元旦猶[なほ]愚なり
には、そんな生き方を選択した自らへの矜持がはっきりと窺える。

《漱石の炯眼をもってしても、子規の「愚」の生き方を見抜くことはできなかったのであろうか。あるいは、病子規は、親友漱石に対して「愚」の生き方を故意に秘匿していたのであろうか。》

と疑問を投げかけておられる。なるほど。ただ小生が思うのは「守拙」と「守愚」は同じではない、のではないか、というごく単純なことである。『新字源』で見ると、

 守愚(1)自分のおろかさにあまんじて無理をしない。
   (2)おろか者のふりをしている。

 守拙 世わたりのへたな自分にあまんじ、りこうに立ちまわることをしない。
   〔陶潜・帰田園居詩〕「守拙帰田園」

子規は「守愚」を「守拙」の意味で使っているようでもある。実は、愚と拙の根源ははっきり異なる。『字統』には愚とは字形からみて、頭部の大きな爬虫類であろう。その姿を人に移して顒然[ぎようぜん]というのは、その厳荘の状をいう語である。その厳荘の風姿に似合わず、機略に乏しいという感じを、愚といったのであろう。》とあり、拙とは《〔説文一二上に「巧みならざるなり」とあり、不器用の意。〔老子〕第四十五章に「大巧は拙なるが若し」とあり、器用さを示さないことを尊ぶ風があった。》と説明されている。

「愚」は見かけ、「拙」はテクニックからきているわけである。漱石が子規のことを「最も「拙」の欠乏した男と見るのはそういう意味においてではないか。漱石は子規を、漢詩、俳句、絵(鑑賞も含む)、批評などのどの分野においても、そして人間としても、自分より勝っていると考えていたことはほぼ間違いない。それは漱石が若くして隠遁を願っていたこととも微妙に関係してくるように思うのである。
  

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# by sumus2013 | 2017-12-16 21:18 | おすすめ本棚 | Comments(2)

LES MARIONNETTES DU JOUR

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つい最近「LES MARIONNETTES DU JOUR 今日のマリオネット」と題された銅版画、手彩色の一枚を入手した。画面サイズが16cm×25cmほど。普通は版元や制作者の名前が刻まれているのだが、諷刺画だけに、お上の取締を慮ってか、それらの情報はどこにも見当たらない。

赤い制服は、見た通り、革命後の太鼓兵のものだというのは分かったが、それ以外はよく分からない。右端は聖職者なのだろうか? 何か特定の出来事をテーマに諷しているようにも思うが、知識に乏しく想像すらできない。顔などもひょっとしたら当時の主要人物の似顔絵になっているかもしれない。

と書いたところ、読者の方から御教示いただきました。フランス国立図書館に同じ版画が所蔵されており、その解説を読むことができます。

革命期より後の一八一五年の出版でした。

《Titre(s) : Les Marionnettes Du Jour [Image fixe] : [estampe]
Dénomination :
Publication : [S.l.] : [s.n.], [s.d.]
Description matérielle : 1 est. : gravure à l'eau-forte, coloriée ; 16,1 x 24,7 cm
Note(s) : Dépôt par Louis le 1.er juin 1815. Autres épr. dans les rec. Qb. 1 (mars 1815) et Tf. 23
Ce sont la Prusse, l'Autriche et la Russie, liées par une ficelle que meut le montreur Wellington. «Voilà notre ressource», s'écrie en les montrant la duchesse d'Angoulême, casquée à la Minerve, qui tient une sébille et une longue perche à laquelle sont suspendues des décorations du Lis et de la Légion d'honneur et une banderole prometteuse : «Venez vous en aurez». Louis XVIII complète ce trio de foire en jouant la contrebasse 》

取り急ぎ拙訳しておくと以下のような説明内容である。登録(Dépôt)のところに「Louis le 1.er」とあるのは「ルイ・フィリップ一世 Louis-Philippe 1er (1773 - 1850)」。

紐で繋がれているのはプロシア、オーストリア、ロシア。ウェリントンが紐を操っている。「これがわれらの糧である」は、ミネルヴァの兜をかぶったアングレーム公爵夫人で、彼女は手に木のお椀と、百合とレジョン・ドヌール、そして幸先のよい吹き流しで飾られた長い竿を持っている。「Venez vous en aurez」、ルイ十八世がコントラバスを演奏しながら、騒いでいるそのトリオを申し分のないものにしている。

なるほど、やはり当時のややこしい政治状況が反映していたわけである。アングレーム公爵夫人はルイ十六世とマリー・アントワネットの第一王女でヴェルサイユ宮殿で生まれた。革命後はオーストリアからロシア、イギリスへ亡命、一八一四年、ナポレオンの敗北とともにフランスに帰国。男勝りの王女と見なされていたようである。ルイ十八世は一八一四年から一五年にかけてフランス王に就いていた。「Venez vous en aurez」はどう訳せばいいのか分からないが……文字通りなら「ここに来て、それをとりなさい(食べなさい)」くらいだろうか。画中の言葉ではない。

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ベースのおじさんの頭の上にはこう書かれている。

  ……Donnez-nous notre pain quotidien, et
  pardonnez-nous nos offenses……

  ……日々のパンをわれらに与え給え、そして
  われらが罪を許し給え……

これらはマタイ伝の記述に近い。「pardonne-nous nos offenses」はそのままで「Donnez-nous aujourd'hui le pain nécessaire à notre subsistance」。祈禱の常用句「Notre Père われらが父」では「Donnez-nous aujourd'hui notre pain quotidien」というらしい。

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  Voilà notre ressource.
  これがわれらの糧である

こちらも聖書(イザヤ書など)では「Toute ressource de pain Et toute ressource d'eau」(凡てその頼むところの糧、すべてその頼むところの水)などと使われている句のもじりだろう。

カリカチュールという言葉は、誇張するという意味のラテン語カリカーレ(caricare)からきている。フランス革命前後の十八世紀には多数のカリカチュールが出版された。特権階級に基づいたアンシャン・レジームの社会を批判したものもある。たいていは僧侶と貴族によって支配され抑圧され搾取されていた平民階級を描いたものである。
Les caricatures de la société d'ancien régime

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紙も古い。

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# by sumus2013 | 2017-12-14 16:25 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

薬物学

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「薬物学 全」と題された写本。本文冒頭に下のように記されている。

 薬物学 Pharmacologia, Materia medica
       医学士 更井久庸氏 口述
       生 徒 屋葺熊七氏 筆記

要するに講義録である。更井久庸で検索してみると、どうやら第三高等中学校医学部で行われた講義のようだ。

第三高等中学校医学部

1870年(明治3)に開設された岡山藩医学館が本学の始まりであるが、近代化を目指して国の教育制度の変遷によって、名称が目まぐるしく変わっている。医学館から医学所、医学教場を経て、次いで10年後の80年に岡山県医学校となり、前述のように88年(明治21)に国立学校として第三高等中学校医学部(三中医)が発足した。三中医が存在したのはあ、88年から94年(明治27)までの6年間で、その後は高等学校医学部、医学専門学校、医科大学、大学医学部と改称された。名称だけでなく学校と病院の場所も東山から弓之町などを経て、90年(明治23)に内山下に新しい三中医の校舎が、つづいて翌91年に新岡山県病院が完成した。現在の鹿田へ移ったのは1921年(大正10)である。

他にも、田宮ノートや村上ノートといった講義録が残っているようである。薄い和紙に書かれ、袋綴じ、背をクロス状のもので固めてある。120丁(240頁)。一頁はきっちり十二行。罫線紙を使っているところもあり、そちらは十三行。とにかく熱烈な勉強振りと言わざるを得ない。ただし読みづらい・・・

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巻末に近いところに《明治二十五年第七月……》と記入されている。屋葺熊七は『岡山医学会雑誌』Vol.7(一八九五)No.6に「癩病療法ニ就テ」を執筆していることだけは分かるが、目下それ以外にはとりたて情報はないもよう。

百万遍の均一和本の山のなかで見付けた一冊である。




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# by sumus2013 | 2017-12-13 20:10 | 古書日録 | Comments(0)

今年の古本2017

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『20周年記念独立関西展画集』(一九五一年一一月二二日〜一二月九日、大阪美術館、表紙画=小出三郎)。本文は問題ないのだが、広告の頁が二枚(四頁)切り取られている。裏表紙に記名あり「中村善種」、独立展の会員である。切り取りは残念だが、均一に入れて置くには惜しい一冊だと思うのでありがたく買わせていただいた。

今年の漢字も発表されたことだし(?)、そろそろかと思って、今年買った古本のリストを点検をしてみた。近頃は絵や書を買うのが楽しくて、古本は以前ほど熱心に探求していない。それでも均一台を前にしたときのワクワク感は相変わらず。下記の十点の内『竹田全集』と『書彩』以外はすべて均一にて。驚くようなものはないにしても、個人的には、まずまずの収穫だと思っている。こういう本を出し続けてくれる古本屋さんたちに感謝である。来年もどうぞよろしく(まだ少し気が早いですが)。

『20周年記念独立関西展画集』一九五一

◉「瀧口修造展の絵葉書セット」南天子画廊、一九七九

◉DES DAMES ROMAINES, fata morgana, 1968
◉LES DERNIERES TRAVAUX DE GULLIVER, fata morgana, 1974

花田清輝『復興期の精神』我観社、一九四六

◉『田能村竹田全集』国文名著刊行会、一九三五、三版

◉『ふるほんやのざつし書彩』創刊号、百艸書屋内書彩発行所、一九四九
◉『ふるほんやのざつし書彩』第二号、百艸書屋内書彩発行所、一九四九

◉『冝園百家詩初編』巻四、五、六、七、八、須原屋他、天保十二(一八一四)

◉「薬物学」写本 更井久庸・口述 屋葺熊七・筆記、明治二十五頃(一八九二)



読んで面白かった本は多い。今年はよく読んだ方だ。受贈書もあれこれ素晴らしいものを頂戴した(そちらはカテゴリー「おすすめ本棚」でご覧下さい)。貰った本以外では、神田喜一郎『墨林閒話』(岩波書店、一九七八年三刷)、水上勉『古河力作の生涯』、デューラー『ネーデルラント旅日記』、小金井喜美子『森鷗外の系族』(大岡山書店、一九四三年)、ヘミングウェイ「移動祝祭日」(『ヘミングウェイ全集10』三笠書房、一九六六)、佐野眞一『旅する巨人』、澤柳大五郎『風花帖』(みすず書房、一九七五年)、小川洋子『博士の本棚』などが記憶に残る。

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# by sumus2013 | 2017-12-12 20:48 | 古書日録 | Comments(0)

Ouroboros

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『Ouroboros 東京大学総合研究博物館ニュース』Volume 22, Number 1(東京大学総合研究博物館、二〇一七年九月八日)およびチラシなど何種類か頂戴した。本号の巻頭記事は寺田鮎美「『植物画の黄金時代英国キュー王立植物園の精華から』によせて」。インターメディアテク館長は『装釘考』の西野嘉章氏)で、残念ながらもう終了してしまったが、十二月三日まで開催されていた。

the Royal Botanic Gardens, Kew

キューの所蔵する歴史的な植物画と東京大学所蔵の植物標本を組み合わせた展示だったそうだ。近場ならぜひ見ておきたかった。

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《キューの歴史は、1759年、当時の皇太子妃で後のジョージ三世の母親にあたるオーガスタ妃が王宮の周りに造った小さな庭園に始まる。今日では、キューは庭園として人々の憩いや楽しみの場であるだけでなく、世界中の植物や菌類について、最大でかつ極めて多様性に富むコレクションを有する世界有数の研究機関として知られる。
 そのキューの図書館には20万枚以上の植物画が保管されている。この植物画コレクションは、世界的に著名な植物画家であるゲオルグ・ディオニシウス・エーレト(1708-1770)やフランツ・アンドレアス・バウアー(1758-1840)の作品に加え、イギリス東インド会社による植民地支配を歴史的背景にした「カンバニー画」と呼ばれるインド人画家らの手がけた一群の植物画、キュー公式初代園長で世界に通用する植物園兼研究機関へとキューを発展させたウィリアム・ジャクソン・フッカー(1785-1865)やその息子で同じく園長を務めたジョセフ・ダルトン・フッカー(1817-1911)といった植物学者自らが手がけた作品を含む。》

20万点のなから、優品28点が西野館長によって選ばれたそうだ……。チラシのチューリップはエーレト作。

《これに対応する植物標本として展示するのは、総合研究博物館資料部植物部門所蔵のTulipa gesneriana L.(Liliaceae)である。》《チューリップは19世紀後半になって日本に渡来したと言われており、「鬱金香」の名で呼ばれた。本標本は、東京大学大学院理学系研究科附属植物園(小石川植物園)で植栽されていたもので、ラベルに採集年として1877年4月10日の記載があり、日本におけるチューリップ栽培初期のものであると考えられる。》

カーティスの植物図


もうひとつ、植物図ということで注目すべき展覧会がある。こちらはまだ開催中。「開館二〇周年記念没後一一一年 五百城文哉[いおきぶんさい]「高山植物写生図」の世界」(小杉放菴記念日光美術館、2017年11月11日〜12月24日)。

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《なかでも五百城の評価を高めているのは、高山植物を中心とする、植物学的な知識に基づきながら精細に描かれた植物画の数々でしょう。五百城文哉は、農商務省山林局で標本の仕事にたずさわった後、日光に住まいを移してからは、本格的に植物の研究に取り組むようになります。現在残されている植物画の多くは、植物研究の同好者たちからの依頼によるものと推測されていますが、標本としての役割を果たすだけに留まらない、高い芸術性を持っており、描かれてから100年以上経った今でも、その色鮮やかな色彩は私たちを魅了してやみません。》(ちらしより)

五百城については下記の記事で少し触れたことがある。

小杉放庵『故郷』

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# by sumus2013 | 2017-12-11 20:36 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)