林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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放香堂

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『KOBEの本棚』第86号(神戸市立中央図書館、二〇一七年七月二〇日)を恵投いただいた。その巻頭に載っているのがこの「放香堂」の記事である。

『豪商神兵湊の魁(ごうしょうしんぺいみなとのさきがけ)』より「放香堂」の店頭の様子/「宇治製銘茶」と「印度産珈琲」の看板が掲げられている》(図版キャプション)

「魁」というのは明治初期に各都市がこぞって(だと思う)発行していた商店案内の冊子(持ち歩きできる横長小型サイズが多い)。銅版印刷の細かい絵柄が特徴(新時代の感覚だろう)。「〜の魁」と題するのが通例で、それらをひとまとめに魁本(さきがけぼん)と呼ぶ。『豪商神兵湊の魁』は明治十五年発行。元町・栄町など雑居地(外国人と日本人が共に居住できる地域)の商店を紹介している。

神戸で最初にコーヒーを販売したのは、元町三丁目の茶商「放香堂」です。放香堂は明治七年(一八七四)開業で主に宇治茶の販売をおこなっていましたが、明治十一年(一八七八)よりコーヒーの販売も始めました。同年十二月二十六日付の読売新聞に、広告を出しています。そこには、「焦製[しょうせい]飲料コフィー 弊店にて御飲用或ハ粉にて御求共に御自由」と書かれており、コーヒーを飲用と粉で販売していたことがわかります。》(神戸とコーヒー)

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説明文の筆者(無記名)は明治二十一年開店の「可否茶館」より十年も前に、日本初の喫茶店が神戸に誕生していたということになります》と書いている。店頭で珈琲を飲めたからといって即「喫茶店」と決めつけるわけにはいかないと思うが、外国人向けというだけでなく日本人においても珈琲の需用が生まれていたと推定してもいいだろう(漢字だけの看板に注意)。郵便切手も売っていたようだ。

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# by sumus2013 | 2017-09-06 20:36 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

それから

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夏目漱石『それから』(日本近代文学館、一九八二年二月一日六刷)読了。原本は春陽堂から明治四十三年一月一日に発行されている。四十二年の六月から十月にかけて東京・大阪朝日新聞連載。

これもずっと前に文庫本か縮刷本で読んだ記憶がある。ただ通読して覚えていたのは画家の青木繁がチラリと登場するところ、犬の名前「ヘクター」(その頃、小説や随筆に登場する犬の名前をコレクションしていた)、そして学校時代の友人が地方へ戻って地主になりだんだんと書物から離れて行く様を描いたくだり、この三ヶ所だけで、ストーリーなど全く忘却の彼方だった。

主人公はいい年をして親に金をもらって何もしないでぶらぶら暮している代助(『三四郎』の広田先生が言う新しい若者たちの一人か)。彼が東京をあちこち歩いたり電車や俥に乗ったりしてウロウロする描写にひとつ読みどころがあるかもしれない(パリ市内をむやみに歩くネルヴァル『オーレリア』を連想させる)。要するに新しいモラルや職業観を持つ"新人類"を描いたということなのだが、ただ、それ以外は何もないに等しい三文恋愛小説で、これで当時の読者は満足したのだろうか? 

連載は大逆事件のちょうど一年前である。本文中にも次のようなくだりがある。平岡は主人公・代助の親友だった男。会社勤めをしくじって新聞社に入った。

平岡はそれから、幸徳秋水と云ふ社会主義の人を、政府がどんなに恐れてゐるかと云ふ事を話した。幸徳秋水の家の前と後に巡査が二三人宛晝夜張番をしてゐる。一時は天幕[テント]を張つて、其中から覗[うかが]つてゐた。秋水が外出すると、巡査が後を付ける。萬一見失ひでもしやうものなら非常な事件になる。今本郷に現はれた、今神田へ來たと、夫[それ]から夫へと電話が掛つて東京市中大騒ぎである。新宿警察署では秋水一人の為に月々百圓使つてゐる。

当時の政府におけるこの過敏さが大逆事件の下地であることは間違いない。それはそうとして古本屋が登場しているので、そこだけ引用しておこう。父親から仕送りを止められることを覚悟した代助が金策としてまず思いついたのが洋書を売り払うことだった。

りに神田へ廻つて、買ひつけの古本屋に、賣拂ひたい書物があるから、見に來てくれろと頼んだ。

ところがそのすぐ後で嫂から小切手が送られて来た。とりあえずひと安心。

牛込見附を這入つて、飯田町を抜けて、九段下へ出て、昨日寄つた古本屋迄來て、
 「昨日不要の本を取りに來て呉れと頼んで置いたが、少し都合があつて見合せる事にしたから、其積もりで」と斷つた。歸りには、暑さが餘り酷かつたので、電車で飯田橋へ廻つて、それから揚場を筋違ひに毘沙門前に出た。

『三四郎』の次に書かれた小説のようだが、『三四郎』のノンキさは後退し、かなり自然主義的にシリアスになっている。島崎藤村の『破戒』(明治三十九年出版)から影響を受けたと思ってほぼ間違いないだろう。文中に森田草平の『煤煙』も登場しているが(「それから」の直前の朝日新聞連載小説だった)、何か意識するものがあったのかもしれない。

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# by sumus2013 | 2017-09-05 20:38 | 古書日録 | Comments(0)

老子道徳経

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makino さんより久し振りの古本便りが届いた。ウィーンで古本漁りとは羨ましいかぎり。

7月末にウイーンのシュレーディンガー研究所に行ったおり、時間を盗んで、ナッシュマルクトの蚤の市に行ってみました。そこで5オイロで拾ったドイツ語訳『老子』(H. Federmann訳・1921年ミュンヘン刊)の書影を添付します。瀟洒な本で、大いに気に入りました。しかし、冒頭の「道可道,非常道。名可名,非常名。云々」の「道(タオ)」を「der GEIST」と訳して、
Der GEIST, den man aussprechen kann, ist nicht der ewige GEIST.
とやっつけてるのは、どうでしょうか。見識と云うべきか、武断と云うべきか。ちなみに、アーサー・ウエイリの英語訳では
The Way that can be told of is not an Unvarying Way;
とやっつけているので、直訳ですが、これだけでは英語国民にはぴんと来ないかも知れませんね。

いただいた画像がちょっとピンボケなのだが、なんとか読めるか。といってもドイツ語には暗いので読める方どうぞ。「GEIST」は「精神」というような意味だから「道」の訳語としてはかなり大胆というか、はっきり言って誤訳だろう。

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老子の英独対訳などはいろいろなサイトで閲読できる。ご興味ある方はぜひ検索されたし。原文および和訳も数々あるようだが、とりあえずこちらを引用しておく。

老子道徳経 ( 道家思想 《老子・荘子》)

ついでにフランス語はどうなのかと思って捜してみると一八四二年刊のスタニスラス・ジュリアン(Stanislas Julien)による翻訳書を閲覧できることが分った。

LAO TSEU TAO TE KING 老子道徳経
Le Livre de la voie et de la vertu

解説文でジュリアンは「道」(Tao タオ)についてこういう解釈を施している。

le Tao est dépourvu d'action, de pensée, de jugement, d'intelligence. Il paraît donc impossible de le prendre pour la raison primordiale, pour l'intelligence sublime qui a créé et qui régit le monde.

タオというのは行動も思想も判断も知性もない。原初の道理、世界を創造し支配している崇高な知性をそれだとするのは不可能のようである……。で「GEIST」のところはもちろん英訳の「The Way」と同じように「La voie(道)」としているが、意味を補いつつ丁寧に訳している。「常」をéternelle(永遠の)と解釈しているのも興味深い。

道可道、非常道。名可名、非常名。
無名天地之始、有名萬物之母。

《 La voie qui peut être exprimée par la parole n'est pas la Voie éternelle;le nom qui peut être nommé n'est pas le Nom éternel.
 (L'être)sans nom est l'origine du ciel et de la terre;avec un nom, il est la mère de toutes chose.

なお、本書では本文中に漢字が散見されるが、一八四二年においてすでに漢字の活字を鋳造していたということになる。印刷は王立印刷所(L'IMPRIMERIE ROYALE)で行われたとタイトルページに明記されている。これは、手短に言うと、オルレアン公爵ルイ=フィリップ(一八三〇年の七月革命で王位に就き一八四八年に二月革命で倒される)の王政下で刊行されたためわざわざロワイヤルとしたのだと思う。

この件の事情について説明してくれる一文を発見した。小宮山博史「日本の明朝体 金属活字の源流」(『京古本や往来』第五十七号、一九九二年七月二〇日)に下記のようにある。

使われている漢字すべてが母型から鋳造された明朝体と見なせるものは、まず一八四五年フランス王立印刷所が刊行した『王室印刷所活版見本』(Spécimen Typographique de L'Imprimerie Royale)の中にある十六ポイント明朝体二種をあげることができる。これは一八三六〜三八年にかけてスタニスラス・ジュリアン(Stanislas Julien)が中国派遣宣教師の協力をあおぎ、中国国内で母型用の種字を彫らせたものであるが、残念ながらこの活字を使った印刷物を見る機会にまだ恵まれていない。

二十五年前の文章なので、もうすでに小宮山氏は現物をご覧になったと思われるが、今なら簡単にインターネット上で閲覧できるのである(画像は不充分ながら)。

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# by sumus2013 | 2017-09-04 21:22 | 古書日録 | Comments(0)

木香往来

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書肆ひやねの資料をいくつか頂戴したので紹介しておく。まず『木香往来』創刊準備(書肆ひやね、一九八八年一〇月二〇日、タテ約16cm)および一九八九年年賀状、そして秋朱之介『書物游記』刊行案内

本の街、神田の一角に書肆ひやねを構えて早や十年の歳月が経過致しました。》《さて、十四号に亘ってご案内して参りました小冊子「ひやね」を、この機に終刊とし、新たに趣味の季刊誌「木香往来」を、発刊することに相成りました。今回は、その創刊準備号で、次回からは、従来の限定本、こけし、蔵書票、古書全般のご案内に加えて、楽しい本の話、こけしの話を特集してゆきたいと考えております。》(ごあいさつ)

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この九月に、秋朱之介氏の『書物游記』を刊行いたしました。本の世界から遊離して以来、今日まで沈黙の内にあった秋氏の初めての書物文集であり。戦前の限定本書肆の世界を知るためには、欠かせないものです。》(同)

【創刊準備・目次】
秋朱之介本の魅力………齋藤専一郎
香水本『香炎華』を巡って………佐々木桔梗
書痴の記念碑………荻生孝
期待するもの………高橋五郎
新刊御案内
ごあいさつ………比屋根英夫
表紙・高橋輝雄



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残念ながら創刊号はなく、これが『木香往来』第貳(書肆ひやね、一九八九年七月七日)および『木香往来』第貳附録(向って左)。

【第貳・目次】
………高橋輝雄
高橋輝雄さんのこと………荻生孝
スクラップ………呑気亭
手紙………
埋め草………高橋五郎
本物をさぐる………木犀窓
善本販売目録
表紙・カット 高橋輝雄

現在、有料会員の方が五百名近くになりました。しかし、まだまだ赤字の状態です。これが千部近く出せれば、カラー版や木版画等の貼り込みを奮発して、一層楽しい冊子になります。何とぞ、会員諸氏のご助力をお願いする次第です。》(たより)

今年は、内田百閒の生誕百年に当ります。その百年を記念して、百閒文学の真髄である『冥途』について、平山三郎氏に原稿を依頼しました。〈『冥途』の周辺〉と題して、これは、秋に創刊される「木香叢書」の第一号として出版されます。(同)

第貳号附録は「佐久間俊雄誌上入札会」「善本古書即売目録」掲載。

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『木香往来』第参號(書肆ひやね、一九九〇年二月二八日)。

【第参・目次】
谷中安規追想………平山三郎
スクラップ………ル・ポール
「作並不明」を見る………橋本正明
志田菊磨呂誌上即売………
善本販売目録………
表紙・高橋輝雄
カット・谷中安規

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4〜5頁

平山三郎「谷中安規追想」より

その時分、百閒先生は安規畫伯のことを云ふのに「風船畫伯」などとは云はず、たになか、たになか、と云つてゐた様である。
 佐藤春夫の「親子ルンペンの話」といふ小説は昭和十年一月の作で、谷中安規の生活を描いてゐる。

安規畫伯の變つた獨身生活を佐藤春夫が聞書きした小説で、親は「やすのり」と呼び、自身は他人が呼ぶのにならつて「あんき」と云つてゐたらしい。
 後年、料治熊太さんにわたしの聞いたところによると、版畫冊子「白と黒」編輯部、すなはち料治さんの家に谷中が來る時は、かならず「やなか墓地のやなかでーす」と云つて這入つてきたといふのだ。「風船畫伯」は若い頃から「いうれい」とあだ名がついた程痩せてゐたので、谷中墓地のと云つてオドカすつもりだつたに違ひない。

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挟み込まれていた内田百閒『冥途』新装版(谷中安規装画)の図版。

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そして移転の「ごあいさつ」と「正誤表」。




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平成六年年賀状。



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「又々移転のお報せ」平成五年五月二七日付け。
東京都千代田区神田淡路町2−3−12安和ビル1階



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店舗移転の案内、平成二年四月。
東京都千代田区神田三崎町三二みさきビル1F



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『玻璃』遅刊行の詫び状、一九八四年八月

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『玻璃』(
玻璃舎
)創刊号は限定三百部、一九八二年発行。第二号は一九八三年発行。第三号は八四年発行である。いずれも表紙に深澤幸雄の銅版画貼付け、萩原英雄版画付き。第三号に普通本あり。この関川文から発行に苦心している様子が読み取れる。

同人一同、原稿執筆には馴れていても、発行や販売の実務には全く無知の素人仕事のため、頒布方法一つを取りましても、関係者が各自で購読申込みを受付けた結果、申込過剰となり、一部の方がたには一旦受付けた申込みを取消すような事態を生じてしまい、まことに申訳けなく思っております。
 また、二号で値上げしたにもかかわらずふたたび赤字となり、編集同人は勿論、装画、制作、販売等の部門まで私費持出しで労力奉仕をする結果に終りました。
 これはいかにも不合理でありますし、またこのままでは継続刊行不可能と思われますため、原価、諸経費等につきまして種々合議の上、第三号から定価を一部五千円に改定し、また以後の販売は一括して書肆「ひやね」が取扱うことに改め、後続雑誌刊行の安定をはかることに致しました。また、読者から、ナイフを入れるにしのびないため、内容を読むことができないとの声が多くあり、それでは当舎の趣旨にも反しますので、三号より、洋紙に印刷した並製本を添付いたします。

丘書房と書肆ひやね連名のもう一枚の手紙には第三号からは会員制にして三百人で受付を締め切ると書かれている。『玻璃』第四号は平成十年発行のようである。それ以後は不明。

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# by sumus2013 | 2017-08-31 21:02 | 古書日録 | Comments(0)

招待状

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パリ中心部の某古書店にて。店名は不明。屋号が出ていないのだ。ここの表の均一台が凄い。0.5〜2ユーロくらいの雑本ばかりを放出しているなかに馬鹿にならない掘り出しものがまじっている。ラテン区なので学生も多いのかもしれないが、皆、それを知っているんだねえ、通りすがりに眺めて買って行く。だから入れ替えも頻繁(さすがに神保町の田村書店ほどではないけど)。絵葉書も常時何百枚と出ているが、一昨年と較べると、今年は見劣りした。「チェッ」という感じ。ただ、それでもかろうじてこの二点の招待状を確保した。

手前の白いのが第五回サロン・デュ・リーヴルの招待状。一九八五年五月二二日から二七日までグラン・パレで開催された。二一日の内覧会への招待である。サロン・デュ・リーヴルは現在も継続されており、フランスでは最も格式の高い古書市となっている(現在の会場はポルト・ド・ヴェルサイユ、毎年五月なので、まだ訪れたことはない)。

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招待の文面。M. ___のところに名前が入るはずなので、これは未使用ということ。一番上のジャック・リゴー(Jacques Rigaud)は文化畑の高級官僚。パリ、サロン・デュ・リーヴル創設のときの幹事の一人で(当時の大統領はミッテラン、文化相はジャック・ラング)、「書物読書協会 l’Association pour le livre et la lecture」の会長も務めていた。二人目のジャン・マニュエル・ブールゴワ(Jean-Manuel Bourgois)は出版人、兄のクリスチャン・ブルゴア(Christian Bourgois)の方がよく知られているだろう(というか小生でも知っている)。自分の名前の版元を一九六六年に設立して「10/18」のポケットブックを刊行した。またファッション・ブランドであるアニェス・ベーの「b」は元夫のクリスチャンの姓 Bourgois からきている。アニェスの本名はトゥルーブレ(Troublé)。

奧のもう一枚は一九九三年九月から九四年一月までオランジュリー美術館で開催された「Les Arts à Paris chez Paul Guillaume 1918-1935」。ポール・ギョームはモディリアニの画商としてあまりにも有名。映画に登場していたのも印象深い。しかし彼はフランスにアフリカ美術を初めて紹介したディーラーの一人としても高く評価されている(一九一九年に最初の黒人美術とオセアニア美術の展覧会を組織した)。彼がたまたま飾っていたアフリカ彫刻がアポリネールの目に留まり、アポリネールを通じて当時の若き作家たちと知合いになったという。そのなかにモディリアニ、マティス、ピカソなどがいたわけである。ギョームの持っていた二十世紀絵画の一部は現在オランジュリ美術館に所蔵されているが、この展覧会は『Les Arts à Paris』というギョームの発行していた雑誌の紹介のようである。招待状にその何冊かが印刷されている。こういうのをブラッサンス公園で見つけたいもの……。

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モディリアニ「ポール・ギュヨーム」1915


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# by sumus2013 | 2017-08-30 21:29 | 巴里アンフェール | Comments(0)

埴原一亟 古本小説集

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山本善行撰『埴原一亟 古本小説集』(夏葉社、二〇一七年八月三〇日)読了。とにかく面白い(文字通り素直に面白い)小説集だった。

私小説のようにも読もうと思えば読めるが、小生の受けた感じでは私小説ではない。作者自身が古本屋をやっていたこともあり(昭和十一年、武蔵野線東長崎駅前通りに古本屋「一千社」開店)、屑屋の世界にも精通していたわけだが、それはあくまで熟知した素材であって、物語そのものはほぼフィクションではないだろうか。

本書のなかで完成度の高いのは「翌檜(あすなろう)」である。ハラハラさせられるのは「生活の出発」で、これは高利貸しの風俗記録としても意義ある作品かと思う。個人的には「かまきりの歌」を興味深く読んだ。一膳めし屋で顔をあわせる浪人中の中学生と初老の男性が仲良くなり、その謎めいた男性の過去が暴かれて行く……と、もうすこし具体的に紹介したいけれど、面白味が半減してしまってもいけないのでここでは詳しく述べない(ぜひ本書で一読を)。そういう意味で「かまきりの歌」はある種の文学ミステリーと呼んでもいいかもしれない。

芥川賞の候補に三度なっていずれも受賞を逃したという。どうして三度も受賞を逃したのか。山本氏の解説によればこういう選評があった。「店員」(デパート勤めから題材を取った作品、本書には収められていない)について。

佐藤春夫が、決して凡作ではないが一抹の自然主義的臭味のなごりがあるという意味のことを述べ、宇野浩二は、面白い所を摑んでいて巧みなところはあるが調子が低いと書いている。私は、その自然主義的臭味が良いと思ったのだが。調子が低いと言われると、一亟の小説全体の特徴かも知れず、さすがに宇野浩二らしい見方だと感心するが、調子が低い小説がすべて悪いということもないだろう。

撰者の気持ちはよく分るが、さすがに宇野浩二だ。洲之内徹の小説を「自分だけを大切にしすぎる」と評しただけのことはある。「調子が低い」というのは芥川賞には向かないというような意味だろうかとも思える。作風というか作柄の方はかなり調子が高いように思う、だから読者は面白く読まされるのである。登場人物などの描き方がときおりつげ義春の漫画を連想させる。ひょっとして、つげは埴原を読んでいた?

ところで作者の名前は「はにはら・いちじょう」と読むそうだが、「亟」の読みは手許の辞書には「キョク、ケキ」(職の去声)か「キ」(寘の入声)としか記されていない。意味は「すみやかに、すみやか、いそがしい」あるいは「度を重ねる、たびたび、しばしば」である。文字としては古く『詩経』や『論語』にも出ているようだ。

ただし『字統』によると、金文まで遡れば「亟」に「速やか」の意味はなく《二は上下の間が狭く、迫窄する空間であることを示し、そこに人を押し入れて、その前には祝禱の器をおき、後ろから手を加えてこれを殴ちこらしめる意》、殛(キョク、ころす)とも呼ばれる処刑法であったそうだ。これは「局」(身を屈している形、屈肢葬)にも通じている。また遠方へ追放することもあって、その地を極という。それが極限であり、そこから「最上」の意に用いられることとなり「速やか」へと発展する。

撰者解説」にも一亟が本名かどうかということについては言及されていないが、言及されていないなら本名と考えていいのだろう。明治四十年十月五日山梨県北巨摩郡白州町に生まれている(現在はウィスキー「白州」の蒸留所がある町として知られる)。父は代書人であったらしい。漢学の先生などだと、難読の漢字を息子の名前に使うという例はしばしばあることだ(読めない文字を名前に使うというのは呪詛を避けるための手段)。「じょう」という読みの典拠があるのか、ないのか、気になるところ。

さっそく読者の方より御教示いただいた。「」の異体字である、と。検索してみると「亟(=丞)」は戸籍統一文字になっている。深謝です。丞は坎中にある人を、左右から引き上げて拯[すく]う形》(字統)。

u4e1e (国際符号化文字集合・ユニコード統合漢字 U+4E1E「丞」) (@2)

撰者はこう書く。

評価の定まった古典ともいうべき作品を読む楽しみはもちろん大きいのだけれど、あまり知られていない作家の良さを発見し、次々と作品を読んでいくのもまた楽しいものだ。埴原一亟は、私にとってまさしくそのような作家で、何作か読み進むうちに、これはもっとたくさんの人に読んでもらいたい書き手だと思うようになった。

まったく同感である。

『埴原一亟 古本小説集』夏葉社

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# by sumus2013 | 2017-08-28 21:54 | おすすめ本棚 | Comments(0)

そら豆の宝

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すでに報告したシャロンヌ教会の古本市での一冊、CHARLES NODIER『TRÉSOR DES FÈVES FLEUR DES POIS』(BIBLIOTHÈQUE BLANCHE, HACHETTE, 1925)。シャルル・ノディエ(1780-1844)の『そら豆の宝と豆の花』と題されたおとぎ話集。挿絵は Tony Johannot(1803-1852)。オリジナルは一八三三年に刊行されている。ノデェエはブザンソンの生れ。おもにパリで活動したが、図書館の司書や雑誌の編集などをしながら数多くの記事を執筆した。

一八三三年というのはノディエがアカデミー・フランセーズの会員に選ばれた年でもあり、波乱の多かった彼の人生のなかではもっとも平安な時期だった。一八三四年、ノディエはテシュネ書店(Le librairie Techenet)とともに『愛書家公報 Bulletin du bibliophile』を刊行し一八四三年にいたるまで定期的にそこへ寄稿した。その当時彼はアルスナル図書館に勤めていたため数多くの稀覯本や珍書に接する機会があったのでそれらが様々な主題について研究するための糧となっていた。

ということで、このおとぎ話も豆から生まれた小さな少年が子供のいない老夫婦に育てられ、旅に出ていろいろな出来事をのりこえながら成長し(文字通り)、「豆の花」という王女と結ばれる、という日本人ならあららと思うようなストーリーなのである。

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そら豆の宝を育てる老夫婦
「子供がほしいのお…」


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そら豆から生まれた宝物
「あれま、こんなところに男の子が!」


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そら豆エキスを街でお金に換えるため旅に出る、と……
いろいろな獣と出会う。


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豆の花の宮殿に泊まる。
そこには
美術ギャラリーもあれば
アンティーク・ギャラリーもあれば
昆虫、貝、鳥などの博物室もある。
(ノディエの趣味らしい)
そして

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なんといっても素晴らしい書斎(sa bibliothèque)があった。ドンキホーテ、ウドー夫人の著名な青色文庫(la Bibliothèque bleue 十七世紀の初めにフランスで出版された大衆向け読み物)、あらゆる種類のおとぎ話、銅版画の美しい挿絵が入っている、最良のロビンソンやガリヴァーを含む奇妙で面白い旅行書コレクション、素晴らしい年鑑類、農業や庭園について書かれた無数の論文……人間にとって必要なもの、読みたいと思うものが全て揃っていた。しかしそれ以外の不要不急の学者、哲学者、詩人のものは一切置かれていない。

ヴィクトール・ユゴー、アフルレッド・ド・ミュッセ、サント・ブーヴらもノディエの影響を蒙っているという、その文学観がこのくだりによく現れているように思われる。

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めでたし、めでたし


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# by sumus2013 | 2017-08-26 21:33 | 巴里アンフェール | Comments(0)

新約全書 遠い声 

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うかつなことながら、古河力作が監獄で読んだ新約と同じ系統の『新約全書 詩篇附』を架蔵していた。本日、ある別の資料を捜していて本棚の隅で見つけたのである。上の写真のように掌に納まるサイズだ。そういえば、思い出した。表紙の革がもうボロボロ、手を触れれば指が茶色くなるくらい、だったのでニスを塗ってコーティングした。光沢はそのため。

大正三年(1914)一月八日発行。本書は大正五年四月(二千部)である(刷数は記載されていない)。発行者は《神奈川県横浜市山手町二百廿二番地/米国人/エッチ、ダブルユー、スワールツ》、発行所は米国聖書会社(神奈川県横浜市山下町五十三番地)。印刷所は福音印刷合資会社、印刷者は村岡平吉。

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水上勉が引用しているルカ伝第十九章と訳文を較べてみると、多少の文字の違いはあるが、ほぼ同じ文章だと思える。

また、もう一冊力作関連の書籍を恵投いただいたので紹介しておく。瀬戸内晴美『遠い声』(新潮社、一九七〇年三月五日、装幀=駒井哲郎)。管野須賀子(瀬戸内は「管野」で通している)を主人公とした「遠い声」と古河力作の監獄での心境を力作の語りで描いた「*付 いってまいります さようなら」。

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実名小説である。その分、よく調べて書いている。ただ、力作の語り出しのこういうところはどうなのだろう?

今日は明治四十四年一月二十四日だ。晴れ。寒気厳しけれど、二、三日前に比べてややしのぎよしというところか。独房の鉄窓からつくづく青空を仰ぐ。ここに入った当座は、毎日首が痛くなるほど見上げていた四角い小さな空だけれど、人間という動物は狎れるという恩寵だか劫罰だかしらないものを与えられているとみえて、いつのまにか、一度も空を仰がない日さえあったようだ。
 しかし、今日は、格別に空の青さが目にしみわたる。今年一月の元旦に、あの小さな空に、ふわっと凧があがってきた時の感動を思いだす。粗末な赤い凧は二本の紙の細い尻っぽをつけて、ふらふらと頼りない恰好で舞い上り、しばらく僕の鉄窓の枠の中で遊んでいた。

これはあり得ないだろう。水上勉は東京監獄の立地、仕様を次のように描いている。

明治三十九年発行の「風俗画報」の四谷牛込図を繙くと、この監獄は林の中の高台に位置しており、通りに接した方に、四つの寺院がある。

東京監獄の独房は、四監八監の二監房ありまして、一監は二十四室、したがって四十八室です。

みな独房であったから、本人には、連座した他の主義者が、同じ廊下つづきにいることなどわかっていたわけではない。一人ずつ収容され、一人ずつ個室で裸にされ、身体検査をうけた。個室には、水道、便器があるほかは、何もない板の間で、窓といっても、背のとどかない高いところに、二尺四方くらいの金網を張った穴ひとつ。二十六人の収容者に、二十六人の看守がつき、それらの看守は交代制だから、一人が二人をうけもつことになる。

監房の窓は天窓ではなく壁側にうがたれていたものと思われる。市ヶ谷の高台で凧など見えようはずもないし、もし見えるとすれば、それは監視する側にとって大問題ではなかろうか。瀬戸内がどこからこんなイメージを思いついたのか、ひょっとして誰かがそんな回想でも書いているのか、すぐには分らないにせよ、ここを読んだだけではなはだ興を削がれたことは白状しておこう。


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# by sumus2013 | 2017-08-25 21:42 | 古書日録 | Comments(0)

珈琲文献

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珈琲文献を二点、相次いで頂戴した。御礼申し上げます。まず『珈琲の歴史 日本における珈琲文献』(喫茶萬里、一九七四年八月一日)。編集は「宝塚・清荒神駅前/喫茶萬里内/世界の珈琲を飲む会」。序文は横山純二。これは刊行された時期を考えるとかなり本格的な内容である。徳川時代以降の珈琲文献を引用で列挙した資料集。「はじめに」に文献の系統が分類されていて、それも参考になる。

一、仏蘭対訳『フランソワ・ハルマ』の辞書の流れをくむ、「江戸ハルマ」「ドゥハルマ」の系統。
二、同じく仏蘭対訳『ノエル・ショーメル』辞典から出た「紅毛本草」、「厚生新篇」の系統。
三、長崎蘭通詞等が、オランダ人からの見聞或は蘭書からの翻訳等の日本文献。
四、日本人漂流者の外国における見聞記。
五、幕末から明治へかけての遣外使節、留学生、旅行者の見聞記。
六、在留外国人の日記等

ただ、ここに引用されている文章をどこまで信用(誤植等も含め)できるか、少々こころもとない。出典について大雑把にしか記されていない、もしくは明記されていないというのも、残念なところである。テキストが何であるか正確に記してもらえれば、その引用についても信頼度が増すわけである。要するにこの編集では「孫引き」はできないということだ。参考程度にしかならないが、ただガイドとしてはかなり有益なものと思う。検索してみると「喫茶萬里」は現在も営業しているようである。

もう一冊は星田宏司『黎明期における 日本珈琲店史』(いなほ書房、二〇〇三年九月二〇日)。拙著『喫茶店の時代』では星田氏が『日本古書通信』七〇三号に執筆された「日本最初の珈琲店(可否茶館)ーーその記述をめぐる問題点」を引用させてもらっている。本書もその可否茶館の他、ダイヤモンド珈琲店、メイゾン鴻の巣、カフェー・ライオン、カフェー・プランタン、カフェー・パウリスタについて書かれている。よくまとまっているが、ただやはり引用出典がほとんど記載されておらず、とくにかなり詳しく叙述されている可否茶館の鄭永慶の伝についてはいったいどこからそういう話が出たのかまったく分らない。これは非常に残念である。

喫茶店やカフェについては二十一世紀に入って次々に重要な論考が発表され資料が発掘され研究が進んでいるようだ。要するにそういうテーマが大学での研究対象になる時代になったということである。ここに挙げた二冊のような(拙著もむろんそうだ)個人の趣味でアマチュアが集めた(そういう人たちしか興味をもたなかった)時代の文献はもう時代遅れになってしまったようだ。なお拙著では出典はすべて明記してある、掲載ページまで。

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# by sumus2013 | 2017-08-23 21:19 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

TEXNH MAKPA

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『テクネ・マクラ(芸術は永し)女子美術大学歴史資料室ニュースレター』一号(二〇一〇年六月一日)〜十号(二〇一六年一〇月一日)を頂戴した。女子美は明治三十三年(一九〇〇)に設立認可を受け三十四年に開校している。創立百十年を記念して創刊されたもの。ざっと目を通して女子美の歴史がよく分った。女子美術学校というのは現在でも世界に二校しかないのだそうだ。女子美の他にはアメリカで一八四八年に女性の職業訓練のために設立された Philadelphia School of Design for Women のみ。

第六号の表紙に「女子美術学校西洋画科授業風景 大正三年(1914)頃」という写真が出ていて興味深く眺めた。

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裸体モデルを使っている。これについてはかなり前に取り上げた。

茂りたる古書分くる日の靴そろへ

『婦人画報』に出ている写真を見て黒岩比佐子さんが《写真が鮮明ではないのでよく見えないが、どうもステテコ一丁になっているらしい》と書いたのを引用しているが、実際そんな写真も「写真にみる女子美の歩み」展ちらしに掲載されている。「西洋画科の授業風景 大正3年(1914) 本郷菊坂」。たしかにステテコ一丁である。

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毎号「女子美列伝」という女子美の関係者を取り上げる記事がある。第十号ではそこに亀高文子(かめたかふみこ)が登場している。彼女も女子美出身だった。文子についても以前紹介したことがある。


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文子の肖像写真も載っている。『特別展 神戸の美術家 亀高文子とその周辺』(神戸市立小磯記念美術館、二〇〇九年)より転載されたものだが、この展覧会を見逃してしまったのが残念でならない。

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# by sumus2013 | 2017-08-22 21:10 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)