林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
カテゴリ
全体
古書日録
もよおしいろいろ
おすすめ本棚
画家=林哲夫
装幀=林哲夫
文筆=林哲夫
喫茶店の時代
うどん県あれこれ
雲遅空想美術館
コレクション
おととこゑ
関西の出版社
彷書月刊総目次
未分類
以前の記事
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
お気に入りブログ
NabeQuest(na...
daily-sumus
Madame100gの不...
最新のコメント
確か『資本論』でも一悶着..
by sumus2013 at 15:36
真意はよく分かりませんが..
by sumus2013 at 15:28
春陽堂文庫などから被害を..
by 牛津 at 08:37
過激な座談会ですね。それ..
by 牛津 at 08:09
ご冥福をお祈りいたしたい..
by sumus2013 at 10:13
そうですか、志賀さんがお..
by akaru at 08:47
ご盛会をお祈りしています..
by sumus2013 at 21:53
林先生。『型染展』の案内..
by k-turezure at 21:27
9月の京都、楽しみにして..
by H at 23:01
九月には京都で個展の予定..
by sumus2013 at 21:21
メモ帳
最新のトラックバック
天才画家ゴッホの生涯と画..
from dezire_photo &..
ルーベンスの故郷、ヨーロ..
from dezire_photo &..
シャガール、ピカソ、マテ..
from dezire_photo &..
ポン=タヴァン派、総合主..
from dezire_photo &..
視聴率に関係なく選んだ2..
from dezire_photo &..
宝石のような輝をもった印..
from dezire_photo &..
ルネサンス美術の巨匠・ピ..
from dezire_photo &..
既成概念から絵画の解放に..
from dezire_photo &..
既成概念から絵画の解放に..
from dezire_photo &..
過去に来日した傑作を回顧..
from dezire_photo &..
検索
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


こゝろ

f0307792_20455083.jpg

漱石についてなんとか書き上げた。美術との関わりを少々。ちょうど呻吟しながら書いている最中に『學燈』春号(丸善出版、二〇一七年三月五日)「「學燈」創刊120周年記念 特集夏目漱石」を某氏が送ってくださった。ここに古田亮氏(東京藝術大学准教授)の「漱石の美術鑑賞」という一文が収められていて、おお、と思ったのだが、小生が書こうとしていたこととはほとんど重ならないのでひと安心。この文章はB・リヴィエアーの絵「ガダラの豚の奇跡」と「夢十夜」の第十夜の類似について(二〇一三年に「漱石の美術世界展」という展覧会があったのだ、知らなかった)。

もうひとつ祖父江慎氏の「不安定な文字、不安定な本ーー漱石の『こころ』と、書籍デザイン」というエッセイも面白く読んだ。氏は新装版の『こころ』(二〇一四)をデザインしたときの観察から漱石が自ら手がけたその装幀の謎に迫っている。

まずタイトルについて「こころ」「こゝろ」「心」など一定しておらず、その書体も楷書体や篆書体が使われており、化粧箱には《甲骨文のような金文のような謎の古代文字》が書かれていると指摘。その文字は函のヒラに書かれている手と縦棒(上の写真左)の文字を指す。これはふつうなら「父」とか「失」とか、または「寸」と読んでみたいところなのだが、タテ棒が手の右側にあるというのは手許の字書にも見当たらない(御教示を)。祖父江氏は

もしかするとペンを手放した手、つまり「遺書」という意味の漱石創作文字かもしれません。

と飛躍して考えておられるが、あながち無視できない指摘であろう。ただし、函のヒラに大書しているのだから、当然「心」のつもりだったと考えるのが自然である。この形に出典があるかないか、それだけが問題だろう。

f0307792_20460768.jpg
函(左)と本体の背


f0307792_20461141.jpg
口絵(漱石による)


また本体表紙の石鼓文のアレンジについても面白い説を開陳しておられる。

漱石の下絵をコンピュータで起こしてるときに、面白いことに気づきました。表紙を伏せて開いて見たときの右上、つまり表四の最初の目立つ場所に「馬」の文字があります。それから背の著者名の下の目立つところには雄鹿と雌鹿のふたつの「鹿」の文字が、書かれています。たまたまかもしれませんが、併せて「馬・鹿」です。「馬鹿」といえば、この作品のキーワードでもあります。

「向上心のないものは馬鹿だ」と友達のKから言われたことが悲劇(?)の発端になることを指す。これもまたあながち軽んじられない推論である。漱石ならやりかねない。

これらの他にも、どうして岩波書店から出版したのか? どうして自分で装幀したのか? という謎も残っている。

もしかするとこの作品を、言葉のように、なるがままに委ねてみたかったのかもしれませんね。漱石は、本になって流通するところまでの構造全体のデザインを行ったんだという気がします。

祖父江氏はこう解釈している。さて、どうなのだろうか。

[PR]
# by sumus2013 | 2017-05-18 21:46 | 古書日録 | Comments(0)

追悼・志賀英夫

f0307792_19511617.jpg

ひと月以上前に『菱』197号(詩誌「菱」の会、二〇一七年四月一日)を頂戴し紹介しようと思いながら今日になってしまった。手皮小四郎氏が寄稿しておられる「追悼・志賀英夫(大阪『柵』)」に驚いた。手皮氏は昨年の十二月三十日に『柵』の志賀英夫氏の訃を告げるメールを受け取られたとのこと。同日午前一時頃死去。告別式は一月四日。

手皮氏は荘原照子を探求する過程で志賀氏に多くの詩人を紹介してもらったという。

志賀英夫周縁の詩人たちとの邂逅がもたらしたものは大きかったが、それと共に特筆すべきは志賀さん自身の手になる編著書だった。氏のライブワークの結晶ともいえる刊行書に『戦前の詩誌・半世紀の年譜』『戦後詩誌の系譜』などがある。
 明治の世からこの方、わが国にどれほどの詩誌が生まれ消えていったか、それはどんな顔をした表紙であり、いつ創刊されたのか。発行所は何処で、編集者は誰だったか。同人、執筆者名は…。そして現在その詩誌は何処にあるのか、誰が持っているのか!
 およそ思うだけでも鬱陶しく、煩わしさの極みであるこの作業を、終生の仕事として自分に課したのが志賀英夫だった。

まあ、世の中にはそのような作業を鬱陶しく、煩わしいと感じない、いや快楽とする人も多勢いるように思うが、志賀氏のその一人だったようだ。

志賀英夫は大正十四年(一九二五)京都府の生れで、兵役も経験している。『柵』の創刊は終戦直後の昭和二一年二月と古く、誌名は当初『草原』だったが、七号から『柵』と改題した。もっとも詩誌発行のスタートは戦中に遡り、昭和十八年十八歳の歳に『若草』などの投稿仲間を誘い『草径[くさこみち]を出している。つまり氏が発行する誌名は『草径』『草原』『柵』と変遷したのである。
 井上靖なども参加した第一次『柵』は昭和二十四年一月に十四号をもって休刊、以後三十七年という長い空白を経て、月刊詩誌・第二次『柵』として復刊(昭和六十一年十二月)した。

第二次『柵』は二十七年間欠号なしに月刊を守り、平成二十五年(二〇一三)二月、三一五号をもって終刊した。

終刊後すぐ「柵通信」を二号発行し、同年十月には季刊詩誌・第三次『柵』をスタートさせた。そして三年目の夏の十二号が長い来歴を持つ『柵』の終刊号となった。『柵』の編集後記は「身辺雑記」といったが、最終号のその最後の一行は、「柵を刊行するのが、私の生き甲斐です」だった。

小生はこれまで『柵』にはほとんど触れていないが、桑島玄二の寄稿がある号に関して取り上げたことがある。検索してみるとかつての『乾河』も志賀氏の制作だった。改めて詩誌の世界に大きな足跡を残した方だと思う。


『柵』復刊第四号

『乾河』62 ED・制作=志賀英夫・詩画工房


[PR]
# by sumus2013 | 2017-05-17 20:27 | おすすめ本棚 | Comments(2)

習字手本

f0307792_20015220.jpg


『小学下等第七級 習字手本 楷書之部上』(京都府翻刻、京都書籍会社 大黒屋太郎右衛門)。刊行年は不詳。
上の写真では表紙が取れているように見えるが、おそらくこれが表紙だったと思われる。大きい朱印は「京都府学教課」、右下の朱印は「弐銭……(不明)」だから値段である

明治初期は小学校を上下に分けて、上等は十歳から十三歳、下等は六歳から九歳、在学八年としていたようだ。その時期の習字の教科書である。習字、読書、暗誦、算術の四科目がそれぞれ一級から八級まであり、「習字」では片仮名・平仮名・数字(八級)から始めて行書の日用文(一級)までを修学することになっていた。


f0307792_20015530.jpg
f0307792_20015860.jpg


大黒屋太郎右衛門は今井
太郎右衛門(文政七,1824〜明治十,1877)。長門生まれ、本姓は井関、京都の今井家に入り長州藩御用達の大黒屋を継いで尊攘派を支援した。吉田松陰から強い影響を受けた。維新後、書籍業に進出、明治五年に福沢諭吉、植村正直、村上勘兵衛らと集書会社を設立し京都集書院(京都府立図書館の淵源)の運営に関わった。(コトバンク他)

「集書会社基本」

大黒屋の出版物は以下の通り(国会図書館蔵)。共同出版のみ全社の名を挙げた。

◉府縣名 1872
◉京都學校の記 福沢諭吉 1872
◉山城郡村名 1872
◉中学開業祝詞 1873
◉諸國郡名 1873
◉亰都療病院日講録 1873
◉小學下等第一級受取諸券 平井義直 1874
◉十二学要論 初篇 : 天文学 卷之1 卷之2
 ブーテーズ・モンウェル [著],原田千之介 訳 1874
◉習字帖 小學下等第1・3~7級 平井義直 1875
◉千字文 平井義直 1875
◉精神病約説 (英國)顯理貌徳斯禮撰,神戸文哉
 大黒屋太郎右衞門/丸屋善吉/丸屋善藏/島村利助/丸屋善七 1876
◉養生訓蒙 神戸文哉
 若林茂助/大黒屋太郎右衞門 1878
◉千字文備考 平井義直 編 1879
◉伏見區町名 1880
◉苗字抄 苅谷保敏 1882
◉小學物理啓蒙 巻中 田中竹次郎
 大黒屋太郎右衛門/大黒屋書舗(発売) 1883
◉食経倶瑳口授篇 : 小学修身 巻の6 青山正義 編 1884
◉山城地理誌 水茎玉菜 1884
◉小学初等科日用事項 : 一名小学生徒訓 完 田中竹次郎 編 1884
◉心性開発小学地理問題集 青山正義 編 1887
◉京都療病院新聞


次いで『小学下等第七級 習字手本 方位干支七曜名之部』(京都府蔵版、京都書籍会社 大黒屋太郎右衛門、一八八〇年六月二一日)。明治十三年、こちらはちゃんとした表紙が付いており、本文最後の頁に平井義直筆》とある。平井は春江と号し書家で教育家。英学者でアメリカにおける仏教紹介者として知られる平井金三(きんざ、1859-1916)の父。

f0307792_20020274.jpg
f0307792_20020565.jpg
f0307792_20020880.jpg
f0307792_20021179.jpg

河原町通り二条下ル二丁目はどのあたりだろう。長州藩邸は京都ホテルオークラ(河原町通り御池の東北角)の場所だったから旧藩邸の一部だったか(?)。値段の朱印は「弐銭二厘」と読める。

読者の方より御教示いただきました。樋口摩彌氏の論文「明治前期の情報通信をめぐる「近代都市京都」の形成〜三条通の新聞社と洋館建築より〜」に明治二十一年の地図が出ており、そこに「今井大屋太郎右衛門」の所在地が明示されている。それによれば河原町通り沿い、京都ホテルの南方にある聖ザビエル天主堂の真向かい(ということは現在のキクオ書店のあたり?)である。当時はまだ御池通は寺町通から河原町通まで真直ぐ突き抜けていない(むろん拡幅もされていない)。

三条通の新聞社と洋館建築より



[PR]
# by sumus2013 | 2017-05-16 21:15 | 関西の出版社 | Comments(0)

碧梧桐へきごとうHEKIGOTOU

f0307792_19410510.jpg
同展ちらしより


柿衞文庫で碧梧桐展を見た。書家としての碧梧桐を堪能した。歿年は昭和十二年である。前衛的とも言えるし、マンガ的とも言える書風なのだが、伸びやかに風格をもって迫ってくる。

MORIS「河東碧梧桐」展

インパクトの強い作風は模倣しやすい。実際、弟子たちの作品のあるものは師匠と見分けがつきにくいくらいだ。以前〈碧梧桐は無理でもお弟子の短冊くらい手に入れたいものだ〉と書いたのだが、最近ようやく実現した。もちろん手に入れるだけならいつでも可能ながら、極力安価にと思うと、これが容易ではない。この短冊も少々イタミがある。根っからの貧乏性なので仕方がない。


f0307792_19543206.jpg


川西和露「門松や貯炭所空地ある久し」。近頃収穫の短冊ではこれがいちばん嬉しかった。和露について渡辺一考氏が『なまず』に発表された論考より年譜を編んでおく。

川西和露年譜
1875年 神戸市兵庫区東出町に生まれる。鉄材商を営む。本名徳三郎。
1907年 この頃より碧梧桐に師事。
1910年 摩耶会を起こす。玉島俳三昧に参加。玉島俳三昧とは備中の玉島で全国行脚中の碧梧桐を中心に十数名の同人が一つ宿に一週間ほど寝食を共にして催された俳三昧を指す。
1914年 第一和露句集上梓。
1915年 12月、第二和露句集上梓(短律見ゆ)。海紅同人。
1916年 12月、第三和露句集上梓(短律多し)。射手同人。
1914〜1916年 和露主宰の俳誌「阿蘭陀渡」発行。
1920年 第四和露句集上梓。碧梧桐外遊に贐けして。
1925年 10月、第五和露句集上梓。碧梧桐銀婚式を祝して。
1938年 和露文庫俳書目をひむろ社より上梓。
1944年 須磨月見山へ転居。和露荘と名づく蔵書の散逸を恐れ、古俳書を天理図書館へ収め、明治以後の活字本を神戸市立図書館へ寄贈。
1945年 死去。享年七十一。

[PR]
# by sumus2013 | 2017-05-14 20:09 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

ビアズリー展vol.8「サロメ」

f0307792_20210071.jpg


みつづみ書房(http://www.mitsuzumi-shobo.com)さんで「オーブリー・ビアズリー展vol.8「サロメ」」のギャラリ・トークに参加した。ビアズリー・コレクター明石友貴氏のコレクションを手にとって拝見しながらお話をうかがうというたいへん貴重なひとときだった。今回は原田マハ『サロメ』(文藝春秋、二〇一七年)に登場するサロメ、ビアズリーの関連本を順次からめながらのトーク。

ビアズリーには昔ほど魅かれなくなったが、一時は好きだった。その頃のことを思い出しながら、ワイルドとの関係やボドリー・ヘッドという出版社についての話をうかがった。参加者がそう多くなかったため途中から皆が勝手に質問を挿むという雑談形式になってしまって、それはそれで楽しく、コレクションの苦労話なども含めて有意義だった。ビアズリー本を集めたくなった。もちろん和モノ。明治終り頃からかなり出版されているらしいし、明石氏はビアズリーとかサロメというキーワードが印刷されているだけでも蒐集の対象にしておられるとのこと。脱帽。ビアズリー展示は5月19日まで。


f0307792_20210598.jpg


f0307792_20210881.jpg


f0307792_20210348.jpg

みつづみ書房さんへおじゃまする前に柿衞文庫で碧梧桐展を見た。これもよかったが、それについては明日。


[PR]
# by sumus2013 | 2017-05-13 20:40 | もよおしいろいろ | Comments(0)

つき白み

f0307792_19503718.jpg

去年だったか一度に扇子を三本ほど求めた。むろん新刊単行本一冊にも価しなかった。二本は漢詩で、それらはちょっと読むのに骨が折れそうなのでそのままになっているが、この一本は俳句ということで何とか読める。

 つき白み
 もとの
 独に
 成にけり

f0307792_19504089.jpg

署名はこちら。「未足」(でいいようです)。未足という俳人もいたようではあるが、詳しくは分からない。印も読めないと書いたところ「守分」か「守半」ではないかというご教示を賜った(いつもながら深謝です)。語として意味が通るのは「守分」だが、俳名が「未足」(いまだたらず)なのだから「守半」(なかばをまもる)で呼応しているということにでもなるのかな? 印の出来は良さそう。和紙に蝋引きの紙扇。そんなに古いとも思えないにしても幕末くらいはあるだろう、たぶん。

[PR]
# by sumus2013 | 2017-05-12 20:12 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

誤植の効用

f0307792_19240926.jpg

『歴程三百号記念』(歴程社、一九八三年一〇月一日)。この雑誌をペラペラめくっていると(いつものように)高橋新吉の文章が目に留まった。「小林秀雄のこと」。

京橋にあるウィンザーというバーで小林と喧嘩をした。それ以来親しく話したことはないと書きつつ、小林をこきおろす。そしてここいうところにケチをつける。

新潮社の「波」というPR雑誌に、白洲正子が、次のように書いていた。「小林秀雄さんがいつか私に、『洲之内という人は今一番の批評家だね』といったことがある。ーー」
 これを読んで私は、噴飯ものだと思ったが、同時に小林の敵意を感じたのである。
 私は、「気まぐれ男へ」の中に「こんな男に、芸術のことなどわかる筈はない。」と、洲之内のことを書いている。これは洲之内が中国で特務機関か何かにいた時、中国へ一度も行ったことのない小森盛と、土方定一が北京から連れ立って、洲之内を訪ねてきたように、土方に愛媛新聞に書かせていたので、こんなウソを言う洲之内には、美術批評などできる筈はないと思ったからである。》(「小林秀雄のこと」)

白洲正子に対してはかなり気を遣っているが、洲之内徹には容赦なく攻撃が続く。

洲之内の売名工作のうまさ、処世術の巧みさは、驚くばかりであるが、大和民族のように、罪に寛大な人種も少ないようだ。》《森敦や洲之内徹のように、私を狂人のように言いふらすのは許せない。私は狂人でないことをここに書き添えておく。》(「小林秀雄のこと」)

ということで洲之内徹が高橋新吉についてどのように書いているのか知りたくなった。どうしてそんなに高橋新吉が怒っているのか? こういうときに『sumus 05』の気まぐれシリーズの人名索引がこの上なく便利。すぐに答えが出た。高橋新吉は『気まぐれ美術館』に二度、『帰りたい風景』に一度、『さらば気まぐれ美術館』に二度登場している。ところが、段ボール箱に納めてあるそれらの本を取り出すのに酷く骨が折れた。やれやれ。

それらによると高橋新吉は洲之内徹とは親しくしていたようだ。同じ愛媛県出身ということもある。田村泰次郎のころの現代画廊で水墨画展に参加したり、後には案内状に解説を書いたりもしている。ではどうして? 『さらば気まぐれ美術館』(一九八八年)所収の「誤植の効用」を当ってみると、そこに怒りの謎解きがしてあった。

高橋は土方定一が書いた文章(松山で開かれた洲之内コレクション展の図録)に登場する「小森盛」という人物が中国などには行ったことがないのを直接知っていた。ところが土方が中国で洲之内に紹介した小森は「小森武」だった。武と盛の間違いが高橋新吉をして洲之内徹をペテン師呼ばわりさせることになった。

銀座の永井画廊で《高橋新吉書画展》が開かれたが、その会場で高橋さんが小森盛氏の、自分は中国へは行ったことがないという返事の手紙をゼロックスでコピーして、来る人みんなに配り、洲之内というやつはこういうやつだ、こういうありもしないことを土方定一に書かせたんだ、と言っていたらしい。》(「誤植の効用」)

ここまで洲之内が悪者にされるには理由がある。

それにしても、高橋さんはなぜそんなに怒っているのか、それが私にはわからない。私がそう言うと、私にその話をする人は、洲之内はオレのことを強盗と書きやがった、娘の嫁入りの邪魔になる、と言って高橋さんは怒っているというのだ。》(「誤植の効用」)

強盗発言は洲之内徹が「虫のいろいろ」と題して書いたエッセイにある(『帰りたい風景』一九八〇年、所収)。

汁粉屋の頃、いちど高橋新吉氏が、東京から帰ったといって訪ねてきた。その高橋さんに何も知らない私の女房が汁粉を出したが、これには流石の高橋さんもたじたじの態に見受けられた。高橋さんは紫色の小さな風呂敷包みをひとつだけ持っていて、その中には立派な硯がひとつと、包丁が一本、『強盗の研究』という本が一冊入っていた。そして、私に、
「お前はこの頃、原稿料でだいぶ稼ぎがあるだろう」
 と、まるで本物の強盗みたいなことを言ったが、これでも判るように、実はその頃私は小説を書いていて、ほんの二、三年の間であったが、何回か作品が文芸雑誌にも載ったりしたのである。》(「虫のいろいろ」)

この描写がなかなかいい。そのためにとばっちりを受けたか。「誤植の効用」には次のように書かれている。

私としては郷土の大先輩であり、伝説的人物でもある高橋さんに対する親愛の情をそんなふうに書いたつもりだけれども、高橋さんがそれで怒っているとすればしかたがない。
 しかたがないが、しかし、こうなるとやっぱり笑い話だ。ある日、戸田達雄氏と電話で話したとき、私はこの話を戸田さんにした。戸田さんは大正時代の未来派美術協会やマヴォにもいた人で、詩人であり画家であった尾形亀之助とも親しかった人だ。私が、
「何だかしらないけど、高橋新吉がばかに怒っているんですよ」
 と言って、笑い話のつもりでこの話をすると、電話の向こうで戸田さんはすこしも笑わず、ひどく真面目な声で、
「高橋新吉とはそういう人間ですよ」
 と言った。私は、私の軽薄さを戸田さんにたしなめられたような気がした。そうなのだ。笑い話ではないのだ。高橋新吉とはそういう人なのだ。》(「誤植の効用」)

そして後日談。

去年だったか一昨年だったか、地下鉄銀座駅のホームで、私は高橋さんにぱったり会った。
「高橋さん」
 と、私が声を掛けると、高橋さんは一瞬、悪びれた子供のような顔をして、
「お前のことをいろいろ書いてやったが読んだか」
 と言い、私をそこへ残して、入ってきた電車の、開いた扉の中へ消えた。私が高橋さんを見たそれが最後である。先頃、高橋さんは亡くなった。》(「誤植の効用」)

高橋新吉が歿したのは一九八七年六月五日。洲之内徹は同じ年の一〇月二八日、後を追うように歿している。

つい書いてしまったことから思わぬとばっちりを受ける……ブログを書く身としても気をつけないといけない。気をつけても防げるものではないだろうが。

[PR]
# by sumus2013 | 2017-05-11 20:39 | 古書日録 | Comments(0)

拝受多謝

f0307792_19312792.jpg

『些末事研究』第三号(福田賢治、二〇一七年四月、デザイン=佐々木茜)。先日の徳正寺のイベントのとき頂戴した。特集・親と子。親に「削られる」という言葉が出ていて、当日、岡崎氏がこの表現をいたく気に入って連発していた。東賢次郎氏の「十二歳の決断」がなんとも凄い。「座談 母親と息子」も親子の確執があけすけに語られていて、興味深い。ごく一部を引用してみる。

福田 扉野さんは、親がキツイって感じたことはありますか。
魚雷 これ活字になるから(笑)。オレは離れて暮しているからいいけど。
扉野 二十五年ぶりに実家に戻った。仕事は寺の仕事だから、今は毎日顔を合わす。帰ったからちょっとしたことでぶつかるんじゃないかと思っていたけれど、親の小言がすごく減った。トイレの電気を消してないとか、襖がちゃんと閉まってへんとか、そういう小言が。
魚雷 俺、いまだに帰省して東京に帰った後、その小言を電話で言われるんよ(笑)。風呂の脱衣所がびしょびしょやったとか。
福田 そういうエピソードって、家族でしかありえんね。客観的な見方みたいだけど。
魚雷 うん。でも鶴見俊輔さんのお母さんの話を読んだりすると、うちはまだましやと思ってしまう。ここまではないわって。
福田 母親って言いたいことが、ものすごくいっぱいあって、それを全部言えないから、頭に浮かんだことをぱっと言ってしまうんだろうか。
魚雷 子どものほうも言いたいことが、いっぱいあると思う。
福田 正しい表現なんて、そんな簡単にできないし。
魚雷 家族でもなかなか伝わらない。
福田 言葉があるから、言葉を使うけど、伝わらないことの方がほとんどなんじゃないだろうか。
  こどもをもったら、自分にとって理不尽だったことも、理解できるようになるのかな。》

打ち上げのときにもこの話で盛り上がったが、岡崎氏も山本氏も母親との軋轢はまったくなかったと言う。小生もほとんど記憶はない。世代というふうには簡単に言い切れないかもしれないが、そういう時代的な傾向も少しは関係があるのかもしれない。

雑誌『些末事研究』ホームページ



f0307792_19312947.jpg

『ポエジィとアートを連絡する叢書 未明』01(総合出版 虹色社/未明編集室、二〇一七年三月三〇日、編集/ブックデザイン=外間隆史)。上の図で名前が書かれているところはオビである。レイアウトも凝っていながら読みやすく仕上がっているのがいい。雑誌を作る楽しさみたいものを感じる。

未明01展



f0307792_19313141.jpg


高須賀優『曲芸お伽草子』(鶴書院、二〇一一年一〇月二五日、装幀=高須賀優)。以前も紹介したが、この画集もちょっとばかり日本人ばなれした、個人的には好みのタッチ(自分では描けないタイプの)の作品が並んでいていいなあと思う。

高須賀優『夜の衣を返す』

f0307792_20354562.jpg
〈19.1.00〉





[PR]
# by sumus2013 | 2017-05-10 20:39 | おすすめ本棚 | Comments(0)

MUJIBOOKS 2 花森安治

f0307792_20003452.jpg

無印良品が書店を始めたのは二〇一五年だそうだ。知らなかった。近所の無印は本を置いてない(京都駅近くのイオンモールKYOTOにはあるらしい)。松岡正剛の編集工学研究所が企画や選書を手がけたというが、今回は文庫本を出版した。「MUJIBOOKS 人と物」シリーズ。1が柳宗悦、2が花森安治、3が小津安二郎。いずれも二〇一七年六月一日初版第一刷発行。編集デザインは櫛田理、広本旅人、佐伯亮介。編集工学研究所のスタッフである。体裁はタテ148mm、ヨコ105mm。カラー口絵八頁、ノンブルは157頁まで。これも三冊共通。既刊書からおいしい文章だけ抜き出して関連写真といっしょに並べただけという安直といえば安直、うまいといえばうまいやり方である。定価は税抜500円也。ちょいと欲しくなる。

f0307792_20003745.jpg
花森愛用のクレパス(口絵:くらしの形見より)


ひろい読みしているが、やはりどこをとっても面白い。小津安二郎の文章はほとんど読んだことがない(映画は人並みには見ているものの)のでなかなか新鮮である。絵もうまい。三人はそれぞれ違っているようで似通ってもいる。どういうところが似ているのか、似ていないのか、などと考えながらあちこち開いてみるのも楽しい。

MUJI BOOKS | 無印良品

f0307792_20502778.jpeg


f0307792_20501770.jpeg


f0307792_20502243.jpeg
グランフロント大阪のMUJIBOOKS


これら三冊は東京在住の某氏(昨日の某氏とはまた別の某氏)が送ってくれたものなのだが、いっしょにコムデギャルソンの「BIBLIOTHECA 8」のパンフレットも入っていた。深謝です。

f0307792_20004241.jpg
f0307792_20004585.jpg

コムデギャルソン ビブリオテカ

この本の写真、パリのヴィヴィエンヌ通り六番地の「Gribaudo Joseph」を思い出させる。


[PR]
# by sumus2013 | 2017-05-09 20:54 | おすすめ本棚 | Comments(0)

書画珍本雑誌社

f0307792_19484891.jpg

いつも珍資料を頂戴する某氏よりまたまた変った紙モノを頂戴した。それは「書画書籍価格符号表」。発行は書画珍本雑誌社(大阪市東区北久宝寺町一丁目四十八番地)。説明を読むとどうやら『書画珍本雑誌』の付録だったようだ。本誌に掲載されている書画・雑誌の価格符号を解読するためのアンチョコである。《毎号共通乞保存》と書かれている。『書画珍本雑誌』にはお目にかかったことはないと思うが、日本の古本屋にはけっこう出品されているのでそう珍しいものではないようだ。

これまでもいくつか紹介してきたように値段の符牒というのは古くから存在する。

『掌中和漢年代記集成』(文江堂、文化三年=1806)

「大阪商家の符牒」

しかし、これらと比較すると本書の符牒は暗号表と読んでもいいくらい複雑である。何か規則というか法則があるのかな……としばらくにらんでいたが、判らん、というか、ないでしょう(もし発見された方がおられればぜひコメント欄にお願いします。最初と最後の二ヶ所を拡大しておきます)。五十銭の囲み内には口のついた漢字が多いけれどもすべてではない。巨額のところ「萬」は符牒になってないし……。

f0307792_19510545.jpg


f0307792_19511195.jpg

『書画珍本雑誌』は大阪で大正八年十二月に創刊された。金井誠、平林縫治が編者である。大正十四年までは発行が確認できる。日本近代文学館に十三号まで揃いがあり、国会図書館にもバラで何冊かある(まだインターネット上での閲覧はできない)。

2013-05-29 古本夜話300 平林鳳二、大西一外『新撰俳諧年表』と書画珍

金井誠については不詳。平林縫治はコトバンクによると以下の通り。

平林鳳二 ヒラバヤシ ホウジ
大正・昭和期の俳人
生年明治3年3月(1870年)
没年昭和2(1927)年10月5日
出生地信濃国東筑摩郡生阪村(長野県)
別名通称=縫治,号=巨城,巨城舎
経歴20歳より3年間生阪郵便局長を勤めたのち上京、生命保険会社に勤務し、傍ら伊藤松宇に俳句を学ぶ。秋声会に属した。「新墾」同人。のち文人墨客の伝記及び墨蹟鑑定を研究して「書画珍本雑誌」を刊行し、大阪及び京都に住んで書画骨董や古俳書の売買業を営む。俳人としての面よりも大正12年刊行の「新選俳諧年表」(共著)の編者としての業績が高い。他の著書に「蕪村の俳諧学校」など。

この略歴に上がっている単行本はともに書画珍本雑誌社の刊行物である。

新撰俳諧年表 : 附・俳家人名録 1923
平林鳳二, 大西一外 編

蕪村乃俳諧学校 1924
乾木水 解説,大西一外 校訂

なお大西一外は讃岐人であった。大西一外(おおにし・いちがい)俳人(明治19年11月1日~昭和18年5月25日)。

一外。大西千一。仲多度郡象郷村大字上櫛梨の産、多年大阪に住し官界に務む。晩年帰郷 月刊雑誌「ことひら」を発行す。俳諧史の研究家である。著書に「新選俳諧年表」あり。平林鳳二氏と共著。昭和18年没。》(香川県俳諧史)

乾木水についてはよく分らないが、京都の俳誌『懸葵』に関係していたようだ。

[PR]
# by sumus2013 | 2017-05-08 20:31 | 古書日録 | Comments(2)