林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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子を負うて釣する人や秋の雲

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1週間ほど郷里の讃岐に戻っていた。本の整理と古家の補修でクタクタ。もうそんなに古本を残しているつもりはなかった、のだが、片付け始めるとまだまだ数だけはある。値打ちモノがあればいいんですけどねえ・・・・

讃岐うどんは満喫してきた。古本屋もないので、食べるのだけが楽しみ。下の写真はマルタツと言う最近できた店のざるうどん。

東かがわ マルタツ 手打ちうどん


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本日のタイトルに掲げた俳句。吉岡実『うまやはし日記』(書肆山田、一九九〇年四月一五日)より。昭和十四年十一月十二日に以下のようにある。

快晴。手帖と『山家集』を持って、東武線に乗り郊外へ出る。小菅刑務所が青空の下に淋しく見えた。西新井大師に参り、土産物屋の間を歩く。気ままに田の草の道を行く。小川のほとりに鶺鴒がいる。花車を引いた田舎の人とすれちがったり。風もなく、赤とんぼが夥しくとんでいた。水門のところに腰をおろし、「手帖」に句を書きつける。

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# by sumus2013 | 2017-11-13 20:25 | うどん県あれこれ | Comments(4)

英和対訳字引

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百万遍で久々の明治英語本を見つけた。『ウイルソン氏第一リードル 英和對譯字引』(河井源吉訳、此村彦助=此村藜光堂、明治十九年[1886]五月五日出版届、同年六月一日発兌)。明治十六年に東京で『ウィルソン氏第一リードル独案内』(十八年再版)が出版されていて、そちらは国会図書館にも日本の古本屋にも出ている。しかしこの字引(専用の辞書)は見当たらないようである。同趣旨の『ウ井ルソン氏第一リードル字書』(松井忠兵衛発兌、明治十六年再版)は国会図書館に所蔵されている。

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「例言」はタテ書で左から右への行送りになっている。


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本文組みのこだわり。訳文の漢字とルビが寝ているのがちょっと珍しいのでは? 『ウ井ルソン氏第一リードル字書』の単純な並べ方と比較して欲しい。


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ナシヨナル、ピ子ヲ、パアリー、サンダーユニオン、ウイルソンと字引を出版している。関西出版の拙速な感じがよく出ているような気がする。明治十九年に高等小学校で英語を教えることになったのが背景にあるようだ。

ナシヨナル第二

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# by sumus2013 | 2017-11-04 19:56 | 関西の出版社 | Comments(0)

新風よ吹きおこれ

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先日話題にした『京古本や往来』の創刊号(京都古書研究会、昭和五十三年八月二十五日発行)巻頭エッセイのコピーを牛津先生より頂戴した。ありがとうございます。寿岳文章「新風よ吹きおこれー『京古本や往来』の創刊に際してー」。

大正期の初めの少年の日、寄宿舎の生徒側監督に給与される僅かな手当を懐にして、月一回、丸太町通りの古本屋回りをするのを無上の楽しみとした。日曜だからとて休む店はまず無かった。午前九時ごろ、電車を寺町丸太町で下りて東へ歩くと、鴨川にかかった橋の手前、南側に、国井という奥の深い古本屋があった。ドイツ語の医学書が本命であったと記憶する。しかし哲学や文学などの古書も、結構たくさん持っていた。主人はむすっとした無口者であったが、本のことをよく知っており、いつのまにか一中学生の私を、三高生や京大生なみに、客の一人として遇してくれた。今思いかえしてみると、私はこの国井の主人からいろいろと洋書の知識を得たようである。すでに英文学を志望していた私は、この店でマクミラン社版の英文学書を当時二冊か三冊買った。いつもたっぷり一時間を国井の店ですごし、橋を渡り、通りの南側の古本屋を一軒一軒見て歩くが、多くの場合、国井ほどには時間はかけない。熊野神社前あたりへ来ると、丁度正午近くなっているので、見あたり次第のうどんやへ飛び込んで腹ごしらえをし、午後は、通りの北側にある古本屋を、東から西へと巡礼する。

うどんやは今も丸太町通り東大路通りの西南角にある(同じ店かどうかは定かではないですが)。当時の古本屋は午前九時ごろから開店していたことが分かる。昨今では三密堂さんくらいかな? 午前九時に開けているのは。戦前、丸太町通り沿いにどんな古本屋があったかは神保町のオタさんが調べてくれているので引用させてもらう。

『全国主要都市古本店分布図集成 昭和十四年版』(雑誌愛好会、昭和14年5月)で丸太町の古本屋を見てみると、東大路から寺町にかけて、北側は、不識洞、一信堂、創造社、マキムラ、仙心洞、進文堂、丸三、細井、田中、狩野、古田、日ノ出、春正堂、麻田、佐々木、南側は、いく文、三書堂、翰林堂、マルヤ、堀田、吉田、国井、彙文堂である。

今昔の感を深くする。このなかで個人的には狩野さんに思い出があるが省略。寿岳少年は国井の筋向こうの木村進文堂へたどりつくころにはくたびれ果て、暮色も濃くなっていたという。その他、寺町界隈にも言及しておられる。

新京極を三条通りへつきあたった杉田大学堂、歴代の学者とつながる竹苞楼で修業した羽田竹僊堂、仏書に詳しく時には高僧評論も展開する其中堂、苛烈な戦時中、恐らく私を何者とも知らず、岩波文庫の徹底蒐集に助力してくれた貝葉書院など、私の記憶に濃く影をおとすパーソナリティをあげればきりがない。

《(編集部注)文中国井書店、木村進文堂は戦後廃業いたしました。また杉田大学堂は現在河原町通三条下るで盛業中です。貝葉書院は、現在主に仏教書専門の出版をされています。

大学堂書店





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# by sumus2013 | 2017-11-03 17:25 | 古書日録 | Comments(0)

四季草

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平貞丈『四季草  冬』(安永七 1778 跋)。百万遍での一冊。春、夏、秋、冬と分かれ七冊。大本(タテ27cm)、版元は岡田屋嘉七……本書は七冊目で最終巻なのだが、奥書に《此一冊孫々が為に記しぬ云々 安永七戊戌十一月七日伊勢平蔵貞丈著》とある。下記サイトにて全冊閲覧できるのでご興味ある方はどうぞ。

早稲田大学図書館 四季草. 春草,夏草,秋草,冬草 / 平貞丈 述



『四季草』というタイトルで植物の挿絵があるため、てっきり植物図鑑かと思っていたら、とんでもない恥じかきであった。平貞丈は『貞丈雑記』で知られる有職故実家だった。貞丈雑記』なら名前だけは知っていたんだが……。ウィキを部分引用しておく。

伊勢 貞丈(いせ さだたけ、享保2年12月28日(1718年1月29日) - 天明4年5月28日(1784年7月15日))は、江戸時代中期の旗本(幕臣)・伊勢流有職故実研究家。江戸幕府寄合・御小姓組蕃士。旗本・伊勢貞益の次男、兄は貞陳。子に娘(伊勢貞敦室)。幼名は万助、通称は兵庫、平蔵。安斎と号した。有職読みでテイジョウと呼ばれることもある。》《貞丈は特に中世以来の武家を中心とした制度・礼式・調度・器具・服飾などに詳しく武家故実の第一人者とされ、伊勢流中興の祖となった

早稲田本をざっと見ると、挿絵のあるのはこの第七冊だけ。ここでは檀と梓の図の一部分を掲げたが、要するにこれは弓の材についてウンチクを傾けているのであって植物学ではありませんでした。とほほ。

森鷗外は『細木香以』のなかで貞丈の随筆についてこう書いている。

わたくしは少年の時、貸本屋の本を耽読たんどくした。貸本屋が笈おいの如くに積み畳かさねた本を背負って歩く時代の事である。その本は読本よみほん、書本かきほん、人情本の三種を主としていた。読本は京伝きょうでん、馬琴ばきんの諸作、人情本は春水しゅんすい、金水きんすいの諸作の類で、書本は今謂う講釈種だねである。そう云う本を読み尽して、さて貸本屋に「何かまだ読まない本は無いか」と問うと、貸本屋は随筆類を推薦する。これを読んで伊勢貞丈ていじょうの故実の書等に及べば、大抵貸本文学卒業と云うことになる。わたくしはこの卒業者になった。》(森鷗外『細木香以』「森鴎外全集6」ちくま文庫、1996)

鷗外は文久二年(1862)生れなので少年の時と言えば十歳として明治五年頃だろうか。とすればやはりこのような和本を借出していたに違いないように思われる。例えば国会図書館には貞丈雑記』なら天保十四年(1843)序の丁子屋平兵衛(文渓堂)版、および嘉永六年(1853)の吉川半七版などが所蔵されている。


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# by sumus2013 | 2017-11-02 20:52 | 古書日録 | Comments(0)

第41回秋の古本まつり

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今年は参加できるかどうか微妙だったのだが、予定が変わって、例年のように初日参戦することができた。もう、本がどうこうよりも、参加することに意義があると言う感じです。例によって臨川書店で寄り道、扉野氏と季村さんに遇う。昨年はここでちょっと珍しい紙モノを買ったのだが、今年は特になし、と言いつつ二冊ほど。

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例によって雑和本の箱の前に並ぶ。すでに四人の先客、ビニールが開くのを待っている。三人さんは中国の方。もう一人は昨年も顔を合わせたお方。ビニールが開かれるとさらに五人くらいが取り付いてきて、もうてんやわんやの状態になる。こちらもめぼしいものは抱え込んで後で吟味の態勢にならざるを得ない。皆が皆、掘り返し、掘り返ししてもうグチャグチャである。三十分もしたらやっと人がまばらになった。和本に群がってくるのは半数以上が中国の方々であった。こちらは最後まで粘って人がいなくなってから、ゆっくりと残った全てのクズ和本を手にとって調べ直す。今年は漢詩集が一冊もなかった。これは寂しい。それでも端本ながらやや見所のある徳川時代及び明治の写本などを数冊手に入れることができた。何となくこれで一安心、気が抜けた。

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後はぶらぶら。スタンプ2000円分でクリアファイルがもらえると言うのでなんとか達成して本部で受け取っていたらヨゾラ舎さんとバッタリ。床几に座って雑談していると、善行堂が飯を食うと言うのでいつものメンバーと進々堂へ。ヨゾラ舎の自虐ネタで盛り上がる。何とかしようよ、ヨゾラ舎さん!

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# by sumus2013 | 2017-11-01 19:35 | 古書日録 | Comments(2)

青空と古本まつり永遠にあり

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『秋の古本だより「青空」5号 古書研40周年記念記念号』(京都古書研究会、平成29年)を東京在住の某氏より頂戴した。最近、古書研のどの店とも懇意にしていないため(もちろん店頭均一でお買い物させていただく店はございます)百万遍の目録は誰も送ってくれない。だからこれは有り難かった。というのも四十周年記念号には二十八名の方々が古本まつりや古書研についてエッセイを寄稿しておられるからである。読み応えあり。

秋の古本だより「青空」5号が発行。

小生が古書研と関わったのは一九八一年に京都へ移り住んだときからだった。まず山崎書店の山崎さん(現在は古書研メンバーではないですが)と知合い、古本まつりのポスターを描いて欲しいと頼まれた。以後毎年春夏のポスターを十年くらいは手がけさせてもらったのである。古書研の機関誌『京古本や往来』にも何度か寄稿させてもらい、終刊号(100号)にも書かせてもらっている。古本修行は古書研とともにあったと言っても過言ではない。四十周年は慶賀なり。

寄稿されているエッセイには二〇一四年に亡くなられた松尾尊兊先生の追悼文もいくつか見られる(松尾先生については小生も短い追悼を以前ブログに書いた http://sumus2013.exblog.jp/23494758/)。

なかでは書砦梁山泊の島元健作氏が古書研三十周年記念のバッグについて書いておられるのが印象的だ。島元氏は松尾先生とは古書目録の客としては古くからの付き合いだったが、初めて会ったのは三十周年記念のパーティ会場だったという。

この古本まつりには、先生を最年長に、他に小生を含めて五人ほどの初期のころからの熱心な常連がいて、長年古本を買い漁った功績によってか、その創立三十周年のパーティには全員招待を受けました。そしてその記念品として一澤帆布店のすてきなバッグを貰いました。バッグそのものより、松尾先生と同じものをいただけたことに感激したことを思い出します。》「(追悼 松尾尊兊先生)お別れのことば」告別式での弔辞)

その一澤帆布店のすてきなバッグは小生も頂戴した。上の写真がそれである。十年経ってもビクともせず有り難く使わせてもらっている。(ちょうど信三郎帆布と分裂したころだったので、古書研は一澤帆布なんだと思った記憶がある)

京都古書研究会三十周年記念

古本屋は学者ではありませんから、学問内容のことはほんとうはよく分かりません。ただ生意気なようですがその先生が本物かどうかは、不思議にそれとなく分かるものです。身銭の切り方、道の遠しをいとわぬ熱心さ、つまり文献や資料への情熱が自ずと伝わってくるのです。その点で松尾先生は古本屋から見て第一級の学者先生でした。しかも少しも偉そうにはされず、一介の古本屋にもゆっくりていねいに、そして熱くお話をして下さる。京都のまともな古本屋なら、みんないくつもの思い出を持っている筈です。

追記 告別式が終って出棺を待っていると、先生の娘さんが近づいてこられて「言ってられたバッグは柩の中におさめたんですよ。もう使いふるしてかなりオンボロになっていました」とおっしゃった。悲しみのうちにも何かとてもほのぼのとした気持ちにもさせられて、先生のお人柄に一層の親しみを覚えたものでした。

さすが松尾先生、この帆布のバッグがボロボロになるまで使っておられたのか! あらためて松尾先生ともう少しお話する機会をもちたかったなあと残念でならない。

他にも顔見知りの古本猛者(いや古本修羅かな)の方々が執筆しておられる。びわこのなまず先生(川島昭夫氏)の五車堂・久保田さんの追悼記も懐かしかったが、ふと目がとまったのは蘇枕書さんの「京都の古本屋と私」。京都大学文学研究科・院生の肩書き。八年ほど前に来日され、京都大学周辺の古本屋を踏破しておられたころの回想に次のくだりがあった。

善行堂もその頃オープンしたばかりであった。毎日通学の際、小さい書店が少しずつ完成していく様子を見守りながら、楽しみにしていた。ある日の夕方、細い格子から漏れた明かりから、静かなジャズが流れてきて、きれいに揃えた文庫本や単行本も見えた。近所にまたもう一軒本屋が増えることが嬉しかった。

蘇さん、存じ上げないなあと思いつつ検索してみると、以前あるところで一抱えほども日本文学の研究書を買っておられた女性であった。

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# by sumus2013 | 2017-10-31 17:39 | 古書日録 | Comments(0)

歩く作家 走る作家

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村上春樹『村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた』(新潮社、一九九六年六月二〇日五刷、絵=安西水丸)。ディケンズとウォーキングのつづきになってしまうが、たまたま、この本を手にしたら、冒頭から「一に足腰、二に文体」というメッセージとともにこう書かれていた。

今でも多くの人は、作家というものは毎日のように夜更かしをして、文壇バーに通って深酒を飲み、家庭なんかほとんど省みず、持病のひとつやふたつは抱えていて、締切が近くなるとホテルで缶詰になって髪を振り乱している人種だと信じているみたいだ。だから僕が「夜はだいたい十時に寝て、朝は六時に起きるし、毎日ランニングをして、一度も締切に遅れたことはない」と言ったら、しばしばがっかりされる

毎日ランニングどころか周知のように村上春樹はボストン・マラソンに参加するのである。

だいたい十二月の声を聞く頃からボストン・マラソンへの準備は始まる。この頃から身体はだんだん、まるで大事なデートの前の午後みたいに、そわそわとしてなんとなく落ち着かなくなってくる。五キロ、十キロといった短いそのへんのレースを足慣らしにいつくか走り、一月二月にけっこう長い距離を走り込み、三月あたりにひとつハーフ・マラソンに出てレース・ペースの確認をしてから(今年はニュー・ベッドフォードのハーフに出たけど、これはなかなか楽しいレースだった)、いよいよ「本番」へと臨むわけだ。

五キロ、十キロ……て、ディケンズの毎朝五十キロのウォーキングが、ウォーキングだとしても、いかに凄いか分ろうというもの。


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もう一冊、ポール・オースター『ガラスの街』(柴田元幸訳、新潮社、二〇〇九年一〇月三〇日)の冒頭にもウォーキングについて書かれている。主人公クインはウィリアム・ウィルソンというペンネームでミステリーを書いている作家だった。

およそ一年に一冊の割合で刊行されて、それによってニューヨークの小さなアパートメントでつましく暮らすのに十分な収入が得られていた。一冊の小説に費やす時間はせいぜい五、六か月だったから、一年の残りは好きなことをしていられた。本をたくさん読み、美術館に行き、映画に通った。夏はテレビで野球を観た。冬はオペラに行った。だが彼が何より好んだのは、散歩だった。ほとんど毎日、雨でも晴れでも、暑くても寒くても、アパートメントを出て街を歩き回った。理由があってどこかへ行くのでは決してなく、どこであれ単に足が向いた方へ行ったのである。
 ニューヨークは尽きることのない空間、無限の歩みから成る一個の迷路だった。どれだけ遠くまで歩いても、どれだけ街並や通りを詳しく知るようになっても、彼はつねに迷子になったような思いに囚われた。街のなかで迷子になったというだけでなく、自分のなかでも迷子になったような思いがしたのである。散歩に行くたび、あたかも自分自身を置いていくような気分になった。街路の動きに身を委ね、自分を一個の眼に還元することで、考えることの義務から解放された。それが彼にある種の平安をもたらし、好ましい空虚を内面に作り上げた。世界は彼の外に、周りに、前にあり、世界が変化しつづけるその速度は、ひとつのことに長く心をとどまらせるのを不可能にした。動くこと、それが何より肝要だった。

なかなかうがった見方である。「動くこと、それが何より肝要だった」ディケンズもまさにそうだったのではないだろうか。


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『盛林堂の本棚 盛林堂書房古書目録二〇一七年臨時號』(盛林堂書房、二〇一七年一〇月二八日)が届く。一九六〇年代の創元推理文庫にこんな値段が……う〜む。たしかにカバーの装幀もゴーカなメンバーだ、杉浦康平、日下弘、和田誠、松田正久、真鍋博、司修……。いいことを教えてもらったなあ。

古本屋ツアー・イン・ジャパン
10/25文庫本ばかりの目録



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# by sumus2013 | 2017-10-30 17:28 | 古書日録 | Comments(0)

ディケンズ二題

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Charles Dickens"Night Walks" PENGUIN CLASSICS,2010


『時刻表』第二号(「時刻表」舎、二〇一七年一〇月二〇日)を中島俊郎氏より頂戴した。たかとう匡子さんを編集発行人として創刊された詩と散文の同人誌である。同人は二十人ほど。中島先生(牛津先生です)は「ディケンズとウォーキング」という論考を発表されている。

先生によれば、ウォーキングと文学の創作という関係をたどっていくとイギリス文学がぐっと面白くなるそうだ。ウィアム・ボールズ『ソネット集』(一七九八)、シェリー夫妻の旅行記、ウィリアム・ワーズワース、サミュエル・ティラー・コールリッジ『覚書』(一七九四〜一八〇四)、ジョン・クレア「日曜日の散策」、そしてディケンズ。

ディケンズの日常生活は、執筆とウォーキングで二分化されていた。若い頃は乗馬も加わっていたが、後年はウォーキングのみであった。文筆活動に集中してしまい過度に自分を追い込んだ結果、重い不眠症に陥った。横になってもすぐに目がさめてしまう。その対処療法として、明け方までウォーキングを励行するようにした。「執筆に集中した昼間から午前二時にベッドを抜け出して、往復五十キロほどの道のりを歩きつづけ、わが家にもどり朝食をとるのを常とした」とは、デイケンズ自らの述懐である。

往復五十キロって……小生の住所地(京都市内)からだと、直線距離で、西なら大阪府高槻市、東なら滋賀県の守山市まで行って帰るということになる。ディケンズはただ歩いただけではなかった。この長時間の散策によって夜のロンドン、裏社会を知悉するところとなったそうだ。なるほど、たしかに『オリヴァー・ツイスト』(一八三八)などはその知識が注ぎ込まれているに違いない。

興味深いことに、ディケンズは自ら歩いた距離と環境をことごとく手紙に書き残している。燃えるような夏の炎天下で四時間半、ほぼ三十キロ歩いたと友人に報告しているかと思えば、晩秋のイタリアで悪天にもかかわらず二十キロも山中を歩き回り、また脱稿したうれしさから夕食前に二十五キロも歩いたと報告している。これは相当な健脚である。

ディケンズのウォーキングをいちはやく認めたのはフラヌール(遊歩者)ことヴァルター・ベンヤミンだった。『パサージュ論』のなかに「歩く人」ディケンズへの言及がある(小生も昔読んだはずだが、忘却の彼方なり)。

最後に、ディケンズの先人として詩人ジョン・ゲイ『トリヴィアーーロンドン遊歩術』(一七一六)を取り上げてまとめておられる。ローマ詩人たちへの言及・引用・暗示が頻出する『トリヴィア』は《古代ローマより脈々と流れる詩の伝統の末尾につなげることで、ゲイは英詩の伝統をより活性化しようと目論んでいたのである。小説家ディケンズも明らかにこうした文学的な系譜に属している。》とのことである。

The full title of the poem is Trivia, or The Art of Walking the Streets of London


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友人たちを前に『鐘』を朗読するディケンズ


たまたま、ディケンズについては、つい最近次のような記事を読んだところだったので一層興味深く感じられた。アルヴェルト・マングェル『読書の歴史』(原田範行訳、柏書房、一九九九年)より、上の図も。

一九世紀にはいると、ヨーロッパ全土にわたって、作者による朗読は黄金時代をむかえる。イギリスでこの朗読会の花形だったのは、チャールズ・ディケンズである。

クリスマス・ストーリーの第二作『鐘』の朗読に際し、欣喜雀躍とした彼は、次のように記した書簡を妻キャサリンに送っている。「私が朗読している間、ソファに腰を下ろして、本当にすすり泣きの声を上げているマクレディ(ディケンズの友人の一人)の様子を君が見ていたならば、私自身も感じているように、この朗読がなんと影響力のあるものであるか感じ取ってくれただろうに。」

ディケンズは、朗読や身振りの工夫に少なくとも二ヶ月を費やしていた。そして、どんなふうに朗読するのかを逐一書き留めている。自ら朗読旅行用に編纂した彼の「朗読用テクスト」の余白には、「愛らしく」とか「厳しく」「哀愁を帯びて」「神秘的に」「急いで」などといった調子に関するもの、あるいは、「手招き」「指さし」「震えて」「ざっとしてあたりを見回す」などのような身振りに関するものなどの覚書きが記されている。

ディケンズは朗読を終えると、ただお辞儀をし、壇上を離れて、汗でびしょびしょになった服を着替えたという。ウォーキングにしても朗読にしても徹底的にやらないと治まらない性格だったようである。





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# by sumus2013 | 2017-10-29 20:31 | おすすめ本棚 | Comments(0)

美作七朗作品展

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いろいろなチラシ類を頂戴したなかに、オッと思う一枚があった。「名曲喫茶中野「クラシック」店主 画家美作七朗 生誕110年記念作品展」。会期は2017年9月8日2018年3月25日だから開催中ということだ。会場は名曲喫茶「でんえん」(国分寺市)、「ヴィオロン」(阿佐ヶ谷)、「ルネッサンス」(高円寺)。

「美作七朗作品展」のお知らせ

美作七朗(本名みまさかしちろう)は、1907年(明治40年)熊本市に生れ21歳で上京、洋画家・小林萬吾に師事し画家を目指す。1930年高円寺に音楽喫茶「ルネッサンス」を開業。戦災で焼失するも1945年9月終戦の翌月には、地を中野に移し名曲喫茶「クラシック」として再開。
1960年頃から油彩画の個展を精力的に開催。遺作展では小説家・五木寛之から賞賛の文章が寄せられる。

本名は「みまさか」だが画名として「みさく」と名乗ったようである。小林萬吾(1870-1947)は香川県三豊郡詫間町生れ。黒田清輝の天真道場から東京美術学校、白馬会、文展、帝展に出品、東京美術学校教授、帝国芸術院会員と、画家としてはまっすぐな栄達道を歩んだようである。同郷ではないとしたら、いったいどういう縁があったのか、ちょっと気になる。

1950年以降は西荻窪「ダンテ」をはじめ店舗の内装デザインを数多く手がけ1957年国分寺「でんえん」開業の折りは意匠設計の全てをおこなう。
1980年愛弟子寺元健治の阿佐ヶ谷「ヴィオロン」開業に尽力。1989年病没享年82歳。経営は愛娘の良子に、2005年に氏も他界し終戦から60年続いた「クラシック」は遂に閉店し老朽化した店舗は取り壊しとなる。
2007年元スタッフの檜山真紀子・岡部雅子の両氏により中野「クラシック」の内装を移築した高円寺「ルネッサンス」(創業時と同じ店名)が開業。

「クラシック」の血脈が受け継がれているのは慶賀なことである。


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読者の方より美作グッズを頂戴した。深謝申し上げます。美作七朗絵葉書セット、DVD「美作七朗と中野「クラシック」」、クラシックのマッチ(一九七〇年代のもの)。添えられていたコメントも引用させていただく。

中野のクラシックにはもう30年くらい前に一度行きましたが、ミルクがマヨネーズの蓋に入って出てきました。》《DVDでは、マヨネーズの蓋は白かったですが、わたしが行った時はまさしく赤いマヨネーズの蓋で、びっくりしました。店内は薄暗く、歩くと床が少し沈んだ覚えがあります。

DVDなどを買ったのは、阿佐ヶ谷の「ヴィオロン」でしたが、午後2時くらいでお客さんは6人いました。店番の女性がいない時、演奏中のレコードの針飛びがあったら、一番スピーカーの前で本を読んいたお客さんがすかさず針を置き直していました。

東中野の線路際の老婦人がやっていた喫茶店もなくなって随分になります。「モカ」だったと思います。NHKテレビで黒井千次の特集が放送され、インタビューをそこで受けていたので知りました。当時は高円寺に住んでいて、東中野の線路脇は見慣れていたので、すぐに行ったと思います。黒井千次は『珈琲記』*という本を出しているのですね。

黒井千次『珈琲記』紀伊國屋書店 、1997

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美作さんの絵葉書のなかではこの作品が好きだ。一九二九年作。サインが「S. MIMA-」となっている。この時期にはまだ「みさく」ではなく「みまさか」の略だったようである。

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# by sumus2013 | 2017-10-28 19:23 | 喫茶店の時代 | Comments(2)

ヒエロニムス・ボック植物図


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ヒエロニムス・ボック(Hieronymus Bock)の『Kreutterbuch』(植物本)から切り取られた一葉を入手した。これらふたつの図は一葉の表と裏である(画像検索してみるとこの本は小口側に註記があるようなので、奇数ページを表と考えておく)。

表の植物には「Scharlach」と記されているのだが、現代ドイツ語としては「水疱瘡」あるいは「スカーレット(朱色)」らしい……。裏面の「Salbey」は「Salbei(ザルバイ)」で二種類の「セージ」である。

ボックは植物学を基礎付けた人物の一人。一四九八年にドイツのハイデルスハイム(Heidelsheim)あるいはハイデルスバッハ(Heidersbach)で生まれた。一五二三から三三年までツヴァイブリュッケン(Zweibrucken)のパラティネ・ルードヴィヒ伯爵(Count Palatine Ludwig)のために植物園の運営に当った。ルードヴィヒ伯歿後は一五五四年に死去するまでホルンバッハ(Hornbach)のルター派教会の牧師として過ごした。彼は医師でもあった。植物学者のオットー・ブリュンフェルズ(Otto Brunfels)に植物学の本をドイツ語で書くように頼まれた。

一五三九年、初版はドイツ語によって出版されたが、そのときには植物の図は付されていなかった。一五四六年には図入りの版が刊行された(図の作者はDavid Kandel)。この本は一五五二年にラテン語版が出てから世に知られるようになった。ボックの書は彼自身の観察が記されていること、および分類の重要性を主張していることによってそれまでの植物学書とは一線を画した。……以上は下記サイトの要約です。

The Three Founders of Botany ; Hieronymus Bock


本としては下のようなものだろう。一例として引用してみた。版ごとに版面が異なるようである。

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# by sumus2013 | 2017-10-27 20:52 | 古書日録 | Comments(0)