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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


慶応文科

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文芸雑誌『慶応文科』第一巻第二号(慶応文科社、昭和十二年二月一日、表紙=佃芳郎)を頂戴した。深謝です。巻頭に「喫茶店」という大江津仁の小説が掲げられている。

場末の住宅地、日曜日の午後、門構えだけは広い日当たりの悪そうな家から一人の男がふらりと出てきて、ふらふらと歩き、繁華街へ出てある喫茶店に入る。当時の喫茶店のしつらえがどんなものか、かなりよく分かる。

《道路に面した所はかなり気の利いた造りで、この場末ではこれ以上の店は他には無い。尤も二階丈けを見て行くならば、両隣りとくつついた長屋の一つで、汚点のある白壁に出つ張つた四角な窓が一つぼつかりあいてゐるありふれたものではあるが。

 だが、地面に向つた側では、家いつぱいの大きなガラス窓に真赤なカーテンを下ろし、それに添つて小さな装飾花壇を設けて、ベコニヤとかシクラメンとかアスパラガスと云つた草々を並べて、一寸見た所は感じがいゝと思はせるに十分だつた。》

《内部は細長くて狭かつた。両側のむき出しの壁には、見て居ても何の興趣も湧かないが細工丈けは凝つた二三枚の絵と、色の配合丈けが綺麗なポスターが、さも間に合はせの様に引つかかつてゐた。板張りの床には、低いテーブルと革張りの椅子が、その間に何か観葉植物の大きな鉢植を混ぜてごちや〜〜と数個並べてあつて、その大半は客が使用してゐた。

 彼等は一様に飲み残した茶碗を前に置いて、足を組んだり、頬杖をついたり、仰向いてぽかんと天井を見たりして居た。煙草の煙は大分立ちこめて天井の辺で層をなしてゐた。》

《やがて茶色の仕事着観たやうな上つぱりを着た女給が、可愛らしいが、併し無知で下品な顔をして、やつて来た。べた〜〜云ふ上草履の音がやけに耳についた。
 彼女は彼の傍へ来ると、黙つたまゝつつ立つた。
「紅……紅茶を……一つ」
彼はやつと呻く様な、だが女の様に軟かい声を出して云つた。
「お紅茶ですか」
何の表情もなしに彼女は彼を見下ろして、かう繰返へしながらそのまゝ引込んでしまつた。
 茶が運ばれると、彼はちびり〜〜となめながら、テーブルからは眼を離さないで、何か独言を呟き始めた。》

《と急に外ががや〜〜した。さうして考へる間もなく扉が開いて、五六人の学生が雪崩込んで来た。彼等は彼の前に陣取つて、先づ一せいに煙草をふかし始めた。次に女給を呼んで、腹の立つ程馬鹿々々しい冗談口をたたいたり、からかつたり、ふざけたりした。それが済むと一通り飲物を選択した後、頭数丈けのコーヒーを持つて来いと呶鳴つた。それを聞いて女給は口元に未だ物足りぬげな微笑を浮べたますつと奥の方へ引込んだ。》

男は学生達に気圧され、店を出ようとして紅茶茶碗をひっくり返す。女給がやってきて「いゝんですよ」と言って破片を拾い始める。

《と矢庭にズボンのポケットに手を突つ込んで財布を掴み出した。そして震える手つきで五十銭玉を一つ取り出すとそつとその場に置いて、そのまゝ後退りし始めた。そして急にくるりと向け直ると、真直に出口の方へ進んで行つた。
 彼がしがみつく様に扉に手をかけた時「あ、お釣りですよ」
と、鋭い女の声が背後から飛んで、バタ〜〜と草履の音がした。
 ばたん。戸が叩きつけられた様に閉つて、彼は戸外へ走り出して居た。》

と、まあ、このような情景を細々と描写した小品である。下手ではないが、だからどうした、という感じもする。この雑誌、基本検索(近代文学館、カナブン、国会、グーグル)にかけても、どこにもひっかからない。同人名と奥付を写しておく。こちらも誰一人ヒットしないのがかえって不思議。ただ、印刷所の加利屋印刷所は伊藤整らの『文芸レビュー』と上林暁らの『風車』が合流した『新作家』(昭和六・四~六・一〇。通巻七冊)の印刷をしていたようだ。

蓼川青一
華丘欣児
槇 威彦
露木輝隆
蓮見正太郎
畔柳 壽
大江津仁
他に第一号に執筆して脱会した荒尾美樹がいる。

東京市世田谷区玉川奥沢町一ノ三〇二 
編輯兼発行人 蓼川青一

東京市芝区片門前一ノ五
印刷所 加利屋印刷所

発行所 慶応文科社 

・御寄贈雑誌は・
大森区新井宿四丁目一〇二四 中村方
大江津仁


# by sumus2013 | 2020-08-11 17:37 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

中年の本棚

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荻原魚雷『中年の本棚』(紀伊國屋書店、2020年8月7日、装丁・装画=鈴木千佳子)読了。まず浮かんだ感想は「中年って若いなあ」である。一回り以上年上の小生にとっては当然そうなる。小生自身は、中年という意識はほとんど持たなかったのだが、老年は意識した。六十になったときには、やっぱり今後どう生きるか、多少思い詰めた。だからと言って、老年本を読もうとか集めようとか、そんなことは思いも寄らなかった。

ところが、魚雷氏は三十五歳から中年本を集めていたそうだ(p252)。なぜかと言えば、人生は四十九歳で終ると考えていたからである(p266)。そりゃ、三十五歳で中年が気になって当たり前だ。しかし中年問題の解決を本のなかに求めようというのが、いかにも魚雷的である。

その幅広い読書ジャンルにいつもながら感心させられる(小生など絶対に手に取ることもないような本が存在するということに新鮮な驚きを覚え、また、なんとなく読んでみたくなる)。例えば、野村克也の本から「中年」問題に寄与するフレーズを取り出して来る、その手並みがまず見事。そしてその語り口がとぼけているようで芯があるとでも言うのか、ちゃんとした哲学に裏付けられた感じがする。ふわふわしているようで足は地にしっかりついている。実は答えを探しているのではなく、答えはすでに魚雷氏のなかにあるのだ、そこに響いてくる文字を探しているという感じではないだろうか。

野村克也は『背番号なき現役』(講談社、一九八一年)のなかで「四十初惑」と書いている。「四十初惑」とは何ぞや? ふつうは「四十不惑」であろう。野村はこの言葉を扇谷正造『80年代を生き抜く三つの方策』(PHP研究所、一九八〇年)で知った。しかし、この「四十初惑」という言葉は扇谷のオリジナルではなく、吉川英治『草思堂随筆』(新英社、一九三五年)に納められている「四十初惑」と題する随筆がもとになっているそうだ。

《四十の頃の自分の父を想像すると、気難しい老成人であり、折目正しい五人の子女の厳父であった。いつの間にか、その四十の境を自分も踏み出している。そして、どうして自分はこう稚気なのか、いつまでも大人にならないのか、年に対しての疑惑をもつ。》(p009)

と吉川は書いていて、魚雷氏は四十前後の吉川英治について語り始める。この野村から始まって本をさかのぼって行く流れがいい。そして吉川は「四十初惑」のなかで田能村竹田の手紙を紹介するのである。

《しかし、田能村竹田は若年のころからずっと誰にも負けまいという気持で絵を描いてきたのが、「四十をすこし踏んでからは、これでいいかと考えだしてきた。(略)つまらない雑草の花ではあっても自分が枯れた後も、この土壌に自分の種族を来年の春も、次の春も、咲いてあるように欲しいというような本能を感じてくる」というようなことを友人宛ての書簡に綴っていたそうだ。》(p010)

吉川は《「僕は、四十にして不惑という古人の言に対して四十は初惑であるということも云い得ると思う」と述べる》。これが「四十初惑」のそもそもの出所である。

ここに思わず田能村竹田が出て来たので架蔵の『田能村竹田全集』(國文名著刊行會、昭和十年十月三十日三版)を取り出してみた。この全集にはわずかな書簡しか収録されていないため吉川の言う書簡が誰に宛てたどのような内容かは分からなかった。ざっと読んだ竹田の随筆類にも漢詩にも雑草の花につながるような表現は見つからなかった(精読したわけではありません)、ちょっと残念だが仕方がない。

竹田は四十どころか数え三十七で隠居している。富士川英郎の筆を借りると次のような次第であった。

《竹田が詩画三昧の生活に入ったのは、文化八年十一月、岡藩の領内に百姓一揆が勃発したとき、藩政改革の意見を上申したのが藩当局に容れられなかったのを機会として、隠退の身となってからのことである。その隠退の許しがでたのが文化十年三月であり、そのとき竹田は三十七歳であったが、それ以後、天保六年に五十九歳で大阪に客死するまでの約二十年間、彼が稀にみる風雅の友として[中略]専ら絵を画き、詩を吟じて、風流三昧の生活を送っていたことは、周知の通りである。》(『江戸後期の詩人たち』p177)

これだけ読むと藩政に絶望したかとも見えるが、おそらくそれほど切羽詰まったものではなく、病気勝ちでもあり、自分の建言も聞き入れられず、もともと詩人・画家志望だったことから(生家の医業は、結局、息子に継がせた)、文化十年(一八一三)に正式に辞職を許され、養老給(休息料)として二人扶持を給せられている。以後五十九歳で亡くなるまで詩書画の世界に没入したのであった。

もうひとつ、「「ガンダム世代」、中年になる」におけるガンダム世代(一九六〇〜六九年生まれ)とワンピース世代(一九七八〜八八年生まれ)の比較が面白い。ガンダム世代は「組織は理不尽なものと理解しつつも、そこに所属することをよしとしている」が『ONE PIECE』の世界には《上下関係や「組織の論理」がない》

《そのためガンダム世代の上司が、自由気ままなワンピース世代の若者を型にはめようとしても、反発をまねくだけでうまくいかない。》(p108)

これは鈴木貴博『「ワンピース世代」の反乱、「ガンダム世代」の憂鬱』(朝日新聞出版、二〇一一年)の主張なのだが、魚雷氏は《わたしはこの本を読んで、同世代が今、後進の指導に悩んでいることを知った》(p109)と告白する。とすると、中年論は世代論でもあり、組織論でもある。そしてそれは結局

《コミュニケーションはむずかしい。
 「輝く中年」になるためには、相手にたいする気遣いや思いやりを身につけなくてはならない。この先にできることは何かを考える前に、まずは人の話を聞けるオジサンになりたいとおもっている。》(p238)

というコミュニケーションの問題に帰着する(小生が個人的に中年を感じなかったのはどこにも帰属していなかったからかもしれない、濃厚なコミュニケーションの必要がなかったわけだ。対して老年は容赦ない肉体的劣化を突きつけられるから意識しないではいられない)。

《わたしが中年に関する本を読み続けているのも、自分の考え方の偏り、ズレみたいなものを把握したいという気持があるからだ。》(p126)

同世代とであれ、別の世代とであれ、共存のための摸索が必要なのだ。ズレの把握である。把握した上で人の話を聞けるオジサンになりたいとおもっているが、そうなれるかどうかは本人にも分からない。それが中年というものの本質かもしれない。徐々にくる肉体的な衰えもやはり心のズレを生むだろう。中年についてこんなに深く考えさせられるとは本書を読むまで思いもしなかった。好著。

ついでに、アニメ世代分類で言えば、小生は鉄人28号世代(少年にこきつかわれるデクノボウ)あるいはアトム世代(人間になりたいがなれないロボット)で、考えてみるとどちらもアイデンティティ喪失の物語ではないか。戦争を挟んで戦前と戦後を生きた作者たち、横山光輝(1934-2004)と手塚治虫(1928-1989)のトラウマをわれわれ世代は浴びて育ったということになる。

ウルトラマン世代だと言う人もいるが、そうだとすると、アイデンティティどころか、究極の他力本願世代である。


# by sumus2013 | 2020-08-08 20:31 | おすすめ本棚 | Comments(1)

The Bazaar

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『A VISIT TO The Bazaar』(J.Harris, 1818)ほるぷ出版が一九八四年にオズボーン・コレクションを復刻したセットのなかの一点。

the Osborne collection

エドガー・オズボーンは英国の図書館員で子供の本の蒐集家であった。一九四九年にトロント・パブリック・ライブラリーに二〇〇〇点のコレクションを寄贈したそうだ(詳しくは上記サイトにて)。

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Bookseller


オリジナルはさすがにかなりの古書価である。

David Miles Books
A VISIT TO THE BAZAAR: By the Author of The Little Warbler of the Cottage, Juliet, or the Reward of Filial Affection, Port Folio, &C. &C.

ロンドンのソーホー・スクエアのバザールに出ている店を絵入りで紹介している。ジェントルマンであるダーンフォード氏が妻と息子と娘たちといっしょにバザールを訪ねるという設定である。注目したのは「Grocer」食料品店。ダーンフォード氏は七歳の娘キャロラインにこうたずねる。

「お茶はどこの国から輸入されるか、知っているかい?」

「中国よ、パパ。チャールズ一世が治めているときに初めてイングランドに入ったのよ。お砂糖は西インド諸島から、コーヒーはトルコからよ」

「いい子だね、キャロライン。家庭教師の教えたことをよく覚えていたね。じゃあ、イチジクはどこからくるのか言ってごらん。そしたらとびきり美味しいのを買ってあげるから」

「たぶんトルコね、パパ。とっても美味しい干し葡萄と同じよ。マラガ干し葡萄はスペインからでしょ。わたしの大好きなプディングに入っているカレントは地中海の島からよね」

キャロラインはご褒美を姉たちや弟と分け合いました。

「覚えておきなさい、可愛い子」とダーンフォード夫人は言いました。「あのお米、あなた大好きでしょ、アジアからきてるのよ。タマリンドやその他の乾燥フルーツは西インド諸島から、スパイスはモルッカかスパイス諸島からよ。アーモンドとダーツは、ここに売ってないいろいろな物といっしょに、アフリカから入ってくるのよ」

というようなワールドワイドな商品流通が説明されているわけである。1818といえば日本では文政元年、まさにイギリス人ゴルドンが浦賀に来航し通商を要求してきた年になる。日本からは何を輸入するつもりだったのか・・・

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GROCER

この挿絵の右端に描かれているブルーの容器に茶葉が入っているようだ。

# by sumus2013 | 2020-08-07 20:58 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

園芸 第一年第二号

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『園芸』第一年第二号(筑紫園、明治四十一年五月一日)。筑紫園の住所は東京府下豊多摩郡千駄ヶ谷町大字千駄ヶ谷四百七拾番地。編集兼発行者は大石進。ツツジ園として有名だったらしく大石は園芸家でありツツジの研究家だったようだ。

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口絵


雑報のなかに執筆者でもある牧野富太郎の創刊号批評「牧野先生の本誌評」が出ている。表紙のデザインから絵葉書や口絵まで細かいところまで思ったことをズバズバ言う感じがまさに牧野節。

《何にしても類似の雑誌が数多ある時に産まれ出したものであるから、多少の角逐も起こる事であろーし、随分其競争に堪ゆる様努力せられたい。それには単に此雑誌を一時の娯楽物とせずして、永久に此雑誌の必要を認められる様……即ち生命ある雑誌たらしめねばならぬ、価値ある記事を以て編し、オーソリテーとなるべき雑誌を造らねばならぬ。》(p78)

類似の雑誌が多数あるというところに興味を引かれる。そ言ういえば、あの古河力作が東京府下滝野川の園芸店で働いていたのもちょうどこの頃である。引用した部分は、牧野がつねにこういう最も高いところを目指していた証拠になるような助言だと思う。だからこそ他者との軋轢も激しかったに違いない。

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本当は口絵の次に絵葉書が綴じ込まれているのだが、それはもう剥ぎ取られてしまっている。その代わり、「名古屋/福岡/共進会電気館入場券/小人様御壹名限り」という博覧会の入場券が残っていた(綴じ込み)。

「第10回関西府県連合共進会」
《1883年(明治16年)以降、西日本の各地で開催された関西府県連合共進会の10回目に当たる。
1910年(明治43年)3月16日から6月13日の90日間の会期が設定され、造成が開始されたばかりの鶴舞公園を会場に開催された[1]。関西府県連合共進会とは銘打っていたものの、参加府県は北海道・東北地方の県を除く3府28県にも及び、果ては台湾(当時は日本統治下)からも出品された[1]。入場者数は263万2,748人と記録されており、これは当時の名古屋市の人口約41万人を軽く超えるものであった[1]。》(ウィキペディア)

# by sumus2013 | 2020-08-06 21:05 | 古書日録 | Comments(0)

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M氏より《ちょっとしゃれた検印紙がありました》ということで画像を頂戴した。高橋廣江『文化と風土』(青光社、昭和十五年九月十九日)。青光社は尾崎行雄、佐藤朔、モオリアツク、石崎広治郎らを昭和十年から十五年にかけて発行していたようだ。検印紙の言葉「calamus gladio fortior、カラムス・グラディオー・フォルティオル、ペンは剣よりも強し)にふさわしいラインナップだったろう。

本日は龍彦忌だからというわけでもないが、他にラテン語が記された検印紙がなかったかと思って少しばかり探してみたが、すぐには見つからなかった。漱石の『こころ』に「ARS LONGA VITA BREVIS」(アルス・ロンガ・ウィータ・ブレウィス。技術は長く、人生は短い)とあるくらい(検印紙ではありませんけど)。

それでも、探していると、ギリシャ語の検印紙があった。ΗΘΕΙΑΑΛとあるが、これはどういう意味か、検索エンジンにかけても分からなかった。ἠθεῖος(エーテイオス、名誉ある、尊敬される)と関係があるのかどうか、ご教示を。この奥付は『希臘悲壮劇』(理想社、昭和十六年十月十五日)のものなり。

ご教示いただきました。ΑΛΗΘΕΙΑで「真実」の意味です。左側から読み始めるんですね、思い至りませんでした。有難うございます


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# by sumus2013 | 2020-08-05 20:22 | 古書日録 | Comments(2)