林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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ウィリアム・モリス 全完本

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『ウィリアム・モリス ケルムスコット・プレス全本』(モリサワ、二〇〇一年四月一〇日、クリエイティブ・ディレクション=勝井三雄、デザイン=杉本浩)。モリサワ・コレクション、ケルムスコット・プレスが刊行した全五十三タイトルおよびモリス自筆の装飾文字・枠のデザイン原稿、バーン=ジョーンズのデッサン、が収録された手頃な小冊子である。

庄司浅水さんなどは『チョーサー著作集』(上の表紙に添えられているを世界で一番美しい本であろうと書いているが(「奇書と珍書」『世界の古本屋』アテネ文庫、一九五〇年)、小生は賛成しかねる。ただ、それはそれとして、モリスの正直さ、一途さ、が伝わってくる、言うなれば、人柄の現われた作品群だと思う。

偉大なる小芸術家、W. モリスの本展


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1. The Glittering Plain


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3. Blunt's Lyrics and Songs of Proteus


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5. The Defence of Guenevere


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7. The Golden Legend


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8. The Recuyell of the Historyes of Troye


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9. Mackail's Biblia Innocentium


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18. Gothic Architecture by William Morris


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27. The Wood beyond the World


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29. Shelley's Poems


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30. Psalmi Penitentiales


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34. The Life and Death of Jason


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53. A Note by William Morris


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ウィリアム・モリス自筆装飾頭文字デザイン




『花と葉』(一八九六年刊)

ロンドンのハマースミスにあるケルムスコット・ハウス


本年もお付き合い有り難うございました。良き新年をお迎えください。


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by sumus2013 | 2017-12-31 19:59 | 古書日録 | Comments(0)

ボブ・ディラン・モノ・ボックス

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BOB DYLAN THE ORIGINAL MONO RECORDINGS ボブ・ディラン・モノ・ボックス」(SONY MUSIC ENTERTAINMENT, 2010)。年末はディラン三昧。初期コロムビアのモノ・アルバム八枚(「Blonde on Blonde」は二枚組)のCDボックスを繰返し聴いている。三枚目まではかつてCDで持っていたので、ほとんどどの曲も耳になじんでいるが、四枚目の「Another Side of Bob Dylan」以降はめぼしい曲だけしか知らなかった。正直なところ三枚目までで充分という気もしないでもない。四枚目がとくにガクンと聴き劣りするが、その後は少し持ち直す。と言っても、すべては二十代前半の仕事なのだ。やはりこれは驚きだろう。

《そうだ、ステレオというものがあった。これら全てのアルバムはステレオでも発売されている。この時期には、楽器と声とがなんとか分離され、右と左のチャンネルから聞こえてきた。もともとは、コンサートホールで聴いているような、シンフォニーではヴァイオリンが左から、チェロが右から聞こえるという、臨場感を出すためのテクノロジーであった。『プレイボーイ』誌がもっとも積極的に、そして魅惑的に推奨していた。輝かしいコンポーネント……アンプ、プリアンプ、レシーバー、ターンテーブル、そして木目調のスピーカー、それらはまだライフスタイルと呼ばれるまでにはいたっていなかったが、自分の洗練された趣味、金銭、皆より一歩すすんでいることを誇示する方法として、流行で仕立てた洋服、アペリティーフの酒、そして「ベイビー、こんなブルーベックはきっと聞いたことがないはずだよ」という殺し文句とともに提供されていた。》

と、このように、解説のグレイル・マーカス(Greil Marcus)はステレオの登場から説き起こしつつ、モノで聴くことの意義について考察する。

《あの単一の音には何か具体的なものがあった、曲と出来事をつなぐ何かがあった。リトル・リチャードの「レディ・テディ」は他の何かである前に、まず事実なのだ。反論できない何か。》

当時、音楽はステレオよりもモノラル(たとえばラジオから)で聴くことの方が当たり前だった、それは聴いていた人々の身の回りの出来事と結びついている、とそういうふうに言いたいのだと思う。

《「やつはサイス(大鎌)みたいにスパッとシーンをぶった切った」とフォークシンガーのサンディ・ダーリントンは、一九六一年、グリニッチ・ヴィレッジにおける十九歳のボブ・ディランの登場について語ったことがある。その登場の音が聞こえる……歌手の背後に吹きすさぶ風、ファーストアルバム、その年の遅くにレコーディングされた……むこうみず、才能、この歌手には歌う権利がないとでもいうような曲の顔付で微塵の穏やかさも拒絶する、勝手にしやがれ。》

《フォーク音楽に商業的な力があった時代……ジョーン・バエズがセカンドアルバムでチャートの13位になり、125週間チャートにとどまった年には、ピーター・ポール・アンド・マリーのファーストアルバムが1位になり3年間以上チャートに入っていた、キングストン・トリオはトップテンに三枚のアルバムが入った……ボブ・ディランのファーストアルバムはアメリカで最大かつ最有力なレーベルから発売され、初版は5,000枚の売り上げだった。これが商業的に失敗だったというのは噂にすぎないが、噂が力を得て、誰もがジョーン・バエズやキングストン・トリオを知っていたとしても、もしボブ・ディランのことを知っていたなら、他の誰もが知らなかった何かを知っていたわけである、もうすぐ誰も知らない人はいなくなる何かを。》

以上拙訳(適当に端折ってます)。二枚目のアルバムからピーター・ポール・アンド・マリーが「風に吹かれて」他をカバーして次々ヒット、それにつれて作曲者のディランも「知らない人はいない何」かになっていくわけだが、まさかノーベル平和賞、じゃなかった文学賞! までもらうとは夢にも思ってなかったろうねえ……。


ついでに最近買ったCD。

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SLIDE GUITAR CLASSICS ; 1997 Repertoire Records


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TUATARA breaking the ethers ; 1997 Sony Music Entertainment


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BO DIDDLEY ; 1986, VOGUE FRANCE


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by sumus2013 | 2017-12-30 21:36 | おととこゑ | Comments(2)

書肆盛林堂近刊

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書肆盛林堂の近刊書。今年もいろいろ珍しい、驚くべき本が次々刊行された。来年も期待してます。

書肆盛林堂
http://seirindousyobou.cart.fc2.com

あらしの白ばと 黒頭巾の巻
著者:西條八十
編者:芦辺拓
表紙・口絵:玉川重機
表紙デザイン:小山力也(乾坤グラフィック)
価格:3,500円
判型:A5判
200部

いつまたあう―完全版―
著者:久生十蘭・二反長半
監修:沢田安史
表紙画:山下昇平
表紙デザイン:小山力也(乾坤グラフィック)
判型:文庫版
価格:2,000円
販売開始:12月23日(土・祝)
通信販売停止中。再開未定。


ルーフォック・オルメスの事件簿
著 者:カミ
編 者:北原尚彦
発行日:2017年11月23日
表紙イラスト:楢喜八
表紙デザイン:小山力也(乾坤グラフィック)
価 格:1500円
判 型:文庫版
400部
売切。再入荷はありません。

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by sumus2013 | 2017-12-30 16:43 | おすすめ本棚 | Comments(0)

第九

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君本昌久『詩集 ぼくの第九』(蜘蛛出版社、一九九二年五月一日)。街の草にて求める。年末と言えば「第九」・・・違いますか。

『歴史と神戸』第51巻第1号 特集・君本昌久と戦後神戸の市民運動
http://sumus.exblog.jp/17831944/

表紙と扉絵はマン・レイ。実はこの詩集、以前にも買ったことがある。

『白雲堂古書目録』第五輯
http://sumus.exblog.jp/14567820/

その一冊は某氏へ呈上したため、チャンスがあれば手に入れたいと思っていた。ちょうど七年かかってしまったが、こうやって再会することができたというわけである(もちろん同じ本ではないですけど)。

「マン・レイの光線」という作品を引用しておこう。全文。


 マン・レイの写し取った
 ポートレートの光線
 燃えつきた ダダ・シュルレアリスムの
 わくわくしてくる詩人や画家たち
 デ・キリコを中央にして並んだ12人
 そして彼女たちは
 キキ ナターシャ ジュリエット

 愛人たちは
 アングルのヴァイオリン
 卵型の割れ目から差し出す両手の
 「祈り」の日付は
 1930年4月8日
 きみは生まれて一歳半
 母の乳房にしがみついて
 むずかっていた

 遡れば 1925年9月
 堀口大学の〈月下の一群〉
 ミラボー橋の下 月日は流れ
 ティレジアの乳房
 空腹は詩にうちふるえ
 火のついたけむりを吐く鏡
 ジャン・コクトー
 そして十一月
 〈旅人かへらず〉の詩人は
 女流画家マジョリィと連れだって
 イギリスから帰ってきた

 夕暮れを告げる大いなる唇
 けむるがごとき優しい陰毛
 マン・レイは
 ダダの逆説を生きつづける
 美女の裸体にイロニーを灼きつける
 14本の釘をアイロンの尻に植えつけた
 ハテナとハテナの奇遇 数々のオブジェ
 ランボーの死とすれちがい
 十九世紀末にアメリカで生まれた
 エマヌエル・ロドニッキーは
 1976年11月18日の早朝
 マン。レイ。になって
 息を引き取った

 なにも壊さないダダ
 誰も傷けないダダ
 マン・レイの汗は青空に立ちのぼる
 マン・レイの
 光線とオブジェが魅惑と反省を呼びさますごとく
 甦ってくる

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by sumus2013 | 2017-12-29 17:43 | 関西の出版社 | Comments(0)

日記

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串田孫一『日記』(実業之日本社、一九八二年七月三〇日)読了。

現在八十三冊目の帖面に日記を書いているが、ここに公表するのは第二十八冊と第二十九冊の前半に書かれたものである。それ以前の日記の大部分は自らの手で焼き、数冊は戦火を受けて焼失した。この「日記」の中で、二十七冊すべて、戦火によって焼失したようにも書かれているが、それは偽りである。従って残っている日記のうち最も古い部分である。》(後記)

串田孫一の小宇宙』によれば二〇〇五年、八十九歳で歿したとき、書いていた日記は124冊目であったという。二十八〜二十九冊目というのは、昭和十八年十月から二十一年九月までの丸三年にあたる。二十八になる少し前から三十一になる少し前まで。兵隊に取られることも考えつつ、空襲が激しくなるにつれて本の疎開に心を痛める、そして疎開先の山形での敗戦から東京三鷹に家が見つかるまでの成り行きが、知友からの来簡なども交えながら、公開されている。

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口絵は山形でのスケッチ


戦中と戦後の古本屋についてもあちらこちらで触れられていて、参考になるが、ここでは焼けた本について少しまとまった引用をしておく。昭和二十年四月の空襲で巣鴨にあった自宅が全焼してしまった。

《自分一人の生活範囲に柵を巡らして、心から焼けないでくれればと思ったのは、書物だけである。それは二度と入手が困難だとか、ただ勿体ないという気持からではなく、私が生活して行くためになくてはならないものになっていたからである。》

《家族と共に運ばれる僅かの荷物の中へ、三箇ばかりを函詰めにして入れることにした。その中へは自分の所有している本の中から極くほんの一部の約二百冊ばかりの、何處でどんな惨めな生活をするようになっても手放したくない古典と、長い間かかって折にふれては探し求めていた不思議な物語の類と、二十七冊までの日記と、書きためた原稿の類と、古典と共に置かねばならないわが師からの書簡と、若干の紙と、長年愛用して来た文房具の類とを入れたのである。》

《この函のものさえあれば、極く最小限に見積って数年間はやや生活らしいことが出来そうに思えたのである。それは木函に入れて釘を打っている時には、何となく棺の蓋をしているように思えて随分悲愴であり、何の為にこれら大切な書物が、函に詰められ、釘を打たれ、縄もかけられるのかと思った。それは生き埋めにしてしまうようなものだった。それが単なる私の夢想ではなく、庭の隅で灰と化しているのを見なければならないようなことになった。灰を丹念に片寄せて行くと、私の鉛筆によって書込んで置いた文字が灰の上に光って見えたりしたし、紙切りが見る影もない姿となって出て来たりした。私はその灰となった二百冊の本の書名を言ってみることも出来た。その他の書物も、家の到るところに取り散らかしてあったので、書物の真白い灰は焼跡の方々に重なり合って残っていた。そして一度雨に叩かれたその尊い灰は、もう殆んど舞い去ることもなく、じっとりと或る種の重みを持っていた。》


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渡邊一夫の葉書


この日記にもっとも頻繁に登場する人物は、家族を除けば(家族よりも多いかもしれないが)渡邊一夫である。渡邊の書簡や自筆葉書も紹介されており、戦中の渡邊について興味を持つ者にとっても有益な記述ばかりのように思う。他には、叔父の今村信吉、親友の戸板康二、そしてペリカン書房の品川力も頻繁に登場する。品川の配達する(郵送です)人ぶりがこの日記からでもよくうかがえる。焼いてしまったから、というばかりではないのだろうが、戦後の串田の本の買いっぷりはかなりのものだ。

著作も次々出版するようになる。品川の紹介で美篶書房の小尾俊人がパスカルの本を出して欲しいと言って寄越す。昭和二十年十一月十六日付小尾書簡。引用文中の旧漢字は改めた。

私は一昨年暮学徒出陣にて軍隊に入り、終戦後復員になつたのですが、在隊中のいろ〜〜の感想はつまるところわが国の文化をさらに高め、又理性的なものの考へ方を広く民衆の中に徹底しなければならないという結論を生みました、真理を愛し、美しいものに感じ、深いものに憧れる、さういふ心情はこの上もなく尊いことだと思ひます。

西欧日本の古典的な書物の刊行を主眼とし、又真理への愛をかきたてるやうな書物の発行を志し、新たに出版書店をつくりました。編輯は私の心の誠実と責任において、私が担任し、用紙等も準備しあり以後以前との関係において充分に補給することができるはづです。書店名は美篶[みすず]書房、事務所は今牛込においてあります。

品川は次のように小尾を紹介している。

私の知人で、もと羽田書店(出版)につとめてゐた若い小尾[オビ]俊人君がこんど独立して出版を初めるとのことで、クラシックなものばかり手がけたいとの話で、先づ最初あなたから「パスカル研究」を執筆して頂たいとのことです。

ところが、これは美篶書房からは出版されなかった。昭和二十一年五月五日付小尾書簡。

さて、「永遠の沈黙」の書物、これを私の友人の河平一郎氏の経営する新府書房(新たに創業、専ら良心的に仕事を志してゐる人です、近刊トルストイ「復活」など)で、是非こちらへ願へないかと申しておりますのですが、実はこの話は幾度もあり、自分がお願ひしたものだからと理由も述べたのですが、是非といふことのので、先生の方へお話し申上げますものです。事実そのまゝを申上げますと、美篶書房といたしましてはロマンロラン全集全七十巻を六月頃よりづつと継続刊行してゆかねばなりませんので、用紙と印刷方面に於て勢ひ他の企画が相当に違算を来してゐるやうな事態でございまして、もし当方でいたしますにせよ、刊行期日は一寸予定がつかぬ状況なのです

う〜ん、これはちょっと勝手な言い分かなとも思うが、ま、仕方ないか。ということで『永遠の沈黙 パスカル小論』は新府書房から同年六月に刊行されている。


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by sumus2013 | 2017-12-28 20:57 | 古書日録 | Comments(0)

美術 第十一巻第六号

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『美術』第十一巻第六号(東邦美術学院、一九三六年六月一日)。図版切り取りがかなりあるため、均一に出ていた。そうでなければ、戦前の美術雑誌なので、それなりのお値段である。

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ざっと図版を調べていて目が止まったのはこちら。靉光「ライオン」。靉光はこの年の独立展にこの「ライオン」(ともう一点、眠るライオン)を発表したが、その後二年間、ライオンの連作を続けた。そしてその試行錯誤が代表作「眼のある風景」(一九三八)へと繋がる。本誌には「私の出品作・独立展」というコーナーがあり、そこに靉光はこう書いている。

愚作で誠に申譯ない次第です。
 ライオンを材料に必ず一度は素敵な作を生む腹。

他にもいろいろ珍しい写真がある。下は独立展の受賞者および新会員の一部。上段右端が今西中通、その左が飯田操朗。下段左端の紅一点が三岸節子。ついでに言えば下段右から二番目は斎藤長三で、小生が武蔵野美術大学にいた頃(え〜と、この写真からおよそ四十年後です)の教授の一人。この左側につづく省略した写真に顔が出ているもう一人、中間册夫という先生もおられた。

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他には、佐分眞の追悼記事も貴重である。宮田重雄、伊藤廉、益田義信、伊原宇三郎、窪田照三が思い出を寄せている。かなり前に佐分の遺作集『素麗』(春鳥会、一九三六年)を架蔵していたのだが、生活苦に負けて売り払った苦い思い出がある……。

また、「消息」欄にこんな記事を見てオヤッと思う。

 野田英夫氏 東京市麻布區谷町四十一番地麻布アパート内へ轉

野田英夫は一九三四年に日本を訪れ(生まれはサンノゼ)、三七年に一度アメリカへ帰って壁画の仕事をするなどしてから、ヨーロッパを経て、再び来日している。

とにかく雑誌というのは細部が面白いです。


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by sumus2013 | 2017-12-27 20:43 | 古書日録 | Comments(0)

étude:07

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文月書林の古書目録『étude:07』(二〇一七年一二月二三日、デザイン=サトウタナカ)が届く。掌サイズ(148×105mm)のオシャレな目録。表紙別、本文8ページという小ぶりな内容ながら、本の並べ方は「おぬし、やるな」という感じである。巻頭は野田書房の「コルボオ叢書全12冊」……なるほど。値段のバランスもよく考えられている。取り急ぎ、一冊注文だ。

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同封の「おしらせ」によれば、年明け一月中に事務所営業を再開する予定だとか。ウェブサイトは現在工事中、近日リニューアル予定ということです。


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by sumus2013 | 2017-12-26 17:03 | 古書日録 | Comments(0)

いっぱいです

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『いっぱいです』(「ぶゐ」二十周年記念誌刊行会、一九八四年一一月六日、限定千部)を頂戴した。これまでも飲み屋の本、を送ってくださった某氏、に深謝。

火の子の宇宙

ささありき

「ぶゐ」は渋谷ののんべい横丁にあった名物店。二〇〇九年七月に店主の平野薫子さんが亡くなられ、閉店してしまったようだが、この本は、それよりも二十五年前、開店二十周年を記念して刊行されたもの。

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巻頭に掲載されている「薫子一代記」が波瀾万丈、むちゃくちゃ面白い。父は広島出身の弁護士だったが、大陸へ渡って軍の御用商人のようなことをやって儲けていた。何不自由なく(しかし産みの母とは生き別れで)育った薫子は朝鮮の大邱高等女学校から青島日本人高等女学校へ通って、その後、医者になるべく上京し予備校生活を送る。しかし敗色が濃厚になり、敗戦時には大邱に居たが、なんとか命からがら漁船に乗って帰国した。戦後の東京でさまざまな職業を転々としながらレストラン、喫茶店勤めから配膳会(パーティなどへの人材派遣会社)で実績を積み、五反田でスタンドバー、そして渋谷で「ぶゐ」を始めるまでを滔々と語っている。まるで映画を見るようなシーンの続出で、ある意味非常に貴重な証言になっているように思った。

喫茶店の時代メモをいくつか引用しておく。

《お小遣いには不自由しないんですけど、東京はもう食料事情が悪くなってて、「白十字」や「むらさき」「ラジオと新聞の店」なんかで、大豆のコーヒーと乾燥バナナを食べてましたね。》(昭和十八年)

《ジャズが急に流行しはじめて、何かこう自分に集中するものが何もない時代でね、しかしジャズ喫茶が出来て、有楽町のパール街ってありましたでしょう。U字型の路地になっていて、あそこへ黒人の生バンドをよく聴きに行きましたよ。
 パール街は知っていますよ。「ママ」っていうモダンジャズ喫茶があったんだ。
 その頃は、モダンはまだ入ってなくて、デキシーでしたけど。「あっ、これだ」っていう感じがジャズにはありましたね。一週間に一度か二度だけどね。黒人にアメリカっていうのを感じましたね。昭和二十五年……。》

《その頃、ダンスが流行ってましたね。小谷楽器でダンスホールをやってて、帰りにダンス習って、お好み焼きを食べてとか、風月堂でコーヒー飲んだり、少し生活にゆとりが出てきてましたね。
 それは何年ですか?
 二十八年ですね。》

《気落ちして、花馬車の前につっ立っていたら、そこにね、「リズ」っていうパフェがあるのね、リズ。
 リズ、知ってますよ。美人のウェイトレスがいたんだ。
 そのリズでお茶を飲んでたのが、河瀬さんていう方でね、花馬車のお客さんで、私のことなんかもよく知ってるんですよ。それで、私に声をかけて下さってね。縁なんですかねぇ、その方が「トワエモア」っていう有名な喫茶店のマスターで、私はこれがきっかけでトワエモアで働くことになるんです。》

《花馬車の並びの西五番街の五丁目のお店でね、トワエモア……。
 このマスターっていう方が変わった方でして、もう、とてもいい人なんです。大学を出てから、すぐフランスへコーヒーの研究に行ってたっていう方でね。銀座では有名な方でした。トワエモアっていうお店も、もう銀座のことを語るのには欠かせないような有名な店でね。》

《トワエモアのお客さんていうのは、まず文春ね。裏にあったから。それから電通の人達。それから、銀座警察っていって、有名だったんだけどU一家ね、そのU一家の根城だったんです。マスターが、人がいいもんだから、結局、つけ込まれたんでしょうね。あとは銀座の商店のオヤジさんたちね。常連の多い店でしたよ。》

昭和三十一年秋頃の話である。U一家は浦上信之の一派のようだ。

《当時、数寄屋橋のあたりは、にぎやかなもんでした。今みたいにキレイじゃなくてね。橋の上でドーナツ売ってたりとか。少し前にね、そこでドーナツ売ってた人画、後に成功して、今の有名な喫茶店を開いた。初代の人がね。これ、「アマンド」です。それで駅前にはヨーヨーとか、大福もちを売ってたオジサンもいてね。これが後のKコーヒー。トワエモアにいつも来てましたからね、よく知ってます。》

しかしマスターは当時流行したパチンコ三昧になり、U一家が店内で日本刀を振りかざすなどするため、一般客が寄り付かなくなり、地下で経営していたクラブが度重なる手入れで営業できなくなるということもあって、昭和三十二年の年末にあえなく閉店したという。……高度成長時代の喫茶店のひとつの盛衰として非常に貴重な証言のように思われる。

トアエモアを辞めてから「ぶゐ」開店までにもいく波乱があるわけだが、あまりに長くなるのでそちらは省略。「いっぱいです]というタイトルはママが気に入れない客を断る(というか一見の客は入れない)ときのセリフだそうだ。席が空いていても「予約です」と断るのだという。「せっかくこの店に来てくれる人が、一見の客のために坐れないようではわるくてね。それも地方から出張できているような人が入れないようでは……」という心遣いがあったのだとのこと。

その常連たちの「ぶゐ」を語るエッセイも、ママの話とはまたひと味違って面白いが、これも長くなるので省略。ひとつだけ、ブローティガンのメッセージが掲載されているので、これはぜひ引用しておかなくては、と思うしだい。

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リチャード・ブローティガン「ダイヤモンドの中で食べる」。日本の姉たか子に連れて行ってもらった渋谷のレストランは、食べ物が素晴らしく美味しかったが、店はとっても狭くて、まるでダイヤモンドの中で食べているようだった。同席した七人の客たちがほとんど同じ皿から同じ口で食べているようだった、というような内容である。

ブローティガンには一九七六年の滞在がモチーフとなった『東京日記』という生前最後の詩集があるが(現在は平凡社ライブラリーで読めるようです)、「ぶゐ」訪問は一九七七年六月ということなので、『東京モンタナ急行』(晶文社、一九八二年;The Tokyo-Montana Express, 1980)の時期ということになろう。


渋谷のんべい横丁「ぶゐ」を突然訪ねる

渋谷の飲み屋「ぶゐ」


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by sumus2013 | 2017-12-25 17:51 | 喫茶店の時代 | Comments(2)

本を読む聖母

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クリスマス・イヴ、ということで本を読む聖母の図を探し出してみた。オックスフォード・アシュモリアン美術館に所蔵されている「聖母子像 Virgin and Child (The Tallard Madonna);Madonna leggente(読書する聖母)」(1505年頃)。ジョルジョーネの作とされているが、確実ではないようだ。背景に見えているのはヴェネチアのサン・マルコ広場の鐘楼と宮殿だとのこと。この鐘楼は一四八九年から一五一一年に現存したものという。

この図は『ファブリ世界名画集75 ジョルジョーネ』(平凡社、一九七三年)から取った。解説は今泉篤男。

《1949年にこの絵は発見され、以来、最も初期の作品と認められるに至った。ジョヴァンニ・ベリーニ風の鮮麗な明るい色調で描いてはいるが、聖母や幼児キリストの顔付にはベリーニにはない一種の精神的な深さがすでに表われている。窓外はヴェネツィアの風景で、サン・マルコ寺院の鐘楼が眺められる。こういう風景の柔らかい描き方も、ジョルジョーネの画風を示している。》

ジョルジョーネはベリーニの弟子であった。この書によれば一四七八年に生まれ、一五一〇年に歿している(これは現在も訂正されていないようだ)。本書では最初期と書かれているが、制作年についての記載はない。一五〇五年というのはアシュモリアン美術館の推定であろう。とすれば二十七歳頃の作。

《戦後、20年余り以前のことになるが、私はイタリアで2人の著名なジョルジョーネ研究の学者に会った。1人はフィレンツェ郊外の広壮なヴィラ風な邸宅に晩年を過ごしていたバーナード・ベレンソンであり、他の1人は、当時ローマ大学で美術史を講じていた、これも晩年のリオネロ・ヴェントゥーリである。矢代幸雄先生の紹介で訪ねたのである。2人ともすでに亡いが、それぞれ若い時期にジョルジョーネに傾倒して、有名な著書を書いている。》

《16世紀はヴェネツィア文化の最高潮に達した時期である。この地は、ヨーロッパ中でも、ルネサンス期の最も大きな知的出版物の中心地になっていた。ルネサンスの有力な文学者、哲学者たち、つまりユマニストたちが集っている土地でもあったのである。》

《この時期のヴェネツィアにおける真に優れた学者や文人のグループというのも、決してそう広汎なものでなかったに違いない。が、田舎から出てきたばかりのジョルジョーネは、まっ直ぐに、この地における最も優れた文化的グループのその狭い門に入っていったのである。この事実は、若いジョルジョーネにとって機縁といえばいえることかもしれないが、何よりも彼自身の性格の求めるところに拠ったことには違いない。
当時の資料の伝えるところによれば、ジョルジョーネが参加していたグループの中心になっていたのは、その頃、ヴェネツィアにおける最も偉大な文人といわれたピエトロ・ベンボである。》

《ピエトロ・ベンボは、当時の新プラトン哲学の感化を強く受けた文人で、彼は、美しいギリシアの山地に淳朴は人々が清福のうちに暮していたというアルカディアの田園の夢を詩に歌ったといわれているが、ジョルジョーネはそのベンボの詩から影響を受け、その絵画作品の中にその理想の田園風景を描いたのではないかと想像されたりしている。》

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そういうことなら、このマドンナ(そもそもマドンナなのだろうか?)が読んでいる本も普通の聖書などではない? と邪推していいかもしれない。近代出版の祖とも見なされるアルドゥス・マヌティウス(1450-1515)がヴェネツィアに住み着いて印刷業に乗り出したのが一四九〇年、アルドゥスの新機軸はオクターヴォ(八つ折版、6インチ×9インチ)という読書や携帯に便利な小型本であったから、この絵の若い母が手にもって本を読んでいるという意味は決して小さくないように思われる。

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by sumus2013 | 2017-12-24 20:49 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

日本シュルレアリスム画家論

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今年の買物のなかから拾遺を。まずは鶴岡善久『日本シュルレアリスム画家論』(沖積社、二〇〇六年七月五日、カバー絵=瀧口修造)。某書店の目録より。著者のオリジナル・デカルコマニー貼り込み本。もちろん署名入。

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《変ないい方だが、この無意識の所産であるデカルコマニーにも、デカルコマニーの人格、といったようなものが存在するように、ぼくには思えてならない。ドミンゲスから始まって現在までさまざまな人によって試みられたデカルコマニーを見て、ぼくはそこから画家の体質のようなものまで感じる。例えば野中ユリも一時期デカルコマニーに熱中した。野中ユリの黒のデカルコマニーはかなり求心的であった。画面の絵の具のずれやにじみが垂直的に見るものに迫ってきた。青い地に白線のデカルコマニーにおいても、白い線はたとえ横にひかれても、線そのものは垂直的であるように、ぼくには感じられた。あるいはあえて名はあげぬが、デカルコマニーに、「いやしさ」の感じられる現代作家もいる。さて瀧口修造のデカルコマニーは一貫して、創始者であるドミンゲスのデカルコマニーの質に近いようにぼくには思われる。

《瀧口修造のデカルコマニーを目の前にして坐っていると、他人のように、これらの断片がぼくの頭のなかをするりするりと通過していくーー》(手の通路ーー瀧口修造の「絵」)

ということで、鶴岡氏のデカルコマニーはどうだろう……

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by sumus2013 | 2017-12-23 20:32 | 古書日録 | Comments(0)