林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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鈴木常吉

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鈴木常吉「望郷」(しゃぼん玉レコード、2010)、このCD冊子の冒頭で鈴木常吉についてこう述べられている。

《ツネさんかい、あっ知ってるよ。北千住の肉屋の倅(せがれ)だろ。深夜食堂(うち)に来ると「オレは肉屋の倅だからコロッケにゃ、チトうるさいゼ」なんて言いながらウーロンハイ飲んでるよ。
 ガキの頃はオートバイ乗り回して交通鑑別所に何日か世話になったらしいな。高校出る時、地元の和菓子屋で見習い職人募集してて、研修でフランスに行けるってどっかから聞きつけて、母ちゃん同伴で面接に行ったら日頃の行状が行状だからあっさり断られて、それで仕方無く大学に進学したんだってサ。
 卒業後、どういう訳か絵本の会社に勤めてケンカかなんかで辞めて喫茶店を始める。その頃からバンド組んで歌ってたらしい。「イカ天」に出てセメントミキサーズでちょっとだけ売れた。その頃、あの高田渡さんと吉祥寺歩いてたら、渡さん差し置いてツネさんがサイン求められたって言ってたな。》(「奴のうわさ」深夜食堂主人談(代筆安部夜郎))

今検索したかぎりではどうも小生と同い年らしい。舞台慣れしているというか、時間、曲順、MC、休憩などの間が良かった。MCはけっこう長かったが、これが魅力的で、うまく笑いもとるし、有名人の名前をだして興味をそらさない(常吉氏は俳優でもあって蒼井優やオダギリジョーの裏話なども)独特の話芸になっている。むろんギターやアコーデオンも聴かせるものだし歌にも味がある。感心したのは歌詞。自伝的なものだろうが冒頭の「肉屋」がとくに印象的だった。ここでは「望郷」から「夜明けの物音」(作詞・作曲=鈴木常吉)を引用してみる。

 また今日も新聞配達の
 オートバイの音が聞こえてきた
 それはもう昨日の事だよと言って
 エンジンの音は通り過ぎた

 ガラス窓の中に顔がある
 何処の誰とも分らぬ顔が
 無精髭をはやし目を赤くして
 私の顔を覗きこんでいる

 夜は削り取られて河底に沈む
 そしてそこに朝がやって来た
 ぐっしょりと寝汗をかいた朝が
 濡れ布巾の様に町を覆うのだ

 また今日も新聞配達の
 オートバイの音が聞こえてきた
 それはもう昨日の事だよと言って
 エンジンの音は通り過ぎた 


耳で聴くとこの詩はさらに良くなるように思う。曲調は紹介文にも出ていたように高田渡に近いものもある。そうそう高田渡といえば『雲遊天下』125号「特集・高田渡の夜」の座談会が良かった。「フォークソングの王道を進んだ高田渡の道筋」……岡崎氏が司会で高田渡の兄・高田驍(たけし)氏と高田烈(いさお)氏、そして三浦光紀氏(ベルッド・レーベルの創立者)、中川五郎氏の貴重な発言を取りまとめて読ませるもの。十七歳のころに文選工として三鷹のあかつき印刷で働いていたという事実は意味深く感じる。


***

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今宵(二月十日)はこのライブに出かけた。明日は豊岡劇場とか。大雪は大丈夫だろうか。

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by sumus2013 | 2017-02-10 21:39 | おととこゑ | Comments(2)

飯田九一文庫目録

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飯田九一自画像


飯田九一の俳画を求めたことはすでに報告した。

葉牡丹の裾寒う見ゆ夜は雪か

某氏より『飯田九一文庫目録 地域資料・主題別解説目録』(神奈川県立図書館、二〇一〇年三月)を頂戴した。これは有り難い資料である。九一の年譜、著作目録、短冊類のコレクションから百家の作品(解説と図版)、そして九一の著作の一部が収録されている。

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飯田九一の年譜から主要な項目を引いておく。

明治25年10月17日 橘樹郡大綱村北綱島(現横浜市港北区)に飯田助大夫(海山)の三男として生まれる。八歳の頃から俳句を始める。
明治38年? 日本体育会荏原中学校に入学(東京府荏原郡大井村)。粟津洋帆とともに俳誌『二葉』発行。『中学世界』『文章世界』に投稿。
明治43年春 荏原中学校卒業。白馬会葵橋洋画研究所に入りデッサンを学ぶ。
明治44年 東京美術学校木彫科に入学。竹内久一に学ぶ。
明治45年秋 肋膜を病み麻布赤十字病院に入院。横浜根岸の施療院に転院し療養する。
大正5年春 東京美術学校日本画科に入学。寺崎廣業に学ぶ。
大正7年頃 川合玉堂に入門。
大正9年 東京美術学校卒業。
大正12年 岡田嘉千代と結婚。関東大震災を機に横浜に転居。
大正14年10月12日 第六回帝展入選。
大正14年10月20日 父、死去。
大正15年10月9日 俳骨吟社句会(九一が主選を務める会)。
昭和4年5月25日 俳誌『雑草』創刊(〜昭和6年9月)。
昭和4年6月1日〜 「巴里日本美術展覧会」に日本画「樵夫晩帰」出品。
昭和6年5月 武蔵山(後の第33代横綱)の後援会誌『武蔵山』創刊(九一宅が編集所)。
昭和9年10月 『文藝アパート』第一巻第一号に小説体の作品「植字工」を発表。
昭和10年3月 香蘭会設立。
昭和10年5月5日 純芸術雑誌『海市』創刊。編集にあたる。
昭和10年6月25日 第一句集『寒雀』刊行。
昭和11年9月 第一回香蘭会俳画展開催(横浜市伊勢佐木町野沢屋)。
昭和14年6月20日 第二句集『花蘇枋』刊行。
昭和15年4月 「飯田九一画伯日本画個人展」(福岡市岩田屋)開催。
昭和16年10月11日 香蘭会から海軍省に恤兵品として日本画30点を寄付。
昭和21年6月 横浜市鶴見区花月園内に転居。月刊句誌『鶴』(第二号より『玄鶴』)創刊(〜昭和24年11月)。
昭和28年3月29日 第一回横浜文化賞受賞。
昭和31年10月 第五回神奈川文化賞受賞。
昭和36年3月 「神奈川県古俳人展 筆跡と俳書」開催。記念講演「芭蕉と神奈川県」(神奈川県立図書館)。
昭和45年1月24日 警友病院で死去。七十七歳。墓所は本法寺。
昭和45年10月2日 遺志により研究のため収集した資料を県史編集室に寄託。
昭和46年1月24日 遺稿集『釣魚俳句集』刊行。
昭和46年3月 飯田九一遺作展開催(野沢屋)。『飯田九一遺作展画集』刊行。
平成20年3月 飯田九一没後40年記念展開催(みつい画廊)。『俳画集飯田九一』刊行。

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飯田九一のコレクションはかなりのもの。芭蕉から近現代の俳人や作家まで網羅している。たまたま開いたこのページは左が河東碧梧桐、右の漢詩は岸田吟香。書物は吟香の発行していた『横浜新報もしほ草』である。

『文藝アパート』(昭和九年十月十日)に掲載されている「植字工」には文章の折々に俳句が挿入されている。新機軸(?)の俳句小説。植字工というのはプロレタリア詩人で印刷所を経営していた伊藤公敬(いとうただゆき)のこと。飯田は句集の印刷を伊藤に任せていた。「植字工」からいくつかプロレタリア俳句を拾っておく。


  歯車に人が血を噴く四月哉

  金借りにゆく夜蛙と月の暈

  顔青し街路樹の芽の煤け様

  甘藷粥のあまりに淡し春の雪

  春暁や泣く子泣かせてふかし飯

  蛙の子痩せ田と知らで生れけり


プロレタリア俳句をよむかと思えば海軍に日本画を寄付する。そういう時代の流れのなかに生きていたということであろう。年譜をなぞっていると、やはりまれに見る幸せな生涯ではなかったろうか、という気がしてくる。

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by sumus2013 | 2017-02-09 21:38 | 古書日録 | Comments(0)

四番茶

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下村海南『四番茶』(博文館、一九二七年三月三日三版)。裸本。むろん均一。昔この人の随筆を読んで面白かったので、これもちょっと読んでみようかと思ったのと「本をつくる人」というコラムがあったため求めた。まずまずだった。

「本をつくる人」は「鈴の屋と古事記伝」「韓非子翼毳とハルマ字書」「校本万葉集」「契沖全集と鈴の屋図書館」「古事記伝を新聞にしたら」の五篇である。近世の出版苦労話をまとめていてそこそこ読ませるのだが、ここでは一話だけ引用しておく。太田全斎による『韓非子翼毳(かんぴしよくぜい)』の出版。〜〜は繰返記号の代用。

《太田全斎は福山の藩士である。韓非子の研鑽十余年におよび、その註疏韓非子翼毳二十篇十冊九行二十字詰一冊五十枚を出版するに当り、まづ佐藤一斎の塾から木活字約二万字を求めたが、活字に不足が多く、一枚を組むに五日を要したので、不足の分につき更に約一万字を彫刻しいよ〜〜印刷にかゝるとなると、病妻はすでに長く床にありて手助けどころではない、五人の子供はいづれも年端がいかぬ、末の乳呑児は乳に餓えて夜昼となく泣き叫ぶ、僕婢は皆遁れ去つて帰らず、己れは右指腫瘍甚しく、体力次第に痩衰へ、殆ど二年間は遅々として進境を見ず、一家挙げて貧苦の中に呻吟した。たまたま姪の塩田氏より若干の資金を得、なにがしかの版木と紙を求め、十三歳の長男周蔵が彫刻する、かつ〜〜出版にかゝるが家計の赤貧に加ふるに病人は絶えぬ、公私の雑務に逐はれる、その中で仲弟信助末弟三平が漸く長じて来る、父は字を組む、長次子は字を彫る、末弟は版を刷る、朝早くより夜晩くまで親子四人が血と涙の苦闘をつゞけ、辛酉の冬から享和戊辰の孟夏まで八年の星霜を経て刷り上げた部数は、驚くなかれ只の二十部で、この書現今一部は東京に、一部は九州に残存してゐると伝へられてゐる。》

どうしてそこまで……。

本とは別にもうひとつ興味を引いたのは「近江兄弟物語」。大正十四年、滋賀県知事末松偕一郎から講演を以来されて海南は初めて近江八幡の地を踏んだ。講演が終わって肺病療養所へ案内された。

《県立かといふと違ふ、町立かといふと違ふ、ヴォーリズといふ、耶蘇教の人達が建てた病院だといふヴオーリズ……聞いたやうな名前である、聞いたやうにもなんにも大阪朝日新聞社と土佐堀川を隔てゝ、大同ビルが普請中その大きな葦簀の囲ひの表に Vories 建築事務所といふ大きな看板がかゝつてあつた、朝夕あまり眼になじみ過ぎてるあのヴオーリズかといへばそのヴオーリズだといふ。》

大同生命肥後橋ビル、なつかしい。一九九〇年に取り壊されたが、八〇年代に何度かビル内のギャラリーを訪問したことがある。

《華族のお嬢さんのお婿さんでヴオーリズ、建築家であるヴオーリズは、どうやら本職は伝道師らしい、伝道師であつて建築家一寸取り合せが妙であるが、建築家であるヴオーリズの名前なら、大震災の前後色々の方面から耳にしないでは無い、東京で旧藩侯世子徳川頼貞氏の建てられた南葵音楽堂も、学友森本博士等の創設にかゝるお茶の水の文化アパートメントも、関西学院も大丸呉服店も、みなヴオーリズの建築にかゝつてる、そのヴオーリズが何でこんな處へ療養所を建てたのかといへば、此近江八幡にヴオーリズ建築事務所があり、ヴオーリズと兄弟のやうになつて活動してゐる吉田悦蔵といふ人もこの町に住んでるのだといふ》

ヴォーリズ『一粒の信仰』(吉田悦蔵訳)

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《安土! あの南蛮寺の鐘の鳴つた安土、神学校でピヤノを奏でたあの安土、日本の西教のはぐゝまれたあの安土から、二里足らずの八幡の丘に、三世紀を隔てた大正の代となり茲に近江ミツシヨンが根ざされてるのも不思議な因縁だといへば、吉田君は安土の滅亡した時に市民はみな此八幡に遁げて来た、安土は乃はち八幡、安土の文化は八幡によつて受けつがれた、ヴオーリズはいつも世界の中心は近江の八幡だと真面目になつて宣伝してますといふ。》

なるほど、そういうことだったか。信長時代の実績が近江八幡には残っていたのだ。ヴォリーズはそれを知っていたのだろうか? 高山右近がヴァチカンによって「福者 Beatus」に列せられたというニュースを聞いたばかりだ。プロテスタントのヴォリーズにはそんな仰々しい格式張った栄誉は似合わないかもしれないが(藍綬褒章と黄綬褒章は受けている)、海南の文章を読んでいると近代日本におけるヴォリーズの存在は精神面と物質面の双方において決して小さくなかったことがよく分る。

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by sumus2013 | 2017-02-08 21:13 | 古書日録 | Comments(0)

花森安治装釘集成・書評その他

花森安治装釘集成
みずのわ出版代表 柳原一徳

日本の古本屋メールマガジン第219号
https://www.kosho.or.jp/wppost/plg_WpPost_post.php?postid=3132



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『東京新聞』2017年2月5日



本はねころんで「花森安治装釘集成2」
http://d.hatena.ne.jp/vzf12576/20170203


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『イラストレーション』誌2017年3月号(No.213)でもご紹介いただきました。
http://www.genkosha.co.jp/il/backnumber/2021.html




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『出版ニュース』2017年1月上旬号



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『東京新聞』二〇一六年一二月二五日



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『週刊長野』二〇一六年一二月一七日



《吉岡実の詩の世界》
http://ikoba.d.dooo.jp
編集後記 170(2016年12月31日更新時)


通崎好み製作所


okatakeの日記



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by sumus2013 | 2017-02-08 20:03 | 装幀=林哲夫 | Comments(4)

CATALOGUE 1938

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『CATALOGUE OF PERIODICALS 1938』(三省堂)。海外の定期刊行物の目録。アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ソ連、スイス、チェコスロバキア。一年契約である。

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***


小生が閲覧した淀野隆三の日記は一九二一年、淀野が京都二中在学中から始まっている。ただし二中時代の日記はそう詳しいものではない。二中と野球に触れている記事は以下の通り。この他、一九二三年、三高入学後、野球部に勧誘される記述があって、淀野は相当に迷ったようだ。また一高との試合については『spin』でも引用したと思う。

一九二〇(大正九)年一月十日
朝より天気晴々として空に一群の雲もなく日本晴れとはかくの如き天候を云ひたるならん。
放課后野球練習する清水はテニス練習お互いに歯を入れる為め今日より僕は帰家せんとす。

[一九二一は該当なし]

一九二二年
三月十一日
そして列車はくれて行く平安の火の都をあとに、二中のポプラの佇立を見ながら、西へ、西へと行くのである。かくして我々は帰へつた。西原が鹿児島へ行く四人を見送つつ来て居た。十字屋でマンドリン教則本を、丸善で英書二冊を。京阪中で文金高島田の青い毛のかたかけをした娘に会ふ。時々私の方に目を送つて居た。美しい女であつた。私は其の女の顔を正視してやつた。丹波橋でおりた。車はがらんとして居た。

三月二十三日
今日もいゝ天気だ。急に学校へ行く気がした。京二中に登校、久し振りで運動することは愉快である。そして中学時代の追憶に耽けつた。美しい無邪気な人を見ては私も小さい時のことを思ひ出さずには居られない。この気分。追憶!それは美しい言葉だ。

十月十四日
 今日は三時より二中会があるのである。[消=彼はもう]私はその会合によつて私の心を遣らうと思つて居た。石井と二人で清滝に行つた。四時頃になつて雨がしとしとと降つて来た。勿論ぽつりあめですぐ去つて失つた。清滝についた。清く流るる谷川の両[消=岩]涯[崖]に立つ酒楼。静かな山間の高楼には平和の気が漲つて居た。そこにこそ今喜びの声があげられやうとして居るのである。
 集る人は二十名あまりであつた。然しこの中の人々こそ真に高校の生活を理解せんとする人々ではないか。引きずられて来る人もある。然し私達の狂人の如き歓喜をみて呉れるのである。会は自己紹介より始まつた。酒が出た。魚も出た。一番高所にある枡屋の一等座敷である。こゝで[消=彼]私等の集ひの開かるゝことは喜ばしいことである。私は飲んだ。飲んで呉ると又椎子が頭に浮んで来る。然しながら酒のまはるに従つてさびしさもますし又それだけさびしさにこらへる力が湧いて来る。私は飲んだ。村田も飲んだ、石井も飲んだ。長谷川も、加藤も、関も、川口も。私は村田と幾度も相抱いて舞つた。乱舞した。

十二月三日
私がまだねむつて居たとき芳兄がたづねてくれた。私はしばらく清水とねながら話して居た。後、十一時頃から二人は書斉で話し合つた。彼は又塾での出来事を話した。それによると寮長と五年の生徒とが会見して、塾生の自由〜それは青年としての自由〜を尊重することを守らしめることを約したんだそうだ。今塾生は団結して居る、そしてこの団結が貴いのである。この力をもつて塾風改善に努力するならば必ずよくなることを信ずるのである。私が今芳兄と二人居たら、きつと二中の舎を美しいものとする事が出来るであらう。少なくとも一二年の人たちを。

十二月十日
○私は井上を信じて居た。そして私が野球部に入つたとき彼も入部し、ともに大きくならうと云つたことがある。たしかに私は井上市太郎を信じて居た。彼がフラフラした人間になつたといふことも聞いた。然し私はそれでも信じて居た。上野は私に「井上は推子の背中を電車の中でつゝいた」と云つた。私は第二回の受験準備の二中での模擬試験のとき井上が「淀野にすまん、ほんとにすまん」と云つて去るのを見た。あの時私は推子に彼が恋して居ることを知つた。

以上である。

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by sumus2013 | 2017-02-07 20:59 | 古書日録 | Comments(0)

署名本三冊

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署名本をパタパタと三冊ほど見つけた。いちいち買っていてはまた置き場所に困るとは思いつつ求めてしまった。右から赤尾兜子『虚像』限定版(創元社、一九六五年九月二五日、装画=津高和一)、中河与一『天の夕顔』限定版(角川書店、一九六三年六月三〇日)、田村木國『大月夜』(山茶花発行所、一九四二年四月一日)。

まずは『虚像』。赤尾兜子の第二句集である。岡満男様恵存とあるが、岡満男は『新聞と写真にみる京都百年』や『近代日本新聞小史』の著者だろうか。 

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奥付には「限定句集」とだけしてあって限定数は記されていない。本書の限定番号は「00249」……まさか一万部限定! 津高和一の装画がカバーと扉と挿絵と三点付されている。試しに引用しようと思うのだが、これはどう選んでいいのか分らない。年代ごとに三つにまとめられているのでそれぞれの最初の句を引いておく。

  花束もまれる灣の白さに病む鴎 (「渚の艾」昭和三十四年)

  黄昏れる頂上 ハンターの鯛の酒盛り (「轢死の葡萄」昭和三十六年)

  試走車に砂ながれだす牡蠣の村 (「蒼白な火事」昭和三十八年)

こういう時代だったのかなと思うのみ。

お次ぎは『天の夕顔』限定350の内の250番。カットにジャン・コクトーのデッサン、永井荷風が絶賛した手紙も掲載されており、少々ミーハーな作り。遊び紙への揮毫は美意延年(こころをたのしませれば年を延ぶ)。本書の「あとがき」によれば「天の夕顔」は『日本評論』昭和十三年一月十五日号が初出。その後いろいろな形で出版されており《その種類は十指を超えるに至つてゐる。昭和二十八年にはフランス版を DENOEL 書店から出し、英、独、華の諸国語に訳されたものもそれぞれの書肆から出版せられた。》というほどに流布した作品らしい。ウィキによればこの小説のモデルと悶着があった。なお中河与一は讃岐国坂出の出身【うどん県あれこれ】。

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三冊目『大月夜』も第二句集である。見返しに「贈舘野翔鶴君/著者」。舘野翔鶴は俳人、俳誌『引鶴』主宰。そして署名用の頁に一句自書。

  土用浪ひしとかたまり岬の家  木國

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田村木國(1889-1964)は和歌山の笠田町(現かつらぎ町)出身で大坂朝日、大坂毎日の記者として活躍した。虚子、碧梧桐らに師事。本書には函があるが、欠けている。題字は高浜虚子、扉絵は川端龍子。



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by sumus2013 | 2017-02-06 21:14 | 古書日録 | Comments(0)

瀧口修造とマルセル・デュシャン

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瀧口修造『幻想画家論』(せりか書房、一九七二年六月三〇日、装幀=瀧口修造)の表紙。

土曜日に土渕信彦氏によるギャラリートーク「瀧口修造とマルセル・デュシャン」を拝聴した。先週と重なるところもあったにせよ二時間びっしりと瀧口修造とデュシャンの関係を軸に瀧口の生き方に対する土渕氏の解釈をうかがうことができた収穫は大きい。

瀧口は若い頃には写真館を開こうと考えたこともあった。結局、開かずにPCLへ入社する(写真ではなく映画の世界に入ったわけである)。体が弱かったので映画の仕事は長続きしなかった(それでも四年ほど)。そして次第にシュルレアリスム紹介者としての道を辿るようになった。先週も述べたように評論家を止めてアーティストになった時期には、今度はオブジェの店を開こうと夢想した。デュシャンから「ローズ・セラヴィ Rose Sélavy」というペンネームを使わせてもらう許可を得て、看板にするためその筆蹟を送ってもらい、それを実際に金属板に象って、書斎に掛けた。むろん店の方は実現しなかったのだが、瀧口が詩人や評論家である前に、そしてそこから引退した後に「店」というシステムによって社会にコミットしようという希望を抱いていた、これは非常に重要だと思う。

土渕氏はシュルレアリスムの政治性は認めない立場である。ただ、先週の瀧口の講演で瀧口自身が語った言葉に従えば「当たり前のことができなかった時代」(戦時中、左傾したシュルレアリスムの理論家という誤解により特高に拘束された)があったのである。どんな存在であれ政治から離れていられないということは瀧口自身が痛感していた現実ではないだろうか。そして晩年の瀧口にとってオブジェの店を開くことこそがそんな「社会」にあって「当たり前のこと」として「芸術」(反芸術という意味においても)を通用させるひとつの解決方法だったのではなかろうか。

デュシャンと瀧口が相対したのは一九五八年。瀧口がスペインのポルト・リガトにあったダリの自宅を訪問したとき、たまたまデュシャンが来合わせてダリに紹介された。その一度だけだったという(私事ながら一九八〇年にはダリ美術館になっていた旧ダリ邸を訪れたことがある。冬場だったせいか、あの海辺の村の貧寒な感じが忘れられない)。その後は文通によってやり取りしていたのだが、上記のように二人の信頼はかなり厚かったようである。

一九六八年にデュシャンが急逝した。瀧口はその回顧展(一九七三)に招かれた。初め渡米はすまいと思ったが、考えを翻し、一人で出かけて行った(東野芳明らが偶然をよそおって同じ飛行機に乗り込んでエスコートしたという)。回顧展会場で瀧口をもっとも親しく迎えたのはデュシャン未亡人のティニーであった。ほぼ付きっきりだったのだそうだ。無知な観客の一人がずっと未亡人のとなりにいる男性が「デュシャンなのか?」と東野に尋ねたという(回顧展で主人公がウロウロしているはずもないのだが)。近くにいてその言葉を小耳にはさんだジョン・ケージが「そう言われれば、似ているな」と瀧口の顔を見て納得していたのだとか(東野の回想による)。

『本の手帖』特集滝口修造(昭森社、一九六九年八月三〇日)に池田満寿夫がこんな文章を書いている。

《芸術に於ける個人的な関係、それは批評を通り越した愛の関係に似ている。滝口修造とデュシャン語録の関係はまさにそれにふさわしかつた。このたぐいまれなる両者の結合は滝口修造によつてのみ可能だつたと云えよう。

デュシャンの歿後、瀧口は「急速な鎮魂曲」という追悼文を『美術手帖』に寄せた。それについて池田はこう述べている。

《私はこの追悼文の中に滝口修造の最も完ぺきな、これ以上望むことの出来ないスタイルと詩人のみが持ち得る言葉と観念と遊戯との驚くべき緊張を見た。

 マルセル・デュシャンの微笑。ときに苦笑。ときに冷笑。ときに爆笑。
 私は彼の怒った顔を想像することが出来ない。何かの間違いであろう。
                       ーー急速な鎮魂曲よりーー

 私は右の一節が特に好きだ。》

そして池田は『デュシャン語録』がデュシャンの死までに完成しなかったことがデュシャンにとっても瀧口にとっても不運だったが、二人はこの不幸をおこらなかった、とし、こう結んでいる。

《人生のいつさいが、すさまじい冗談である人生、うたがいもなく厳粛で、まじめな冗談。滝口修造はそれを見つめることにいつさいを賭けてしまつた詩人だ。

結論はよく意味が分らない。そもそも瀧口はそのときすでに詩人ではなかった(たぶんデュシャンと同じ仲間だった)。けれども前段の《愛の関係に似ている》というのはまさにその通りではなかろうか。デュシャンの訃報をティニー夫人から受け取ったのが一九六八年十月二日。翌年二月三日未明、瀧口は脳血栓で倒れ、一時半身麻痺に陥って入院する。二週間ほどで退院できたが、デュシャンを失った痛手がいかに大きかったか、分るような気がするのである。

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デュシャン語録』(これらが緑のボックスに入っている)

ozasa kyoto に展示されているデュシャン語録』は土渕氏が瀧口修造のコレクションへのめりこむ、そもそものスタート地点だったそうだ。池袋の西武美術館で荒川修作展を見た後、その入口にあったアール・ヴィヴァンでそのデュシャン語録』に出会ってしまい、大枚をはたいて購入した。そして何と、それはマン・レイ旧蔵のものだった。ということがごく最近判明したのだそうだ。瀧口が予めデュシャンに著者本の献呈先について問い合わせた手紙が残っていた。デュシャンがこれで問題ないと一筆したためて送り返して来たのである。そのリストの第六番目がマン・レイで、土渕コレクションに入った作品であったという。

西武美術館にあったアール・ヴィヴァンは懐かしい。洋書の画集を立ち読みさせてもらったものだった。


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by sumus2013 | 2017-02-05 21:31 | もよおしいろいろ | Comments(0)

SAVOYにて

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『sumus』創刊号のために宍戸恭一さんにインタビューさせていただいたときの写真。一九九九年六月二七日(日曜日)。以下当日の日記より。

《昼食後、13:03の電車で四条へ。歩いて丸善をのぞいてから木屋町御池上ルのSAVOYという喫茶店へ13:50ころ着。山本氏と三月書房主宍戸恭一氏もう話を始めている。テープを回して、本屋開店前後のことをいろいろとうかがう。15:30ころまで。そこから三月書房へ山本氏と行き、店内の写真を撮らせてもらう。息子さんが、「オヤジが何を言うたか知りませんけど、この店はオフクロでもっているようなもんです」とキビシイことを言う。山本氏は奥さん風邪で倒れているので、買い物して帰るというので16:40ころ別れる。》

このときの特集が「本は魂をもっている」。創刊号四百部は直ぐに完売。インタビューだけを別冊(ex)『三月書房 本は魂をもっている』として五百部増刷した。それも短期間に売れてしまった。『sumus』の成功は宍戸インタビューのインパクトおかげだと言っても過言ではない。あのときのテープ、まだどこかにしまってあるはずだが、さてどうなっているだろう。


宍戸恭一さんがパイプ・エッセイを執筆されている

宍戸恭一さんが語る 雑誌『試行』

宍戸恭一さん見える。今月、卆寿を迎えられるという。

宍戸恭一さんより「喫茶店遍歴 伽藍の存在価値」という冊子を頂戴した。

三月書房へ大島さんと。

久し振りに宍戸恭一さんにお会いした


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by sumus2013 | 2017-02-04 20:56 | 古書日録 | Comments(0)

職業としての小説家

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パリ、午前九時四十五分頃(日本時間午後五時四十五分頃)、ルーブル美術館のカルーゼル入口の階段のところでリックサックと大型のナイフを持った男が「アラー・アクバル」と叫びながら入館しようとして暴れ警備していた国軍兵士に取り押さえられた。兵士は五発ほど発砲。犯人に重傷を負わせた。リックサックには爆発物は入っていなかった。以上のような内容(多少補足したが)の注意喚起メールが在仏日本国大使館から届いたのが午後七時三十五分(メール登録しているので)。《しばらくの間はルーブル美術館付近に近づかないようお願いします。》……今は近づこうにも近づけませんがね。

村上春樹『職業としての小説家』(スイッチ・パブリッシング、二〇一五年九月一七日、カバー写真=荒木経惟、装丁=宮古美智代)をブックオフで見つけた。『サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3』が面白かったのでつい買ってしまったが、この本は正直たいくつだった。ただ喫茶店蒐集家としてはジャズ喫茶(というかジャズバー)「ピーターキャット」の開業の周辺が語られるくだりには興味をもった。

《そういうわけで、とにかく最初に結婚したんですが(どうして結婚なんかしたのか、説明するとずいぶん長くなるので省きます)、会社に就職するのがいやだったので(どうして就職するのがいやだったのか、これも説明するとずいぶん長くなるので省きます)、自分の店を始めることにしました。ジャズのレコードをかけて、コーヒーやお酒や料理を出す店です。》

《でも学生結婚している身だから、もちろん資本金なんてありません。だから奥さんと二人で、三年ばかり仕事をいくつかかけもちでやって、なにしろ懸命にお金を貯めました。そしてあらゆるところからお金を借りまくった。そうやってかき集めたお金で、国分寺の南口に店を開きました。それが一九七四年のことです。》

おお、小生が武蔵野美術大学に入った年である。国分寺の北側には「でんえん」が南側には「ピーターキャット」があったのだ。その頃は三多摩図書(古本屋さん)しか知らなかった。情けない。

《ありがたいことに、その頃は若い人が一軒の店を開くのに、今みたいに大層なお金はかかりませんでした。だから僕と同じように「会社に就職したくない」「システムに尻尾を振りたくない」みたいな考え方をする人たちが、あちこちに小さな店を開いていました。喫茶店やレストランや雑貨店、書店。うちの店のまわりにも、僕らと同じくらいの世代の人がやっている店がいくつもありました。学生運動崩れ風の血の気の多い連中も、そこらへんにうろうろしていました。》

「今みたいに」と書いているが、今だってお金をかけないで開店している若者はたくさんいると思う。

《僕が昔うちで使っていたアップライト・ピアノを持ってきて、週末にはライブをやりました。武蔵野近辺にはジャズ・ミュージシャンがたくさん住んでいたから、安いギャラでもみんな(たぶん)快く演奏してくれた。》

《銀行に月々返済するお金がどうしても工面できなくて、夫婦でうつむきながら深夜の道を歩いていて、くちゃくちゃになったむき出しのお金を拾ったことがあります。シンクロニシティーと言えばいいのか、何かの導きと言えばいいのか、不思議なことにきっちり必要としている額のお金でした。》

このくだりを読むとどうしても井伏鱒二を思い出してしまう。きっちりって……。村上はそれ以前に《新宿の歌舞伎町で長いあいだ終夜営業のアルバイト》をしており水商売には経験があった。

《仕事をしながら暇を見つけて講義に出て、七年かけてなんとか卒業しました。最後の年、安堂信也先生のラシーヌの講義をとっていたんですが、出席日数が足りず、また単位を落としそうになったので、先生のオフィスまで行って「実はこういう事情で、もう結婚して、毎日仕事をしておりまして、なかなか大学に行くことができず……」と説明したら、わざわざ僕の経営していた国分寺の店まで足を運んでくださって、「君もいろいろ大変だねえ」と言って帰って行かれました。おかげで単位もちゃんともらえました。》

《国分寺南口にあるビルの地下で、三年ばかり営業しました。それなりにお客もついて、借金もいちおう順調に返していけたんですが、ビルの持ち主が急に「建物を増築したいから出て行ってくれ」と言い出して、しょうがないので(というような簡単なことでもなく、いろいろと大変だったのですが、これも話し出すと実にキリがないので……)国分寺を離れ、都内の千駄ヶ谷に移ることになりました。店も前より広くなり、明るくなり、ライブのためのグランド・ピアノも置けるようになって、それはよかったのですが、そのぶんまた新たに借金を抱え込んでしまいました。》

二十代も終りに近づく頃、千駄ヶ谷の店の経営もようやく軌道に乗ってきた。一九七八年四月のよく晴れた日の午後、村上は神宮球場にヤクルトVS広島戦を見に行った。そのとき天啓が村上を襲う。エピファニー(epiphany)という言葉を使っている。「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」……《空から何かがひらひらとゆっくり落ちてきて、それを両手でうまく受け止められたような気分でした》。そして仕事の合間に完成させたのが『風の歌を聴け』だった。

これを写していて気付いた。「話し出すと実にキリがない」ところを書いてくれないからこの本は退屈なんだな。

もうひとつ、これはべつにこの本に限ったことではない。原発について書かれているくだりにこうあった。

《原子力発電は資源を持たない日本にとってどうしても必要なんだという意見には、それなりに一理あるかもしれません。》

日本にエネルギー資源がないなんて刷り込み以外の何物でもない。何より温泉があるじゃないか。火山エネルギーは日本のいたるところで入手可能なものだ。地熱発電ほど効率のいいものはない。海だってあるし(海底には石油やガスが埋蔵されている)、水は豊富だ。反原発というコンテキストでこれは書かなくてよかっただろう。

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これがカバー。タイトルを隠す帯とは、さかしまなアイデアである。

***

宍戸恭一さんが亡くなられたことを知った。心よりご冥福をお祈りしたい。

京都の名物書店前店主死去 三月書房、宍戸恭一さん

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by sumus2013 | 2017-02-03 20:34 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

匂いのない本など、ごめんである。

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『大学出版』No.108(一般社団法人大学出版部協会、二〇一六年一〇月一日、表紙デザイン=阿部卓也)を牛津先生より頂戴した。深謝です。特集が「装幀を考える」。執筆は、間村俊一(装幀家)、鈴木衛(装幀家)、木村公子(武蔵野美術大学出版局)、大矢靖之(紀伊國屋書店新宿本店)、中垣信夫(ブックデザイナー、ただし氏の記事は連載)。装幀家、編集者、書店員、それぞれの立場から装幀について考えるという好企画。欲を言えば、著者の立場からの発言も欲しかったような気はする。

間村さんがなかなかに長文かつ異色の装幀論……いや装幀俳句とその前書きみたいなエッセイというか、そう、いわば間村流の戯作を執筆しておられて感銘を受けた。さわりだけ引用しておく。

《〔結論めいたいいわけ〕
 女が来る。しどけた着物の裾を払って、草むらにしゃがむ。まだ日は長い。ゆまりの音が聞こえる。きれぎれに、ながながと。懐から紙を出し、あてる。すこし匂う。中天に雲雀の声がする。本は打ち捨てられたまま、河原にある。水を含んで、本文が膨らみ始める。湯気がたっている。本は重い。

  初蝶来てゆまり長し長しといふ

 嘘だ。すべて嘘である、蝶一頭は活字のように重い。ゆまりの池にとまる。このゆまりこそが装幀である。ゆまりのような装幀、装幀のようなゆまり。舟が来る。》

《女の、男の、父や母の、すべての人々ののっぴきならない生き様の果てに成立する一冊。それを書物という。ゆまりである。匂いのない本など、ごめんである。》

ふ〜む、ゆまりとはよく言った。

ゆ-まり【尿】〔名詞〕(「湯まり」の意。「まり」「まる(排泄スル)」の連用形)小便。にょう。「ゆばり」「いばり」とも。〓[尸に水+毛]、此れを兪磨里(ゆまり)と云ふ』〈神代記・上・黄泉国・訓注〉》(中田祝夫編『新選古語辞典』)

間村さんには仕事ももらっているし、上京するたびにモー吉でお付き合いさせてもらっている(そういえば最近すっかり御無沙汰だ)。『spin』創刊号ではインタビューも。しかしここに書かれたようなこだわり装幀論は(断片的には聞いていたにしても)初めてだ。Macアレルギー以外は同感する部分多し。以下、過去記事の一部をリンクしておく。ゆまりの「匂ひ」をかいでいただければ……?

spin 01 創刊号
珈琲漫談・山猫軒にて 間村俊一+内堀弘+林哲夫
【在庫あります。送料込み1000円、sumus_coあっとyahoo.co.jpまで】

光文社文庫版『神聖喜劇』

間村俊一句集『抜辨天』(角川学藝出版、二〇一四年二月二八日、著者自装、寫眞=港千尋)

季村敏夫『膝で歩く』(書肆山田、二〇一四年八月八日、装幀=間村俊一、写真=鬼海弘雄)

勝見洋一『餞』(幻戯書房、二〇一一年八月一四日、装幀=間村俊一)

水原紫苑の歌集『あかるたへ』(河出書房新社、二〇〇四年一一月三〇日、装幀者=間村俊一)

山上の蜘蛛ー神戸モダニズムと海港都市展

間村俊一『句集鶴の鬱』(角川書店、二〇〇七年、著者自装)

港千尋『文字の母たち』(インスクリプト、二〇〇七年、装幀=間村俊一)

坂崎重盛翁の新著『神保町「二階世界」巡り及ビ其ノ他』(平凡社、二〇〇九年、装幀=間村俊一)

小沢信男『東京骨灰紀行』(筑摩書房、二〇〇九年、装丁=間村俊一、写真=矢幡英文)

郷里の書棚から「間村俊一」装幀本


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by sumus2013 | 2017-02-02 20:27 | おすすめ本棚 | Comments(0)