林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
カテゴリ
全体
古書日録
もよおしいろいろ
おすすめ本棚
画家=林哲夫
装幀=林哲夫
文筆=林哲夫
喫茶店の時代
うどん県あれこれ
雲遅空想美術館
コレクション
おととこゑ
巴里アンフェール
関西の出版社
彷書月刊総目次
未分類
以前の記事
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
お気に入りブログ
NabeQuest(na...
daily-sumus
Madame100gの不...
最新のコメント
うちのPCも古くなってき..
by sumus2013 at 13:22
「うまやはし日記」持って..
by 大島なえ at 12:36
15周年おめでとうござい..
by sumus2013 at 08:06
吉岡実の俳句、しみじみと..
by 小林一郎 at 22:58
百人百冊、千人千冊のお宝..
by sumus2013 at 07:49
夕方、店じまい寸前に参戦..
by 牛津 at 23:51
そうでしたか! クラシッ..
by sumus2013 at 08:12
有り難うございます。在、..
by sumus2013 at 20:18
ご無沙汰しております。い..
by epokhe at 16:28
こちらこそ有り難うござい..
by sumus2013 at 15:05
メモ帳
最新のトラックバック
天才画家ゴッホの生涯と画..
from dezire_photo &..
ルーベンスの故郷、ヨーロ..
from dezire_photo &..
シャガール、ピカソ、マテ..
from dezire_photo &..
ポン=タヴァン派、総合主..
from dezire_photo &..
視聴率に関係なく選んだ2..
from dezire_photo &..
宝石のような輝をもった印..
from dezire_photo &..
ルネサンス美術の巨匠・ピ..
from dezire_photo &..
既成概念から絵画の解放に..
from dezire_photo &..
既成概念から絵画の解放に..
from dezire_photo &..
過去に来日した傑作を回顧..
from dezire_photo &..
検索
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


<   2016年 12月 ( 40 )   > この月の画像一覧

花森安治装釘集成完成記念トーク

f0307792_17081817.jpg

花森安治装釘集成完成記念トーク
2016年12月10日(土)午後5時〜 
無事終了いたしました。ご来場いただいた皆様にお礼申上げます。

『暮しの手帖』編集長として知られる花森安治には、装釘家・イラストレーターとしての大きな側面がありました。中学生のころからすでにその才能は開花をはじめ、買い求めた文学書を母にもらった端切れで装本し直したといいます。松江高校に入ってからは文芸部の『校友会雑誌』を編集・レイアウトしていますが、その世界的な視野をもった斬新なデザインは高校生のレベルを超えており、今日の目で見ても驚かざるを得ません。『花森安治装釘集成』は、元暮しの手帖社の編集員だった唐澤平吉氏のコレクションを中心として、そんな花森安治の戦前・戦中の珍しい装釘本から、戦後、暮しの手帖社におけるほぼ全ての雑誌・単行本、および親しい人々のために引き受けた他社の装釘本まで、およそ500タイトル、約1000点のカラー図版で構成されており、まさに決定保存版となっています。花森の装釘作品をスライドで見ていただきながら、制作実務にあたった林哲夫が本書のレイアウトの過程で感じた花森デザインの素晴らしさを語ります。
ギャラリー島田B1F


前口上とスライド写真の説明一覧

・今年は花森安治生誕105年。NHK朝ドラ「ととねえちゃん」大橋鎭子モデル。
・2006年、世田谷文学館「花森安治と「暮しの手帖」展」
・唐澤平吉と南陀楼綾繁の出会い。生誕100年までに装幀集を作ろう。
・2011年『文藝別冊・花森安治』で唐澤・南陀楼装釘談義。
・2012年島根県立美術館「花森安治の世界展」
・以後も難航して、結局は朝ドラがきっかけで完成を見ることができた。

000〜026 『暮しの手帖』
027〜030 東麻布の暮しの手帖スタジオ
031〜037 暮しの手帖時代の花森安治
040 1923年(大正12年)12歳になる少し前
041 神戸市立雲中尋常小学校(大正三年に作られた煉瓦塀)。大正九年に日本初の鉄筋コンクリート校舎。
042 神戸三中・神撫館 1921初入学式
042a 神戸一中
043 9ミリ半フィルム・カメラ(パテ・ベビー)
043a 9ミリ半フィルム映写機(パテ・ベビー)
043b ボレックスを抱える花森安治
043c 16ミリフィルム・カメラ(ボレックス BOLEX H16)
044a〜g 昭和初期の神戸
045 大倉山図書館
046 松江高等学校(現・島根大学)
046a〜d ショウコウ時代の花森
047 『校友会雑誌』19号(1932)
048 『校友会雑誌』20号(1932)
049 『校友会雑誌』21号(1932)
049f1 グロピウス『ヴァイマルの国立バウハウス1919-1923』(Munich: Bauhausverlag, 1923)
O49f2 グロピウスの「無題」
049h 『歴史日本』1942
049i 『現代名作名画全集』1954
049j エル・リシツキー/マヤコフスキー『声のために』1923
049k 『国語文化』1942年3月号 「言葉は暮しのなかに生きている」(花森エッセイ掲載)
049l 『大詔奉戴』翼賛図書刊行会、1942
049l1 『作品』1931年10月号
049m 新田潤『煙管』文明社、1946
049n 津村秀夫『青春の回想』1946
049n1 末恒卓郎『新世紀の顔』1948
049n2 辻久一『夜の藝術』1949
049n3 菊池重三郎『英吉利乙女』1951
049n4 菊池重三郎『英吉利乙女』1951
049n5 田宮虎彦『異端の子』1953
049o 伊藤整作品集、1953
049o1 伊藤整作品集、1953
049p 荒垣秀雄『新聞の片隅の言葉』1954
049p1 戸板康二『歌舞伎ダイジェスト』1954
049q1 クライムクラブ、函、1958
049q2 クライムクラブ、表紙、1958
049r 笠信太郎『なくてななくせ』暮しの手帖社、1966
049r1 『作品』1932年6月号
049r2 浦松佐美太郎『積みすぎた箱舟』1960
049s 『スポック博士の育児書』暮しの手帖社、1966
049t 湯木貞一『吉兆味ばなし』1982
049u グロピウス『ヴァイマルの国立バウハウス1919-1923』
049u1 森川辰郎『松江』1954
049u2 瀧澤敬一『ダンナさまマーケットに行く』1959
049u3 沢村貞子『貝のうた』1978
05O 東京帝国大学正門(戦前)
051 東大時代の花森
052 『帝国大学新聞』花森レイアウトの一例
053 パピリオ時代の花森
053a アトリの佐野繁次郎 昭和23年
053c 卒論「社会学的美学の立場から見た衣粧」草稿
054 兵士・花森安治
055a〜n 『婦人の生活』生活社、1940
056 『みだしなみとくほん』生活社、1941
057 『くらしの工夫』生活社、1942
058 『すまいといふく』生活社、1942
059 『切の工夫』築地書店、1944
060a〜d 大政翼賛会時代の花森安治
061a〜e 『スタイルブック』創刊号、昭和21年5月
062 『スタイルブック』2号、昭和21年9月
063 暮しの手帖社の最初の事務所のあった銀座8丁目5あたり
064 花森安治と大橋鎭子、昭和21年春
065 大政翼賛会時代に、ポスター制作などでともに仕事をした報道技術研究会に行き、そこの仕事机を譲りうけた。花森は死ぬまで、この机を使っていた。

[PR]
by sumus2013 | 2016-12-10 09:08 | 装幀=林哲夫 | Comments(0)

座談23年7月号

f0307792_19452610.jpg

『座談』第二巻第六号(文藝春秋新社、一九四八年七月一日、表紙=花森安治)。集成には収められていない『座談』である。某古書店のご主人が見つけて送ってくれた。深謝です。

『座談』は発行人が池島信平なので花森に仕事を回したのではないかと思うが、表紙画の傾向としては『暮しの手帖』に直結するものだ。『暮しの手帖』創刊号は一九四八年九月二〇日発行。戦後それまでに花森が手がけた雑誌『女性』『新生』『文明』などモダニズム系列のカラッとしたデザインではなく、やや暗い色調の(これはおそらく印刷技術と用紙の問題かとも思うが)静物画というか器物画というのか、室内画かもしれない、そんな絵柄(要するに『暮しの手帖』の創刊号から十号あたりまでの表紙に類するもの)に対するこだわりが見える。ただ、この号の絵柄は少しだけ毛色が違うようだ。貝殻を配置して変化を持たせるやり方はもっと後年の『暮しの手帖』の表紙デザインに通じるもの。なお本文の挿絵は吉田謙吉である。

記事で面白いのは坂口三千代「安吾先生の一日」。これは検索してみると坂口三千代『追憶 坂口安吾』(筑摩書房、一九九五年)に「新発見」として収録されているようだ。

《先生のお部屋は小説新潮の写真の通りで、あれから十ケ月ほど紙や埃がふえて了つて足の踏み場もございませんが、食事を別にして、あとの生活はあれで足りてゐるやうです。物の在所も御当人には各々指定席があつて、二三回掻きわけると出て来るおもむきのやうです。》

《覚醒剤をのんでお仕事をして、お酒(たいがいシヨーチユにサイダーをわつたもの)を飲んでねむります。おさけを飲むと、すぐ目がシヨボ[繰返記号]してゴハンをたべながらコツクリ[繰返記号]やりだしますから、さだめし熟睡するだらうと、思ひますと夜中には目をさまして、何やらドタバタはじめまして、睡眠時間の少ないのには呆れてをります。

《ものに無頓着で、無慾でテンタンで執着といふものがないくせに、ひどく正確で、キチョウメンで、不合理なところがないのです。同居の大野さん一家は先生の親戚ですが、大野さんでおきゝしました話には、先生の一族は、自殺なさつた方に、発狂の方に、名題の変人や、風変りな方々ばかりで、先生のミヂンも狂ひのない正確さ、キチョウメンさというふやうなものは、私には異常なものゝ狂人的なものに思はれて、怖しくなる時が多いのです。それを先生に申しますと、バカ君たちが気違ひなんだとさかさまなことを仰有います。》

坂口三千代、なかなかの文才である。そういえば以前のブログで安吾の父親についてこんな引用をしていた。

石川淳『諸國畸人傳』(中公文庫、一九七六年)の最後に「阪口五峰」が取り上げられている。安政六年に越後国中蒲原郡に生れ、大正十二年に東京で歿した。《五峰とはなにものか。このひと、政事にもかかはり、新聞にもたづさはり、また文墨にもあそんで、好んで詩をつくり、いささか書を善くする。鬱然として郷曲の雄であつた》そうだ。県会議員、新潟新聞社長、新潟米穀取引所理事。新潟新聞の主筆を勤め同郷でもあった市島春城と親しくつきあった。ここに印章の話が出てくる。

[PR]
by sumus2013 | 2016-12-09 20:29 | 古書日録 | Comments(1)

島田搬入

f0307792_20093750.jpg

本日、神戸のギャラリー島田へ搬入に。晴れ、やや冷え込んでいる。ベテラン・スタッフの淳子さんが手伝ってくれたので展示はスムースに終了。油彩、水彩、デッサン、エッチングなど23点、他にコラージュ多数、糸巻き本も5点ほど。もちろん『花森安治装釘集成』もドーンと販売用に積み上げました。

f0307792_20093400.jpg

f0307792_20092695.jpg

あとは土曜日のトークの準備を仕上げてしまわなければ。なんとか楽しんでもらえる内容にしたいと図版のチョイスに頭を悩ましている。お時間のある方はぜひご来場を。

[PR]
by sumus2013 | 2016-12-08 20:17 | 画家=林哲夫 | Comments(2)

大大坂の風景

f0307792_20145926.jpg


「第十二回二科美術展覧会出品/都会風景(一) 國枝金三氏筆」絵葉書。発行元は神田美土代町壹ノ四四美術工芸会発行。第十二回は大正十四年(一九二五)である。国枝の絵葉書は以前にも一枚紹介したことがある。小出楢重や鍋井克三らと親しかったが、彼らほど知られていない。井上靖が『忘れ得ぬ芸術家たち』のなかで取り上げてくれているのが唯一(?)目立つ証言かなと思う。好きな画家だ。

第十三回二科美術展覧会目録

f0307792_20150218.jpg
『日本経済新聞』二〇一六年一二月四日号に「大大坂の風景(上)」という記事が掲載され、小出楢重「雪の市街風景」(一九二五、紙面右上)、国枝金三「都会風景」(一九二四、紙面右下)……これらの二点は二人が教えていた信濃橋洋画研究所のビルから望んだ風景で同じ方角を描いている……そして日本画から池田遥邨「雪の大坂」(一九二八)、高橋成薇「秋立つ」(一九二八)、さらに加えて宇崎純一「スミカズカード」から大坂風景が選ばれている。執筆は中野稔記者。先日、スミカズについて調査のため来宅して小生がいろいろ話をした。《近年展覧会が開かれたり、「大坂春秋」2012年秋号で特集が組まれたりと、再び注目を集めている》と書いてくれたのはありがたい。

ということで、国枝の「都会風景」の別ヴァージョン絵葉書を取り出したわけ(現物、目下は大阪府20世紀美術館コレクションに入っているらしい)。国枝については下記の記事がまとまっている。

国枝金三 くにえだ きんぞう(1886–1943)《中之島風景》

[PR]
by sumus2013 | 2016-12-07 20:39 | 文筆=林哲夫 | Comments(0)

映画狂時代

f0307792_20430676.jpg

『文藝別冊 花森安治 美しい「暮し」の創始者』(河出書房新社、二〇一一年一二月三〇日)の津野海太郎「ロゲルギストと花森安治」の文章のなかに添えられた写真である。説明はない(本書の写真提供は土井藍生)。

花森が抱えているのはおそらく十六ミリのカメラだろうと思って検索すると、ボレックスH16というモデルらしいと見当がついた。このゼンマイ式モデルは一九三〇年代から映画学校などで入門用のカメラとして広く用いられたという。ジョナス・メカスも愛用していたという名機である。

f0307792_20430373.jpg
Bolex H16 REX-5


『花森安治伝』によれば花森は早くも神戸三中時代に9ミリ半フィルムのカメラを使って映画を撮り、長篇シナリオを執筆していたらしい。当時、有名だった9ミリ半のカメラはパテベビー(パテーベビー)である。ネット上にたくさん画像が出ているなかからカメラと映写機との画像を借りてきた。

f0307792_20430196.jpg
f0307792_20425811.jpg

神戸三中時代という大正十三年から昭和四年になるのだが、当時はまだ国産のカメラは出回っていなかったようなので、外国製を使っていたに違いないが、これはかなり高価なものだったのではないだろうか?(今すぐ値段が分らないのが残念)

中学生のころ、月々二円五十せんの小づかいで、一冊でも余計に本を買うには、古本屋の、それも十せん均一、二十せん均一の中から、あさるより仕方なかった。猫や羅生門の初版本を十せんで買ったおぼえがある。そういう中でさがしたのは、大ていぼろぼろになっていた。それを子どもらしい智慧で、表紙をはがし、母に端切れをもらって、装幀しなおしたのが、何十冊にもなって、それが病みつきになった。》(装釘集成104頁、初出は『芸術新潮』一九五二年七月号)

当時二円五十銭の小遣いはたぶん八千円程度だろう。とくに貧しいとは思わないが、パテーベビーが買えるほどではないかもしれない。ならば自前のカメラではなく学校にあった(?)機材を使ったのだろうかと思ったりもする。学校にそんなものがあったのかどうか、それは分らない。あるいは裕福な友達が持っていたのだろうかとか、いろいろ妄想にふけっている。


[PR]
by sumus2013 | 2016-12-06 21:38 | 古書日録 | Comments(6)

ろまん文庫・花森松三郎

f0307792_20573627.jpg
写真は昭和二十七年の東京日本橋の巡回貸本屋。
『通販生活』205号(二〇〇一年夏)より


『『暮しの手帖』と花森安治の素顔』からもうひとつ。「花森松三郎とろまん文庫」のこと。『東京古書組合五十年史』に昭和二十三年に神戸で発足したろまん文庫は本人の住所さえ確認できれば保証金を取らずに信用貸しをする方法を採用し大いに繁昌したとあり《ろまん文庫の経営者は「暮しの手帖」の花森安治氏の弟松三郎氏であった》と書かれているそうだ(五十年史……持っていたのだが)。

河津氏はこのことについてこう発言している。

《これは本当に驚きなわけです。花森が『暮しの手帖』創刊号を出し、菊池寛賞受賞に至るかたわらで、このような貸本屋の動向があり、しかもその発祥が弟の松三郎にあったとはまったく知らされていなかった。》

花森はどういうつもりかこの画期的な事実を秘密にしていた(あるいは人に語らなかった)。ろまん文庫については五十年史の記述だけなのだが、その方式を受け継いだネオ書房については司会の小田氏が補足説明をしている。その一部を引用する。

《この方式は同じく神戸の宮本一三兄弟のネオ書房によって強力に推進され、ネオ書房は大坂にも出店し、大阪市内だけで八〇店、さらに横浜や東京にも進出し、昭和二十八年には東京の大田区にも開店するに至る。》

検索してみるとネオ書房の思い出がつづられているブログが見つかった。どうやら宮本兄弟のお一人である。かなり詳しくネオ書房の開店から解散までを書き残しておられるのがたいへん参考になる。要点だけを引用するが、全文を読まれることをおすすめしたい。

88歳:昭和/平成の思い出をつづる
「古本屋から保証金無しの貸本屋へ」のこと

《神戸の何処かで「古本屋」でなく「貸本専門」の「ろまん文庫」というのが創業・開店しました。「米穀通帳」などの身分証明の呈示によって無料会員になり、「保証金無し」で本を持ち帰り、返すとき日数に合わせた「貸本料金」をはらうという、画期的な制度でありました。
「東京古書組合五十年史」によると「ろまん文庫」は「暮しの手帖」の花森安治氏の弟花森松三郎氏がはじめたとの事です。
 そして、その方式が、あっという間に近隣の古本屋に伝染し、我が家の「古本屋」にも恐慌をきたしました。お客が来なくなってしまうのです。急遽、どんなやり方なのかを研究して「貸本屋」に転業であります。
 もともと難しい本を売っていた訳でないので、本質は変わらないのですが「保証金無し」というのは「スゴい事」です。マンガ本などの貸し賃は当時一日一円が相場でした。子供がお小遣いの「五円」を持っているとして、売価三〇円ぐらいの漫画本をいっぺんに五冊借りて家に持ち帰り、翌る日返しに来ると「五円」だけ払えば良いのですから……》

むろん戦前にも貸本屋はあったが、そのシステムは保証金を払って会員になり割引価格で本を買って帰り、返しに行くと何割りか返してくれるといったようなものだったらしい(他にもいろいろなシステムがあったと思います。詳しくないので間違っていたら訂正してください)。田河水泡は子供のころ、二銭で「立川文庫」を一冊借り、返すと一銭を払い戻してくれたと書いている(『のらくろ一代記』)。このブログの記述通りだとしたら、ただで本を借りて帰り、返すときに借り賃を払うように読めるが、それで商売が成立ったとしたら嘘のような時代だった。

《兄達は二人とも、結婚すると鉄工所経営のかたわら、新居でこの貸本屋を奥さんを店番に内職として始めました。その店は最初は古本を仕入れて開店したのですが、そのうち思いついて、古本売買は一切行わず、「新刊本(小説・マンガ・雑誌)」を卸屋から仕入れてきてそれを貸し出すということを始めました。この「新刊貸本」というのが時勢に合いました。
 古本屋から貸本屋への転業が昭和二三年に始まったのですが、長兄も次兄も内職の「貸本店」が思ったより収入がいいので、結局鉄工所を解散して、こちらに本腰を入れることになりました。
 そして狭い神戸よりも大阪に活路をと、昭和二四年から二五年にかけて、父は大阪「阿部野橋」、長兄は「守口」、次兄は生野区「大友町」で相次いで開店。
 古本を市で買ってきて、古本屋を始めるのでなく、新刊の書籍・マンガ・雑誌を仕入れてきて「開店」。週二回くらい「卸屋」さんへ通って、次々と新しい本を仕入れるのです。看板も「新刊貸本専門店」と従来の古本屋の「貸本」と違うところが大きく受けたようです。これは兄貴達のアイデアのようです。新刊の卸書店も大阪松屋町筋の「T書房」さんと特約。
 店の名前は「N書房」。「N」というのは「新しい」という意味の接頭語で次兄の命名です。経営は別でも、みなこの「N書房・○○店」という名前にしました。》

《貸本屋がそんなに専門知識が無くても、良い場所に店舗を構えれば、そこそこ収入が上がる事が分かった時点で、父がお人好しというか、世話焼きで、親戚や知人に無料で指導してあげ、名義料も何も取らずに、「N書房」の看板をあげることを許したので、この三~四年で大阪および近郊にには五〇を超える「N書房」ができました。
 当時(昭和二四年)は戦後の混乱期で、なかなか就職難でもありましたから……、それでも開店資金は要りますから、昔からあった「頼母子(たのもし)講」を小金を持っている親戚知人も交えて何口も作り、それも「親」の特権も使わずに世話をしたのです。》

《次兄と兄嫁は関西弁でいう「おっちょこちょい」な面もありましたが、とにかくよく働き、よく遣う、という活動的な性格でした。そのうちに「狭い大阪」で店をやっているより、天下の「首都東京」で一旗揚げよう……といい出しました。
 兄嫁の親戚が東京の品川区「武蔵小山」に住んでいる事がわかり、そこを足がかりに上京し、東京で「N書房・貸本専門店」を出そうという訳です。
「永和」にいた長兄と「布施」にいた私に声がかかりました。私も「Tミシン」が少し傾きかけていたので、この際「学歴」などにこだわらず、「事業」としての「貸本屋」に賭けてみる気になり、お金持ちの親戚から資金を借りる算段をした上で、三人で(いや兄嫁と私の妻も同行)東京に出掛けたのが昭和二八年夏。結婚翌年の事でした。
 首尾よく長兄は「学芸大学」次兄は「旗の台」私は「戸越銀座」の駅前通り商店街にそれぞれ貸店舗を見つけ、仕入れ先「書籍卸店」も大阪の取引先の支店が「神田」にありOK。店の造作をして開店。「新刊貸本専門店」は東京でも上々の出だしでした。
 この東京進出は東京の「古本業界」に衝撃を与えたようです。》

《昭和二九年には父も上京してきたので、父を社長、長兄を専務、次兄を常務、私が取締役経理部長の分担で、川崎市に本社を置く「株式会社」を設立。都内と周辺に十数店舗開店しました。個人の店舗は個人持ちのママです。》

《これも東京に移ってからですが「N書房連合会」から「N書房商業協同組合」ができて、組合員七〇名以上だったと思います。店員さんを入れて一五〇人近い団体で、箱根や日光などに毎年一回「慰安旅行」しました。
 テレビ放送開始は昭和二八年、N書房東京進出と同じ年でした。「貸本」は大衆娯楽として大人気でした。》

《私たちの「貸本屋」への転業も素早かったですが、逃げ足も速やかったです。
 昭和三四年には兄弟でやっていた「株式会社」の店が十数軒ありましたが、辞めたり、譲ったりと整理して「会社解散」。
 でも「個人」で営業していく分にはまだ、じゅうぶん採算が取れます。つい最近まで「貸本屋」を営業していた親戚がいます。ただ古本「売り」兼業のようでしたが…
 要は「借金」して「貸店舗」を借りて「店員」を雇って、利益を上げていく事は、難しくなってきたのです。それに、同業・貸本屋も増えてその面からの売上低下傾向もありました。事業というのは「赤字」になり始めると逆落としに速いですから、早めに店じまいです。
 長兄と次兄は「ルノー」の関係から共同で「自動車修理工場」をはじめました。私は学歴を利用して「会社」勤めを目指しました。》

《ほぼ此の十年間の「貸本」経営が、ある程度余裕のある生活の基礎になりました。》

f0307792_21023347.jpg
大正12年夏、安治11歳(中央後ろ)松三郎5歳(右端)
津野海太郎『花森安治伝』より


明治も早い頃の貸本屋はこういうシステムだったようだ。以前のブログに書いていた。

集書会社は貸本屋である。


[PR]
by sumus2013 | 2016-12-05 21:19 | 古書日録 | Comments(4)

暮しの手帖とNEW YORKER

f0307792_16510841.jpg

もう少し『『暮しの手帖』と花森安治の素顔』から。「外国雑誌の影響」という章に出ている河津氏の発言。

《河津 そういえば、常盤新平が初期の『暮しの手帖』は『ニューヨーカー』に似ていると語っていましたね。
 北村 我々にも花森は「外国の雑誌は眺めているだけでも勉強になる」といってましたね。》

ということでさっそく画像検索してみた。『ニューヨーカー』の表紙はネット上で多数見ることができる。戦前か戦後すぐあたりのものを中心に探した。たしかに似ていると言えば似ているし、そうでもないと言えば、そうでもない。タイトルが上部にあって表紙一面が絵で占められているという構成は同じだ。しかしそんな雑誌は他にいくらでもある。

ただし、上の『美しい暮しの手帖』第二号(一九四九年一月)と『THE NEW YORKER』一九四七年五月二四日号はかなり似ていると思う第二号に描かれている建物の看板がみんな横文字なのも「どうしたもんじゃろのう」という感じ。実際、占領下の銀座などには英文があふれていたようではあるが、皮肉を込めて(まさか?)。

f0307792_16511283.jpg

この話に関して付け加えれば、『美しい暮しの手帖』第十号(昭和二十五年十二月一日)の表紙には外国雑誌がズラリと並んでいる。創刊からこのあたりまでの表紙は必要以上に(と思えるほど)西洋風の室内が毎号描かれてきた。当時としてはこういうものに渇望があったのかもしれない。装釘集成にも収められているエッセイ「映画の観方」によれば外国映画を見ているときに気になる衣裳や調度品などが登場すると、あわててスケッチしていたそうだ。そういったイメージのストックが積み重なっていたか。ところが第十号の設えは和風あるいは民芸風に変っている。そこに横文字の雑誌をあしらったところが花森流。

f0307792_17143913.jpg

並んでいるのは実在の雑誌名が多い。『VOGUE』『POST』はすぐに分るが、他のタイトルも検索してみると『FORUM』『ETUDE』『FEMALE』『ROOM』『BABY』『THEATRE』(ただし絵の方は『THEATER』)は存在するようだ。『BALLET』はありそうで見つからなかった(もっと掘り下げれば…)。『HOUSE KEEPING』は『GOOD HOUSEKEEPING』なら古くからある。『TAX』は雑誌ではなく本だろうか。『BBOTY』というのも不明。とにかく全くデタラメなタイトルをつけているわけではないようだ。花森の海外情報への目配りをうかがわせる表紙である。

あからさまに洋風室内や器物が描かれなくなるのは昭和二十七年頃から、徐々に国籍不明の図柄になってくる。もっとも最後まで西洋風の建物(街並)や調度品がときおり顔を出す。心からそういうものが好きだったのだろうと思う。なぜか日本の家並は登場しない。一九六九年のスケッチブックには京都の屋根を何枚も描いているが、これらが『暮しの手帖』の表紙を飾ることはなかった。

f0307792_16220988.jpg
神戸元町通り(絵葉書)。花森の少年時代。横文字があふれている。

[PR]
by sumus2013 | 2016-12-04 20:29 | 古書日録 | Comments(2)

花森安治の素顔

f0307792_19185727.jpg

河津一哉+北村正之『『暮しの手帖』と花森安治の素顔 出版人に聞く20』(論創社、二〇一六年一〇月一六日、装幀=宗利淳一)インタビュー・構成=小田光雄。トークの準備のためにこの本も読んでおかねばと思って急ぎひもといた。なかなかよくまとまっていて読みやすい仕上がりになっている。「出版人に聞くシリーズ」は貴重な聞き書き、好企画だ。

今回、気になったのは花森の女装について。というのはこの本を読む直前に『文藝別冊花森安治』(河出書房新社、二〇一一年)を読み返していて矢崎泰久「スカートをはいた名編集者」(談)に注目していたからだ。そこで矢崎は少年時代に出会った「スカートをはいた小父さん」が花森安治だったと述べている。中学の頃、友達だった米田利民の家へよく遊びに行ったが、米田の母が花森の妻の実姉だったため、その家で何度か花森に会ったという。

《その花森さんという小父さんは変ってて、スカートをはいていたんです。フレアで、プリーツが入っているようなスカート。チェックだったかな。ワンピースではないんだけど。要するにスコットランドの楽隊がはいているようなやつ。僕はびっくりしてね、男が……って。
 しかも花森さんって、すね毛がすごいんですよ。毛むくじゃらの足がスカートの下から見えるんです。》

《しかも、花森さんは髪にパーマネントもかけていて、ときには原色の派手なスカーフを巻いたりして。》

本書ではこの花森のファッションについてつぎのように語られている。

《北村 花森は当時の男性としては珍しい髪型のおかっぱ頭だった。聞くところによると、あのおかっぱ頭も銀座の美容院でカットしてもらっていたようで、そういう意味ではとてもおしゃれだったと思います。
 その一方で、私は花森が背広を着たところを見たことがないのですよ。冠婚葬祭はもちろんのこと、パーティでも背広は着ない。
『一戔五厘の旗』の読売文学賞受賞式でも、白いジャンパーで出かけていたし、どこにいくのでもそれで通していた。》

《逆にみんなが学生服を着ていた大学時代は背広を愛用していたらしいし、みんなと同じような格好はしない、それもひとつの美意識だったんでしょうね。
 それからおかっぱ頭のこともあるんでしょうが、スカート姿で銀座を歩いたというのは伝説で、誰も見たことがないというのが真相です。》(花森の美意識)

これを受けて司会の小田氏が酒井寛『花森安治の仕事』(朝日新聞社、一九八八年)を引き合いに出している。その該当部分を酒井本から直接引用しておく。

《大橋や編集部の古い人たちによると、花森は、幅のひろいキュロットや、スコットランド兵でおなじみのキルトをはいていたことはあった。花森に原稿や絵を依頼に行った他社の編集者もそれを見ているし、すでに、花森は有名になっていたので、このスカート話は広まった。》

《髪も、のばしていた。床屋へ行くのが大嫌いで、定期的に銀座の編集部にきてらっていた床屋がこなくなり、そのときから髪をのばし始めた。うしろで束ねて、ポニーテールのようにしていたときもあるし、天然ウェーブの、おかっぱにしていたときもある。外へ出るとき、ネッカチーフをかぶったり、首にまいたりしていた。》

矢崎少年が見たのはフェーリア(ゲール語でキルトのこと)だったのである。銀座から世田谷の松原までキルト姿で通っていたということになる。オシャレと言えばこれ以上オシャレなスタイルはないだろうし(たぶん今でも奇抜だろうし)、何より女装ではなかった。正真正銘の男装である(女性がフェーリアを身に着けるようになったのは最近だそうだ)。

f0307792_19190344.jpg
1954年7月暮しの手帖社で(撮影:樋口進)


もうひとつ言えば、おかっぱや長髪は大正から昭和初めの男子にとってはそう珍奇な頭ではなかった(村山知義やフジタを思い出そう)。女装だってそう珍しくはなかったような気がする。とくに芸術家を気取る連中にとっては(あの富士正晴だって長髪だったのだ)。戦争によってバサリと切り捨てられたはずの戦前(二大戦間)の頽廃文化は深く花森世代の心に巣食っていたのかもしれない。敗戦によって打ちのめされた花森は、一転、そんな青春を取り戻そうとした(?)。少なくともファッションの「自由」を社会通念によって自己規制することはキッパリと止めた、そう思えるのだ。

ただし、戦時中に国民服が提唱されはじめるといち早くこれを着込んで背広の杉山平一にこれからはこれだよと言い、みんなが国民服のようなものばかりを着るようになると、そんなものには見向きもせず、

男はズボンにゲートル、女はもんぺが日常というなかで、花森は「紺木綿の、縦じまの、つなぎの服」を着ていた。あるときは、「フードつきの上着」を着ていた。かぶると、防空ずきんになった(牧葉松子の回想)

というのだから、その天邪鬼ぶりは(ファッションに限らず、その思想においても)時代がどうこうではない、天性のものなのかもしれない。


[PR]
by sumus2013 | 2016-12-03 20:32 | おすすめ本棚 | Comments(7)

花森装釘?

f0307792_17363366.jpg

文明社の湯浅克衛『焔の記録』。FBで某氏がアップしていた花森安治の原画である。所蔵しておられるとのこと。お許しをいただいてこちらにも掲載させてもらった。『花森装釘集成』にはこの文明社の文芸叢書が五冊掲載されている。その他にこんな本もあったのか! と驚いたのだが、検索してみると高橋輝次さんが「古書往来」に次のように書いておられるのを見つけた。文中《この号》とあるのは雑誌『文明』昭和二十二年四月号。

ところが、である。この号の15頁を見ると、「小社出版物に就て」という囲み記事が載っており、最初に「既に御承知の如く用紙事情逼迫のため出版界は危機におちいつております」と書き出されている。続けて、小社は幸いにも前述の著者の本五冊を昨年中に上梓できたが、「尚既に読者諸氏に御約束申し上げました数冊が製版出来のまゝ印刷することが出来ませぬ状態でございます。校了になつてをりますものに野口冨士男氏「うきくさ」湯浅克衛氏「焔の記録」荒木巍氏「」宮内寒彌氏「四國巡禮」の四冊がございますが、用紙事情の打開と共に順次上梓の運びと致したいと存じます。」と告げている。
 『文明』は書誌によると、翌昭和23年3月に廃刊となっており、おそらく同じ頃、文明社も倒産してしまったと思われる。これらの校了にまでなり、タイトルも決っていた小説集は皆、日の目を見られなかったことになり、著者たちもさぞ無念の想いを抱いたことだろう。

62.新刊『古書往来』で書き残した事ども -文明社の未刊本など-


同じく某氏の所蔵する「夏」の扉絵原画。どちらも用意が整っていながら出版されないままに終わった……文明社に限らず幾多の作品が同じ運命をたどったに違いないとは思うのだが、なんとも惜しいことである。

f0307792_17371304.jpg

***


もうひとつ。牛津先生から質問が届いた。正宗白鳥『我が生涯と文学』(新生社、一九四六年二月一日)は花森安治の装釘ではないでしょうか? 長年にわたって疑問に思っておられるという。薄冊中綴じながら味のある装幀だ。版下は木版のようにも見える。

f0307792_17372211.jpg


装釘集成には新生社の単行本として舟橋聖一『闇から夜明けまで』(昭和二十一年五月)、中野重治『日本文学の諸問題』(昭和二十一年五月)そして雑誌『女性』創刊号と雑誌『新生』二巻四号(どちらも昭和二十一年四月)が掲載されている。花森と新生社の関わりがいつ頃始まったのか興味あるところだが、二月刊行ということはその少し前に仕事を受けていたということにはなる。

パッと見た印象としては花森らしくはない。ただ「新生社」という白抜きの文字が花森かもしれないと感じさせるということはある。上記の新生社本などの文字と比較してみると、一点、大きな違いがあった。本書以外はすべて「社」を花森は「示+土」で書いているのだ。また「學」も「学」(『日本文学の諸問題』)としている(ただしこれは『肉體の文學』という例もあり即断できないが)。結論として、何か確かな証言が出て来ないかぎり花森装釘と見るのは難しいと思う。牛津様、以上が小生の考えです。


[PR]
by sumus2013 | 2016-12-02 18:16 | 古書日録 | Comments(4)

展覧会ポスターに見るマン・レイ展「Reflected」

f0307792_19243731.jpg


「展覧会ポスターに見るマン・レイ展「Reflected」」を京都工芸繊維大学の工芸資料館で見た。石原輝雄・純子コレクションである。

展覧会ポスターに見るマン・レイ展「Reflected」

2016-11-23 マン・レイへの廻廊[マン・レイと余白で]

およそ六十点のマン・レイ展のポスターが三室にわたってゆったりと掛け並べられているのはちょっとしたスペクタクル(見モノ)である。第一室はマン・レイが本格的に活動を始めたフランスにおける展覧会のポスター。一九五四〜八一年、十七点。いちばん広い第二室はフランス以外のヨーロッパとアメリカで開催されたポスター、一九六六〜二〇〇四年、二十六点。そして第三室が日本におけるマン・レイ展のポスター、一九八一〜二〇一〇年、十五点。

このポスター展、いろいろな見方ができる。小生はまずざっと見て、戦後においてマン・レイが有名になっていく(認められていく)過程がたどれるように思った。そういう意味では日本は一九八〇年代になってから。これは遅い評価だと言えよう。ただその後は矢継ぎ早に開催されている。そのあたりが日本流なのだろうか。

またポスター・デザインの変遷として見ても面白い。フランスのシンプルな二色刷のポスターと日本の凝りに凝ったポスターと対比してみるのも妙である。マン・レイの作品は何をとっても「絵」になる。デザイナーとしては扱いやすい作家ではないかなと思う。

上のポスターはローマで一九七五年に開催されたマン・レイ展のもの(この絵はサドの肖像)。じつはパリの古本屋で安く売っていた。これはいいと思ってお土産に持ち帰った。もちろん石原氏は所蔵しておられたが、何枚あってもいいでしょう、こういうものは。実際、ここに展示されているのは石原コレクションの全貌ではなく片鱗に違いない。まだまだ何度でも別ヴァージョンのポスター展を開催して楽しませてもらえるだろう。それはともかく本展は十六日まで! 必見です。

f0307792_19244761.jpg


帰宅途中に善行堂へちょっと寄り道。「なんか、いい本ないの?」とわがままな質問。「いい本て…」といいながら夢二表紙の『若草』などを出してくれた。いいじゃない。


***


工芸繊維大学の校内にこんな注意書き……もうほとんど実は落ちた後のようだったが、それでもいくつかブラブラしていた。

f0307792_20002130.jpg

f0307792_20002443.jpg



[PR]
by sumus2013 | 2016-12-01 20:08 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)