林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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本朝千字文

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『素読本朝千字文』(敦賀屋九兵衛=大阪心斎橋南壱丁目、巻首には「書坊松村文海堂」とある、刊行年不詳)某所の均一台より。表紙がなくなっており、本体だけをこよりで綴じてある(こよりには活字が印刷されているので、明治以降に綴じ直したものと思われる)。貝原益軒の遺稿だそうだ。安永四年(一七七五)刊の『本朝千字文』(大阪茨木町:書物屋久蔵)は漢字四字がずらりとならぶまさに千字文と同じスタイル(四文字×二百五十)なのだが、本書はもっと誰にでも読めるようにそこに解説(傍註=戸川後学)と挿絵(十八点、無署名)が付されている。子供向けの歴史と漢字の教科書のようなものだろう。

《此書ハ旧[もと]貝原先生の草稿匣に遺り存し日本天地開闢より今代に至までの故事をあつめ人の善悪世の盛衰移り変に随ひ其次第を序で千文となしぬ花韻字を押[ふま]ずといへども同字をはぶき初童の便りとす》

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日本武尊


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足利義満と金閣


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雪舟とネズミ

《雪舟ハ備渓斎[びけいさい]と称ず
 幼稚[おさなき]より出家なりしが生
 れながらにして
 画を好む師の僧
 是をいましめんと
 柱にしばり付置
 給ふを足の爪
 さきにて縁
 板へ鼠を画出
 しかバ其鼠
 あらハれ出
 雪舟が縄を
 くいきり
 たすけし
   とぞ》

この逸話について詳しくはこちら→「雪舟、涙で鼠を描く」。


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狩野古法眼


古法眼は狩野元信のこと。狩野派二代目。漢画と大和絵を融合させた狩野派スタイルを確立したとされる。古法眼が衝立に木芙蓉と猫の絵を描いたらそこに蝶が飛んできて花にたわむれた、かと思うと絵のなかから猫が飛び出してその蝶を追いかけた……(これに似たようなリアリズム伝説は他にも聞いた覚えがあるなあ)。それにしても絵描きが二人も挿絵になっているのは意外であった。

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by sumus2013 | 2016-10-11 21:37 | 古書日録 | Comments(0)

乳房の神話学

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ロミ『乳房の神話学』(高遠弘美訳、角川ソフィア文庫、二〇一六年九月二五日)読了。じつに面白い。ロミの著作はかつて『突飛なるものの歴史』を紹介したが、本書は徹底的にサン(sein, おっぱい)にこだわった内容である。
神話学とタイトルには学があるが、じつはロミは学など歯牙にもかけていない。骨董屋や酒場を経営していた数寄者、物数寄、コレクターである。みずからの興味のおもむくままあっちのテトン、ニション、ネネ(いずれもオッパイの俗語、巻末には「乳房用語集」なる小辞書も備える、もちろんフランス語だけです)をちょいちょいとつまんでごらんよワン、ツウ、スリーという感じ。それがじつに愉快。思わず吸い込まれる、というか吸い付いてしまう。

いろいろ教えられるところは多かったが、個人的に印象に残った部分を取り上げてみる。まずヴァン・ドンゲンの「鳩と女」と題された絵が一九一三年のサロン・ドートンヌで警視によって外されたという事実、知らなかった。乳房も陰毛もあらわな全裸の女性が描かれていたとしてもおフランスである、いくら第一次世界大戦の前夜だとは言ってもそんな事件が起こるとは……信じ難い。黒田清輝の「朝妝」が腰巻き展示を強いられたのが明治三十四年(一九〇一)だから(それ以前には何度もそのまま展示されていたにもかかわらず)保守反動もいいところ。

もうひとつ、フランス女性の乳房の大きさについて。一九五五年に高等専門学校人類学研究所所属のシュザンヌ・ド・フェリス嬢が提出した学位論文はフランス女性の身体の発達についてだった。このなかで乳房の研究にあてられた部分はすこぶる興味深いという。そこからいくつかの数字が引用されている。そして

《彼女の結論。フランス女性の四分の三以上が「平均的な大きさの乳房、豊かな乳房、大変豊かな乳房」をしていて、小さな乳房、ごく小さな乳房は少数派(二三・一八パーセント!)である。》

このくだりを読んで思い出したのが山田稔さんがフランスへ初めて行ったとき女性の胸が大きいのにびっくりした、というか気圧された、とどこかに書いておられたことだ。これは直接ほぼ同じことを山田さんの口からも聞いた覚えがあるのだが、どこに書かれたものかすぐに思い出せない。『コーマルタン界隈』かなと思ったが、ざっと見たところでは見つからない。『マビヨン通りの店』をめくってみたら、そこに加能作次郎の「乳の匂ひ」についてのエッセイ「富来」にぶつかった。フランス女性のバストサイズとは関係ないが、乳房の文学ということで「乳の匂ひ」はピッタリではないか。これはフェティッシュですよ。さすが加能作次郎。

訳者の高遠氏はご自身も乳房コレクターでいらっしゃる。本書には文学のなかに乳房を博捜した「乳いろの花の庭からーーロミのために」が収められており、これもまた一読三嘆。乳房で読む日本文学アンソロジー! 日本人も決して乳房をおろそかにしていたわけではないのだ

《乳房という窓から覗けば日本文学も、またあらたな相貌を見せてくれるに違いない。私たちに陶酔と悔恨をあたえ、情欲と憧憬とをかさね、肉体と魂とを融合させ、視覚と触覚と味覚を一挙に満たしつつも、永遠の渇望状態に置く乳房なるものの現在[プレザンス]。》

あるいはこうも。本書の

《逸話や関連する図版は理論を振りかざすよりはるかに乳房の魅力を私たちに伝えてくれる。もし座右に置いて繰り返し読む乳房にまつわる本を選べと言われたら私は躊躇なく本書と、本書にも引かれているラモン・ゴメス・デ・ラ・セルナの散文詩集『乳房』(邦訳は抄訳。フランス語版は新書型で三百ページを優に超える)を挙げるだろう。》

失礼を顧みず三好達治ふうに言えば HIROMI のなかには ROMI がいる。

本書の元版はジャン=ジャック・ポヴェール(九月二十七日が三回忌)から「国際性愛研究叢書」第十六巻として一九六五年に刊行されたもの。ネット上で見つけた初版の表紙は下のようなもの。ソフィア文庫の表紙も悪くないが、さすがポヴェール版という表紙である(絵はベルナルディーノ・ルイニ「聖アガタ」)。

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 夢で子に乞われるままに与えたる乳房ひやりと皿に盛られて 大田美和


この歌は訳者のコレクションより。

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by sumus2013 | 2016-10-10 21:51 | おすすめ本棚 | Comments(2)

夜の衣を返す

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高須賀優『夜の衣を返す』という小画集を頂戴した。本文34頁、表紙が付きジャケットもある。発行所や発行日の記載がないのだが、印刷は「しまうまプリント」となっている。そこのHPを見るとフォトブックも注文できるらしい。A5判一冊498円(税抜)〜とか。紙質や印刷は十分鑑賞に耐えるように思う。

高須氏を直接には存じ上げないが、装幀家で画家。どの作品もいい。本書のなかではとくにこの絵が好きだ。

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もっと作品をご覧になりたい方はこちらをどうぞ。



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by sumus2013 | 2016-10-09 21:28 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

木箱

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『BOOK5』Vol.21(トマソン社、二〇一六年九月二九日)届いた。古本屋の木箱の特集! そんなこと思いつくのは友泉くんしかいないだろう。即売会ではよく見かけるが、それ以上でもそれ以下でもなかった。しかし実際に古本業を営むとなれば別である。往来座瀬戸氏の作るシン・フルホンヤバコはなかなかのアイデア。ちょっと作ってみたくなる。これは役立つ(……だろうか)。とにかくカラーページまである力作だ。

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と思ってはじめから読んでいると、松田友泉くんが「終り」という文章を書いているではないか。こち亀の連載終了に合わせたわけではないだろうが『BOOK5』の定期刊行が次号で終わるというのだ。

《2012年から隔月で刊行されていた同誌であったが、特集のネタと、私がついに力尽きてしまったのである。》

《『BOOK5』は、トマソン社のPR誌であるという位置づけである。当初はリトルプレスを扱っていたこともあって、こんなに面白い人がいるのに取り上げられないのはおかしい、とか、この人とこの人が組み合わさったら面白いのになぜやらない、とか、妙な義憤に駆られて企画を出していた。》

《だんだんと古本特集に傾きつつも邁進していたが、部数は(もともと少なかったものの)減少。基本赤字を出来するような状態となっていった。》

《次号で終りです。最後までよろしくお願いいたします。》



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by sumus2013 | 2016-10-08 20:45 | おすすめ本棚 | Comments(0)

おもかげ

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永井荷風『おもかげ』(岩波書店、一九三八年七月三〇日二刷)。下鴨で三冊五百円のうちの一冊。二刷、函が傷んでいるので、まあそんなところ。函の背が抜けていた。似た色の厚紙をピッタリの大きさに切って蓋をした。糊は木工用ボンド。輪ゴムで固定する。
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表題作の「おもかげ」に喫茶店が登場する。主人公はタクシーの運転手。たまたま死んだ女房にそっくりの踊子を見つけて毎日のように浅草の劇場に通っている。そんなとき偶然に雑沓でその踊子「つゆ子」を見かけ、彼女のあとをつける。

《やがて此の裏通が又もや賑な通を突切つて向側に並んださま〴〵な飲食店の中で、硝子戸の外にコトヤ喫茶店とかいた白い暖簾の下げてある店へ駆け込んだ。
 覗いてみると、さほど広くない店の正面には、どこの喫茶店にもあるやうな洋銀の銅壺がひかつてゐて、白い上着に白い帽をかぶつた男が二人。見渡す壁には油絵らしい額の間に、ココア拾銭、コーヒ五銭、ホットドッグ五銭など書いた紙が貼つてある。ぢゞむさい小娘が二三人、長いテーブルのあちらこちらに坐つてゐる入込みらしい客の前に物を運んでゐる。客の中には新聞を読んでゐるものもある。

露子は踊子仲間と合流したのだった。「おれ」は隅のテーブルに座ってコーヒーを注文して露子の様子をじっとみつめていた。

《露子さんはおれと同じコーヒーにジャミトーストをあつらへ、その出来あがるのをおそしとコップを取り上げたのに、始めて気がつき、おれも同じやうにコップの取手へ指をかけようとして、見るともなく見ると、袖口の白いシャツに、何だか赤いものがついてゐる。赤いのは血なんだ。手首のところ、二寸ばかり、引掻いたやうに疵がついてゐる。そして腕時計は物の見事になくなつてゐるぢやアないか。はつと思つて、ヅボンの尻のかくしに入れた銭入を探すと、これも無い。》

おれは主人にわけを話して金を取りに帰ろうとする。

《手首の疵とシャツについた血とが何よりの証拠だから、店の人も見てゐるお客も、みんな気の毒さうな顔をする。店のおぢさんは、コーヒーの一杯ぐらゐ、おついでの時でようござんすと云ふ。其傍から露子さんが、「アラ痛さうね。」と眉を寄せ、「おぢさん何か薬でもつけてお上げよ。」と云つてくれた。其声は死んだおのぶとはまるで違つてゐた。年も傍でよく見ると、大分上で、二十五六にはなつてゐるらしい。然しおれは涙のでるほど嬉しかつた。拝みたいほどありがたかつた。》

……この後には悲劇が待っているのだが、それはいいとして、白い暖簾、白服のボーイ、洋銀の銅壺、油絵などの昭和初期の喫茶店の雰囲気がみごとに描かれていると思う。

この本には荷風の写真が二十四葉収められている。大方が東京の街景である。そのなかから「牛籠舊居」。

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次は偏奇館だろうか書斎の一隅。

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他にもいろいろとオマケが付いていた。それも気に入ったのだが。まず前見返しに蔵書票「AKEDO'S LIBRARY」。後ろの遊び紙には半分剥がされた大阪大丸書籍売場のレッテルと蔵書印「平野蔵書」。

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もうひとつ荷風の検印。ちょっと変った文言。

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薄いけれど「永井氏著作権章」だろう。明治時代の初め頃にあったような文句である。

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by sumus2013 | 2016-10-06 21:38 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

カインド・オブ・ブルー

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FBで萩原健次郎さんがこんなふうに書いていた。

《ディアゴスティーニがテレビCMで訴求しているけど
アナログレコードがはたして売れるのだろうか。
初回のみ、990円ということで、
図書カードの残があったので購入した。
久しぶりに、ビニールの封を切って聴いた。
ジャズのアナログレコードが、安価で
再発されたら、何が欲しいかと
問われたら、このマイルスの
「カインドオブブルー」一枚が思い浮かぶ。
というよりも、これ一枚でもういいように思う。
心憎いセレクション。》

これを読んで無性に欲しくなった。近所の書店へ。ちょうどもらった図書カードがあったのでそれを使った。マイルスのアルバムでは「マイルストーンズ」の方が好きかなと思っていたが、やはりこれも名盤ではある。

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by sumus2013 | 2016-10-05 19:37 | おととこゑ | Comments(0)

水郷秋望

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月がかわったので短冊をひとつ取り出した。例によってよく読めない。よろしく御教示のほどを。

 水郷
  秋望

 なかめつゝ秋に□なれで年切とも
 夕くれ□□□□宇治のはし守 □


「年切」としてはみたが? タイトルは「水郷秋望」であると御教示いただいた。郷は口か江かとなやんでいたが、郷だとは思い至らなかった。望も同じく。深謝です。ということでさらなる解読を経て、目下次のように読むことになった。

 なかめつゝ秋には(盤)なれど[年][ふ](布)とも
  夕くれ□□□に(耳)宇治のはし守 節菴

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by sumus2013 | 2016-10-04 21:30 | 雲遅空想美術館 | Comments(11)

『風景』と文芸誌の昭和

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『scripta』no.41(紀伊國屋書店出版部、二〇一六年一〇月一日、デザイン=礒田真市朗)。昨年五月三十日に新宿博物館「田辺茂一生誕一一〇年 作家50人の直筆原稿 雑誌『風景』より」展にちなんで行われた大村彦次郎×坪内祐三対談が掲載されている。雑誌『風景』については二度ほど過去に取り上げた。



坪内氏はまず和田芳恵の「接木の台」が『風景』(一九七四年六月号)に掲載されたことをシンボリックな現象として口火を切っている。大村氏は当時『群像』の編集長で『風景』のような小説家が片手間に作る雑誌に「接木の台」が載って《みなショックをうけ》《色めきたった》と答える。

次いで田辺茂一は純文学の批評家としてデビューしたわけでしょうと坪内氏。大村氏は田辺と梶山季之が飲んでいるところへ訪ねたとき、梶山が「君、たまには田辺さんにも書かせてやってくれよ」と大村氏に言った、梶山は流行作家だったが田辺よりも二十五年下である。

《これはかなり意地悪な言い方ですね。そこで笑いに紛らすようにして梶山季之にそう言われたときの、田辺さんの複雑な顔つきというのは、やはり若いころにものを書こうと志して、その志が半ば遂げられなかった人の複雑さだったのではないでしょうか。

とは大村氏の感想だが、これは少し違うのではないか。梶山は物書きとしての田辺を認めていたのではないか。冗談めかして言ったとしても、そう思っていなければそんな言葉が出てくるはずもない。坪内氏はこう続ける。

《田辺さんの著書はたくさんありますけど、すごく文章がいいんですよ。味わいがあって。》《田辺さんはあれだけいいものを書いていたのにほとんど書評もされていないんですよね。それはかなり不幸なことだなと思います。》

いや、まさにその通り。なまじ(?)実業家として成功してしまったがために文筆家としての真価を認めてもらえなかった、今も認めてもらっていないかもしれない。しかし、小生も『喫茶店の時代』を書くときに田辺の随筆を何冊も読んだからよく分るが、本物の物書きである。

この話を受けて大村氏は田辺が阿佐ヶ谷会に入ろうとしたエピソードを語っている。木山捷平に斡旋を頼んだそうだが、会員たちにあっさり断られた。木山は中野から吉祥寺までが中央線沿線で新宿は大都会だからダメだとかなんとか苦しい言い訳をしたとか。文学青年としての夢を果たせなかったという気持ちが田辺のなかにあったのだろうと大村氏。

『風景』の母体となった「キアラの会」について。

《戦後すぐ(昭和二三年)に短命に終わった同人雑誌に『文芸時代』というのがあって、そのスポンサーだったのがジューキミシンという会社の社長でした。『文芸時代』の同人のなかで親しく交際をもった作家が結成したのがキアラの会です。キアラの会には、当時流行作家として伸びていた井上靖や源氏鶏太のほかに、北条誠、有吉佐和子、遠藤周作、北杜夫、澤野久雄、芝木好子、林芙美子、日下令光[ひのしたよしみつ]、三浦朱門、水上勉、吉行淳之介、それから三島由紀夫も入っておりました。吉行さんは「伽羅[きゃら]の会」と言っていましたね。》(大村)

キアラ(Chiara)はイタリア語で「光輝く、明るい」の意味らしい。

昭和五十一年一月に舟橋聖一が死去し『風景』は廃刊した。その年に村上龍「限りなく透明に近いブルー」が芥川賞をとって百万部を売りつくした。五十二年には和田芳恵が、そして五十三年には平野謙も死去《ここに戦後文学の幕が降りたかなという感じがいたしました》(大村)ということである。

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by sumus2013 | 2016-10-02 19:59 | おすすめ本棚 | Comments(0)

東福門院和子

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珍しく新刊書店で柴桂子『江戸期に生きた女表現者たち』(NHK出版、二〇一六年七月一日)を買って読んでいる。徳川時代に生きたさまざまな階層の女性たち十三人の生涯をその日記などから語っている内容でたいへん面白い。

京都の歴史を考えるうえで「東福門院と皇女たち〜女帝の母として寛永期の文化を担う(京都)」は参考になったし、とくに後水尾天皇(ごみずのおてんのう)のふるまいには、最近の退位問題ということもあって、興をそそられた。

東福門院和子(まさこ)は二代将軍秀忠とお江与(江=ごう、浅井長政の三女、母は信長の妹お市、姉に千姫、珠姫、勝姫、そして淀殿は伯母)の五女。家康はどうしても皇室に和子を入内させたかった。藤堂高虎が朝廷との斡旋につとめていたところ、後水尾天皇には四辻公遠の娘およつとの間に皇子と皇女ができた。とたんに譲位すると言い出した。もうすでに女御御殿の建設が始まっていたので高虎は天皇に面と向かってもし譲位したらあなたを配流にし自分は切腹すると恫喝して譲位を思い止まらせた。

ところが後水尾天皇は和子がすっかり気に入った。二皇子五皇女をつくったというからたいしたものである。ただし成長したのは四人の皇女だけであった。第一皇子は一歳七ヶ月で、第二皇子はわずか六日の命であった。

慶長十八年に幕府より「勅許紫衣・諸寺入院」「禁中並公家諸法度」が下されたが、後水尾天皇は無断で紫衣勅許を行った。幕府はそれを認めず無効とした。《そのことに加え、元和の法度の矛盾などに反発した大徳寺の沢庵らは抗議書を幕府に提出したが認められず、逆に配流の処分を受けた》。

《後水尾天皇は高仁親王[すけひと、第一皇子]の死去の二か月後、譲位の意志を和子付の女房権大納言局を通して秀忠、家光へ伝えた。二人とも「今しばらく御在位の事を」と書簡で天皇の譲位の思いをとどめた。》

《寛永六年八月、和子は女三宮を出産した。十月には、家光の乳母ふくが、春から病気続きであった家光の病気快癒のお札参りの伊勢参詣を理由に上洛し、天皇への拝謁と和子への見舞いや出産祝いに参内した。この時、ふくは武家伝奏三条西実条の猶妹(義理の妹)という身分で拝謁し、天盃を給わり、「春日」という局名を与えられた。》

《天皇は、ふくの江戸への下向を待っていたかのように、その月の末日、女一宮へ内親王の宣下をし、興子[おきこ]の名を与えた。翌十一月、天皇は幕府へ知らすことなく、突如、七歳の興子内親王に位を譲り上皇となった。奈良時代の称徳天皇(孝謙天皇重祚)以来、八百六十年ぶりの七人目(九代)の女帝明正天皇の誕生である。
 譲位後の翌日、和子は東福門院の院号を与えられ皇太后となった。》

上の肖像画は尾形光琳の筆になる後水尾天皇像(宮内庁書陵部蔵)。光琳の肖像画というのがちょっと意外な感じであるが

《呉服商雁金屋は、東福門院の母お江与の生家浅井家の家臣につながるということで、江戸城にも出入りしていた関係で、女院御所にも出入りした。雁金屋の小袖を記録した衣装図案帳『御用雛形帳』や『御絵帳』などは女院御所の注文の物であるという。女院御所に出入りしたのは雁金屋尾形宗柏、宗謙父子の時代で、東福門院の呉服の注文は五千両以上の年もあったという。》

《宗柏は染織家といわれ、宗謙は画家であり、書家でもあった。ちなみに宗謙の二男が「燕子花図」などで有名な尾形光琳である。光琳の貴族的、装飾的で美麗な作品は女院御所に出入りした父の影響もあったとも考えられる。尾形家三代の芸術品は、女院御所で生まれたともいえよう。》

という関係があった。これなどほんの一例に過ぎない。東福門院和子は幕府から莫大な予算を引き出し、京都の文化的発展に寄与したようである。

《東福門院を通して京都へ持ち込んだ金品は測りしれない。化粧料として一万石、さらに従来の皇室料一万石を加増して二万石とし》《度重なる新造内裏、新院御所、女院御所などの建築費用、数多い門跡寺院の再興費用のほとんどは幕府からの費用で賄われた。》

まさに京のゴッドマザーと呼ぶにふさわしい女性であった。

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by sumus2013 | 2016-10-01 21:12 | おすすめ本棚 | Comments(0)