林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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故郷

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小杉放庵『故郷』(龍星閣、一九五七年三月一五日)。放庵の故郷日光に関する絵、歌、随筆を集めた一冊。特装版もあるようだが、こちらは普及版。それでも背布の継ぎ表紙、本文袋綴じという凝った造本である。

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故郷の自然や風俗を描いた文も悪くはないが、面白いと思ったのは五百城文哉(いおきぶんさい)と田岡嶺雲についての回想記である。

五百城は放庵の師匠。先祖は土佐の出らしいが、水戸に生まれ、水戸藩士、明治になって東京へ出て農商務省に勤めながら高橋由一塾で油絵を学んだ。陽明門の図を描くため日光に逗留しそのまま居着いてしまったそうだ。中央の美術界からも遠ざかり山中に隠棲する生活となった。黒田清輝が日光へ来て萩垣面(はんがきめん)の高照庵に泊まったとき、そこに隠居する老僧を黒田が「昔語り」の僧のモデルに所望した。五百城が僧に頼んで黒田は寺の庫裡で上人を写生したと放庵は書き留めている。ただし一般にはこの「昔語り」の僧のモデルは京都静閑寺住職の岩佐恩順だとされるようだ。放庵ははっきり《上人そのままの姿よくも似たものであつた》と書いているので無下に記憶違いとも判断しがたい。

昔語り下絵(僧) 文化財遺産データベース

黒田清輝と小杉放菴 小杉放菴記念日光美術館 学芸主任 田中正史

その妙中上人の描写にこういうくだりがある。

《或はその座禅の石かと思うのだが、和尚さまがこの頃うらの原で石を動かして居なさると聞いた、やがてその石を寺の庭まで運んで来た、何丁もの距離を只一人で鐵挺[かなてこ]一本の働き、少なくも人夫四五人はかかるであろう大きさ、据えて見れば上面平たくみごとな形です、倦まず休まず気長に毎日、石をだましだまし持つて来たろう、えらい根気だと師匠も驚いて居ました》(「萩垣面」

以前紹介したこの絵を思い起こさせる。

小杉放菴「荘子」

田岡嶺雲は療養先の日光で歿している。日光では放庵の父が世話をした。

《日光へ行つて見たいから閑静な家無かろうかと相談されて、日光の父に頼んで稲荷町の人の離れ座敷を借りた、警察にも東京から連絡が廻つて居ます、父は国学者平田篤胤の孫弟子で、骨髄の尊皇愛国だがよく世話をして居た、嶺雲の人柄に好感をもつて、警察の注意など気にしなかつたと見えます、小川芋銭も嶺雲と親しかつたが、或時芋銭が田端の私の宅に来るとて牛久沼の蓴菜を缶に詰めて出かけた、たちまち其筋の連絡、小川が爆弾の如きものを提げて上野行きに乗つたと云う事で、王子警察から再再角袖が私の宅へ聞合せに来た、当の芋銭は遂に来らず、沼名物の蓴菜は他の友人の酒の肴となつたでしよう、彼の隠棲の画人も、幸徳の平民新聞にさし絵をかいたので、目を付けられて居た時代です。》(「嶺雲處士」)

こっけいではあるが、こんな時代が二度と来ないように願いたいものだ。


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by sumus2013 | 2016-09-30 21:12 | 古書日録 | Comments(0)

ON THE ROAD

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「ジャック・ケルアック「路上ーオン・ザ・ロード」を詩う」(IMAGICA MEDIA, 1999)。ケルアックの自作朗読(「路上」と未発表詩集「ワシントンD.C.ブルース」)および歌が六曲、に加えてトム・ウェイツによる「路上ーオン・ザ・ロード」が収められている。

朗読は音楽に関するところを中心に読んでいる。朗読というよりもっと調子がいい。ラジオドラマの雰囲気で悪くはない。ボーカルの方はとても聴けたものではないが、ケルアックだと思って我慢する。一点、このアルバムにはまったく異質のトム・ウェイツが素晴らしい。しびれる。

解説のしおりに佐野元春がジャック・ケルアックのルーツを訪ねたときのことを書いた文章がある。

《1994年。クリスマス。僕はケルアックの故郷にいた。人生の意味を探求した、あるボヘミア詩人の墓がそこにあった。マサチューセッツ州ローエル。ボストンから北へおよそ30マイルの郊外に位置する田舎町。ケルアックが生まれ育ち、生の際まで愛して止まなかったホームタウンーー》

《ボストンからハイウェイ三号線を北上し、車で約一時間、ローエル市に入る。想像していたほど小さな町ではなかった。荷物をホテルに預け、レンタカーを手配。間もなくやってきたフォード・エアロスター・バンに乗り込み、市の北西部、ポータケットビル地区に向かう。メリマック川に差し掛かる。この付近にかつてケルアックとその家族が住んでいた家屋があるはずだ。通称「アストロズ・ピザ」と呼ばれるピザ屋が目的の場所だ。
 住宅街の通りに面してほとんど廃屋と化した4階建ての1階の軒下に「アストロズ・サブ・アンド・レストラン」。間違いなかった。ケルアックとその家族はこの4階に借家住まいしていたのだ。かつてはピザ屋だったその建物は今は誰も住んでいないが、いずれにしても、ケルアックとその家族が住んでいた古い借家がそのままのカタチで残っているということは、全くの驚きだった。》

現在はケルアック公園などもあって観光地化されているらしい。日本人の訪問者も少なくないようだ。

ケルアック in Lowell (その1)

Kerouac’s Grave / Edson Cemetery, South Lowell, Massachusetts,

Thank you, Jack Kerouac


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今AbeBooks.com に出ている『ON THE ROAD』(The Viking Press, 1957)の初版本カバー。函付、献呈署名入でお値段はなんと!

Price: US$ 107,205.51

《First edition, first printing, presentation copy to Pieter W. Fosburgh and his wife Liza, inscribed by the author in red crayon, "To Peter [sic] and Liza Fosburgh, Writing in red crayon in memory of the Red House, Jack Kérouac [sic] (Idiot) (St. Jack of the Germs)" [the last five words in pencil]. 》

この出品は英国からなので特別な値段になっているのかもしれない。ただアメリカ国内の業者でも署名入でUS$ 35,000〜10,000くらいのレンジで販売しているようだ。


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by sumus2013 | 2016-09-28 20:28 | おととこゑ | Comments(0)

思い出す顔

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戸板康二『思い出す顔』(講談社、一九八四年一一月二〇日、挿画=野見山暁治)。「花森安治が登場しています」と某氏が恵投してくださった一冊。索引があればなあと思うくらい有名人がむやみやたらに登場する本である。それでもなんとかザァーッとめくって「花森安治」を探し当てた。まずは、

《ベルクラブの幹事をずっと続けて引き受けていたのは、NHKテレビの「おはなはん」の原作者、林謙一さんだった。「暮しの手帖」というユニークな生活雑誌を作った花森安治さんが戦争中大政翼賛会、林さんが情報局にいたのは、そういう才人の談話や文章を、利用しようとしたのだろうが、人選を一体誰がしたのだろう。》(洒脱なエスプリ)

というくだり。津野海太郎の花森伝によれば《利用しようとした》というのは少し違う。第二次近衛内閣の新体制下で軍部の影響力を極力抑えようという意気込みが当初参加した文化人たちにはあったようだ。《人選を一体誰がしたのだろう》について津野氏はこう書いておられる。

《帝国大学新聞の「親分」で、東京日日新聞の政治部長から翼賛会宣伝部長に転身した久富達夫にひっぱられたようだ。》(文庫版、p184-185)

さらに戸板は戦後の花森についてこういうエピソードを披露する。

《花森さんは、スカートを穿き、髪にウェーブをかけ、うしろから見ると、一見中年の女性のようだった。
 大石よしえという女代議士が、花森さんと新年の毎日新聞の紙上の対談をした時、はじめからおわりまで、大石女史は花森さんを男と思わなかったという。
 いかに何でも、このまま別れては変だと考え、いあわせた記者が「最後に花森先生、女性に対して、異性の立場で(ここは、ゆっくり発音した)お話し下さい」といったが、駄目だったそうだ。花森さんはこの話をぼくにしたあと、付け加えた。「ああいう人は、他人のいうことなんか、耳に入れないんだ」》(同前)

花森の女装、これは朝のドラマでも踏襲して欲しかったなあ……。もう一ヶ所、こちらはいっそう興味深い。

《しかし、これは前に書いたことだが、戦争中だからこそ、という話を、ひとつだけ書く。
 昭和十六年十二月九日、つまり太平洋戦争の開戦した翌日、つとめていた明治製菓の宣伝カーが供出させられ、大政翼賛会の演説のために、銀座や上野のさかり場をまわった。
 花森安治氏との初対面がこの日で、当時は五分刈りの頭の花森さんが車の屋根から群集に呼びかけた。》(さまざまな光景)

津野氏はこの話を取り上げていない。ちょっと惜しい。《五分刈りの頭の花森さん》という証言はぜひ入れておいて欲しかった。ただ《花森の講演は関西なまりの明るいしゃべり口で、たいへん人気があったという》(p198)と津野氏は書いている。後年の話だとしても、花森がどうして宣伝カーの上に立ったのか、という疑問にひとつ答えてくれるのではないかと思う。


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by sumus2013 | 2016-09-27 21:16 | 古書日録 | Comments(0)

漆繪の扇

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パウリスタで追加しておきたいのが『辻馬車』18号(波屋書房、一九二六年八月一日)に掲載されている浅見淵の小説である。浅見淵(1899-1973)は神戸市出身。早稲田大学文学部卒。小説家、文芸評論家。

「漆絵の扇」は神戸情緒をかきたてる小品だ。トアロード(トーア路)の異国趣味をふりかざしているところはやや土産物屋じみたところもあるが、今となってはそのために却って貴重な記録にもなっている。主人公は小説を書こうとしている大学生。大学に入った当座は夏休みに神戸へ帰省するのが楽しみだったが、だんだん億劫になってきたというところから始まる。

《じつさい、私は神戸へ帰つて二三日もすると、すつかり退屈してしまふのだつた。顔馴染のカフエや小料理屋は無いし、中学時代の友達もたいてい疎遠になつて、ひとりか二人しかゆききしてなかつた。それで、一週間に一度金曜か土曜かの晩にヒリツピン人のバンド付きで映す、オリエンタル・ホテルの活動写真を見に行くとか、海岸通のエム・シー薬舗で二円五十銭で買つて来たアツシユのステツキを振回しながら、汗みどろになつて裏山を歩き回るなどといつた気紛れを除くと、大方昼寝をして暮した。そして、昼寝に倦きると毎日のやうに、トーア路をとほつて三ノ宮のステイシヨンへ出掛け、そこで二三種類の東京の新聞を買求めて、トーア路が鉄道の踏切を越えたところにあるカフエ・パウリスタに引返し、一二杯の珈琲と一二本の安葉巻をたのしみながら、隅から隅までその二三種類の東京の新聞にゆつくり目を曝した。

当時の三宮駅は今よりも西の方に位置していた。このパウリスタは移転前の踏切脇の店である。新築移転したのは大正九年だから、浅見の年齢からしても大正七年か八年頃だろう。

YMCAでロシヤ郷土芸術音楽会があると知ってひまつぶしに出かける。そこでパフォーマンスした亡命ロシヤ人の家族、とくに末娘アレキサンドラの美しさにひきつけられる。

《その冬のことだつた。或晩、私と同じ中学を出て美術学校の洋画科へ入つてる友達が明石に帰省して、久振りで私を訪ねて来た。そして、九時近くにパウリスタへ珈琲を飲みに行かうといふので自家[うち]を出た。
 私の自家からパウリスタへ行くのには、中山手の暗い大通を抜けてトーア路をとほらなければならなかつた。で、その晩も二人でぶらぶらその路をやつて来たが、トーア路の中ごろまでやつてくると、突然聞き慣れない異様な合唱[コーラス]が街筋のどつかから聴こえて来た……。
 一体、このトーア路といふのは、山ノ手の外人街の入口にある、赤い屋根をもつたクリーム色のお伽噺のお城のやうなトーア・ホテルの横から始まり、鉄道の踏切や電車道を越えて波止場に面した竝木の多い、旧居留地へ通じてゐる坂路だつた。そして、山ノ手の外人街から神戸の銀座といふべき元町通へ出るには、どうしてもその路を通らなければならなかつた。で、しぜん、その路をゆききするものには外国人が多く、街の様子も外の街とは毛色が変つてゐた。例へば、アカシヤの竝木を前にした理髪店の二階に玖馬領事館があつたり、ゴシツク風のオール・セインツ・チヤアチの傍らに紅殻[ベンガラ]塗の牧師館があつて、その庭に熱ぽつたい夾竹桃の花が咲いてゐたり、さうかとおもふと高い煉瓦塀を周りに廻らした、二階の窓に朱塗の鳥籠が覗いてる支那人の金持の家があつたりした。又、埃塗れの安ホテルやソーセーヂ専問[ママ]のドイツ人の店や支那人のペンキ屋などがごちやごちや竝んでゐたりした。そして、夜になると、露地の奥の売春窟には赤い軒燈が燈りたいていの家は戸を締めてしまつて、ひよいとどつかの二階の鎧窓が開いたかとおもふと、ジヤツク・ナイフが閃めいて女の金切声が聞こえ、また直ぐにその窓は締まつて元のしんとした寂寞に帰るといつた、『カリガリ博士』の活動写真に出てくるやうな鬼気がその街一帯に漂つて来た。

コーラスというのは例のロシヤ人一家によるものだった。

《それから数分の後、私達は談笑しながらパウリスタの片隅で珈琲を飲んでゐた。そして、私は友達に漆絵の扇の話をした。
 そのうち、友達はあらぬ方をぢつと見詰めてゐたが、ふいと私のはうへ振返つて、
『君、君』と言つた。
『スミツト老人が来てるぜ』》

漆絵の扇とはアレキサンドラが舞台で持っていた安っぽい土産物である。スミツト老人というのは彼らが勝手に付けた綽名だった。彼はロシア人で、その落ちぶれた風采がドストエフスキーの『虐げられし人々』に登場する人物にぴったりだというところから中学生たち(彼ら大学生は中学生のときからパウリスタに入り浸っていたことになる)はそんな綽名を付けたのだった。

主人公はアレキサンドラとスミツト老人を登場させる『鳩の巣』という小説を構想する。

『鳩の巣』というのは、神戸にある世界的に有名な毛唐の売春窟である。
 港町では鳥渡した特徴のある招牌[かんばん]のイルミネイシヨンとか軒燈の色とかいつたものが、そのまま阿片窟とか売春窟の目じるしになつてゐた。そして、船乗の手から手へ渡る地図をたよりに、港に上陸した船乗たちはその目じるしを探すのであつた。ーー『鳩の巣』は、軒下にたくさんの鳩を飼つてることがその目じるしになつてゐた。

が、しかし、その小説は完成することはなかった。アレキサンドラの印象があまりに可憐だったから……。要するに甘ちゃんな小説だが、トアロードのダークサイドが描かれているところは非常に面白い。


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by sumus2013 | 2016-09-26 20:32 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

ハイカラ神戸幻視行

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西秋生『ハイカラ神戸幻視行 紀行篇 夢の名残り』(神戸新聞総合出版センター、二〇一六年九月二八日、装釘=戸田勝久)読了。二〇〇九年に前作を紹介しているが、その姉妹編である。

西秋生『ハイカラ神戸幻視行 コスモポリタンと美少女の都へ』

谷崎やタルホなど多く重なる部分はあるものの、本書は地霊(ゲニウス・ロキ)に導かれた紀行篇というかフラヌール篇。居留地、北野、三宮、トアロードなどはもちろん東は芦屋から西は須磨まで、それぞれの土地にゆかりの芸術家や実業家たちの活躍をいきいきと描き出してくれている。

【喫茶店の時代】で言えば三宮の「パウリスタ」についての言及がたいへん参考になった。

《昭和十四年(一九三九)、中山岩太が神戸市観光課の委嘱を受けて撮影した連作『神戸風景』に、トアロードは何点も取り上げられているが、中にカフェパウリスタが移った一枚がある。》

《神戸のパウリスタは大正二年(一九一三)。トアロードの、当時まだ高架線になっていなかった国鉄の踏切を下った先、東南の角地の木造洋館で創業した。》

今東光『悪童』に踏切際のパウリスタが登場すること。そして中山岩太が撮影したのは大正九年に新築移転した建物で、当時は最新のビルだったこと。新開地本通りの「扇港薬局」を営んでいた二十二歳の横溝正史は元町にあった「ブルーパゴタ」の紅茶とカフェパウリスタの《少し泡立った珈琲を愛飲した》。薄田泣菫『茶話』にカフェオリエントとカフェパウリスタを取り違えるスケッチがある……など。他にもガス、ユーハイム、カフェダイヤモンド、オリオン、元町の喫茶店などが登場して興味が尽きない。

横溝正史といえば、

《この途中に日本SFの源泉として記念すべき土地がある。加納町二丁目の交差点の東南角の井上勤旧居跡で、この人は明治十三年(一八八〇)、ジュール・ベルヌ原著『九十七時間二十分間月世界旅行』を大阪の書林・三木佐助から翻訳刊行した先覚者である。》(瀧へ行く道)

《公園の麓にある中央図書館は、日本探偵小説の源流の一つである。大正十年(一九二一)、落成直後にここで開催された講演会で、当時の高名な評論家。馬場孤蝶が海外の探偵小説の動向を紹介したのを聴いた江戸川乱歩が刺戟を受け、デビュー作「二銭銅貨」を執筆するに至ったのである。この講演会には地元の横溝正史も来ていたが、その時には面識がなく、お互いそれとは知らなかった。》(大倉山から国会へ)

《西柳原にはもう一人、夢幻の主が住んでいた。明治二十六年(一八九三)に生まれた当地の裕福な地主・西田政治である。》《かれは乱歩以前から活動する探偵小説の先覚者であって、大正九年、雑誌「新青年」が創刊になると即座に短篇「林檎の皮」を投稿、八重野潮路のペンネームのもとで掲載された。横溝正史の年上の朋友である。》

さすが神戸、海外の新しい傾向には敏感だったようだ。神戸を愛した外国人も多数登場する。再度山(ふたたびさん)修法ヶ原の外国人墓地に葬られている外国人には以下のような人々がいるそうだ(一部抜粋)。

日本初のラグビーチームを作ったエドワード・B・クラーク
関西学院創設に関わったジェームス・ウイリアムス・ランバス
ラムネ製造のアレキサンダー・カメロン・シム
神戸港長の初代ジョン・マーシャルと二代目ジョン・マールマン
大阪鉄工所(日立造船所の前身)を設立したエドワード・ハズレッド・ハンター
神戸女学院を創立したイラルザ・タルカット

なるほどたしかに神戸とはハイカラとモダンという言葉にこめられた日本人の西洋憧憬を憧憬でなく現実のものとしていた稀有な都市であった。

前著を評して文学地図があればカンペキと書いたが、本書巻末には見やすい地図が附せられている、これ以上言うことなし、の出来である。

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戸田氏のカバー画、これぞ神戸!(幻視のトアロード)


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by sumus2013 | 2016-09-25 20:38 | おすすめ本棚 | Comments(2)

ほんまに18号

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『ほんまに』18号(くとうてん、二〇一六年九月二〇日、表紙=イシサカゴロウ)発売中。連載とは銘打ってはいないが連載のようになっている拙文「パリ古本紀行」、今回は「日本女性、パリで古本を売る(1)」を書かせてもらった。登場人物はすべて匿名にしておいたが、本ブログをずっと読んでくださっている方には見当がつくと思う。

特集は「神戸の空襲と作家たち」、ほんまに、毎号濃い内容である。季村敏夫さんが「空襲下の詩人と少年工」を寄稿されておられる。杉山平一と岡本忍について書かれているのだが、注目したのは、季村さんが杉山邸を訪問したというくだり。

《先月縁あって、宝塚市の杉山平一宅をたずねた。部屋に入ったそのとき、きいっ、床が鳴った。いらっしゃい、使者からの挨拶、わたしにはそうおもえ、居ずまいをただした。》

杉山さんの蔵書はどうなったのだろう……?

ほんまに18号 特集・神戸の空襲と作家たち


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by sumus2013 | 2016-09-25 16:30 | 文筆=林哲夫 | Comments(0)

致堂詩藁自筆稿

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漢文教室のつづき、というわけではないが、今年これまでもっともコーフンした収穫を紹介(いや、自慢ですか)しておきたい。ご覧のように和綴じ本二冊。題簽が刷り物なのでてっきり版本だと思って、ついでに買っておけという感じで求めた。帰宅してからもそのまま机の脇にポンと放置しておいた。

半月ほど経ってふと見ると表紙に「先考致堂府君遺藁」と朱筆で明記されているではないか。先考も府君も亡父という意味である。そこに気づいて改めて本文を開いて見たところ、これは版本ではなく自筆本だ。うかつにもほどがある。

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推敲の跡があちらこちらにある。検索してみると「致堂」は加賀藩の家老にまでなった人物。横山政孝。

1789-1836 江戸時代後期の武士。
寛政元年2月7日生まれ。加賀金沢藩家老。享和元年家督をつぎ,文化13年藩の参政となる。永根伍石,大窪詩仏らと親交をむすび,詩作にすぐれ,「致堂詩藁」「自得論」などをあらわした。天保(てんぽう)7年1月25日死去。48歳。字(あざな)は誼夫。通称は小五郎,多門,図書,蔵人。号は致堂。》(コトバンク)

『致堂詩藁』は八巻、『致堂二藁』が八巻、併せて十冊が、文政八から天保四(1825-1833)に刊行されているし、活字本も明治三十九年に宇都宮書店から出ている。ということは全部で十六巻である。すなわち、第十七と第十八は既刊詩集の続編『致堂三藁』のための原稿ではないか? 『致堂詩藁』の罫線の入った本文紙を使っているのだから、もうかなり整理されて版下にもなろうかというところで更に推敲を加えた、というような原稿なのかもしれない。

ざっとながめたところでは致堂の詩も読みにくそうだが、とにかく、分る範囲内でごく一部でも内容の方も紹介しておきたい。万一研究されておられる方がいらっしゃれば……いないかなあ。

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巻十七巻首の作には《癸巳元日作次内蘭畹取寄韻兼答之 以下正月》という前書きがある。この癸巳は天保四年(一八三三)しかないだろう。歿年の天保七年(一八三六)からすれば晩年にあたる。まだ四十三になっていない。「内蘭畹」は奥方の蘭畹だろうから、奥さんから届いた詩(上の欄外)に次韻した(同じ韻で作った)ということになろうか。ウィキによれば正室だった津田桂(横山蘭蝶)は死産の末に文化十二年(一八一五)に歿しているそうだ。こちらは後妻なのであろう。名前に同じ蘭がつくということは……?

六月「二十七日雨中過遊護国寺」という七言絶句が収められていることからして、この頃、致堂は江戸屋敷に勤務していたようだ。江戸の加賀藩邸は本郷五丁目(現在の東大本郷キャンパス)だった。金沢の妻からこちらは相変わらずで知らぬ間に月日が過ぎていきますという漢詩の便りをもらって、遠く離れた出張で僕もさびしいが、新春がめぐって皆がたっしゃなら何よりのことだ(意訳もいいところです)と返した。

ただ、悲しい出来事があった。三月には蘭畹が男子を生んだという手紙が届いて喜んだのだが……

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八月になると女(妻)の具合がたいへん良くないという手紙があり心を痛める。
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十月一日、子供が死んだという報を受け取って声にならないほどのショックを受ける。ふたたび児を失ったことになる。
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わが子は三月に誕生し九月に亡くなるという短い生涯だった。寸心何耐萬千愁……悲しくてやりきれない。

巻十七に出ている固有名詞を拾っておく。楠堂兄、碧海先生、藤坡先生、姫人錦雲。碧海先生は柴野碧海(1773-1835、柴野栗山の甥で養子)か。

もっとじっくり読み込めばいろいろなことが分りそうな原稿ではある。



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by sumus2013 | 2016-09-19 21:12 | 古書日録 | Comments(2)

若冲筆塚

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伊藤若冲の展墓、そして筆塚の刻文を写してきたのは、旧稿を改訂するためだった。ご存知のように今もって草書を読むのに苦労しているわけだが、何しろ二十年近く前なので、初心者もいいところ、よくこんな原稿を公にしたものだと厚顔無恥にあきれる。このくらいの行書もまともに読めていないのは上掲の校正紙が示す通り。いつか直そうと思ってはいたのだが、好機を某社より頂戴したのである。

森銑三に「若冲小録」という文章があって、そこにこの碑文の引用がある。それが参考になった。昔、知っていればなあ、と思っても後の祭り。ただしその引用文にもいくつか誤りがある。実物とつきくらべてみて分った。


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そんなわけでテキストの方はほぼ確定できたが、文意がどうしてもはっきり取れないところがある。例えばこのくだり。

 初置石像肆頭 有来請画者 輙使其出一鋪資 既而厭塵土 剔顛毛

実際には写真のように一文字アキはないが、いちおう切りのいいところでアキを入れた。石像とは五百羅漢そのものか、それに似た若冲の関係した作品であろう。画を注文に来る者があると、そのたびにそれを出させて……一鋪……ひとしく(ひとつ?)敷き(?)資す(?)、すでにして塵土を淮ゐし顛毛をえぐるのに……(無理矢理読んでみました)。使其出一鋪資……ここをどう解すればいいのか。

さっそくに御教示いただいた。まったく見当外れだった。

一鋪の資に出さしむ。すでにして塵土を厭ひ顛毛を剔る

素晴らしい。塵土は世間、顛毛を剔るは「剃髪す」である(!)。厭を壓と同じと読んだのがバカだった(同じ意味もあります、言い訳がましいですが)。絵を求めに来た者に石像を売りつけて店(枡源という八百屋)の経営資金にしたという意味になるのか。剔顛毛(剃髪す)のあとにつづけて《縛菴石峰》(石峰寺に庵を結ぶ)とあるのもそれですんなりと意味がとれる。深謝です。


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by sumus2013 | 2016-09-18 18:08 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

そろばんや書店

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某氏より「京都三條 そろばんや書店」のレッテルを頂戴した。これは持っていないはず。深謝です。ただし別のデザインのものは以前紹介している。

京都三条河原町西そろばんや レッテル

某氏メモには近くの古書店のマダムにそろばんや書店について尋ねたとある。

《「老舗や、大きな店やったけど、平成2、3年のバブルの頃に店売ってしまいはった」と云っておられました》

とのことだが、三月記(仮題)によれば閉店は一九八六年だったようだ(まだ昭和時代である)。

「そろばん屋書店」の跡地

京都 書店そろばんや 織田作之助「それでも私は行く」から


そろばんや書店のレッテルが貼られていた本のコピーまで同封されていた。昭和六年発行だからまだ新刊書店でも堂々と販売することができたのだろう。

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レッテル以外にも「そろばんや書店」が臼井喜之介らの新生社の発売元になっていたこともすでに報告してある。もちろん臼井が出版に手を染める以前の話。また青山光二はツケで新刊書が買える店だったとも書いている(帝大生は信用があったようだ)。

『新生第一詩集』発売元そろばんや書店

『新生』再刊第一輯 発売書店そろばんや書店(新生詩社支部)

青山光二『吾妹子哀し』

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by sumus2013 | 2016-09-17 20:32 | 古書日録 | Comments(0)

若冲展墓

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伊藤若冲生誕三百年……若冲ブームは驚くばかり。前回若冲の墓所を訪ねたのは一九九九年四月だったから十七年ぶりに石峰寺の石段を登ったことになる。その前にも一度門をくぐったので三度目のはず。

五百羅漢で有名だが、いきなり山門(唐門)の脇にこんな立て札が! 前回はもちろんなかったし、何よりも訪れる人も稀だったように思う。それが平成十二年の若冲展を境にして若冲がはっきりと大衆的人気を博し、今も次々と展覧会が開かれている。海外でも盛んに研究される画家となっているようだ。今年はまた某局で特別番組が放送された。本日も混雑するというほどではないにしても拝観者は次々と途切れることはなかった。

前回はのんびりと若冲の墓の隣に立てられている筆塚の碑文(貫名海屋撰)を書き写したのだが(その間誰にも邪魔されなかった)、本日は日差しがキツかったこともあり、また墓参の人に不審がられもし、写真を撮って(筆塚の写真はダメとは書いていないので)帰宅してから確認することにした。ヤブ蚊が多い。受付の老女が「蚊が多いので、お使いください」と団扇を渡してくれたのは有難かったけれど、それでもあちらこちらと献血を強いられた。

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中央石段を上がった正面が若冲墓、その右手に筆塚。左隅にのぞいているのが本堂。石仏群は本堂の脇の石段をさらに登る。この写真から言えば正面奥、墓域よりも一段高い山腹に設置されている。

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若冲忌はつい先日、九月十日だった。真新しい板塔婆が並ぶ(裏面に寄進者の記名あり)。不平をならす筋合いではないが、このために背面の碑文が読み取りにくかった。

むろん五百羅漢もひと通り拝観した。前回訪れたときにも手入はされていたと感じたのだが、この度は石仏の周辺に草ひとつないほどにきれいになっていた。誕生から涅槃、賽の河原まで釈迦の一生や諸仏、羅漢らが独特な形の石仏群によって構成されている。石像自体はさほどの完成度ではないにしても、樹木をもれる日光によって仏の表情が素朴に、また愛らしく変化するところなどは見どころだろう。のんびりした顔立ちの仏や羅漢が多いのが特徴的だと思う。

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石峰寺の山門脇には民家が並ぶ。すれちがうと、みなさん挨拶をしてくれた。のんびりした半日。献血の跡がムズムズするのもよしとしよう。



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by sumus2013 | 2016-09-16 20:58 | 古書日録 | Comments(0)