林哲夫の文画な日々2
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茶館「露兄」

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石原輝雄『マン・レイへの写真日記』(銀紙書房、二〇一六年八月二七日、限定二十五部)。前著からほぼ二年、石原氏のマン・レイとの関わりをコレクションとともに開陳した写真入り回顧録と言っていいだろう。ギャラリーときの忘れものブログを元にしつつ書き下ろしを加えたとのこと。詳しくは下記。ただし、ほぼ即日完売……さすが。

『マン・レイへの写真日記』刊行のお知らせ

小生は石原氏の存在を知ったのが一九八三年。この本にも書かれているが、京都三条高瀬川のビルにあったRギャラリーで氏の「マン・レイ展」を見たときだった。すごいコレクターがいると驚いてしまった。その印象が強くあって『sumus』第二号(二〇〇〇年一月)にインタビュー記事を掲載させてもらうことになったのである。久しぶりに読み返してみたが、我ながらよくまとまっている。他にも一九七五年のシュルレアリスム展、トアロード画廊(小生はこの画廊で個展をさせてもらっている!)、児玉画廊、アトリエ・チサト……などが本書には登場して、小生自身の歩みを振り返る場面も多かった。

マン・レイと京都の人たち 三條白川橋上る

光の時代展カタログ


***


『陶庵夢憶』より「露兄」。喫茶店の話である。

《崇禎六年[1633]、好事家が茶館を開いた。泉は正真正銘の玉帯泉[ぎょくたいせん]、茶は正真正銘の蘭雪茶、湯はいま煮たばかりのもので古い湯は使わぬ。器はその都度洗って、よごれた器は使わぬ。その火加減、湯加減も時に天の引き合わせかと思われるものがある。わたしはこれを喜んで、その茶館に「露兄」という名をつけてやった。米顛(米芾)の「茶甘く露に兄あり」の句から取ったのである。》

張岱はさらに『闘茶の檄』を作った。要するに広告文である。

《水淫と茶癖は、今日なお古風が残っていますし、瑞章と雪芽は、昔から越絶(越の特産)と称せられています。》

瑞章[ずいそう]と雪芽は茶の名。雪芽茶を張岱は蘭雪茶と名付けた。

闘茶には蘭雪茶を使います。瓜の種、炒豆には、何も瑞章橋辺のものでなければということもありますまいが、蜜柑、柚、査梨[さり、ヒメリンゴ?]は、仲山圃の中で出来たものであります。

お茶に合わせるスィーツは果物であった。仲山圃は不詳。

《『七碗は飲みきれぬ』といった廬〓[どう、やね+工]は、茶の味を解する人とは申せません。いでや茶壺を囲み払子を揮いつつ、思うさま清談を楽しみ、半榻[はんとう]に香を焚いて共々におちゃけ[四字傍点]酔払おうではありませんか》

廬〓は唐の詩人。「筆を走らせて孟諌議が新茶を寄せらるるを謝す」という詩に「七碗にして喫し得ず」とあることを指している。おちゃけに酔うの原文は「白酔」だとのこと。

茶と酒は対立して論じられることが常であった。青木正児『抱樽酒話』(アテネ文庫、一九四八年)に納められている「酒茶論」によれば、もともと茶は酒の敵ではなかったが、茶は南方の飲料として晋代頃からようやく流行し始め、唐の中頃に陸羽『茶経』が著されたあたりから盛況を呈して来た。

《製法も進んで精品を出すやうになつた。かうした趨勢で茶の飲料としての品位が次第に高まり、遂に増長して「酒」と勲功を争う「茶酒論」の如きものが戯作さるゝに至つたわけであらう。我が蘭叔の「酒茶論」の出現も、室町時代茶の湯の勃興した世相の反映たるに外ならぬ。結局此の論戦は和漢共に新興勢力の旧勢力に対する抗争と見なすべきである。》

おそらく張岱グループの茶館というのも、あるいはそんなヌーヴェル・ヴァーグの文化的アイコンだった、のかもしれない。松山省三のカフェー・プランタンも同様な現象だったと思われる。


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by sumus2013 | 2016-08-21 17:31 | 喫茶店の時代 | Comments(2)

香炉峯の月

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出海博史(いづみひろし)『手帖』(私家版、二〇一六年七月三〇日、二十六部)。出海氏の美術に関する短いエッセイ四篇を収めた文集である。たとえば「見張り」では美術館の展示室の隅に座っている人たちのことを少年時代の思い出にからめてサラリと描く。

《ごく最近になって、学芸員をしている知人と話をしている時に「見張りのひと」のことを思い出した。あのひとのこと、本当は何と呼ぶのか聞いてみた。
「ああ、監視スタッフ、とか、監視さん、と言いますねえ」
 ちょっと素っ気ないが、そんなものだろう。
 しかし僕の頭の中では、いつまでも見張りのひとがいて、いつまでたっても彼女に微笑まれてもじもじしている、というわけなのである。》

この話を読んで思い出したが、何十年か前に京都の国立博物館でこういう人たちのことを「衛士」と呼ぶんだと知ったときに、なんとも時代がかった呼び名だと思った記憶がある(今どう呼ぶかは知らないが)。「守衛」と似ているかもしれない。その守衛も警備員に変って今ではアルソックとか…ちがう?

野見山暁治が松山の夫婦でやっているバーでデッサンする話も面白い。


***


『陶庵夢憶』より「香炉峯の月」。『枕草子』二百九十九段、「香炉峰の雪いかならむ」と問われて御簾を高く掲げて笑いをとった、あの香炉峰である。

香炉峯の絶頂は、折りたたなわる山々、突兀としてそそりたつ峯々がたがいに入りみだれ、千丈巌がにょっきりと行く手をさえぎって、岩と岩とが一丈ほども離れており、腹這いになって下を見れば、足がふるえて進むことができぬ。王文成が若い頃ここを飛んで渡ったことがあり、人々その大胆さに感服したといわれている。

王文成は陽明と号した明朝最大の思想家である。文成は諡(おくりな)。陶庵の曾祖父は陽明の再伝の弟子(孫弟子)だったという。

《わたしの叔父爾蘊[じうん]は毛氈で体を包み、岩に縋って下りた。わたしは二人の木樵を両脇に抱え、谷底からよじ登った。癡絶[ちぜつ]というべきであろう。
 天啓七年[1627]の四月、わたしは天瓦庵で読書していたが、午すぎ、二、三の友人と頂上に登って夕日を見ようということになった。すると一人の友人がいった。
「ちょっと待った。それより月の出を待って行こうや。よい機会はまたと得がたいのだ。たとえ虎に出遇ったとしても運命だ。それに虎にも道があろう。夜になれば豚や犬を食いに山を下りるだろうし、まさか虎が山に登ってお月見としゃれこむこともなかろうじゃないか」
 なるほどそれも一理あるというわけで、四人は金簡石の上にあぐらをかいて坐った。》

天瓦庵は香炉峰の北側に祖父が再建した山寺の一角にあって背に絶壁を負っていたそうだ。白楽天が「香炉峰下新たに山居を卜し草堂初めて成り偶東壁に題する」で《香炉峯雪撥簾看》とうたったような場所に陶庵も居たわけだから、そこでも十分絶景であったろう。香炉峯を夜うろうろするなんてとうていできそうもないのだが……お坊ちゃんたち。

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香炉峰
http://bbs.lvye.cn/thread-1154762-1-1.html


案の定、心配した下男や寺僧たちが七、八人、彼らを捜しにやってきた。その松明を遠目に見た人は「昨晩八時すぎ、何十本もの松明を持った山賊が百余人、張公嶺を越えて行ったが、どこへ出たのか知らん」などと次の日に噂していたという。中国人の針小棒大ぶりがよくわかる。



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by sumus2013 | 2016-08-20 20:42 | 古書日録 | Comments(0)

韻山

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尾崎正浩『猫目堂日記(仮)』(入谷コピー文庫、二〇一六年八月三一日、表紙イラスト=山川直人、通巻69号/限定15部)。入谷コピー文庫の最新刊である。著者は《高知市内のあたご商店街の一角にある古本店主、無名の方であるが、その文章がとてもユニークで洒脱で思わずクスクスと笑える人だ。》とは発行者の堀内氏の編集後記。たしかにその通りだ。

これまでに紹介した入谷コピー文庫



***

『陶庵夢憶』より「韻山」。

《祖父は年をとってからも、決して書物を手から放さなかった。書斎に書画や瓶子[へいし]、骨董などを飾ることも好きだったが、あの書物この書物のページをめくったり、書物の山の中から書物をさがしたりするため、数日もたたぬうちに巻帙は逆さまになるは、順序はめちゃくちゃになるはで、硯の表面は埃がうず高く積もってしまう。祖父はいつもそうした中で埃まみれの硯に墨をすり、紙と筆に頭と眼を突込むようにして、さっさっと書生流に蠅の頭ほどの細字を書きなぐるのだった。日が暮れて暗くなりかかると、書物を手に持ったまま簾の外に出て、外の光に近づけて読む。燭台が高くて、灯の光が紙に届かないと、机に倚りかかったまま、書物を灯火に近づけて、光と共にうつ伏せになる。いつも真夜中までそのようにして、疲れを知らぬのであった。》

祖父はうんと大きな辞書を作ろうと考えた。広く群書をあさり「大山」「小山」「他山」「残山」といった辞書を編んでその総名を「韻山」と名付けた。ぼろぼろの原稿を煉瓦ほどの厚さに綴じたものが三百冊もあった。

ところが、たまたま知人が宮中の秘書閣から借出してきた『永楽大典』のごく一部を見る機会があった。祖父はショックを受けた。「書嚢[しょのう]は無尽蔵だ。精衛[*]が石を銜[くわ]えて海を填[うず]めようとしたのと同様、何の足しにもならないのだな!」と嘆息して筆を擱[お]いた。

[*]精衛は古代神話に出て来る鳥に変身した娘。両親の元に帰るため石をくわえてきては海に落として海を埋めてしまおうとしたという。

陶庵は祖父の事業についてクールな見方をしている。

《かりにこの書物をさらに三十年書きつづけたとしても、完成させることは出来なかったであろう。たとえ完成していたとしても、板刻する力はなかったろうし、山のような筆塚を残すばかりで、せいぜい甕の蓋にするくらいが関の山であったろう。》

しかし

《わたしは深くこれを惜しんで、丙戊[へいじゅつ]の年(明亡後三年目)の兵乱の際、これを車に積んで九里山に運び、蔵経閣に蔵して後人を待つことにしたのである。》

人間の営みとは何事によらずおおよそこういうものであろうか。

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by sumus2013 | 2016-08-19 21:01 | 古書日録 | Comments(0)

三代の蔵書

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『APIED』VOL.27(アピエ社、二〇一六年七月二五日)。小説と映画、特集。小説と映画ならいくらでも書くことがあるような気がする。自分ならどの映画について書くか……すぐに思い浮かんだのはタルコフスキーの映画「ストーカー」の原作、ストルガツキー兄弟『ストーカー(路傍のピクニック)』(深見弾訳、ハヤカワ文庫、一九八三年)を読んだときの不思議な感覚。映画を見ていたので、どっかの均一で買ってしまったのだが、あまり深い印象はない。どうしてこの小説からあの映画が作れるのか、それが不思議だった。

善行堂通信(9)は「「湯川書房」湯川成一(一九三七〜二〇〇八)」。湯川さんとの出会いや『sumus』インタビューにまつわるあれこれ。京都時代の湯川書房みたいな都会のアジール、あったらいいなあ、とつくづく思う。

***

『陶庵夢憶』より、まずは「三代の蔵書」。

《わたしの家には三代にわたって積まれた蔵書が三万余巻あった。祖父(張汝霖)はわたしにいった。
 「数ある孫のなかで、おまえだけが書物好きだ。おまえが見たいと思う書物は、勝手に持ってゆくがよい」
 それでわたしは、太僕公(張天復)と文恭公(元汴)および祖父の書入れがあって手沢の存しているのを選び集めて、これだけくださいとお願いすると、祖父は喜んで、舁[かつ]いでゆくように命ぜられた。それが約二千余巻あった。
 天啓五年、祖父が世を去ったとき、わたしはちょうど杭州に行っていた。父叔および諸弟・門客・職人・下男・下女の連中が勝手に分け取りしてしまって、三代の遺書は一日にしてことごとく失われた。
 わたしは垂髪の子供の時から書物を集めること四十年、三万巻を下らなかった。

しかしこの三万巻も明が亡んだ後の乙酉の年(一六六九)、張岱が兵乱を避けて会稽山中に逃亡した後、ことごとく兵士たちに雑紙としてバラバラにされてしまった、と述べておいて陶庵は蔵書に富んだ隨・唐の書庫へと話を転じる。

《隨の嘉則殿では書籍を三類にわかち、紅流璃・紺流璃・漆の軸で見分けがつけられるようになっており、殿には錦の幔幕を垂らし、ぐるりに飛仙を彫刻してあった。帝が書庫におでましになって、隠されたバネ仕掛けをお踏みになると、飛仙が幕をかかげ、本箱の扉が自然に開く。帝が出て行かれると、またもとのとおりに閉じる仕掛けになっていたそうだ。隨の書庫はおよそ三十七万巻であった。

《唐王朝の書籍はおよそ二十万八千巻であった。
 わが明朝の宮中の秘籍は、それこそ数えることが出来ないくらいで、『永楽大典』の一書だけでも、いくつかの書庫にうづ高く積み上げられている。わたしの蔵書などはそれに比べればたかが九牛の一毛にすぎず、物の数でもないのである。》

脚註によれば『永楽大典』(永楽帝の勅撰による大百科事典、一四〇八年成立)は編集者2100余人が六年の歳月をかけて完成させたもので、およそ二万二千巻一万二千冊あったという。それでも現存はわずかに二百冊あまりとか……(ウィキによれば22877巻・目録60巻・11095冊からなり、世界各地に残された零本を集めると四百冊前後。日本では東洋文庫に三十四冊所蔵されている)。


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by sumus2013 | 2016-08-18 21:13 | 古書日録 | Comments(0)

陶庵夢憶

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張岱(ちょうたい)『陶庵夢憶』(松枝茂夫訳、岩波文庫、一九九一年三刷)。日本の文化について語ろうとすれば、この本を抜きにしては何も語れない、そう感じるくらい明朝の風俗や行事をまざまざと見えるように描き出してくれる傑作エッセイ群である。まずは本書「まえがき」より作者について簡単に紹介しておく。[ ]はルビ。( )はママである。

張岱、字は宗子[そうし]、一字は石公[せきこう]、号は陶庵[とうあん]、また蝶庵居士とも号した。明の浙江省紹興府山陰県の人。

張家がこの地方で指折りの名門と目されるようになったのは高祖張天復[ちょうてんふく]の代からである。天復、字は復享、号は内山、嘉靖二十六年(一五四七)の進士で、官は太僕卿[たいぼくけいに至った。

曾祖の元汴[げんべん]は翰林侍読に至り、天才的な詩人・徐渭(文長)のパトロンでもあったという。徐渭については五年前に少しだけ触れている。

一香已足壓千紅
http://sumus.exblog.jp/15758678/

祖父の汝霖[じょりんは広西参議、父は耀芳[ようほうで魯の献王(憲王)の篤い信任を受けたという。張岱は万暦二十五年(一五九七)八月二十五日卯の刻に生まれた。子供の頃から病弱で牛黄丸を生まれてから十六年間与えられてようやく病は治ったとか。……要するに大官の家に生まれじじばばに大事に大事に育てられた大ぼんちであった。

七十四歳のとき『自為墓誌銘』にこう書いている。

《「少[わか]くして紈〓[がんこ]の子弟たり。きわめて繁華を愛した。精舎[せいしゃ](すきを凝らした園亭)を好み、美婢を好み、戀童[れんどう](美少年)を好み、鮮衣を好み、美食を好み、駿馬を好み、華灯(元宵の華美な灯籠)を好み、煙火(花火)を好み、梨園[しばい](演劇)を好み、鼓吹[なりもの](音楽)を好み、骨董を好み、花鳥を好み、かてて加えて茶淫[ちゃすき]であり、橘虐[みかんずき]であり(茶と蜜柑のマニヤ)、書蠹[ほんのむし]であり、詩魔[しきちがい]であり(本の虫・詩の鬼)、ついにうかうかと半生を過ごし、すべては夢まぼろしとなってしまった」

自分でぬけぬけとこんなことを書ける幸せな男だ。今後、何回か、本書を紹介してみたい。

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by sumus2013 | 2016-08-17 21:23 | 古書日録 | Comments(0)

鉄道絵葉書の世界

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『動く京都・20世紀 鉄道絵葉書の世界』(京都絵葉書研究会、二〇一六年九月一日)。編輯は森安正、生田誠、高田聡。コレクター三氏による京都の鉄道絵葉書コレクション。

内容紹介はこちら

鉄道ファンはもちろん京都通を任じる人ならぜひ座右に置かなければならない一冊である。例えば、暑さということで目に留まったこんな一枚。

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「三條ノ上空ヨリ俯瞰セル大橋及應天門方面ノ美観」……橋詰め北側(向かって左)の切妻屋根のあたりに現在はブックオフがある。それはともかく、橋の上の色が変っているのはどうしたわけか。よくよく見てみると、どうやら橋の上に水をまいているようなのである。

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これは散水車ではないか? この様子だと橋の上を何度も往復しているようだ。「京都・散水車」で検索してみると京都市電の散水電車がいくつか見つかった。それは舗装していない道路の埃を防ぐためだったという。

2012年07月01日 | 京都市電開業100年

大阪だが《大正十四年に完成した鉄筋コンクリートの戎橋。橋の上には散水車が。》とキャプションのある写真を見つけた。

道頓堀写真館

……と以上のように細部まで楽しめる絵葉書集である。一部書店でも買えると思うが、ヤフオクに即決で出品されているので(たぶん生田氏が出品者)、ご興味のある方はタイトルで検索してみていただきたい。

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by sumus2013 | 2016-08-16 20:20 | おすすめ本棚 | Comments(0)

戦争中の暮しの記録

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『戦争中の暮しの記録』(暮しの手帖社、一九六九年八月一五日)。これも当然ながら花森安治の装幀。初版本である。意外と珍しいかも(初版に格別な価値があるというわけではない)。字体や文字の配置、手帳の写真などキッパリしたいい装幀である。ここに薔薇の蕾を置いたのが花森らしいメッセージなのだろう。

花森安治の装釘世界「戦争中の暮しの記録」 

本書のなかに「百姓日記 昭和二十一年一月一日からその年の八月十五日まで 田中仁吾」があって、これは「米作農家の側からみた敗戦の年の記録ーー佐賀県兵庫村(現在佐賀市)の場合」との副題をもつ。食料には困らなかったにしても農家は農家なりの混乱があった。それらはおいて、終戦直前の流れについてのみ参考にしてみたい。まず八月五日、佐賀市空襲があった。

《恐ろしい大量の飛行機の爆音が聞えてきたのと同時に、暗い夜空にピカリと一点の光が見えた一瞬、白い光がツーッと下り、ドローンと爆裂の音と同時に火花を三間ばかり高く吹きだし、最初の投下を合図に、次から次に投下され、国道以南は火柱の海となった。
 一時は恐しさを忘れ、「まあきれい」と思った瞬間、頭上を巾広い爆音とともに北のほうに飛んで行く。》

そして八月六日、

《また昨夜の空襲は、佐賀市の、南東の方だけの被害で、市内の中心地は被害を受けなかった。
 夜大本営発表で「広島市に強力爆弾が投下され被害が甚大なり」との放送があった。》

七日は静か。八日には米軍の小型機が低空飛行で宣伝ビラを撒いて去った。八月九日、

《正午過ぎ大本営発表のラジオ放送で、長崎市に新型爆弾が投下され、被害が非常に甚大であったことを放送した。
 夜ラジオ放送で、北九州地区にB29三百機来襲の放送に引きつづき、大本営重大放送で、
「昨日八日ソ連が日本に宣戦を布告し、ソ満国境は戦闘状態に入れり」との放送に、
「おちを、こりやァ「正人どんも危のうなったばい」と俺もおどろいた。
 幸子も「正人兄さんはどぎゃんしとるじゃろうか、ソ連が日本に宣戦布告するちうことがあるもんか」と腹立る。》

八月十一日、県庁の警察本部が爆撃される。十二日、県庁を見物に出掛け《はじめて見る爆弾の威力に驚嘆し、無意識のうちに恐怖を感じ、目に見えない圧力が苦しかった》と書いている。

十四日夜、明日正午重大放送ありとの特別放送があった。その十五日、

《友達の真崎清一君が田圃帰りに、
「オイ、仁吾、今日正午に重大放送のあるごと放送したが、どぎゃな放送じゃろうか。ひょっとすると、降参した放送じゃなかろうか」と心配した表情で話す。
「俺も、そうじゃなかろうかと思っとる。日本もいまさらアメリカに敵前上陸することは出来んことじゃろけん、あさんのいうごと、降参したこっじゃィ、分らんぼ」》

《ジーンと十二時の時報とともに、
「大本営発表、今日正午をもってポツダム宣言を受諾せり」との放送に。
「ポツダム宣言ちゅぎィ、何のことじゃろうか」とみんなが不審がっているとき「只今より陛下の玉音放送がありますから」とラジオより流れる陛下の玉音。
 甲高く、不明瞭に、語尾が震え、断片的に聞こえてくる言葉と悲痛な語調とが、敗戦のお知らせであることには間違いない。聞き入るうちに胸が熱くなり、女たちは目頭をおさえ、すすり泣きの声が聞こえている。
 玉音放送は終った。降伏のお言葉は聞かなかったが、降伏のお知らせの詔書であることは分った。》

とこのように書かれているが、これはかなり脚色された記述である。下記サイトが玉音放送の手順や内容について詳しい。百姓日記がいかにあやふやかということが分る。

玉音放送とラジオ

玉音の後で和田信賢アナウンサーがポツダム宣言や終戦について解説したのであって、前もっての説明はなく終戦の詔書を不明瞭な音声で聞いただけで敗戦を即断することは庶民には難しかったろう。昭和天皇の声を聞くのも初めてだった。

ただし、日記にもあるように現実の空襲の惨状、ソ連参戦を知っている国民が、それまで一切なかった天皇が自ら放送するという異常事態に接すれば、それはもう「降参したこっじゃィ」と思うのは当然である(例外的に「もっと頑張れ」と聞いた人もいたらしい)。

だから、上記のような記録をうのみにしたドラマや映画で天皇の放送を聞いて泣き崩れるという演出をこれまでよく見てきたが、それは、もうよほど漢語に通じている人間か、あるいは勝手に負けを早合点する単なる非国民であって、和田アナウンサーの説明を聞いて、どうやら負けたみたいだな、となんとなくほっとするというのが本当の順序ではないかと思う。むろんその場にいたわけではないので断言はしないけれど。

たまたま、ちょうど『改訂版 自分の年表 湊精一 1911〜2006』(くまがい書房、二〇一六年八月二日)という個人史の本を頂戴したので、そこに転記されている日記から終戦日の記述を引いてみる。場所は秋田である。

《8月5日 金次郎と荒巻に疎開荷物運ぶ。
  14日 夜11時頃からB29、17機日石土崎精油所に来襲し、家族一同本家の山の家に避難する。
  15日 昼、天皇陛下玉音放送し敵に和を乞う。ラジオ聞きとり難し。》

8月全文を引用した。《玉音放送し敵に和を乞う》という表現はやや正確ではないような気もするが、内容としてはたしかに、敵に和を乞うた、その報告である。この日記の筆者は慶応大学法学部卒だから玉音の意味を、聞き取り難いにもかかわらず、理解し得たのだろうか。新型爆弾については何も記されていないのも気になるといえば気になる。

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by sumus2013 | 2016-08-15 20:49 | 古書日録 | Comments(4)

女性創刊号

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『女性』創刊号(新生社、一九四六年四月一日)。これが今年の納涼でのいちばんの収穫。昭和二十一年の雑誌としては状態も非常に良い。明記はされていないけれど、表紙、広告のレイアウト、挿絵などは花森安治の手になるということで間違いなかろう。挿絵だけには「H」のサインがあるのではっきりしているが、それ以上はどこまで関わったのか不明ながら、かなり花森の力が働いた誌面ではある。

花森安治の装釘世界「女性 創刊号」

小島政二郎の『女性』に関する自筆原稿も以前紹介したことがある。

なつかしい青山虎之助君

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このカレンダーはいかにも花森らしいデザインだ。


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目次には賀川豊彦、武者小路実篤、宇野浩二、原田実、式場隆三郎、河盛好蔵、正宗白鳥、永井荷風、吉井勇、ウヰイド中尉、羽仁説子、吉野秀雄、イサドラ・ダンカン、小島政二郎、石川達三、舟橋聖一、丹羽文雄、藤沢桓夫の名前が並ぶ。グラヴユア写真は磯部達雄の撮影(表紙も?)。


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どうやら花森安治が『女性』に関わったのはこの創刊号だけのようだが、もしもう少し続けていたらどんな誌面を作ったのか興味深いものがある……。表紙は『ライフ』にやや似た感じで、B5サイズという、おそらく昭和二十一年四月当時としては異例の大判にしたのも花森らしいこだわりではないだろうか。『美しい暮しの手帖』創刊はこのおよそ二年半後、昭和二十三年九月である。判型はやはりB5であった。

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by sumus2013 | 2016-08-14 20:24 | 古書日録 | Comments(2)

納涼古本まつりふたたび

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初日があまりに落ち着かない感じだったので、もう一度、ゆっくり眺めたいと思って再訪。人出はまずまず。ちょうど見やすいくらいの混みぐあい。初日と較べると、やはり荒れた雰囲気が漂ってはいるものの、まだまだいい本が隠れていそうで、気を抜けないな、とは思いつつも、暑さもあってできるだけ立ち止まらないように務める。古本よりも古本ガールの方に気を取られるというのも、下鴨ならでは。

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結局、やっぱり、ここ。百円均一テント。初日はオープンしておらず残念だった(二日目から)。三日目ともなるとスカスカかと思いきや、いい本、二冊ほど確保。

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そのうちの一冊を紹介しておく。『本邦やきもの盃臺小誌』(陶磁器研究会=京都市伏見区深草正覚町、商工省陶磁器試験所、一九三六年五月二五日)。京都の出版物でもあり、また盃台のコレクションというのもちょっと珍しい(と思ったが、やはり「日本の古本屋」ではそれなりの値段がついていた)。

商工省陶磁器試験所の前身は京都市が明治二十九年に設立した日本初の陶磁器試験所である。大正八年に商工省の所管となった。

《余は数年前或る動機にて本邦焼物盃台を蒐集し見んと志し、爾来骨董店、古道具屋等をあさり成る可く形状、模様の異りたるものを撰び其数約三百点に達したり、之れを見るに其形状は種々異りたる様式あり又其模様図案も多種多様にて誠に面白く、盃台として古く支那、朝鮮には我が国にて天目台と称する如き形状のものありて或は主として茶盞の台に使用したるとも云ひ又酒盃の台なりとの説あるも本邦盃台としては已に唐津を始め各地に作られ、独自の発達をなしたるが如く殊に磁製(染付)としては有田、瀬戸に於いて徳川末期及明治初年に盛に産出せられ、新年用、祝事用、日常用として用いられ其形状は往古より酒盃又は茶盞の台として使用せられたるもの其他各種の器物より取入れられ変遷と需用の盛衰はありしも尚ほ今日に於いて普通配膳に供し使用せられつゝあり、[……まだまだ続くがこのへんで]》

なかなか文が終らない蓮實重彦もびっくりの文体である。陶磁器研究会長・平野耕輔の「はしがき」より。平野は東京工業学校を出てドイツ、ベルギーで窯業を学び、満鉄に勤めた後、昭和五年に商工省陶磁器試験所長(〜昭和十二年、その後、東京工業大学教授)。盃台(カップ&ソーサーのソーサーである)はたしかに、小生の田舎でもお盆や法事のときなど僧侶が読経に来たときにだけ茶を出すのに使っていたように記憶している。こんなにヴァラエティがあるとは思わなかった。めっけもの。

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by sumus2013 | 2016-08-13 19:18 | 古書日録 | Comments(2)

白と黒

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ヴォルテール『哲学物語 白と黒』(森下辰夫訳、大翠書院、一九四八年四月二〇日、装幀=日比野良夫)、下鴨で求めた一冊。大翠書院は京都の出版社だというが、初めて目にする名前だった(関西の出版はもう少し集めてみたいなと思っているジャンル)。住所は京都市中京区油小路通三条上ル。一九四六年から四九年までの出版物が確認出来る、典型的なアプレ出版社。キリスト教、フランス文学、児童文学、語学などのジャンルの本だから、まずは手堅い。

森下辰夫はウィキによれば以下のような人物。

《大阪府に生まれる。1928年京都帝国大学文学部仏文科卒業。外資系会社オデオン、天理外国語学校、関西日仏協会勤務、1938年満州建国大学教授。1941年霊能力を得たと信じる。敗戦後公職追放。1949年京都工芸繊維大学教授。1967年京都産業大学教授。没後勲三等遺贈。英文で書き未発表だった『心霊問題と人間』が没後邦訳された。》

主要な著作はいずれも大翠書院から刊行されている。

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『白と黒』の冒頭を読み始めて、おや? と思う。

《シリウスと呼ばれる星の周囲を廻転している一遊星に素晴らしく頭の冴えた青年が住んでいた。先般此の仁が、我々の小さい地球という蟻塚に旅行した際、私は彼を識る光栄に浴した。その名をミクロメガスと云う。すべて大きいものには、いともふさわしい名前である。背の高さは八里、と云うのは、一歩五尺として二万四千歩にあたる。》

《見るもの聞くもの、すべて小煩わしい、ちつぽけな事のみの王宮から追放されたとて、彼は殆んど何等の痛痒をも感じかなつた。坊さんにあてつけて至極愉快な小唄を一つ作つたが、坊さんは一向気にも懸けないようだつた。斯くて、彼は遊星から遊星へと旅行に発足した。》

これはもう『星の王子さま』の枠組みではないか! サン=テグジュペリがヴォルテールに触発されて『星の王子さま』を書いたと考えるのはなかなか楽しい。



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by sumus2013 | 2016-08-12 20:43 | 古書日録 | Comments(0)