林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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武藤良子個展「沼日」

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武藤良子個展「沼日

久しぶりに京都で個展です。

14日には林哲夫さんとのイベントもあります。

■日時

2016年5月12日(木)から24日(火)まで

会期中休廊日:18日、19日

11時30分から19時まで

■場所

BOOK CAFE & GALLERY ユニテ

〒606-8383

京都市左京区川端通り二条上がる東入る新先斗町133番地サンシャイン鴨川1階

駐輪場あり

075-708-7153

http://www.unite-kyoto.jp/

■イベント

画家・林哲夫さんと話そう

5月14日18時から

500円 ワンドリンク付き

予約、問い合わせはユニテまで info@unite-kyoto.jp

終了後、懇談会を予定しています。お時間あるかたそちらもぜひ。


m. r. factory



というわけで、ムトーさんとトークイベントを行います! 前回の京都展では善行堂とのトークだったが、どうしてもその日の都合がつかず聞き逃した。今度は聞き逃しません(!?) どんな話しようかな……やっぱり絵かきが二人なんだから、絵の話でしょうかね、まだ決めていません。お楽しみに。

武藤良子展を見るためにメリーゴーランド京都へ

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by sumus2013 | 2016-05-12 20:06 | もよおしいろいろ | Comments(0)

うずまき新聞

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『うずまき新聞』(うずまき舎)の20号と22号を頂戴した。
うずまき舎は高知県香美市香北町にある古本屋さん。

山の上の本屋うずまき舎

20号(二〇一五年一〇月二日)の「田舎の本屋をつくる vol.12」にこう書かれている。

《美良市の街から、うずまき舎のある中谷集落までの道のり、途中民家がないうっそうとした林道を通過します。昔は重機もありませんでしたので、山の道は住民たちによって人力で整備されてきました。そんな細くて険しい道も、近年は市道となって車の通行も増え、より安全に通行できるように、毎年少しずつ道を広げる工事が続いています。》

《ただでさえも辺鄙なこの場所です。この上さらに通行制限までかさなるとなると、はたしてお客さんが来て下さるのかどうか。去年は不安のあまり、冬の間だけ山から降りて、麓にあるフォトスタジオ・ラフディップが運営するカフェ、たろまろギャラリーで間借り営業をさせていただいていました。》

《そこで営業していると、うずまき舎は「山の上の古本屋」ではなくなる訳で、ふと我にかえると、ほんとうはどんな状況でも、私は山にいたかったのだと気がついたのでした。》

《今年は、山でお客さんを待ってみることにしました。霧につつまれてなかなかたどり着けない魔法の古本屋のようで、それもかえって面白いような気がしたのです。》

う〜む、浮世離れした古本屋さんである。行ってみたいような、ちょっとカフカの城みたいにたどりつけなくてオタオタしてしまったら怖いような……

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by sumus2013 | 2016-05-11 13:57 | 古書日録 | Comments(0)

日本のシュルレアリスム

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『彷書月刊』の初期号を何冊か頂戴した。深謝です。終日雨、PCに向かって現在進行中の書籍レイアウトと苦闘する。その合間の息抜きに同誌をパラパラと。通巻12号(弘隆社、一九八六年八月二五日)は特集が「日本のシュルレアリスム」。執筆者は鶴岡善久、中野嘉一、諏訪優、白石かずこ、ジョン・ソルト、針生一郎。

諏訪優「北園克衛のブックデザイン それでも彼は詩人だった」に北園の書斎の様子が少しだけ描かれていた。

《馬込時代の彼の家は六畳二間ほどの借家であったが、あまり大きくない仕事机の前にあぐらをかいた彼は、机の上のエンピツとペンと、小皿にとり出した水彩絵具の数滴で、わたしたち若い詩人に、アッと言う間に見事な栞を作ってくれたりしたのである。
 極言すれば、詩人の仕事机の上から、ノリとハサミとエンピツで、あれら多くのすぐれたブックデザインは作られたのである。》

中村書店のしおり(北園克衛デザイン)

ジョン・ソルト「蝙蝠傘の失跡」は日本におけるシュルレアリスムの性格について。

《日本のシュールレアリスムを研究していて意外であったのは、この点に関しての日本のシュールレアリスムの態度が、ヨーロッパのそれ[二字傍点]とは大きく異なっていた点であった。ブルトンは積極的にシュールレアリスム的存在の発掘を展開した。しかし、日本のシュールレアリスムは、どちらかといえばその活動を自己のフィールドの内側に限定し、時空の逸脱に消極的であったように映る。》

ソルト氏はその理由をこう説明している。

《「近代への[二字傍点]自由」こそが日本のシュールレアリストにとっての切実な問題であった。それゆえほとんどあらゆる過去の文化や伝統は、揚棄の対象として以上の意味をもちにくかったのではないだろうか。
 ヨーロッパのシュールレアリスムが、すでに人間にとっての規範と化した「近代から[二字傍点]の自由」を対象としたものであったと仮定すれば、日本のそれは脱亜的に進行しつつあった「近代への[二字傍点]自由」へとそのベクトルを向けていた。》

要するに、日本は未開国だった、それこそもしブルトンが日本に興味を抱いたとすれば、奇想の作家や画家を歴史の闇のなかから引き出したかもしれない(たとえば今ではフランスにも専門の研究者がいるらしい若冲のような画家だとか。カチナドールを集めるようにこけしを収集するブルトンを想像するのも楽しい)、そんな国、シュルレアリスムの対象となる国だった、ということだ。

ここで未開と言ったのはあくまでパリの運動から見た価値であって、パリには存在しない「豊かさ」と考えていいだろう。パリに集まったシュルレアリストたちの多国籍性を考えれば、空間を超越した感応力がブルトンの才能だったのである。だから既成の価値観にこだわらない自由さを発揮できた。

その極東の未開国にブルトンの精神をもって時間と空間を眺めることができるシュルレアリストがいたのかどうか。戦後の瀧口修造は新しい特異な造型作家を見出すという意味においてはブルトンに似た仕事をしたと言えるとは思うが。ただし第二次世界大戦後は世界そのものが全くと言っていいほどシュルレアリスムになってしまったので、その時点で本物のシュルレアリストが日本に次々現れたとしても(本誌に針生一郎がそんなことを書いている)それはむしろ当然のことなのである。

第一次大戦の申し子であるシュルレアリスムはあくまで二大戦間における精神の物差しとしてもっとも大きな意味を持っているように思う。その意味では柳宗悦の民芸運動あるいはその蒐集品などを見ると、柳こそ日本のブルトンと呼ぶにふさわしい人物ではないだろうか。日本のシュルレアリストを既成の見方で測ろうとするとつまらないものになってしまう。

柳宗悦『蒐集物語』

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by sumus2013 | 2016-05-10 17:03 | 古書日録 | Comments(0)

茶店の成立

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天橋立・住吉社図屏風より茶店



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上杉家本洛中洛外図屏風より「一服一銭」


【『喫茶店の時代』正誤・増補 002 茶店の成立】

上杉家本洛中洛外図屏風」(十六世紀中頃)には言及している(p19)が図版は掲載していなかった。新たに知った「天橋立・住吉社図屏風」に描かれている茶店には屋根と椅子も備えられており、本格的なものである。



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『喫茶往来』(十五世紀初)に描写される「喫茶之亭」を金閣寺に似ているようだと書いたが(p19)、上の記事は銀閣寺から御影石の導水管が発見されたという内容(1993年10月27日付朝日新聞;神戸)。

《国際日本文化研究センターの村井康彦教授は「銀閣寺東求堂内にある同仁斎という部屋が、囲炉裏の間だったと分かっている。義政が茶の湯をたしなんでいたとの説があり、石樋の精巧さは、その説を裏付ける」と話す。》

質素だとされる銀閣寺、実は豪華な庭園だった可能性が強まった、と記事は結ばれている。



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p20で言及している「南大門一服一銭請文」は東寺百合文書の中にあり「南大門前一服一銭茶売人道覚等連署条々請文(なんだいもんまえいっぷくいっせんちゃうりにんどうがくとうれんしょじょうじょううけぶみ)」が正式名称。「前」が抜けていた(20頁7行目)。この資料は京都府立総合資料館蔵。図版は2002年10月17日付『朝日新聞;京都』より。請文の内容は以下の通り。

一 如根本令居住南河縁堆為行時不可移住門下石階辺事

一 鎮守宮仕部屋雖暫時不可預置茶具足以下事

一 同宮幵諸堂香火不可取事

一 灌頂院閼伽井水不可取事

《石段付近で営業しない▽道具を宮仕部屋に預けない▽火種を寺の香火から取らない▽寺の井戸水をくまない、の4項目。》

東寺が登場したついでに明治時代の東寺付近。茶畑に囲まれていた。

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2001年3月3日付朝日新聞;京都より


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by sumus2013 | 2016-05-09 20:14 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

凋傷何必

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しばらく前になるが、こんな軸を買った。「五山」とあるから菊池五山だろう。クセのある筆致で書かれた五山の漢詩は今日でもしばしば見かける。よほど需要があったものと思われる。貧生でさえこの他に色紙ほどの大きさに書かれた漢詩をも架蔵するのだから。この軸は七言絶句のようだが、例によって読めない。こんなもんかいなという程度で読んでおく。御叱正をお待ちする。

[小鈴雪]
 凋傷何必[1]青腰
 木荷風光更是饒
 一抹斜陽天亦酔
 酒亭隔水近相招
  舎北[2]荷景物殊[3]
        五山 [?][無絃]

木荷というのはツバキ科の樹。青腰がよく分らない。[1]は抬?、[2]は捨、[3]は座であろうという御教示をたまわった。深謝です。もう少し考えさせていただく。

新たに御教示コメントいただいた。

凋傷何必[恨]春腰
木[落]風光更是饒
一抹斜陽天亦酔
酒[寄][隠]水近相招

舎北[揺][落]景物殊[佳]

[1]恨は納得。「春腰」もなるほどと思われる。[2]揺、[3]佳はたしかにこれでピッタリだ。「落」としたところは陸游の「舎北揺落景物殊佳偶作五首」と同名とのことでもっともである。パッと見「落」には見えないのだが、たしかに落でいいような気がしてきた……。[寄][隠]はどうだろう。いずれにせよ皆様のおかげでだんだんピントが合ってきた感じがする。深謝です。

おおざっぱに五山の書斎である五山堂から見える風景を嘆賞しているということでいいと思うが、富士川英郎『江戸後期の詩人たち』(麥書房、一九六五年)によれば五山堂は以下のような質素な佇まいだった。

《中年から晩年にかけての五山は本郷一丁目あたりに住んで、徒弟に詩を教えながら暮らしていた。しかし、その五山堂は大窪詩仏の詩聖堂のような派手なものではなかったらしい。彼自身、『五山堂詩話』巻一で、「余貧にして書を貯ること能わず。偶ま購い得しもの有るも、早く已に羽化し去れり。筐中、集五部を留むるのみ。一は白香山、一は李義山、一は王半山、一は曾茶山、一は元遺山、此を外にして有るなし。因て五山を以て、堂に名づく。》

富士川はさらに森銑三「酔桃庵雑筆と無可有郷」から鈴木桃野『酔桃庵雑筆』を引用している。そこにはこのように書かれているそうである。

《五山がり行きたれども、これもよくもてなさず。且つ五山が家は甚だ不雅なりとて、こちらより見限りて行かずといへり。其故はいかにと問ふに、入口に額もなく、床に懸物もなく、机上に文房、内宝もなし。木地呂色の硯箱に筆墨一揃へ入れたるが、唐机の上に一つあるのみ。談話もまた一通りの言にみにて、持て行きたる詩草も、口のほど一二首読みたるままで彼机上に差し置きて、異日来ます時迄に見置くべしといひたるばかり、詩の談話もなし。かかる人の所へ行きたりとて何の益あらんといひてけり。これにて思ふに、京坂の人は風流なるやうなれども、金銀を取る事の上手なるを知れり。》

これは桃野が梅陀という頼山陽の門人だったという人物から聞いた話である。梅陀が江戸に出て来て山陽の勧めに従って江戸でナンバーワンの詩人、佐藤一斎と菊池五山を訪ねたところ、どちらにも冷たくあしらわれたという愚痴なのだった。愚痴であっても書斎の様子が伝え残されたというのだからお手柄であろう。

簡素な五山堂で《木地呂色の硯箱に筆墨一揃》を用いてこの漢詩を揮毫した……そう思うと見え方も少し変ってくるような気がする。

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by sumus2013 | 2016-05-08 22:07 | うどん県あれこれ | Comments(3)

しょうべんの詩

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『川崎彰彦傑作撰』の「どぶろくの詩」からもう少し旧制中学時代の読書について引いておく。

《ある日、塚本は本棚から創元社刊の『八木重吉詩集』をとりだし、この詩人について、さかんに鼓吹した。重吉はキリスト者であるようだったが、そんなことより、ぼくら田舎の文学少年にとっては重吉の語法の単純平明であることが好ましかったのだ。そのことは重吉以上に、新潟の農村少年詩人・大関松三郎の詩集『山芋』がぼくらの心をとらえ、三人を夢中にさせた事実からもうかがえるだろう。松三郎のなかでは「虫けら」なんて詩が最高だろうと思うが、当時ぼくらを喜ばせたのは「しょんべん」と題する次のような詩だった。
 どてっぱらで しょんべんしたら
 しょんべんが白い頭をして
 によろ によろ
 どてっぱらをおりていった
 へびになって
 にょろにょろ まがっていった》

大関松三郎は昭和十九年南シナ海で載っていた輸送船が撃沈されて戦死した。享年十八。恩師の寒川道夫が昭和二十六年に遺稿詩集として出版したのが『山芋』(百合出版)である。

また、こういうくだりもある。

《そのころ、ぼくは八日市の文英堂書店で大島博光訳『ランボー詩集』を購め、むさぼるように愛読していた。それは国文社刊で、本文紙質は粗末だが、蓑虫の裏皮の張り合わせを連想させるような和紙装、真四角の判型の薄いが瀟洒な一冊だった。そのなかに題名は忘れたが、やはり立ち小便の詩があった。しかも「プーッと一発ヘリオトロープのおまけつきで」などという上品ならざる訳語を伴って、ぼくは次の機会に塚本の部屋にその詩集を持ちこみ、三人でゲラゲラ笑い合った。》

ヘリオトロープが登場するのはランボー詩「夕べの祈り(鈴木創士訳) ORAISON DU SOIR」の最後の連。

 Doux comme le Seigneur du cèdre et des hysopes,
 Je pisse vers les cieux bruns, très haut et très loin,
 Avec l'assentiment des grands héliotropes.

 大きなヒマラヤ杉と小さな柳薄荷[ルビ=ヒソプ]の「主」のように心優しく
 俺は茶色の空に向かって小便する、とても高く、とても遠くに、
 大きなヘリオトロープの同意を得て

鈴木創士訳。ちょっと直訳すぎるかもしれないが、文字面の意味はこれで間違いないのだろうと思う。ビールをたらふく飲んで草原(ハーブ畑か)で放尿した、ということを宗教的な単語をちりばめてコミカルに謳っている。タイトルのオレゾン(祈祷)も、「主 le Seigneur」としてあるのも宗教用語。

例えば金子光晴もランボーを訳している。訳そのものはかなりあやしいのだが、さすが詩人というのか、そこには閃きのようなものが感じられる。この詩(金子訳は「夕ぐれどきのことば」)最後の行はこう訳されていて、なるほどなと思う。

 ーーすばらしいぞ。ヘリオトロープも、大音で助勢しようとは。

川崎の引用している大島訳を持ち合わせないので断言できないが、大島はヘリオトロープを「おなら」と解釈し《同意を得て Avec l'assentiment》をのおまけつきで》というふうに訳した。金子も同じだが、もっと大胆に「大音」としており、ま、これはさすがに誤訳だろうと思うが、このイキの良さは詩人訳ならでは。(大島は金子訳を参考にしたか?)

たぶんごく平凡に文字通り解釈すれば、ランボーから勢いよくほとばしる小便がその足許に生えている大きく育ったヘリオトロープ(時候は夏である)にバシャバシャ降り注いでいる(なにしろ何十杯もビールを飲んでがまんしていたわけだから)、それに対して「同意を得て」が意味をもってくる、そんなところ。

川崎たち文学少年が笑い転げた幸せな時間、それは誤訳のたまものだったのかも知れない(もちろん断定はしませんが)。

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by sumus2013 | 2016-05-07 20:55 | おすすめ本棚 | Comments(0)

みどり文庫・みつづみ書房開店

親しい方々が次々と古本屋を開店されました!!


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ツレヅレナルママニ(みどり文庫)
http://kturezure.exblog.jp


***


みつづみ書房
http://www.mitsuzumi-shobo.com


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by sumus2013 | 2016-05-07 08:43 | 古書日録 | Comments(2)

川崎彰彦傑作撰

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『川崎彰彦傑作撰』(中野朗・中山明展、二〇一六年四月九日、装幀・装画=粟津謙太郎)読了。早く紹介したかったのだが、やはりこのボリューム(A5判395頁)、簡単に読飛ばせなかった。つい引き込まれて読みふけったと言っていいだろう。

《「死後何年経ってからでもよい、短編集を出して友人たちが本を肴に飲む会を開いてくれるなら、これに過ぎる喜びはない」ーー川崎さんの夢がついにかないました。寡作の作家、二十二冊目の本です。
 川崎さんのパートナー当銘広子さんが本づくりを快諾、装幀は生涯の友人の版画家粟津謙太郎さんにお願いしました。関西での文学や酒の友だった中尾務さんや三輪正道さん、札幌の中野朗さんが散逸していた作品を集め、多くの人たちが力を合わせてつくり上げた一冊です。》(中山明展「あとがき」)

第一部遺言編、第二部傑作撰から成る。アンソロジーは難しいもの、正直、第一部遺言編を読み終ったころには、おや? これでいいのかなといぶかしく思った。しかし、目玉ともいうべき傑作選のI「少年〜大学時代」およびII「記者として」に突入するや俄然おもしろくなる。川崎彰彦というどうしようもない「破滅型」の男の人生にハラハラさせられ通しなのだ。

傑作撰」というタイトルもあまり好きではないにもかかわらず傑作撰」にふさわしい内容なのではないかとさえ思えて来たのだ。大きな山を越えた後は「大阪文学学校と酒」「同人誌の達人」というより抜きのエッセイ類で余韻を楽しむ。もちろん中野朗編略年譜も完備。読後感は「これぞ現代の円本(エンポン)!」。きわめて充実した一冊本選集だ。本体定価1852円! 間違いなく円本より安い。

めい展・じゃあなる(中山明展氏ブログ)

川崎は昭和二十一年に滋賀県の八日市中学(現八日市高校)に最後の旧制中学生として入学した。「どぶろくの詩」には当時の読書体験が記されていて興味深い。

《角は林田のぼくの家にきて親の本棚からドストエフスキーの「罪と罰」を借りて帰ったりもした。なまけ者のぼくは長い小説はかなわんのでガルシンの「紅い花」を読んで対抗したりもした。そういえば、なぜか「狂気」ということが二人のあいだでの共通の感心であり、憧れでさえあったのは頬笑まされる。》

《芥川の「河童」が話題になったこともある。ぼくは戦時中から改造社「新日本文学選集」の火野葦平集で「花と兵隊」や「糞尿譚」を愛読していたので八日市の金屋大通りに面した文英堂書店で、ある日、火野葦平の戦後の著書「石と釘」をみつけ、さっそく買って帰った。》

《ぼくは、この「石と釘」をずいぶん愛読したのに角良之助には話さなかったような気がする。当時、火野葦平を愛読しているとは大きな声で言えないような時代の空気だった。なにしろ兵隊三部作の「戦犯」作家なのであった。小田切秀雄ら「文学時標」の「文学検察」も始まっていたのではなかったか。やがて二人は「新日本文学」の読者になり、ぼくはそのほかに「人民的詩精神」を標榜する秋山清や小野十三郎らの詩誌「コスモス」などを大切に思うようになる。》

明日、書物関連の記事をもう少し引用する。

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by sumus2013 | 2016-05-06 20:46 | おすすめ本棚 | Comments(0)

失われてゆく、……

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マーティン・J・ブレイザー『失われてゆく、我々の内なる細菌』(山本太郎訳、みすず書房、二〇一五年七月一日)読了。めずらしく医学もの。あまりに身近すぎて知っているようで知らない細菌の世界。

《私たちは、裸眼で見るには小さすぎる微生物の惑星に暮らしている。三〇億年にわたって、細菌は地球上における唯一の生物だった。彼らは、陸地、空、水の隅々までを専有し、化学反応を駆動し、多細胞生物進化のための道を整えていった。私たちが呼吸する酸素や耕す土地、海を支える書物連鎖の網を作り出した。ゆっくりと、しかし、とどまるところを知らない試行錯誤を通して、細菌は複雑で堅固なフィードバック・システムを発明した。それは今日にいたるまで、地球上のすべての生命を支える基本システムとなっている。》

《ヒトの体は三〇兆個の細胞よりなる。一方、ヒトは、ヒトとともに進化してきた一〇〇兆個もの細菌や真菌の住処でもある。

《すべての細菌を合わせると、一人あたり約三ポンド、つまり脳に匹敵する重量の細菌がヒトに常在し、その種は一万に及ぶ。一〇〇〇種以上の動物を有する動物園はアメリカにはない。ヒトの身体の内外に棲む目に見えない「細菌動物園」は、より多様で複雑である。》

う〜ん……正直、そこまでヒトが細菌を飼っているとは、思いも寄らなかった。そして話は歴史的なペニシリンの発見へ。ロンドンの聖メアリー病院で働くスコットランド人アレクサンダー・フレミングの登場である。

《一九二八年八月、フレミングは休暇をとってフランスに出かけた。九月初旬にイギリスに帰ってきたとき、捨て忘れていたペトリ皿が何枚か残っているのを見つけた。ブドウ球菌が接種されたまま、それらの培養皿はフレミングが不在の間放置されていたのだった。フレミングがそれらを破棄しようとしたとき、一枚のペトリ皿が彼の目を引いた。そこには青緑のワタ埃のようなものがまばらに生えていた。パンによく生えるカビの一種、ペニシリウムである。フレミングは、培養皿に密集しているブドウ球菌の菌叢が、そのカビの周囲で消えていることに気づいた。カビの周囲にはある種の環形の細菌不在地ができていた。まるでそこに、ブドウ球菌の増殖を防ぐ何かによって線が引かれたかのように。
 フレミングの訓練された目は、何が起こったかを一瞬にして理解した。カビは、やはりアガロースを好む真菌の一種で、アガロースのなかに広がってブドウ球菌を殺す「物質」を産生していた。この物質は最初に発見された正真正銘の抗生物質であった。

フレミングは実用化には成功しなかった。しかし第二次大戦の勃発とともに殺菌効果を持つ薬剤を開発することが急務となり、その結果ペニシリンに注目が集まる。ペニシリンを産出するカビの収集が熱心に行われた。

《一人の主婦が持ち込んだカビの生えたカンタロープ〔メロンの一種〕が歴史を変えた。このカビは、一ミリリットルあたりペニシリン産生量が二五〇単位にも達した。さらにその変異株のひとつは、一ミリリットルあたり五万単位もの産生量を達成した。今日ペニシリンを産生するすべての株は、この一九四三年のカビの子孫である。》

《私たちヒトにとって、抗生物質は原子爆弾を手に入れたようなものだった。光景は根本的に変った。興味深いことに、両者は同時にもたらされた。一九二〇年代から三〇年代の科学の進歩が、四〇年代の展開をもたらしたのだ。》

《原子爆弾にしても抗生物質にしても、それは道具(手段)であり、人間同士の、あるいはヒトと細菌の間の戦争の根本的な原因はなくなってはいなかったのだ。》

《二〇世紀後半から今日まで続く医学上の偉大な進歩の大半は、抗生物質の開発によって触媒されてきた。その使用が害を及ぼすことなどありえない。少なくともそう見えた。不都合な影響が現れるのは、後のことである。》

不都合な影響……著者は帝王切開のときに用いられる抗生物質が新生児に与える影響、あるいはピロリ菌の功罪について語る。

《ピロリ菌保有率が低下すれば、胃がんの割合は低下するだろう。一方、食道腺がんの割合は上昇する。古典的な意味でのアンフィバイオーシスである。》

また細菌を殲滅する不利益についてこう述べている。

《悪いことには、私たちは「抗生物質の冬」に向かっているのかもしれない。レイチェル。カーソンの『沈黙の春』からの演繹である。そこで彼女は、鳥たちが殺虫剤によって絶滅しうると予測した。私たち人類も今、同じ道をたどろうとしているのだろうか。》

では、どうすればいいのか、今世紀に入ってからフランス政府がとった政策がひとつの示唆となるようだ。それはどんなものか?……ということは本書をお読みいただきたい。




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by sumus2013 | 2016-05-05 17:42 | 古書日録 | Comments(0)

稱心獨語

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『渡邊一夫/装幀・画戯/集成』(一枚の繪、一九八二年六月一〇日)のちらしを頂戴した。深謝です。これまで渡邊一夫の装幀本はかなりの数を紹介してきたが、改めて調べてみるとこの集成そのものは紹介していなかった。

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本日紹介しようかとも思ったが、カンタンには言及したくないのでいずれそのうち。上のちらし、裏面は白で何も印刷されていない。

ちらしと同時に渡邊一夫の装幀本、加藤周一『稱心獨語』(新潮社、一九七二年九月三〇日、装幀=渡辺一夫)も恵投いただいた。渡邊本はある程度架蔵しているのだが(『書影の森 筑摩書房の装幀1940-2015』にも架蔵本を利用した)、これはまだ入手できていなかったので嬉しい。

緑が函、黒っぽいのが本体の表紙。四つ目綴じに見えるのは模様である。角背、地券表紙(セミハード・カバー)。

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加藤周一『稱心獨語』を本占いのようにあてもなくパラッと開いてみた。せっかくだからどこか本文を引用しようかと思ったのだ。開いたのは「日本語 I」というエッセイの二頁目だった。日本語では主語を省くことが多いことについて考察している。主語を省く日本人は「主語・主体・自我を意識することが少ない」というのは正しいだろうか? と疑問を投げかける。

続いてチョムスキーの『デカルト的言語学』の一部を引用する。

《たとえば「眼にみえぬ神が、眼に見える世界を創った」という文章(甲)は、実は、次の三つの文章(乙)から成る。すなわち「神は眼に見えぬ」「神は世界を創った」「世界は眼にみえる」ーー。
 チョムスキー氏は、この文章(甲)を言語の「浅い構造」と名づけ、文章(乙)を「深い構造」と名づける。

「深い構造」は、すなわち人間の思想の構造にほかならず、言語によってちがわない。それが「ポール・ロワイヤール文法」の考え方である。「深い構造」の普遍性は「証明されたものではない。しかし今日の言語学的知識で否定すべき理由はない」とチョムスキー氏はいうのである。
 日本語の文章に主語がはぶかれることが多いというのは、「浅い構造」についての話である。そのことがただちに「深い構造」でも主語がはぶかれている、ということを意味するのではない。

という理由でもって日本人が会話に主語をはぶくことが多いから主体を意識することが少ない、というすべての議論は、誤っていると加藤は結論する。しかし、この例文(甲)は日本人であっても主語を省きようがないわけだから、何の証明にもなっていないような気がするのだが?

これに続いてカミュの言葉を引いてくる。

《私はアルベール・カミュ氏に生前一度だけ会ったことがある。それはガリマール書店の事務室でのことであった。何を話したのかもうほとんど忘れてしまったが、小説についての一語だけは覚えている。「なぜ小説を書くかって? 小説だけが翻訳の可能な形式だからですよ」。私はこの意見に賛成する。》

そうなのかな……。

《アドルノの論文集のなかには、ヴァレリーの美術館についての実に美しい文章が独訳で引用されているところがある。独訳は仏語の原文の味を充分に伝えている。私はたわむれにその和訳を考え、それが途方もなく困難な事業であることをあらためて感じた。
 小説ならば、少なくとも話のすじを訳することができる……》

そんな、馬鹿な。プルーストの小説が和訳しやすくてヴァレリーのエッセイが難しいということはないだろう。ちょっとがっかり。



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by sumus2013 | 2016-05-03 20:00 | 古書日録 | Comments(0)