林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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安吾に怒られる

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とっくに取り上げていると思ったが、まだアップしていなかった太宰治『人間失格』(筑摩書房、一九四八年七月二五日、装幀=庫田叕)。石井立の編集本。この本は何冊も買ったが、買った回数だけ手放した。今残っているのは少々状態が悪い。しかし何と見返しには浅草御蔵前書房のレッテルが! 筑摩書房の真向かいにある渋い古書店。

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もう少し石井のことを引用したい。筑摩書房の手違いから坂口安吾の『信長』(一九五三年五月一五日)の印税が税務署に差し押さえられたことがあった。そのとき安吾は激怒したらしい。それに対する石井の詫び状の下書きが残されている。

《小生編集者生活七年になりますが、今日ほど怒られて心肝に徹すると同時に、心がカラッとした思いを味わったことは初めてです。以前から、先生の反俗的な文学が好きでしたが、今日初めて「反俗」ということをわかり直したような気がいたします。これほど痛快で全く一言もない怒りにあったことは、初めてです。》

《五月中に、僕は七冊の本を出す責任を負わされました。それが出せなければ筑摩がつぶれるというのです。七冊の本を出すということは、いわば殺人的です。人間的な気持ちが失われたと思います。しかし、僕は自分の気に入った本を、気に入った形で自分の理想通りにして出すことがとにかく好きなので、文句をいわず全力を盡しました。結局五冊であとは六月上旬に廻りましたが、それにしても五日に一冊の割です。僕は凝り性なので、一冊一冊に心をこめて作ります。先生の本も、そういっては何ですが、先生の今までの本のどれよりも美しく立派に(筑摩の事情が許せるかぎり)用紙などもいろいろ考え、校正も校正部に當せた外に二度やって会心の出来だったと、自分は思っているのです。そんな自負も一つはありました。》

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税金のことで激怒するのが「反俗」なのかどうか……それはともかく、この時期(昭和二十八年前後)の筑摩書房の厳しい編集事情がよく分る内容である。敗戦直後の出版ブームが去ってとにかく点数でかせがなければならない、そんな様子が見えるようだ。

石井立が古本者だったらしいことは壷井栄の追悼文(「軽井沢の石井さん」)に次のようにあることから想像できる。

《以来石井さんには仕事の上でずっとお世話になりっぱなしで、初め15巻で出発した私の作品集が25巻になったりしたのも、石井さんの力添えなしに考えられないと、今でも思っている。あとの十巻では苦労が多く、全然見当もつかなくなった行方不明の作品を古本屋でさがしだして下さったり、図書館へ写しにいって下さったりして、やっと出来上がったのであった。》

石井の遺品のなかには絵画資料も少なくないようだ。小熊秀雄のデッサン、難波田龍起のタブロー、中川一政(『信長』の装幀原画他)、硲伊之助の挿絵原画、そして驚くのは麻生三郎の裸婦デッサンと挿絵四点(未使用?)である。石井の絵画的センスの良さを感じさせるコレクションだ。

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麻生三郎画


麻生三郎は本の仕事を多く残している。神奈川県立近代美術館鎌倉別館では「麻生三郎の装幀・挿画展」が二〇一四年から翌年にかけて開催されたようだ。見たかった。

『帖面』

麻生三郎『イタリア紀行』

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ひとつ残念なこと。「できるかぎりよき本 石井立の仕事と戦後の文学」には石井立のポートレートが掲載されていない。桜桃忌に撮影された記念写真などがあるようなのでいずれ確認してみたいが、『別冊太陽 太宰治』(二〇〇九年)ではキャプションで檀一雄と間違えられているそうだ。

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by sumus2013 | 2016-05-30 20:54 | 古書日録 | Comments(0)

太宰さんの死

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石井立の手がけた小山清の著作



一覧表を見ると、石井立の編集した書籍にはなじみ深いものが多い(もちろん古本者としては、である)。例えば、太宰の『人間失格』はもちろん、渡邊一夫装幀の『中野重治選集』など大好きな本だ。

中野重治選集

他に『井伏鱒二選集』、『中島敦全集』、『小熊秀雄詩集』、坂口安吾『信長』、そして小山清の『小さな町』『犬の生活』『幸福論』『日々の麺麭』、森茉莉『父の帽子』『靴の音』、石川淳『諸国畸人伝』、原田康子『廃園』、萩原葉子『父萩原朔太郎』……さらに佐多稲子、壷井栄、金達寿らの作品をも手がけている。

しかしやはり太宰治との関係は特別であったらしい。石井立資料の中には太宰の自筆資料(『井伏鱒二選集』のための作品選択メモ)や太宰作と見られる油絵までも含まれている。

青柳瑞穂「太宰君の思い出」にはこうある(以下引用文はいずれも「できるかぎりよき本 石井立の仕事と戦後の文学」による。「,」を「、」に換えた)。

《終戦後、僕は太宰君に二度しか会っていない。
 去年(昭和22年)の十月頃だったろうか。一度会って話したい。痛飲したい、というハガキを貰った。そして、太宰君の居場所を必ず知っているという人の住所も教えてくれた。私はその案内人につれられて行ったら、》《今、思えば、これが富栄さんのお部屋であり、そして、その人もたえず僕たちのそばにいた。》

「その人」が石井立であることは言うまでもないが、ここまで太宰に信頼されていた。また井伏鱒二は次のように書いているという(「をんなごころ」)。

《私のそばに、筑摩書房の石井君といふ若い記者が雨にぬれながら青ざめた顔で立ってゐた。この記者は、太宰君に師事してゐた人である。
 「君、遺骸を見ましたか」と私は、石井君に傘をさしかけて囁いた。
 「見ました」と石井君は、ひくい沈鬱な声で云った。「僕が、太宰先生の遺骸を、川から担ぎ上げたのです。太宰先生は、両手をひろげてゐました。」
 石井君は能面のやうに表情を強ばらせて、もうそれっきり黙りこんでしまった。泣くまいと努めてゐたのだらう。さつきから異様なにほひがしてゐたのは、石井君から発散してゐたことがわかった。私はマレー戦線で散々このにほひを嗅いでゐる。》

その石井は太宰の死についてこう考えていた(ショーペンハウエル『自殺について』の解説)。

《太宰さんの死は、全く予期されなかったことではなかったとしても、いや、むしろ、おぼろげに予感されたことであったから、そのことの突発した時、僕は、それこそ全身的なと云ってよいほどの大きな衝撃を受けた。このような魂の底からのすさまじい震撼を、僕は、それまで全く知らなかったし、また、これからの生涯においても、ふたたび、体験することがあろうとは思われない。》

《太宰さんの言葉を借りれば「苦悩する能力を有たない」人は、つまり真の思想家でない人は、太宰さんの死について云々する資格はない》

《僕は思い出す。『人間失格』が、まだ書かれなかった頃、「すべては過ぎ去って行く。すべては過ぎ去って行く。ーーこれだけなんだ」と云われたことを。僕が、ふと「ショーペンハウエルも、そんなことを云っているようです」と云ったら、「そうかね、誰でも、そうなのかね」と何気なく云われたことを。》


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石井立所蔵の油絵(太宰治作とみられる)

太宰治「自画像」1947
http://www.aomori-museum.jp/ja/exhibition/26/


太宰に師事と言えば小山清だが、小山とも親しかったようだ。石井が参加していた『木靴』は小山清の主宰する雑誌である。

《木靴発足時の小山清から石井立宛ての昭和30年11月5日の書簡が遺されている。「れいの同人雑誌のこと、一万五千円位で五十頁の雑誌を印刷してくれる所が横浜にあるとのこと。毎月、五百円位の会費で年四回は出せさうです。そこで、その打ち合わせ会を、十一月十三日(日)午後一時より、拙宅でやりたいと思ひますから、若い連中ばかりなので、是非、貴兄に来ていただきたいと思ひます。」
 『木靴』のなかには、石井立の自宅が発行所になっている号もある。石井立が、太宰治の弟子小山清をいかに大切にしていたか、がよくわかる。》

この時期、小山清の単行本が筑摩書房から次々刊行されている理由が分ったような気がする。石井立の大きな足跡のひとつであろうと思う。

ツリーハウスの小山清

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by sumus2013 | 2016-05-29 21:14 | 古書日録 | Comments(0)

石井立の仕事

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『北海学園大学学園論集』145号(北海学園大学学術研究会、二〇一〇年九月)および146号(二〇一〇年一二月)に掲載された「できるかぎりよき本 石井立の仕事と戦後の文学」前編・後編のコピーを頂戴した。きわめて興味深い内容だ。

検索してみると石井立の人物についてはこの記事がまとまっている。

石井立:昭和文壇支えた編集者魂

「できるかぎりよき本 石井立の仕事と戦後の文学」の執筆者は石井耕、石井牧、平賀美穂、石井樹の連名である。

《本稿は,石井立の遺した資料のうち主要なものおよび多くの方々が書かれた石井立に関わる文章を編集したものである。資料は,石井立自身の判断で手元に置いてあったものと考えられる。それを,妻・石井道が大事に保管し,一部整理をはじめていた。石井道も亡くなり、石井耕、石井牧、平賀美穂の三人の兄妹で,今回の整理を行った。孫の石井生・石井樹も手伝った。文章は石井耕と石井樹で執筆した。》

まずは石井立(いしい・たつ)の年譜をかいつまんで引用しておく。主な典拠は『木靴』17号(石井立追悼号)とのこと。

1923年2月19日 石井正とモモヨの長男として神奈川県横須賀市に生まれる。
1929年4月 大向小学校入学。
1935年4月 麻布中学校入学。
1940年4月 弘前高等学校入学。
1943年4月 京都帝国大学文学部入学、西洋史学を専攻。
   12月 学徒出陣により宇治火薬廠の役務に服する。
1946年9月 京都帝国大学文学部卒業。大阪府池田中学校勤務。上京して大地書房に勤務。雑誌『白鳥』の編集に従事。
1947年6月1日 筑摩書房入社。
1948年以降 父・石井正とともにショーペンハウエル『幸福について』『自殺について』『死について』などを翻訳。創元社より刊行(後に角川文庫)。ショーペンハウエルについての論考を発表する。
1954年3月 詩集『雞のうた』を自選刊行。
1956年 同人雑誌『木靴』に参加。
1959年2月〜1960年2月 鎌倉・額田保養院入院。
1960年10月 再入院。
1962年 玉川病院入院。
1963年 軽井沢病院へ転院、玉川病院へ再入院。
1964年1月3日 慢性肺性心のため日産厚生会玉川病院にて死去。享年四十。

年譜の次には筑摩書房で石井立が関わった書物のリストが掲載されている。雑誌『展望』の編集からスタートし、最初に手がけた単行本は太宰治『ヴィヨンの妻』(一九四七年八月五日、林芙美子装幀)である。太宰とはかなり親しく付き合っていたようだ。それらについては明日。

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by sumus2013 | 2016-05-28 21:04 | 古書日録 | Comments(0)

造本装幀コンクール受賞

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日本書籍出版協会主催「第50回造本装幀コンクール」受賞作が発表になりました。書影の森 筑摩書房の装幀1940-2014』(みずのわ出版、二〇一五年)が日本書籍出版協会理事長賞(専門書部門)に選ばれました。

第50回 造本装幀コンクール受賞作決定!



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by sumus2013 | 2016-05-28 08:54 | 装幀=林哲夫 | Comments(6)

古松蔵書その後

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「古松蔵書」という蔵書票が貼付された阿部六郎『深淵の諸相』を買った話を書いたのは昨年の二月だった。

蔵書票「古松蔵書」

十年ほどもブログをやっていると取り上げた古書や資料に直接つながる方々よりお便りやeメールをいただくことが時折ある。インターネット上で家族や先祖の事蹟を検索する人たちが少なくないようだ。ごく最近も上のような巻き紙のお手紙を「古松蔵書」の古松貞一氏のお嬢様より頂戴した。差し障りのない程度(全体的にさしたる障りはないが)に父上に関することなどを引用させていただく。

《もう少し前になりますが、他界致しました藤本東一郎は又従兄弟でございます。又、父の若かりし頃は藤田嗣治様に父のトレードマークのマドロスパイプを片手に持つ肖像画を画いて頂き書斎に掲げてありました。父は画家が好きで私の物心のついた頃から毎月「みづゑ」という雑誌を購入しておりました。》

《京大の教室四教室ぎっしり位の本を所蔵しており 古松蔵書が貼付してありました 専門外の俳句辞典や民族辞典などもあり学生時代には図書館に行かず調べものが出来ましたことは今思いますと 幸せだったと思います

《左京区北白川の京大人文科学研究所のごく近くに居住しておりましたので のんびりと余生を送っておりました、本当にお心にかけて頂きましたこと父に変わりお礼を申上げます、昔はすべて口伝でこざいましたので今のようにすばらしい現代文明によるもので後世に残ること不思議に思います》

すでにご高齢でいらっしゃるようだが、お元気でご活躍のご様子である。思いもかけず、なつかしき良き時代の香を届けていただいた。

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by sumus2013 | 2016-05-27 20:41 | 古書日録 | Comments(0)

筑摩書房創業50周年

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『有隣』260号(有隣堂、一九八九年七月一〇日)には「座談会 筑摩書房 志の出版 50年目の再出発」という記事が巻頭に組まれている。出席者は鶴見俊輔、関根榮郷(筑摩書房管財人・代表取締役)、森本政彦(筑摩書房専務取締役・編集部長)、司会は松信泰輔(有隣堂社長)。この時点から二十七年を経ているわけだが、それはそれで興味深い内容である。

上のスケッチを描いている阿部合成は青森中学で太宰治と同級であり親友だった。京都絵画専門学校へ進み入江波光の指導を受けた。『人間失格』のモデルだという。昭和十五年、創業当時の筑摩書房の住所は東京市京橋区銀座西六ノ四。

《関根 (略)来年は筑摩の五十周年に当ります。一九七八年に約三十五億の負債を抱えて倒産し、十五年間で全額返済するという更生計画を立てました。以来約十一年、滞りなく弁済してきまして、昨年あたりの実績は、『ちくま文学の森』とか文庫や単行本等も好調です。》

たまたま都内の土地高騰で、本社の物件を比較的いい値段で買っていただくことになりました。まだ十五億の債務が残っていますが、その売却代金のなかで一挙に返済することが可能になりました。

移った先は蔵前のマスダヤビル六・七階である。

《倒産時には約二百名余の社員がおりまして、人件費のカットは相当乱暴に三五%の賃金カットをやりました。人員整理も希望退職を募集し、組合も協力してくれました。》

このとき吉岡実も筑摩を退いた。

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後半の談話では鶴見俊輔さんの発言に目が止まる。オルテガの『大衆の反逆』を援用しつつこう分析する。

《つまり、創業時に発行した三点、『中野重治随筆抄』、宇野浩二の『文藝三昧』、中村光夫の『フロオベルとモウパツサン』はもちろんだけれども、戦争中の四、五十点はみんな五百部、千部の用紙の割り当てがあるかどうかということが問題だったのが、そんなことは全部忘れられているような状態が、倒産前の約十年だったと思うんです。》

《筑摩のサイズは初め、古田晁、臼井吉見、唐木順三の三人だったのが、どんどん膨張して最後は二百人。あるところで大きな計画をやると、そこは労働強化になるから、ピューッと人を入れる。そうするとサイズは大きくなる一方で、コントロールができないほどの惰性が来る。これが倒産のすべてですね。》

《一万や二万は本じゃないというようなフワッとした感じが社内に出ると怖いんですよね。それならどうして石けんか何か売りにいかないのか。石けんは同じ顔をしているけれど、本というのは一人にとっての本なんです。それを忘れたら、出版はやらないほうがいいと思います。》

究極の正論だ。もうひとつ、鶴見さんが古田に初めて会ったときの印象を語っているのも面白い。古田の人柄が如実に現れている。

《昭和三十四年に、私は金町に住んでいたんですが、家にいたら、ガラッと戸が開いて、色の黒い年配の知らない人が入ってきた。それで「筑摩書房の古田です」って。会ったことがないんだ。で「ちょっと……」といって、オールドパーを置いたんです。年末ですから。彼は私が酒を飲まないことを知らないわけ。金町まであのころ来るって、大変でした。私は認識も全然なかったし、あとで考えてみると、筑摩書房の社長なんだな。それで、何となくオールドパーをそこへ置いて、サッと帰っちゃった。会ったのは一分半か二分。何ともいえない恥ずかしそうな表情をしていたの、彼は。》

鶴見さんは古田のはにかみを会社に個人がいる証拠だと見た。《個人がいなくなった会社にはどういう意味があるか。それが問題なんですよ》。ただし筑摩の倒産は古田の個人的な責任ではないのかと思わないでもない。個人を離れたクールな経営ができていれば……それがいいかどうかは、また別の問題だが。

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by sumus2013 | 2016-05-26 20:53 | 古書日録 | Comments(0)

嬉遊曲

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『嬉遊曲』(発行=嬉遊曲の会、印刷所=世田谷区梅丘一の二四の二 七月堂)という雑誌の1(一九八五年二月七日)、2(一九八六年三月一五日)、3(一九八七年九月一日)を頂戴した。添えられていたメモにはこうあった。

《検索しても、まるで出てきません。雑誌の狙いがもうひとつわからない?印象で、ネット時代直前の、しかしなにか昂った気分はあるようです。七月堂はこの少し前に朝吹亮二、松浦寿輝らの「麒麟」を出していて、たしかユリイカの「詩集の作り方」特集には「ヘンな雑誌は、申し込まれてもやらなかった」と書いてあった筈なので、この「嬉遊曲」は、ヘンな雑誌ではないのでしょうが。》

ヘンな雑誌ではないですね。真面目な雑誌である。同人は岩崎章、梅沢郁雄、大神田丈二、大野多加志(中村三吉)、瀬戸隆文、高遠弘美、橋本克己(水戸紺鳥屋)、泉川清、原田脩子(原田七江)、村岡正明、山本光久……以上1号。2号は泉川清が消えて野田研一、橋本清一が加わる。3号では泉川が戻って、清水明が加わり、梅沢、橋本清一、村岡、山本の名前が消えている。都合十四名の同人を数えたことになろうか【泉川清と橋本清一は同一人物と御教示いただきましたので十三名でしょうか】。

1号は高遠弘美・橋本克己の両氏が編集担当である。たまたま面識のある高遠氏にこの雑誌についてうかがってみた。高遠氏は文字面を四角にまとめた詩作品を発表しておられる。

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《大学院の後輩の橋本克己や大野多加志らと、たまたま始めた雑誌でした。三号雑誌の名前通り、三号で終はつた雑誌でした。他の執筆者は、私たちの何らかの知り合ひでした。》

というお返事をいただいた。じつは3号には担当編集者である大神田氏から野田氏に宛てた手紙(ワープロで書かれているのが何か懐かしい感じ)が挟まれていた。高遠氏によれば《野田さんは、大神田さんの立教の先輩です。しばらく金沢大学の先生をしていました。大神田さんと私は都留文科大学の非常勤講師時代に仲よくなりました。野田さんは今は立教の先生、大神田さんは山梨学院大の先生です。》ということで、手紙の内容は文学への熱い思いが語られている。私信なので引用するのもいかがなものかとは思うが、差し障りのなさそうなそれでいて本質的な文章を引いておきたい。発表を考えずに黙々と書き続けられた作品が後世において昭和文学の位置を決定するという中野好夫の意見を引用した後、こう続けている。

《ぼくらが発表を考えずにものを書けるほどの内容をもっているものかどうか、知らない。が、だとしたら、ぼくらは発表することを考えながら文章を書いてもいいわけだ。例えば個人雑誌を作って、誰にも読まれなくても書きつづける、これの方がよほど健康ではないのか。》

ちょうどTVドラマの「重版出来」を観ていると(漫画雑誌の編集部が舞台)、新人賞はとったもののそれ以後は万年アシスタントで漫画家になれない男性がついに郷里へ帰るという話をやっていた。編集者に自分の作品が理解されなかったためデビューの機会を逃し続けたという設定になっている。しかしこれはメジャー雑誌へのデビューということで、多くの人に受け入れられる作品が前提の世界である。少数の読者に向かって、あるいは自分に向かって書き続けることは可能なのではないだろうか? あるいは未来の読者に向かって。漫画をやめてしまう理由としては納得できないなと思う。

昨夜、高遠氏のFBにこんな記事が投稿された。

《2012年11月2日、私がフランスにゐるときに急逝した若き友人、加藤雅郁さんの最後の仕事がやうやく日の目を見た。『フェティシズム全書』作品社、639ページ。4800円。加藤さん歿後、友人の橋本克己が引き受けてここまで形にしてくれた。加藤さんを偲ぶと共に、橋本の健闘に拍手を送りたい。》

『フェティシズム全書』作品社

同人雑誌仲間というのはやはり特別なものである。

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by sumus2013 | 2016-05-25 20:55 | 古書日録 | Comments(4)

コルビジェ?

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国立西洋美術館で最初に見た展覧会のひとつ。これがほんとうの最初かどうかははっきり思い出せないが、大学に入ってすぐに見たのは間違いない。その頃は日記もつけていなかったので正確なことは分らないにしても入学以前には訪問していないと思うのだが……あいまい。

コメント欄でご指摘いただいたように小生は無意識にコルビジェと書く派である。どっちでもいいやと思っていたのだが、せっかくだから調べてみた。国会図書館蔵書より。

・近世建築 第95号 コルビュジエ氏近作集 洪洋社 1928

・建築芸術へ ル・コルビユジヱ 宮崎謙三訳 構成社書房 1929

・形式主義芸術論 中河与一 新潮社 1930 コルビジエの橫柄

・建築學研究 147 1948-09 ル・コルビジエ / 木田幸夫

・伽藍が白かつたとき ル・コルビュジェ 生田勉, 樋口清訳 岩波書店 1957

コルビジェの手紙 山田あつし 環境建設設計 1981

現在ではコルビュジェと書く方が優勢のようである。フランス語の発音を聞いても日本人の耳にはどちらにも聞こえるように思う。

「Le CORBUSIER」というのはペンネーム。本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリ(Charles-Edouard Jeanneret-Gris)。スイス生まれ。一九二〇年に画家のオザンファンと二人で『レスプリ・ヌーヴォ L'Esprit nouveau』という雑誌を創刊したが、そのときにこのペンネームを使い始めたそうだ。母方に南仏アルビ出の祖先がおり「ルコルベジエ Lecorbésier」と名乗っていた、そこから取ったとのこと。

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たまたま二〇〇四年に国立西洋美術館で開催された「建築探検─ぐるぐるめぐるル・コルビュジエの美術館」展のちらしを頂戴したので掲げておく。西洋美術館、何時以来のご無沙汰だろうか、増築してから二回?くらいしか訪問した記憶がないが、ちらしに載っている建物の細部の写真がなんとも懐かしい。そうそう、こういう不思議なスロープや階段があったあった。

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コルビジェ自身が自作について語る映像を集めた番組をYou Tube で見ることができる。



神奈川近美館長の水沢勉氏がFBにこんなことを書いておられた。

《上野の国立西洋美術館など「ル・コルビュジエの建築作品」が世界遺産登録勧告へ。・・・のニュースが駆け巡る。個人的には弟子の坂倉準三さんが先んじた、世界初の「無限成長美術館」モデル、1951年竣工の「鎌倉近美」の現状のほうがずっと「美しい」と思ってしまうのだが・・・》

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そうそう、鎌倉もわりとよく通った。ビンボー美術学生の身としては交通費(小平市の鷹の台から鎌倉まで!)が馬鹿にならないので頻繁に通うというわけにはいかなかったが。まだ土方定一館長の時代だったと思う。都心では見られないような展覧会が多かった印象がある。そうだ! ポール・デービス、これは間違いない。図録も買った(当時、図録を買うというのは小生にとってはかなり重い出費であった)。その他……何だったか、神奈川県近美のサイトで展覧会歴をチェックしてもあやふやだ。チケットはすべて保存してあるのだが、残念ながら郷里に置いてあってすぐに確認できないのが残念。

たしかにこの建物もオシャレだなと思った。西洋美術館よりは見やすかったし名前の通り近現代美術にも対応できる空間だった。ただし池を眺められるという構造がもうひとつピンとこなかった。作品を見る空間でどうして池や樹木を見る必要があるんだ? そんな疑問が浮かんだような気がする。若かったんだと思う。


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by sumus2013 | 2016-05-24 20:03 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

煎茶の流行と茶屋の発展

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若冲「売茶翁」(部分)


【『喫茶店の時代』正誤・増補 003 煎茶の流行と茶屋の発展】

21頁後ろから3行目

《ところが江戸時代に入ると、嵯峨天皇の在世以来途絶えていた煎茶が復活する。》

とあるところ

江戸時代に入ると、同種かどうかは別として、平安時代初期以来の煎茶が復活する。

に差し替える。

23頁に若冲「売茶翁」の図または田能村竹田の「高遊外翁像」を挿入する。若冲(一七一六〜一七八〇)は実際に売茶翁と親しくしていたのでこの面貌には信頼がおけると考えていいだろう。魁偉と形容してもいいような面構えではないか。ただ描き方としては中国風の型にはまった表現を残して格調を保っている。

竹田(一七七七〜一八三五)は売茶翁(一六七五〜一七六三)歿後の生まれ。若冲らによる既存の肖像画からインスピレーションを得たのだろうが、リアリティという意味では、実際にはこんな爺さんだったんじゃないかと思わせる深みがあるように思う。頭頂部の形とか禿げぐあいだとか、頬髭、のど仏から胸にかけての皺など非凡である。それでいて雅味を失わない。竹田の禀質だ。

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田能村竹田「高遊外翁像」(部分)



◉26頁2行目《と呼ばれる茶粥であろうか。》の次に以下の文章を挿入。

《奈良の茶粥の作り方は様々だが、米一水八〜十で炊き、煮上ってくると「茶ん袋」を入れてよくまぜ、余熱で仕上る。袋を取り出し少しさまして食べるのが本格的だという。「茶ん袋」には粉茶を入れる。他に東大寺には粥をザルでこしておもゆを除き、煎茶をかけて食べる「あげ茶」が伝えられている。【出典脚註=『あまカラ』四六号、一九五五年六月、二六〜三〇頁】また、和歌山県日高地方では番茶で白米を煮て作る【出典脚註=『あまカラ』七一号、一九五七年七月、六三頁】

《 九や三を二が連れて行く万年屋
という川柳がある【出典脚註=藐姑柳 (はこやなぎ)』(天明五年=一七八五)四篇】。これは厄年に当る人々が川崎大師に参詣することを詠んでいるのだが、女の厄年十九と三十三、男の厄年四十二、それぞれを略して詠んだところが手柄だろう。六郷川の西畔にあった万年屋は奈良茶漬けで有名だった。》

茶屋で食事を出すようになったのは明暦の大火(一六五七)以降のことだという。

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by sumus2013 | 2016-05-23 20:21 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

金利生活者になるんだ

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アルテュウル・ランボオ『酔ひどれ船』(新城和一訳、白樺書房、一九四八年一月一〇日)。白樺書房の主は矢野文夫。長谷川利行の矢野文夫である。

2012-06-15 古本夜話209 金鈴社と矢野文夫訳『悪の華』

本日、エンゲルスガールで鈴木創士さんが「ランボー入門」と題するトークを行ったので拝聴した。そう広くない町家の長屋を店舗にしているのだが、ほぼ満員御礼の盛況だった。鈴木さんらしいランボー話、ドラッグ話、遊郭話で盛り上がった。

トークから雑談に移ったあたりで先日「述語制言語の日本文化」で取り上げたランボーの「Je est un autre.」について質問してみた。「全詩集では、たしかカッコつけたんじゃないかなあ」との返答。帰宅して該当箇所(p477)を見ると

《というのも「私」とは一個の他者であるからです。》

鈴木創士訳『ランボー全詩集』

となっていた。苦心のカギカッコである。これはうまい意訳だと思うが、これだと三人称が生きてこない。翻訳不可能なのだから仕方ないけれど何か方法はないか……ないか、やはり。

トークのなかでランボーが十歳前後に書いた作文を鈴木さんが朗読した。上記全詩集に収められている。これがなかなか名調子だった(小生はまだ読んでいなかった)。

《どうして、と僕は考えたものだった、ギリシア語やラテン語を学ぶのか? 僕にはわからない。結局そんなものは必要じゃない! 試験に合格することなど、僕にはどうだっていい… 合格することが何の役に立つのか、何の役にも立たないだろ? それでも合格しなければ職は得られないと人は言うのだけれど。僕は職なんかいらない、僕は金利生活者になるんだ。たとえ職がほしかったにしても、どうしてラテン語を学ぶのか、この言語を話す者なんか誰ひとりいないのに。時たま新聞でラテン語を見かけることがあるけるど、ありがたいことに、僕は新聞記者なんかにならない。》

《ギリシア語に移ろう… この汚らしい言語を喋るやつなんか誰ひとりいない、世界中にひとりも!… ああ! いまいましいったらありゃしない! くそっ、僕は金利生活者になるんだ。教室の長椅子の上でズボンをすり減らすのはそんなに気持ちのいいことじゃない… 糞ったれだ!》

Premières proses Prologue II

ごく一部だけの引用では分り難いかもしれないが、十歳かそこらの子どもが書いたとしたら驚きだ。ランボーはもちろんラテン語もギリシア語もすばぬけてよくできた。金利生活者(ランティエ rentier)というのは主に国債の利子で生活する者、その意味が少年ランボーに本当に分っていたのかどうか、興味深いものがある。内容としては、大人ぶっていても、これはませた子供なら誰でも考える子供の発想である。しかし表現は全然子供らしくない。そこが凄い。

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by sumus2013 | 2016-05-22 20:58 | もよおしいろいろ | Comments(0)