林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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市川箱登羅日記

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『歌舞伎』第四号(歌舞伎発行所、一九〇〇年七月六日)。この雑誌は本日のお題とは関係がない。歌舞伎と名の付く資料はほとんど持ち合わせていないのだが、何かないかとさがしていたらこれが手に触れたというだけのこと。ただ明治三十三年発行の第四号はそうそうは見ないと思う。

ついでに中を覗いたら鏑木清方の挿絵二点が。清方は明治二十七年の十七歳頃から挿絵の仕事を始めている。しかし成長とともに挿絵だけでは物足りなくなってきた。『歌舞伎』のこの挿絵を描いた次の年になるが、仲間らと「烏合会」を結成し、挿絵ばかりでなく「本絵」(展覧会で発表するための作品)にも力を入れ始める。ちょうど青雲の志が胸に渦巻いていた時期だろう。いまだ後年の清方をこの挿絵から想像するのはやや難しいものの、何と言うか画筆のしなやかさはさすがだと思う。

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さて本題。『歌舞伎』は『歌舞伎』でも『歌舞伎 研究と批評』55(歌舞伎学会、二〇一五年一二月一〇日)。某女史よりこの雑誌を頂戴し、ほとんど必要最小限の知識しか持ち合わせていない分野なのでざっと目を通してすまそうと思っていたところ、おや、と目を惹く長尺の読物があった。

菊地明「市川箱登羅日記(四十九)大正三年六月〜七月」。読物ではなく日記の翻刻であった。これがまた巡業の日々におけるさまざまな出費をこと細かに書き記した内容で、なんとも貴重この上ないもの。しかも驚いたことに七月一日には讃岐の高松へ渡っている。これは中桐絢海の『観楓紀行』以来のうれしい収穫。

観楓紀行10 高松港

七月一日、市川箱登羅一行は尾道から高松へ向かう。汽船香川丸に一座残らず乗船(ただし船が嫌いな者は汽車にて出発……とあるが、どこかで船に乗らなければならない)、午後二時出船。午後七時五分高松港着。宿からの迎えの車あり(人力車らしい)。箱登羅一行は丸山旅館へ七時二十五分安着(どうです、この細かさ)。この日より日差しきびしく九十度以上。むろんこれはファーレンハイト(華氏温度)であるからセルシウス(摂氏)に直せば三十二度少々になる。

七月二日は金比羅参詣。今でこそ金比羅歌舞伎などと大流行りのようだが、徳川時代に繁栄した金比羅大芝居も明治以降はすっかり寂れてしまっていたようだ。日記には芝居小屋などについて一言も触れられていない。

七月三日 歓楽座初日。巡業中の演目はずっと「だんまり」「仙台御殿」「紙治」「鞘当」の五幕だったそうだが、この日は「だんまり」は省略された。初日は午前十時から幕が開く予定が遅れて十一時に始まり午後四時四十分に終っている。

七月四日 十一時半楽家入り。午後三時過ぎ帰宿。

七月五日 十一時半楽家入り。《此日日曜にて見物よし》。午後三時過ぎ帰宿。

七月六日 この日は宿や車夫、スタッフ全員に茶代・心付・祝儀を出す。

《堀越氏ニ連られ 我等 福之助 楠瀬 状書 留床 土手供いたし水野支店海水掛店へ行 夜食御馳走ニ相成 片原町道具や二軒へは入り 十一時帰宿致し直ク寝ル 入用 十六円種々出銭 外ニ二十八銭伊東立替 〆金十六円二十八銭 入金十五円成駒家ヨリ頂戴ス》

片原町は繁華街である。現在も長大なアーケード街として賑わっている。成駒家は初代中村鴈治郎。箱登羅の師匠。

七月七日 舞台が終ってから栗林公園を見物。

七月八日 《歓楽座千穐楽 是ニテ巡業終 此夜高松ヲ出立》 宿へ勘定する。宿の払い四円八十五銭。築港桟橋さんえ社より第十五宇和島丸に乗り込む。午後八時二十五分出船。

七月九日 午前二時過ぎ起きる。午前三時十五分神戸港へ着。四時過ぎ出船、六時過ぎ川口(大阪)へ着。電車から阪堺電鉄で帰宅。《高松滞在八日間入用 金二十四円九十一銭

大正三年の一円は今の三千円前後の感じではないかと思う。



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by sumus2013 | 2016-03-21 20:40 | うどん県あれこれ | Comments(2)

文人生活

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『季刊文藝學』第1号(京都文芸学会編、秋田屋、一九四七年三月一、装釘=庫田叕)。泉井久之助、吉川幸次郎、中西信太郎、青木正児、執筆。

これらに加えて大山定一「近代詩の問題」を収録する予定であったが、締め切りに間に合わなかったと「後記」にある。大山の原稿が遅いのは有名な話だったようだ。敗戦一年半、やっと自由に発表できる雑誌だというのに、ここでもやっぱりか、という感じがしないでもない。

大山定一『作家の歩みについて』

青木正児は「中華文人の生活」を寄稿している。「文人」とはどういうものかを懇切に例を挙げて説明してくれており、たいへん参考になる論文。どこかで既に読んだことがあるなと思って調べてみると『琴棋書画』(春秋社、一九五八年)に収録されていた。そちらをさきに読んだわけだ。

せっかくだから「文人」の成立という序論の部分だけメモしておこう。

・早く『詩経』大雅江漢篇には《告于文人》とあり、また『書経』周書には《追孝于前文人》とある。ただしこれらの意味する文人とは「文徳そなはれる先祖」である。

・「文筆のすぐれた人」という意味の「文人」は漢代に始まる。王充『論衡』超奇篇は《群書を采〓[手ヘンに叕]して上書(天子に上る文)奏記(公府に奏する文)を作る者を「文人」とし、精思して文に著はし篇章を連結して著書を成す者を「鴻儒」と為すと謂ひ、而して佚文篇には文人と鴻儒とを併せて之を「文人」と称し、「孔子は周の文人なり」とさへ大胆に言ひ放つてゐる。》

・魏(220〜265)の文帝『典論』論文篇ではすでに韻文散文をよくする者をもって「文人」と称しているからその頃には「文人」の意味がほぼ固まっていた。

・作家として生活する文人の始まりは戦国の末(前三世紀)楚国に起つた辞賦の作家である屈原である。

・後漢(25〜220)以来、お偉ら方の上書・奏記を代筆することが文人の仕事になった。

・また碑文をつくることが後漢に流行しはじめた。

・そのような状況を反映して『後漢書』にはじめて「文苑伝」なるものが登場する。

・漢末より詩が流行しはじめる。魏晉南北朝の間(220〜589)王侯により詩にたくみな文人が優遇されるようになった。同時に宴会で詩を作ったり互に贈答したりする風も盛んになる。「文酒の会」「詩の応酬」などと後に呼ばれるようになるが、この時代に文人の交游生活がひらけた。

・文人の隠遁生活ということもまたこのころ始まった。例えば晉(265〜420)の陶淵明である。

《上述の如く文人生活の発達を大観するには、官僚・幕賓・売文・交游・隠逸の五種が注目され、而して其れは略ぼ古今の文人の生活様式を概することが出来る。故に文人生活は漢魏六朝間に於て一通りの典型が備はつたと謂ひ得るであらう。》

さらに詳細な分析が続くがひとまずはここまで。

「青木正児全集月報1」

青木正児『琴棋書画』

淡斎主人訳、青木正児校註『通俗古今奇観』


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by sumus2013 | 2016-03-20 20:25 | 古書日録 | Comments(0)

詩人と本棚展

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トンカ書店で開催中の「詩人と本棚展」(〜3月28日)をのぞく。伊勢田史郎氏の旧蔵詩集を大放出中(五百円均一!)。


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ここに並んでいるのは約半数だそうで、会期後半では残りの半分も出品される予定。じっくり吟味していると小生の装幀本が三冊見つかった。左から夏目美知子さん、由良佐知子さん、安水稔和氏の著書。版元はいずれも編集工房ノア。


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詩人の本棚から二冊ほど求めた。そのうちの一冊は伊勢田史郎『詩集幻影とともに』(創元社、一九五九年六月二〇日、装幀=貝原六一)。創元社もこういう詩集を出していた時期があったんだなあと思いつつ。これまでに紹介した創元社の詩集というと下記の一冊があるくらいか……小林秀雄や中原中也の詩集も出しているけれど。

山本沖子『詩集 花の木の椅子』(創元社、一九四七年)

トンカさんより高橋輝次、渡辺信雄、加納成治の三氏のエッセイと詩が掲載されたプリントをもらう。伊勢田氏とともに『輪』の同人でもあった渡辺氏の詩「本の地層」の冒頭を引用してみる。

 借家住まいの詩人 I さんの本は
 畳の上に平積みされ
 玄関から部屋まで本の地層があった
 寝ころんで本を手にとると本
 捲っては詩が紙魚が
 這っていた
 愛すべき同人たちが
 眠っていて
 何千冊かの同人誌と詩集の断層に
 「小林」という印が押してある


また加納さんのエッセイ「〈詩〉のはじまり」がいかにも加納さんらしい。

《これらの詩集の中には、高名な詩人も、ただ一冊きりの詩集しか持たなかった詩人も含まれているのだろう。評価の高かった詩集も、誰からもかえりみられず、忘れられたままの詩集もあるのだろう。そのすべての詩集が、同じ価値を持つ詩集として、この本棚の前に立つひとの手に開かれることを、求めていると私は感じる。古本屋になってから、幾度か、現実に「詩人の本棚」を見る機会に恵まれた。いや、見ただけではない。私の手がその本棚の列の〈解体〉者となって、棚の本を取り出し、紐をかけたこともあったのだ。だがそれは〈解体〉だけではない、「詩人の本棚」から別の読者へ、別の棚へ移行するための橋渡しのいとなみ。そのために古本屋という職業はある。そう信じたい。》

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by sumus2013 | 2016-03-19 21:16 | 古書日録 | Comments(0)

戦後発展全国工業博覧会

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『大正十年写真通信』NO.90(大正通信社、一九二一年九月一日)より「京都岡崎公園の工業博覧会==鳥瞰全景」。

これが現在のどの場所に相当するのか? あれこれ調べてみるとどうやら「みやこめっせ」に当るようだ。以前このブログで引用した岡崎公園の写真にこれと同じ双子の三角塔が写っていた。

三條廣道辺り「都ホテルから岡崎公園方面を眺めた風景」

大正十年の工業博覧会とは「戦後発展全国工業博覧会」(1921年07月05日~年09月05日)である。

《会場の京都岡崎公園には、第1会場から第2会場までつくられ、場内にエレベーター付き約36メートルの納涼高搭が聳え、観客は会場内外を展望することができた。建物は本館ほか第1、第2、第3の工業館や工業別館もでき、南洋館、特許館、参考館、衛生館、演芸館などが建ち、台湾喫茶店もつくられた。余興として演芸館では南洋土人の曲芸や活動写真があって、打ち上げ花火や仕掛け花火は会場に興趣を盛り上げた。そのほか高空放射砲や戦車なども展示された。》(乃村工藝社 博覧会資料COLLECTION

上の俯瞰図は三十六メートルの高塔から撮影されたのだろう。

《明治・大正・昭和(戦前)にかけて、岡崎では数多くの博覧会が催されてきました。明治28(1895)年の第四回内国勧業博覧会と平安遷都千百年紀念祭を皮切りに、主だったものだけでも、大正4(1915)年・大典記念京都博覧会、大正10(1921)年・戦後発展全国工業博覧会、大正13(1924)年・万国博覧会参加五十年記念博覧会、大正14(1926)年・皇孫御誕生記念 こども博覧会(京都)、昭和3(1928)年・大礼記念京都大博覧会などなど。こうした博覧会や祭典が繰り返し開催されるなかで、岡崎は京都を代表するハレの場として発展していき、今もさまざまなハレのイベントが開催される場所となっています。》(【府大コラボ】博覧会時代の痕跡をさがせ!コース

『大正十年写真通信』NO.90には皇室、軍事関係の報道が多い。あとは労働争議もいくつか。そんななかでバートランド・ラッセル来日の写真があった。

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学者思想家と会見したと書かれているが、そのメンツはどんなものだったのか。検索してみると東京朝日新聞(1921年7月27日付)にその様子が報道されていることが分った。

吉江狐雁、石川三四郎、大杉榮、堺利彦、昇曙夢、桑木厳翼、姉崎正治、上田貞次郎、阿部次郎、和辻哲郎、北澤新次郎、鈴木文次、杉村楚人冠、新居格、与謝野晶子、福田徳三

なかなかのメンツ。『写真通信』では与謝野晶子とのツーショットに切り取られている。編集者の苦心がうかがえようか(朝日掲載写真は大杉と差し向かいの写真!)。詳しくは下記参照。

バートランド・ラッセルのホームページ



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by sumus2013 | 2016-03-18 21:02 | 古書日録 | Comments(0)

私の蒐めた木山捷平展

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『日本古書通信』1039号(二〇一六年二月号)に掲載された柘野健次「山里の古民家で開く企画展 : 私の蒐めた木山捷平展」のコピーを頂戴した。倉敷市で開かれる同展のチラシコピーも。

『日本古書通信』の記事は展示内容の紹介なので箇条書きにしておく。

・単行本11冊
・全集 講談社版、新潮社版、永田書房版 計11冊
・その他の著書 5冊
・関連文献 100冊
・初出雑誌 30冊
・直筆原稿 5篇
 「冬晴れて」「山つつじ」「留守の間」「三円で買える愉しみ」「あか電話」
・井伏鱒二宛木山捷平書簡1通
・河盛好蔵原稿「メクラとチンバの作者」

水川陶影記念館を開設した 柘野健次さん

『水川陶影記念館』へ来てみませんか


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by sumus2013 | 2016-03-17 20:01 | もよおしいろいろ | Comments(0)

小詩篇

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日本文学のシュルレアリスムを取り上げたとたんに鶴岡善久詩集『小詩篇』(書肆季節社=名古屋市名東区神里二の七三、一九七五年三月二〇日)が届いた。『薔薇祭』『手のなかの眼』につづいて三冊目、入手。これも政田岑生の本。名古屋時代である。限定三〇〇部、松永伍一宛署名入り。

鶴岡善久詩集『手のなかの眼』

鶴岡善久『日本シュルレアリスム画家論』

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 小詩篇


  *

 姫そぎそめし
 首くくりの
 くびすを返す
 嫁菜の胤かもしれぬ
 淵狂いする
 肉[しし]盛りの
 孕む春の山
 手斧ひきよせ
 毒茸狩りの
 むくむくと
 靴針のびる
 昼顔群れて
 さんざめきの
 尿[しと]張りの朧月のむつみ
 白牡丹落花しきりに
 雄蕊のけぞり
 舌一枚の生きぞこない
 雁かくし坂の
 花蕊枯れはてて
 骨透けきわまる
 ナジャの忌ごもり


ナジャとあるのだからシュルレアリスム詩と言ってもいいのだろうが、なんとなくそう言い切るのを躊躇させる感じがある。古典のスタイルに倚りかかっているためか、エロスの比喩がやや直接的なためか。なお、収録された詩のすべてに「小詩篇」というタイトルが付けられている。

三方折返しのジャケット、その紙質と色目、大きめの活字をべったり並べた本文組、ノンブルの位置や書体、奥付……いずれにも政田のこだわりが伝わってくる。湯川書房の本を思い出させる。

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by sumus2013 | 2016-03-16 20:34 | 古書日録 | Comments(0)

シュルレアリスム 日本文学篇

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『APIED』VOL.26(アピエ、一九一六年三月一日、表紙装画=山下陽子)。特輯は「シュルレアリスム《日本文学篇》」。日本文学におけるシュルレアリスムというのはほとんど真面目に考えたことがなかった。瀧口修造はよく取り上げているものの日本文学という観点ではない。日本美術におけるシュルレアリスムならこれまでも少しばかり取り上げて来たが。

速水豊『シュルレアリスム絵画と日本 イメージの受容と創造』

古賀春江「海」

日本文学におけるシュルレアリスムについて思いを馳せるいい機会になった。といっても大した考えは出て来そうもないが。本誌で寄稿者諸氏が言及しておられる作家と作品をざっと拾ってみると、おおよそのイメージはできあがるような感じはする。誰も瀧口修造や西脇順三郎を正面から取り上げていない。それがひとつのポイントか。

夢野久作『いなか、の、じけん』『犬神博士』「篠崎仁三郎」『氷の涯』
日影丈吉『鳩』『夢の播種』『泥汽車』
福永武彦「飛ぶ男」
海野十三「深夜の市長」「浮かぶ飛行島」「火星兵団
内田百閒「葉蘭」「作文管見」
川端康成『片腕』
佐川ちか「花」
安部公房「友達」
別役実「マッチ売りの少女」
稲垣足穂「薔薇 魔術 学説」[雑誌]
冨士原清一「CAPRICCIO」
春山行夫「詩と詩論」[雑誌]
幸田露伴「観画談」
井伏鱒二『鯉』
稲垣足穂「一千一秒物語」
森敦『意味の変容』

そして千野帽子による「中学生にすすめたい、文庫で読める「シュール」な日本の短篇小説二〇選」は……本誌にて直接ご確認いただきたい。


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by sumus2013 | 2016-03-15 20:45 | おすすめ本棚 | Comments(0)

夢と人生

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『写真史150年記念 写真に見るフランス』(西武百貨店、一九八九年)展図録より。「旧フロールの館とテュイルリー公園」(ショワラとラテル、一八四〇年代)。ネルヴァルが《荒涼とした空に黒い太陽と、チュイルリイの上に血のやうに赤い球を見るやうな気がした》と書いたその現場である。手前の建物はセーヌ河に面したルーヴル美術館の一部。

昨日はパリを歩き回る描写だけを紹介したが、今日はそれ以外の印象的なパッセージを引用しておく。ネルヴァルは療養所の自室の窓から街路を眺める。そこは小さな村落のようであった。

《私は此処に、自分の様々な財物の形見一切、廿年来散逸し或ひは転買した多くの家具家財の雑然とした残骸を見出した。之はファウスト博士の物置場のやうな風であつた。》

詳細はくだくだしいので省くけれどもその最後にこうある。

《要するに、私は自分で最後に所有してゐたものの殆ど全部を此処に見出したのであつた。私の蔵書、ピコ デラ ミンドラや賢人ムールシウスやニコラウス クザヌスの霊を悦ばせるが如き、あらゆる時代の学問の奇怪な累積、歴史、紀行、宗教、カバラ、占星学、ーー二百冊より成るバベルの塔、ーー人々はこれ等そつくり私の手許に残して置いてくれた! これには賢人を狂人になし得るものがあつた。狂人を賢人になし得るものも亦あるやうにしたいものである。》

《Mes livres, amas bizarre de la science de tous les temps, histoire, voyages, religions, cabale, astrologie à réjouir les ombres de Pic de la Mirandole, du sage Meursius et de Nicolas de Cusa, – la tour de Babel en deux cents volumes, – on m’avait laissé tout cela ! Il y avait de quoi rendre fou un sage ; tâchons qu’il y ait aussi de quoi rendre sage un fou.》

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「ポーズをとる子馬に乗った皇子」(マイヤーとピアソン、一八五九年頃)《画面のナポレオン三世(右)と馬丁の姿(左)は、完成したポートレートからは除かれたと思われる》(『写真に見るフランス』より)


これに次ぐ描写のなかで驚かされたのは経鼻経管栄養の描写である。

《漸くにして私はこの暗鬱な観照から引き離された。実に好い私の医者の優しい同情の籠つた顔が、私を生者の世界に返した。彼は私に非常な興味を覚えさせた光景を見せてくれた。患者の中に元アフリカの兵隊だつた一人の若者がゐて、六週間以来拒食をしつづけてゐた。長いゴム管を鼻孔に差し込んで、そこから可成り多量の碾割麦かチョコレートを胃中に流し込んでやるのであつた。》

《Je fus enfin arraché à cette sombre contemplation. La figure bonne et compatissante de mon excellent médecin me rendit au monde des vivants. Il me fit assister à un spectacle qui m’intéressa vivement. Parmi les malades se trouvait un jeune homme, ancien soldat d’Afrique, qui depuis six semaines se refusait à prendre de la nourriture. Au moyen d’un long tuyau de caoutchouc introduit dans son estomac, on lui faisait avaler des substances liquides et nutritives.Du reste, il ne pouvait ni voir ni parler et rien n’indiquait qu’il pût entendre.》

なお訳者佐藤正彰が用いたテクスト(バシュランのベルヌウアル全集版)とここで引用している原文(http://www.biblisem.net/narratio/nervaaur.htm)とは若干異なる。後者には《可成り多量の碾割麦かチョコレート》という具体的な内容を示す文は見えない。それにしても、この時代から経鼻経管による栄養投与法があったとは思いもしなかった。

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「皇帝に敬礼」(シャルル・ネグル、一八五八〜五九年)《8月15日はナポレオン一世の設けた皇帝の祝日。ここではヴァンセンヌの労働者のための施療院で祝われた》(『写真に見るフランス』より)。パリの百姓達(les paysans)というのはこう風体だったのだろうか? あるいは施療院の衣なのか。


もうひとつ、訳者の「解説」にプルウストに関する言及があったのにも少し驚かされた。

《作家としては、彼と多くの共通点を有する恐らく現在までの廿世紀最大の作家たるマルセル プルウストは、彼を十九世紀の三乃至四の最大作家の一人に数へてゐることを以て、すべてに代へよう。》

《とにかくこれが極めて独自な小説ーーやがてプルウストに到つて燦然と開花する小説の一ジャンルであると云ふだけにしておく。若しプルウストの『失ひし時』が小説でないと云ふならば『夢と人生』も小説には属さぬかも知れぬ。》

この岩波文庫は昭和十二年発行だから、この時点ではまだ『失ひし時を索めて』は全訳されてはいなかった。しかしながら作品社から昭和九年に『プルウスト研究』四冊が刊行され、また同時に何人もの学者たちが、それぞれ独自に、その難行に取り組んでいた。岩波文庫にも伊吹武彦他訳が入るという企画があり(実現せず)プルーストに対する翻訳熱が著しく燃え上がっていた時代だった。それがこの解説における《現在までの廿世紀最大の作家》などという形容に反映されているのであろう。あるいはひょっとして逆にブルースト研究のためにこの『オーレリア』が翻訳されたのかも知れない。

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by sumus2013 | 2016-03-14 21:18 | 古書日録 | Comments(0)

オーレリア

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ネルヴァル『夢と人生 或はオーレリア』(佐藤正彰訳、岩波文庫、一九三七年五月一五日)読了。ネルヴァルをこれまでほとんど読んだ記憶がなかった。プルーストが愛した作家ということで『花咲く乙女たちのかげにII』の後のナイトキャップとして棚から抜き出したのである。この本の書皮は以前ブログで取り上げている。今回は中味を。上は筑摩書房版『ネルヴァル全集』内容見本(一九九七年四月)。

丸善京城支店の書皮

夢と幻覚と現実がないまぜになった一種独特の体験が語られている。全体としてはさほどには引き込まれなかったのだけれども中途で巻を置こうという気にもならなかった。例えばパリ市内を彷徨する描写または自らのコレクションや蔵書について語るくだりは実に興味深い。

ベッドから「ノオトル・ダム デ ヴィクトワル」(以下固有名詞の表記は本書に従う)教会の合唱が聞こえるそうだから主人公(=ネルヴァル)はヴィクトワル広場の付近に住んでいたのだろう。ルウヴル美術館から北へ五百メートルくらいのところにある。「私」は陰鬱な気持ちで外へ出、モンマルトル墓地へ向かう。墓地は閉まっていた。そこでドイツ詩人の家へ行こうと思うが、クリシイ市門を曲がったとき喧嘩を目撃。ショックを受け郊外と市門の間にある荒れた地域をさまよう。中心街へ引き返しヴィクトワル街の付近で出会った司祭に懺悔をしたいと申し出る。明日にしてくれと言われ「ノオトル・ダム ド ロレット」寺院のマリア祭壇の許に身を投げ出した。立ち上がってシャンゼリゼへ向かう。

《コンコルド広場に著いた時、私の考へは自滅することであつた。幾たびか繰り返し、私はセエヌ河に向つた。しかし何ものかが私の決心を遂行することを妨げた。星が天に輝いてゐた。突然、それ等の星が、先程教会で見た蠟燭の如く、一度に消えてしまつたやうに思はれた。私は、時が終極に達して、そしてわれわれはヨハネ黙示録に示された世界の終焉に近づいたと思つた。荒涼とした空に黒い太陽と、チュイルリイの上に血のやうに赤い球を見るやうな気がした。》

《Arrivé sur la place de la Concorde, ma pensée était de me détruire. À plusieurs reprises, je me dirigeai vers la Seine, mais quelque chose m’empêchait d’accomplir mon dessein. Les étoiles brillaient dans le firmament. Tout à coup il me sembla qu’elles venaient de s’éteindre à la fois comme les bougies que j’avais vues à l’église. Je crus que les temps étaient accomplis, et que nous touchions à la fin du monde annoncée dans l’Apocalypse de saint Jean. Je croyais voir un soleil noir dans le ciel désert et un globe rouge de sang au-dessus des Tuileries. 》

Aurélia ou le Rêve et la Vie(岩波文庫のタイトルは原題と主副が逆)

サン・トノレ街を通って帰りルウヴルの広場で幻視を体験する。

《速やかに追はれる雲越しに、非常な速さで通り過ぎて行く数多の月を見たのだ。之は地球が自分の軌道を離れ、そして檣[マスト]を失つた船のやうに天の中をさまよひ、代る代る大きくなつたり小さくなつたりする色々の星に近づいたり遠ざかつたりしてゐるのだなと考へた。》

疲れ切って家にもどりベッドに倒れ込んだ。神秘的な子供の合唱が聞こえて目覚め、起き上がってパレ・ロワィヤルの勧工場(les galeries du Palais-Royal)へ行く。小さな菓子をひとつ食べて再びドイツ詩人の家へ向かった。たどりつくなり《一切は終つた、われわれは死ぬ覚悟をしなければならぬ》と言い、そしてデュボワ病院へ連れて行かれた。

一月入院して恢復した。続く二ヶ月はまたもやパリの周囲を巡遊した。そして執筆を開始する。推敲のため不眠に陥り一晩中モンマルトルの丘を歩き回って日の出を見た。百姓や労働者たちと長い間話をした(サン・トノレやモンマルトルに農夫がいた!)。サン・トュスタアシュの大時計の鳴るのを聞いてチュイルリイに向かうが閉まっていたのでセーヌ河岸に沿って進みサン・トュスタアシュ寺院のマリア祭壇に跪き、父を訪問した後、植物園に行った。

《人が多勢居て、私は暫くの間、池の中で水浴びする河馬を見てゐた。ーー続いて骨骼学の陳列所を見物に行つた。そこに列んでゐる色々な怪物を眺めるとノアの大洪水のことが頭に浮かんで来たが、外に出てみると、物凄い驟雨が庭に降つてゐた。私は心に思つた、これはひどい! 女も子供も皆濡れてしまふぞ!……、続いて思つた、だがそれどころぢやない! 本当の大洪水が始まつたのだ。付近の街々に水が溢れてきた。私はサン・ヴィクトワル街を駆け下りて、そして、自分が世界を襲ふ洪水と信ずるものを食ひ止める積りで、サン・トュスタアシュで買つた指環を一番深い箇所に投げ込んだ。恰もその頃合に、暴風雨は鎮まり、そして一條の光線が輝き始めた。》

パリの植物園(Jardin des Plantes)

面白い。一八五五年『Revue de Paris』誌に発表された作品である。十九世紀前半のパリの雰囲気が伝わってくるようだ。参考にはならないだろうが、ざっと主人公の行動を地図上に示してみた。どの通りを移動したのかは分らないのでだいたい最短距離をとったと考えた。

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パリ古本屋地図

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by sumus2013 | 2016-03-13 20:55 | 古書日録 | Comments(0)

高雄山地蔵堂再建寄付簿

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『高山地蔵堂再建寄付簿』(高雄山神護寺、一九〇一年一〇月)。

《抑モ洛下無双ノ霊境タル当高雄山神護寺塔中ノ元地蔵院ト云ヘルハ其昔景雲年中和気清麿朝臣ガ八幡大神ノ神託ヲ蒙リ当寺ヲ建立セラレシ際初メテ基礎ヲ置レ次テ弘法大師ガ勅命ニ依リ当寺住山ノ時大神ハ地蔵尊ノ御影ニテ出現アラセラレシカバ大師モ殊ニ同尊ヲ尊崇シ遂ニ堂宇ヲ建立サレシモノニテ其後中興文覚上人当寺ノ頽廃ヲ慨キ之ガ再建ヲ企テラレシ時又地蔵院ノ地ニ於テ仮ニ草庵ヲ結ビ以テ其素願ヲ遂ゲタリキ

文中「景雲」は「神護景雲」(767〜770)。大神が地蔵になって現れた(!)ということで地蔵院は神護寺でも特別に由緒ある場所とされるようだ。ところが江戸後期には頽廃してしまい、明治維新の際には《蕩シテ空地トナルノミナラズ遂ニ上地トナリシハ寺門ノ痛ク慨歎スル處ナリ》という有様だったのだが、明治三十四年になって一転、政府は地蔵院の土地を返却し、再建を許したというのである。そこでこの寄付金集めが始まった。

京都散歩 高雄山 神護寺

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信徒総代に名を連ねる内貴甚三郎は、初代京都市長、京都商工会議所会頭。呉服商。兼田義路は愛宕郡長。碓井小三郎は市会議員、府会議員、糸物商工業組合頭取。糸物商。

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名誉賛成人名にも当時の名士が名前を連ねている……のだろうと推察するが、小生は蒙昧にして二、三の名以外に思い当たらない。

以上で文字のある頁はすべて引用した。以下は空白が十八頁ほど続く。そこに寄付者の名前と金額が記されるはずだったのだろう。


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by sumus2013 | 2016-03-12 21:04 | 古書日録 | Comments(0)