林哲夫の文画な日々2
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モランディ

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兵庫県立美術館へ。「ジョルジョ・モランディ 終りなき変奏」を見る。東北震災のために中止になったモランディ展よりは少しばかり規模が小さくなってしまったようだが、それはそれとしてこれくらいの数(約百点)のモランディ作品に接することが出来る機会は日本では滅多にない(大規模な回顧展は三度目)。

『ジョルジョ・モランディ』(フォイル、二〇一一年)

Morandi 1890-1964

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兵庫県立美術館は寂しい雰囲気だった。妙に疲れる美術館だ。その分ゆっくり見られたのでよしとする。

しばらく実作を見ていなかったせいもあって、その色彩がじつに繊細だったことを再認識した。画集などの印刷物を通してモランディの絵を見たつもりになっているとそれは大間違い。印刷はどうしても色が強くなるから(今回のカタログはとくにどぎつい)どうしてもモランディの本質から離れてしまうだろう。印刷の方が良く見える絵ももちろんある。モランディはそうじゃない。

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もうひとつ注目したのは額縁。ごっつい立派な額縁に入っている作品もあったけれども(日本の国際美術館の所蔵品など)、簡素なガラスも入っていないような渋い額縁が目立った。それがよくモランディに似合っていた。モランディの絵は額なしでも生きるし、クラシックな額縁にも違和感なく溶け込む。

水彩画額のマットのようなやや幅広い枠に入っている作品が何点かあった。これは真似できるなと思ってスケッチしておいた(上の図はそれとは別の額縁です)。

帰途、阪神電車の岩屋から乗って武庫川下車。言うまでもなく街の草詣で。例によって本の山を引っ掻き回して満足。案に違わずいくつか収穫あり。これがたぶん買い納め……。



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by sumus2013 | 2015-12-24 20:48 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

ラフォーレ

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すこし前に善行堂で『Catalogue de livre d'occasion LA FORÊT』(MORIYA TOKIO)という古書目録を求めていたのを思い出した。

緑の表紙の目録は巻頭に「森屋古書目録」とある。ただしそれ以上の情報(発行年、住所など)は見当たらない。また「Q氏推薦の50点」という頁があり、ここにはタイトルごとに短い解説が施されている。やや高額商品が多いようだ。変型の本文紙四つ折りと二つ折りで十二頁、そこに「Q氏推薦の50点/頒価表」ペラ一枚が挟んである。

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おお、これは先日パリで仕入れて来た詩集『La part initiale』とほとんど同じ体裁だ。おそらくそういった手本を知っていたに違いない。目録の名前もラフォーレ(フランス語で森)だし主人はかなりなフランス文学通と考えていいだろう。実際に目録の内容も仏文中心のヨーロッパ文学で占められている。

『La part initiale』

二点あるピンク目録、その一方の「Q氏推薦の50点」にはQ氏による言い訳めいた文章が載っている

《今回の50選は以上です 森屋の女主人は120、30点を持ち出し この中から迅く選べと急かす それは二月は28日しかない為らしい 月末に出す約束を皆に書き送ったらしい その火の粉がこっちにきて ご覧の通りゆっくり解説ができなかった 収録詩人・作品の全てをかきしるせなかったので希望を書いて注文してほしいと思います こうした訳詩集は一般文芸書と違い発行部数が少ないので この機会に入手頂ければQとしても嬉しい限》

この書き方からすれば、ひょっとしてご夫婦であろうか? また女主人による「注文のしおり」には

《○ご注文は勝手ながら「ハガキ」のみで受付けております
 電話は使用していません(「グレース」の電話は他人の持ち物ですので)》

とあり、もう片方のピンク目録にはこういう発表がある。

《この度 渋谷〜吉祥寺間の井の頭線沿線の 久我山にささやかですが店舗を構えました/駅から徒歩5分ほどの所です むかし中村雅俊主演のドラマがあったのを覚えているかたもおられるでしょう あの坂道のある神田川沿いで公園になっています//今回の目録の御注文は電話ででも構いません 但しまだ店の方が整理ついていませんので『抽選発表』とさせて戴きます》

その住所は次の通り。

《古書ラフォーレ 東京都杉並区久我山3丁目35番地2号

挟み込みの古書買入チラシには同じ住所で「宮下橋角」と付記されている。中村雅俊主演ドラマはもちろん「俺たちの旅」(一九七五年一〇月〜七六年一〇月)である。

もう一度、緑目録に戻ると《以上がQ氏の50点です。資料物が多いのは氏が編集畑の出のせいかもしれません。次回はまた違った角度から選んで戴く所存でおります。》とあった。夫婦ではない……? また目録末尾に

《『訪書月間』1月号もご覧下さい》

と書かれている。もし『彷書月刊』なら1月号をつぶさに点検して行けば『ラフォーレ』の刊行時期がおおよそ特定できるだろう。

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by sumus2013 | 2015-12-23 21:16 | 古書日録 | Comments(0)

理化学機器薬品目録

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『Catalogue of Physical and Chemical Apparatueses』(田中合名会社、一九一一年八月五日五版)。某氏コレクションより。販売用の目録。邦語の標題が見当たらないが緒言に「理化学機器薬品目録」とあるのでそれがタイトルであろうと思う。田中合名会社はTANAKAの全身のようだ。

TANAKA 沿革

《創業者・田中杢次郎が大阪・道修町から上京,医療器械、化学薬品輸入商で修行ののちこの年に独立し、東京日本橋本町で個人商店を創業。牛乳用「防腐器」、「携帯用灯油ランプ」等を製造販売。また,32年には他に先駆けレントゲン器械の輸入販売を開始。》

図版はドイツ製のカタログから流用したのだろうか、イラストレーションとして眺めて惚れ惚れとしてしまうできばえである。多数の図版のなかからほんの少しばかりを紹介する。数字は価格=円。現在と比較するとおそらく五千分の一かとも思うが(例えば30.00ー15万円)確かではない。これだと高級な顕微鏡は三百万円以上になる。

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揮発酸蒸溜装置 30.00


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新式万能瓦斯分析装置 65.00/空気実験装置 45.00


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遠心力器 37.50/同 90.00


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試金用灰皿製造機 90.00


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皿状電極/提桶状電極/蝸状電極/円筒状電極/同(螺線付)


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顕微鏡第一号 615.00/同第二号 280.00


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最新瓦斯発生装器


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奥付



もう一冊。こちらは風雲堂後藤合資会社の『BACTERIOLOGICAL AND CHEMICAL APPARATUS』(一九一五年一月五日十六版)。

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風雲堂はその九州支店が九州風雲堂として現存する。

九州風雲堂販売株式会社 沿革

《九州の片田舎から東大薬学科を卒業し、その上、欧州を巡遊して世界最新の知識を得て東京で堂々たる店舗を構えた風雲堂の創業者である後藤節蔵》

またこういうサイトもあった。

日本画像医療システム工業会 医用画像電子博物館

こちらの年表から田中杢次郎と後藤節蔵に関する項目だけ引用してみると以下の通り。

1899年2月
東京日本橋本町 医療器械店 田中杢次郎 レントゲン器械の輸入販売を始めた

1899年9月
仙台第二高等学校医学部は後藤風雲堂からx線器械を金1000円で購入した

1903年3月
後藤風雲堂店主 後藤節蔵 渡欧

1903年3月
後藤風雲堂ドイツ ヒルシュマン社製 インダクションコイル方式レントゲン装置を輸 入し、高知市近藤虎治医院に納入

1908年4月
後藤風雲堂 ヒルマン、ライニーゲル・ゲベルト ウント シャル社製X線装置の日本一手販売契約を結ぶ


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蒸気消毒器各種


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ツアイス氏顕微鏡 410.00


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北里氏鼠固定器/コウル氏一般固定器
北里氏ラツテン固定器/タチン氏モルモット解剖台


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コルベン/三頸コルベン/長頸コルベン

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大正四年となるとアート紙が使われており図版はより鮮明だ。


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奥付




最後は『D.I.C. 一般医療器械目録』(日本医科器械目録編纂所、一九五四年一月三一日)。明治大正時代のものより印刷のクオリティはかなり落ちるが、じつに多種多様な器具が考案されていたことがイラストレーションを通してより如実に伝わってくるようだ。

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参考までに。

大阪市立大学医学部 
特別展示 伝統と革新 明治期の大阪における医療器械業

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by sumus2013 | 2015-12-22 21:35 | 古書日録 | Comments(0)

川崎彰彦傑作撰

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『大和通信』第一〇二号(海坊主社、二〇一五年一二月二五日)届く。北沢街子「鶴見先生」、中尾務「相馬さんの晩年」と追悼文が並び、裏へまわって三輪正道「神戸だより(十六)停年退職以後」が長文で読ませる。入社時から辞める辞めると言い続け結局停年まで勤め上げた不思議について。

【後記】にこうあった。

《北海道で、来年四月『川崎彰彦傑作撰』刊行。生前、川崎さんが、短編集刊行を希望、そこにはこれだけは入れてほしいと明言していた「ミケランジェロと雲雀」「野施餓鬼」「高畑」「東西屋」「夏ーーフォークロアないし『愛知川の河童』変奏曲」の五編を収録。早稲田大露文クラス誌『凍河』掲載「ムッシュウ・タムタム」収録。版元・北海道新聞社。企画本ではなく自費出版。約四百頁。定価・税込み二千円。申し込み先・中野朗(メールアドレス everyman[アットマーク]mvh.biglobe.ne.jp)

先日、中尾さんや三輪さんとお会いしたときには全集をという話も出ていたが、さすがに全集は難しいにしても、撰集であってもこれは大ニュースであろうと思う。上は川崎の『くぬぎ丘雑記』(宇多出版企画、二〇〇二年)および『わが風土抄』(編集工房ノア、一九七五年)。

夢に向かい「川崎彰彦傑作撰」出版へ!


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by sumus2013 | 2015-12-21 19:48 | おすすめ本棚 | Comments(0)

豆本

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豆本が相次いで届いた。中央が『えちぜん豆本だより1』(越前豆本の会、一九六四年九月、表紙=笠松一夫)、右が『横田順彌豆本傑作選 飛行機小説集』(書肆盛林堂、二〇一五年一二月一日、装画=岩澤佐合)。左は大きさの比較のために並べた岩波文庫。

『えちぜん豆本だより1』に今村秀太郎が次のように書いている。

《北の「えぞまめほん」南の「九州豆本」お江戸には「風流豆本」青森に「青森豆本」酒田に「みちのく豆本」島根には「山陰豆本」新潟に「越後豆本」誕生と、ひと頃豆本黄金時代を築いたものでしたが「えぞ」は37冊の歴史を残し、主宰者の佐藤翁逝去のため廃刊「九州」は24冊と別冊1を出したあと版元病気のため終刊の挨拶が出ました。「山陰」も一、二号を出したまま「風流豆本」また、多忙を理由に12冊を出して休刊の始末。
 かかる折「越前豆本」の誕生を見たことは、誠に喜ばしい限りであります。》

同じく掲載の武井武雄の文章によれば青森豆本は続いているがこれはさとう・よねじろう氏個人の作品集で聊か性格を異にしている》とのこと。佐藤翁は佐藤与四郎。

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これもたまたまだが、市島春城『春城閑話』(健文社、一九三六年二月一五日)を読んでいると「豆本蒐集談」という文章に行き当たった。その徹底した蒐集ぶりに驚かされる。

《私は公私の為め十万に近い書物をこれ迄蒐集した。性来書物が好きで、今でも毎日書物漁りを日課のやうにしてゐる。大正七年にフトした思ひつきから、小さな本を寄せ集める事を始めた。その動機は二三珍らしい最小形の本が手に入つたので聊か興味を覚え、それが病みつきとなつた。》

《支那では巾箱本といふと小さな本を意味してをるが、可なり大きいものもある。寸珍本、袖珍本、皆な小さな本のことであるが、寸尺に制限がない。》《唯だ俗に豆本というてゐるのが最も小形のものを意味してゐる、即ち普通竪二寸位若しくはそれ以下のもので無ければ豆本とは申さぬ。西洋でも誰も知る通り「ポケット・ブック」と申せば小形の本であるけれども、これは日本の袖珍本と同じ様に最小の本とは限らず、最小の本に対しては別に名がある、「ビジョウ・ブック」といふのがそれである。即ち吾邦の豆本が「ビジョウ・ブック」に当るでせう。

二寸以下が豆本とすれば上の二冊はともに三寸以上(『え』が10cm、『横』は10.5cm)あるので豆本ではないということになってしまう。しかし安心されたし。

《私は定尺を豆本より大きく極めた。即ち竪三寸五分幅二寸五分のものを蒐集の標尺とした。》

結局、春城は千五百種(三千冊超)を蒐集したという。そのうち定尺より小さいもの二百種。ただし版本ばかりでなく書画帖の類いも含む。始めて三、四十種までは容易だった。それ以上となるとナカナカはかどらない。百種を集めるのにかなり苦労した。しかし豆本蒐集のことが書肆に知れると書肆の方から持ち込んできたり、また人をやって大阪、名古屋、金澤までも捜索させた。そんなことで三百種はすぐに達し、五百種になったころにはもうやめようかと思ったが、極点まで行けと千種を目指した。千種までにおよそ三年かかった。さらに自分自身で百種ばかりの小本も作った。

春城は続けて豆本を作る動機や佳き豆本とはどういうものかを箇条書きにして定義しているが、それはくだくだしいので省く。結論としては《要するに、小本に喜ばるべき条件は即ち大本に喜ばるゝ条件で、形に大小の別があるだけの事だ》……ということらしい。



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by sumus2013 | 2015-12-20 20:07 | 古書日録 | Comments(0)

ほんまに17

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『ほんまに』vol.17(くとうてん、二〇一五年一二月一五日、表紙=イシサカゴロウ)に「パリ古本紀行 ゴッホ村の古本屋」を執筆させていただきました。列車を使った古本屋についてです。ブログに書いた内容にゴッホ巡りをからめて書きました。

ゴッホ村の古本屋

特集は[神戸の作家としての]陳舜臣。これは力作です。陳舜臣が読みたくなる内容。他にも本と本屋の好きな人ならぜったい読んで損はありません。

ほんまに

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by sumus2013 | 2015-12-19 21:38 | 文筆=林哲夫 | Comments(0)

火の子の宇宙

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『火の子の宇宙』(武蔵野書院、一九八三年九月一日)を頂戴した。以前も『ささありき』を送って下さった某氏より。

ささありき

「火の子」は西新宿七の十二の二十三松澤ビルにあったバーで、これはその開店十周年記念として刊行された文集である。発行人は内城育子(うちじょう・いくこ)、火の子のママ、経営者。制作が冬樹社だからレイアウトは『カイエ』風のフォーマットで決まっている。執筆陣を見てびっくり。谷川俊太郎、大江健三郎らから、山口昌男が最多登場であろうと思うが、文壇、論壇、画壇、出版、映画、音楽、広告などの世界の人々がざっと130人……質量ともに驚くべき人脈である。

ざっと目を通しただけだが、いずれも達者な書き手が揃っており、火の子とは直接関係のないエッセイとして書かれたものも多く、読み応えは十分だ。矢内原伊作「ジャコメッティの墓」、武満徹「ピアノ放浪記」、車谷長吉「桃の木の話」などが印象に残る。山口昌男の「私の「アマデウス・コンプレックス」」、栗本真一郎「ひのこのひ」なども面白い。掲載写真から三点ほど引用しておく。

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左より伊奈信男氏、内城育子、木村伊兵衛氏


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左から、大江健三郎氏、加賀乙彦氏、原広司氏、武満徹氏、山口昌男氏


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左から浅田彰氏、柄谷行人氏、岩井克人氏、坂下裕明氏


とは言え主人公の内城育子による「編集後記」がやはり一番印象深い。

《十七歳の春、結核の宣告は、私の人生を断崖からつきとばすように変えた。バレーシューズ、トーシューズ、稽古着すべて北上川になげ捨てた。美術研究所で描いていただいた多くのデッサンも写真も、舞踊を思い出すものは全部焼いた。》

療養生活七年、なんとか回復し、二年後に東京へ出た。住み込みの女中から水商売へ。キャバレーやクラブを転々とした。そして「キャロット」に勤める。

《その日もあてどなく新宿の街をフラフラ歩いていて、ふと「キャロット」という看板に心ひかれて立ち止まった(その後、「火の子」を開いてから大変お世話になったグラフィックデザイナーの原弘先生に、それは僕がつくったのだよと言われ、不思議な御縁におどろいた。)恐る恐るドアを押すと、端正なお顔の外国人がピアノに向ってひくシャンソンが美しく響いていた。》

「キャロット」は伊藤鐘治郎の経営。伊藤は戦前から新宿で喫茶店や酒場を経営していた人物(車屋の歴史)。椅子は岡本太郎、オブジェは勅使河原蒼風、サム・フランシスの絵が掛かっていたという。また若き武満徹は岡本太郎の紹介で「キャロット」でピアノを弾いたことがあるそうだ、なんと下駄履きで(上記回想記による)。その後「どれすでん」「風紋」「バッカス」と渡り歩いて「火の子」を開店したのが一九七三年。店名は母親の名ヒノから。

《店で働いての大きな喜びが人の出会いなら、一番悲しいのは人との別れだ。特に、花や葉をいっぱいつけたまま台風でもぎとられたような突然の死は、こんな悲しいことはない。最近では、陶芸の八木一夫氏、「海」編集長塙嘉彦氏、英文学の小野二郎氏、デザイナー杉浦康平氏夫人富美子さん、歴史資料館館長榎本宗次氏、人類学の蒲生正男氏……もう店を閉じてしまいたくなる。》

ほんとうの閉店は、下記ブログを読むと、どうやら二〇〇二年のことのようである。

2002年9月9日号(ユニテ開店)

他にも「火の子」の思い出をつづったブログがいくつかあった。

西新宿にあった文壇バーの「火の子」

Banquet 新宿文壇バー今昔

「火の子」の記憶

昔「火の子」という店がありました

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by sumus2013 | 2015-12-18 20:03 | 喫茶店の時代 | Comments(4)

カストール文庫

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『ALBUM DU PERE CASTOR』(フラマリオン)シリーズの三冊。熊、野兎、あざらし。テキストがLIDA、絵がROJAN。ブラッサンス公園で求めた。二冊だけにしようと思って他の本といっしょに計算してもらったら12ユーロだというので15ユーロ出したら「おつりがないよ」と肩を聳やかした。仕方ない、もう一冊買ってピッタリにした。後で考えたら、多少傷んでいるにしてもこれは安すぎる。


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帰国して見つけたチラシにこういうふうに書いてあった。

《1930年代、そのフランスの絵本史に大きな一歩を記したのが、「カストール文庫」です。教育者のポール・フォシェは、ナタリー・パランやロジャンコフスキーなど、パリに集ったロシアや東欧出身の美術家たちと協力して、わかりやすい豊かな内容、美しい挿絵に彩られながらも、手ごろで子どもたちが手に取りやすい絵本のシリーズを生み出しました。巣やダムを築く才能に恵まれたカストール(ビーバー)にちなんで名付けられたこのシリーズは、子どもたちが遊びながら学ぶことで、彼らの創造活動の手助けをするという、フォシェの理想を体現したものでした。彼が手がけた絵本は、1931年から亡くなるまで30年余りで320冊にのぼり、現在まで刊行されています。》

なるほど少しばかりフランス的じゃないなと思ったらロシアの作家だったのだ。これはいい買物だった。

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by sumus2013 | 2015-12-17 22:16 | 古書日録 | Comments(0)

冬の日

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『詩・現実』第三冊(武蔵野書院、一九三〇年一二月二〇日)。編輯者は淀野隆三。編輯同人は淀野の他に飯島正、神原泰、北川冬彦。昭和五年六月創刊、六年六月まで五冊発行。三号まで淀野編輯、四冊と五冊は前田武編輯。教育出版センターから復刻版が出ている。本書はもちろんオリジナルながら裸本。カバーなければならない。

『詩・現実』第四冊(武蔵野書院刊)

『梶井基次郎全集』(筑摩書房、二〇〇〇年)の詳細な年譜(鈴木貞美編)によれば梶井は昭和五年五月に『詩と詩論』を淀野、三好達治らとともに脱退し北川冬彦の求めに応じて『詩・現実』創刊号のために「愛撫」を渡した。川端康成が「愛撫」の気品をほめた(雑誌『作品』誌上)。第二冊には「闇の絵巻」を発表した。ふたたび川端にほめられた(読売新聞紙上)。梶井の創作が充実し、また本人も手応えと自信を感じていた時期である。だが《十一月中旬、『詩・現実』第三冊のための原稿に失敗〔書簡三六二〕》してしまい旧作「冬の日」が掲載された……

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末尾に編輯部の断り書きがある。

《梶井基次郎の「冬の日」は、昭和二年に書かれ、同年の二月及び四月の『青空』に連載されたものである。最近、氏とわれわれとの通信の齟齬のために、約束の五十余枚の作品はこれを戴き得ない事情になつた。それがためにわれわれは無断で、ここに再び「冬の日」を掲載することになつた。一言責任を明かにする次第である。/十二月三日 「詩・現実」編輯部》

「冬の日」は梶井らしい繊細さと芯の強さを備えた作品ではあるがやや描写に頼りすぎているかなとも思う。

《冬至に近づいてゆく十一月の脆い陽ざしは、然し、彼が床を出て一時間とは経たない窓の外で、どの日もどの日も消えかかつてゆくのであつた。翳つてしまつた低地には、彼の棲んでゐる家の投影さへ没してしまつてゐる。それを見ると堯の心には墨汁のやうな悔恨やいらだたしさが拡がつてゆくのだつた。日向は僅かに低地を距てた、灰色の洋風の木造屋に駐つてゐて、その時刻、それはなにか悲しげに、遠い地平へ落ちてゆく入日を眺めてゐるかのやうに見えた。
 冬陽は郵便受のなかへまで差しこむ。路上のどんな小さな石粒も一つ一つ影を持つてゐて、見てゐると、それがみな埃及のピラミツドのやうな巨大[コロツサール]な悲しみを浮べてゐるーー低地を距て洋館には、その時刻、並んだ蒼桐の幽霊のやうな影が写つてゐた。向日性を持つた、もやし[三字傍点]のやうに蒼白い堯の触手は、不知不識その灰色した木造家屋の方へ伸びて行つて、其處に滲み込んだ不思議な影の痕を撫でるのであつた。彼は毎日それが消えてしまふまでの時間を空虚な心で窓を展いてゐた。》

上述のこの時期に次々生み出された作品(『詩と詩論』には書けなかったが、ほぼ同時に『作品』のために「交尾」を完成させていた)とは単純には較べられないだろう。

ところで年譜には《『青空』掲載時に末尾に付されていた(未刊)の文字が、このとき取れた。》とあるが本書の末尾にはどうしたわけか(未刊)と印刷されている。

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『詩・現実』第三冊 78頁


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『梶井基次郎全集』別巻 486頁




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by sumus2013 | 2015-12-16 22:16 | 古書日録 | Comments(0)

杉浦非水・翠子展

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杉浦非水・翠子展 同情から生まれた絵画と歌』図録(白根記念渋谷区郷土博物館・文学館、二〇一五年一〇月二〇日)を頂戴した。深謝です。(開催中〜二〇一六年一月一一日)

《杉浦非水〔明治九〜昭和四〇〕は、銀座線開通ポスターや三越、カルピスの広告、タバコのパッケージデザインなど、日本の広告デザインのパイオニアとして知られています。その妻・翠子〔明治一八〜昭和三五〕は、短歌結社「アララギ」に所属した後、歌誌『短歌至上主義』を主宰し、代表歌「あめつちにおのれさびしとおもふとき 浅間はもゆる陽のいりぎはを」をはじめ、知性短歌を主張した女流歌人でした。二人は日本の近代の歩みとともに、先駆的で個性的な活躍をしました。》(ちらし)

図録の写真で興味深いと思ったのは上の書籍装幀雑誌表紙図案展の様子をとらえた一枚。会場は日比谷図書館。同館は明治四十一年開館(三橋四郎設計)だから開館間もないころの展覧会だったわけである。上の写真からだと展示スペースは少々手狭だったように見える。

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ついでに下渋谷(後に伊達町)に大正元年に新築された杉浦宅の写真もかかげておく。ユーゲントシュティールの家具が目をひく。

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『杉浦非水の眼と手』



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by sumus2013 | 2015-12-15 20:53 | もよおしいろいろ | Comments(0)