林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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日蓮

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武者小路実篤『日蓮』(改造社、一九二九年六月三日)。装幀は中川一政。木版摺り。中川一政の装幀本については詳細に調べた本があったと思うが、今は手許にないので『季刊銀花』四十五号(文化出版局、一九八一年三月三〇日)の「中川一政の装釘」を参照してみると、こう書いてあった。

《武者小路実篤の本の装釘は、大正十四年発行の『泉と鐘』以後単行本だけで十一冊ある。これに先立ち、精緻で美しい『武者小路実篤全集』全十二巻がある。詩集『人生の特急車の上で一人の老人』は最後の装幀で、人生観照の詩に、人生解説の装画が描かれている。》(山田幸男)

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『銀花』には中川一政自身のエッセイ「装釘について」も収録されているのでいくつか文章を拾ってみよう。

《私は先ずゲラ刷りで来る文章を見る。これは作者がどういう人であるかを見る為と作品の雰囲気を知る為で、作者を知っている場合は、作品の見当もつきやすい。
 それから作品の時代背景を考える。
 装釘の注文を受けた咄嗟にイメージが浮かべば仕事は順調にゆくものだ。イメージが浮かばないときは苦労する。そして本文がもう刷上るからと云われて不本意な仕事になることがある。

これはまったく同感。最初に浮かんだイメージで決まれば満足できる本になる。イメージが浮かばないと苦労するのも間違いない。「文章を見る」と言って「読む」とは言わない。これも案外重要なことで、読み込んでしまうとかえってその細部が邪魔になることもある。個人的には内容よりもタイトルとの関係性が重要かとも思う。いいイメージでプレゼンして編集者や著者に拒否されたときも困る。かなり困る。

《その頃改造社から幸田露伴が『龍姿蛇姿』という随筆集を出した時装釘を依頼された。文中に仇十洲のことがあるからというのであった。
 仇十洲と云っても私にはわからなかった。何もそれをかかなくても中国風な装釘にすればよいのだろうと思って描いたが、露伴翁のイメージと違うということで没書になった。
 没書になったということは後にも先にも珍しいことである。
 後年仇十洲というのは明中期の美人画家仇英のことであるとわかったが、昔を思えば何も知らなかったという外はない。

これはゲラも見ていないということになるのか。編集者にも責任の一端はあるだろう。

《これらの装釘料は大概三十円位で、当時三十円あれば一寸した洋服が出来たと覚えている。

三十円は羨ましい金額である。『値段の風俗史』(朝日文庫、一九八七年)にも大正十年の背広は三十円となっている。

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この『日蓮』がまた人を食ったような作品。漫画みたい。

熊王。大へんです。大へんです。
日蓮。なんだ。
熊王。み、みん、皆がお師匠様を焼き殺すと云つてやつて来ます。こゝにゐらつしては焼き殺されます。
日蓮。さうか。よく知らせてくれた。それなら日昭逃げるとしやう。
熊王。早く、早く。
日蓮。あはてまい、あはてまい。前から覚悟してゐた。日昭おはちをもつてこい。私はお経を持つて逃げるからね、腹が減つては戦は出来ないからな。
日昭。はい。
熊王。お師匠さん、あなたは呑気ですね。もうすぐ来ます。
日蓮。よし、それぢや、あはてゝ逃げることにしやう。日昭出来るだけ早くついてかけて来い。
(二人かけ出す)
熊王。私もまけてはいませんよ。(何か手あたりに持つてあとをついてゆく)
(外から大勢がおしよせる声が聞こえる)

……とまあこんな調子。この後、処刑が落雷によって中止となり、佐渡へ流されるまでが描かれる。


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by sumus2013 | 2015-06-11 21:32 | 古書日録 | Comments(0)

Bibliophil ふたたび

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中村書店の古書目録『Bibliophil』のXIVとXVそして北園克衛作のしおりを頂戴した。目録の発行年は不明。一九六〇年代後半だろうと思う。以前も紹介したが、改めて眺めてみると、このちょっとひねった横文字のレタリングもあるいは北園克衛のデザインなのかもしれない。


中村書店のしおり

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旧蔵者の生々しいチェック跡が詩集への情熱を感じさせる。XIVでは『月に吠える』カバー付が68000円と単品では最も高額。他に中也の『在りし日の歌』が8000円などなど。小説では独歩の『武蔵野』26000円が最高。例えばイナガキタルホ『天体嗜好症』は1800円。コーヒー一杯百円の時代だから推して知るべし……どころかコーヒーよりずっと高騰している。

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こちらはXV号。朱と黒に緑色も加わって賑やかで可愛い感じ。

もう一冊、これらに加えて中村書店主中村三千夫が寄稿している『新潮』第五十九巻第八号(一九六二年八月一日)も同梱されていた。さっそく読んでみる。

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題は「古本屋から見た文学」。新刊の価値観と古本の価値観がまったく違うということをまず述べておいてこう切り出す。

《早死にする子供が多いのは痛ましい限りであるが、逆に出版当初、売行き不振で生みの親を悩ませた川端康成「伊豆の踊子」初版などは育ての親に渡つてから、その真価を発揮した。現在古本市場でまず二千円はくだるまい。》

昭和二年金星堂版『伊豆の踊子』は目下十五万から二十万円くらいはしているようだから、この二千円はまだまだ低い評価だと言えよう。

《詩人の北園克衛さんが「自分たちが苦労して費用をかけて造つた本を中村書店ごとき古本屋が途方もない高い値をつけて売りさばいている」という趣旨のことをお書きになり、有難いお叱りをいただいた記憶があるが、育ての親の苦労も理解していただきたいものである。ひとりの子供を客の手許に渡すまで、時には四五年も懐にあたためている場合もあつて、私たちの商いは決して派手ではないが、一冊の本が高値で売れた時、私たちはその利益よりも、自分の付値にたいして受けた正当な評価にひそかな喜びと誇りを感じている。》

続いて古書売買の仕組み、古書の評価の基準に触れて、小説より少部数の詩集が高くなる例を上げている。『野村英夫詩集』『伊東静雄全集』そして

《総対[ママ]的に見て詩集でAに属するものは西脇順三郎、金子光晴両氏のものであろう。昭和八年に椎ノ木社から定価一円七十銭で出た西脇さんの「アムバルワリア」初版は現在五千円位である。
 西脇さんは、名もわからぬ野草などを大事そうにかかえて時々店にもお見えになり、棚に並んだ本にはほとんど目もくれず、「きみ、蛍光灯の明りはやめたまえ。これはオバケの出る色だ」などと云つては帰られる。》

金子光晴のものでは大正八年に金子保和で出した処女詩集『赤土の家』が非常な高値を呼んでいるのだとか。目下一冊「日本の古本屋」に出ているのが30万円。

《今の読者たちは本を愛さない。(これは本が他の諸物価に比して安く手軽に手にはいるためだろうか。)しかし本は無限の価値を持つ。週刊誌などがいくら栄えてもこれは関係のないことである。こうして薄暗い片隅に毎日坐りながら、貴重な文化財を守つていくことは古本屋冥利につきると言えよう。》

本好きの歎きはいつの時代も同じような調子を帯びるようである。週刊誌を電子書籍に代えて見ればそのまま現在に当てはまるだろう。その分、今では古い週刊誌も高くなっているのだけれど……

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by sumus2013 | 2015-06-10 21:11 | 古書日録 | Comments(0)

海鳴り 27

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『海鳴り』27号(編集工房ノア、二〇一五年六月一五日)が届いた。杉山平一の詩「風の子」、杉本秀太郎の詩「夏の終り」(詩集『駱駝の卵』より)が掲載されているのが目についたが、まず山田稔さんの「形見分け」から読む。松尾尊〓(たかよし)が中野重治からもらった原稿用紙について。次に天野元「自転車を押す先生」。天野忠の経営していた古書店が出てくる。

《父が古書店をはじめると、母に言われて時々弁当を店まで運んだことがある。(まだ自転車は家にはなかったように思う)。北大路通りに出て電車道をまっすぐ西に歩いた。店に着くと、父が小さな声で「お疲れさん。ありがとう」とか言ってくれた。その店の細い土間に自転車があったような気もするが、自信があるわけではない。父は、仕入れた本を荷台に積んで店まで自転車を押していたのだろうか。》

河野仁昭『天野忠さんの歩み』(編集工房ノア、二〇一〇年)によれば天野忠が昭和二十三年から二十六年の初め頃までやっていたリアル書店は京都市上京区北大路新町電停前にあったそうだ。煙草屋の店の半分を借り受けたとか。北大路新町というバス停が現在もある。大谷大学を西へ、紫明小学校を過ぎてすぐ。河野前掲書によれば

《古本市へやってくる同業者たちはたいてい自転車であったが、天野にはそれがなかった。落札したり競り落とした書籍を、彼は風呂敷に包んで満員電車に乗り込んで店へ持ち帰っていた。車中で鑑札や金が入っている財布をすられたこともあるという。》

この「古本市」というのは旧古書会館(中京区東洞院通六角上ル)だったのだろうか? また本家勇の天野忠を題材にした「自転車」という詩にはこう書かれているという。天野の手作り詩集『電車』について。

 家から店に通う自転車を買う
 資金をつくる為にと
 出した謄写盤刷りの詩集だ
 原紙切りから印刷製本と
 それこそ手作りの詩集である
 彼が自転車を買ったのは事実だが
 店には相変わらずのんびりと
 下鴨の家から電車で通っていた

なんとも天野忠らしいな……と思う。

巻末、涸沢さんの「大谷さんの『余生返上』」も読ませる。杉山、杉本、松尾、そして大谷晃一と追悼特集のような『海鳴り』である。

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by sumus2013 | 2015-06-09 21:15 | おすすめ本棚 | Comments(0)

明治塵劫記

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新名重内編輯『新撰普通明治塵劫記』(此村庄助、一八八〇年一二月)上下二冊。塵劫記(じんこうき)は江戸時代の数学書。本書は基礎知識ブラス問題集になっている。

亀岳こと新名(にひな)重内は明治十年頃から三十三年頃までにかけて種々の数学書を著している和算家。詳細は分らないが、奥付には大分県藩士という肩書きがあり、住所は大阪府下西区北堀江上通三丁目十三番地。江戸後期から明治初期にわたって盛名をはせた長谷川数学道場の出身らしく同道場の『社友列名』明治十二年に豊後臼杵として名前が上がっている。また同じ十二年に北野天満宮の算額を三室戸治光、倉橋泰清らとともに奉納している。

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算額奉納仲間の公卿三室戸治光が序を執筆している。長谷川磻渓翁の同門とある。磻渓は長谷川弘であろう。三室戸は嘉永二年(一八四九)生まれ。あるいは新名もそう年は違わないかもしれない。


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もう一人序を寄せているのは上田重蔵。大阪の人らしい。詳細不明。


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かな序がよく読めないが、これは新名本人の筆である。本文は……頭が痛くなりそうなので、目次と凡例、そろばんの図のみにて省略。そろばん、苦手だったなあ。


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ここまで上巻。以下下巻の冒頭と奥付。


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裏表紙に記名。久保信衛。住所がまた難読だ……。



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by sumus2013 | 2015-06-08 21:28 | 古書日録 | Comments(0)

衣更着信と中桐雅夫

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衣更着信『『荒地』の周辺』(書肆季節社、一九九一年七月一五日、装訂=政田岑生、装画=三好豊一郎)と衣更着信訳『人生摘要 英米現代詩集』(書肆季節社、一九八三年一二月一〇日)。

ごく最近、衣更着信の葉書を二枚求めたため、これらの著作を取り出してみた。他にも何冊か郷里の書庫に眠っている。二枚はともに中桐雅夫宛。右が昭和五十一年十一月二十一日香川三本松局消印、官製葉書。左が同じく昭和五十二年三月十一日消印、清水寺三重塔の絵葉書。

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官製葉書のスダチの話はたいへんよろしい。わが家にもスダチの木があるが、この時期までは徳島西部でしか生育しないと思われていたようだ。

三重塔はがきには《今度訳詩集を出すことになり後書きにあなたのことを書きました 夏までに出るだろうと思います》とあるが、この訳詩集が『人生摘要 英米現代詩集』になるのだろう。とすれば「夏まで」どころか六年半かかっている。その後書きを引用しておく。

《わたしが詩の翻訳をするようになったのは、あきらかに中桐雅夫の影響による。終戦間もなくの香川県知事選挙が、戦後の地方選挙を占うモデルとかで、各新聞社の本社記者がそろって高松へ来た。読売の政治部の少壮、中桐記者もその一人だったわけだが、顔を合わすなり、シットウエルの詩の一行の意味がなっとくできいなが[ママ]、おまえどう思う?といって、手近のメニュかなにかにそれを書いて見せた。それは戦雲の迫る昭和十六年にわたしが東京を離れて以来、戦争をへだてての再会であった。戦中戦後の一時期は、とてもカレンダーでは測れない長い苦しい時間であって、その間両人の生活にも兵役、病気、失業といろいろあったのだけれど、かれにとってはそんな話題は二の次なのであった。
 訳詩がそれほどの情熱に価するなら、自分もひとつやってみようと思ったのがきっかけであった。》

『『荒地』の周辺』の方には「中桐雅夫のこと」という一文がある。昭和十四年三月、神戸へ中桐を訪ねた。

《初対面の印象はやはり神戸の町なかの育ちらしい都会的な青年という感じがした。メイン・ストリートと思われる賑やか通りを、それから話しながら歩いたが、元町通りというところであったのかもしれない。国鉄の高架が商店街の片側をずっと走っているようであった。そのガード下の古本屋でどんな掘り出しものをしたかという話を中桐はした。そのころわたしたちは新刊はめったに買わず、古本屋でなにを見つけるかというのが大きな興味であった。後のち、古本探しは中桐の得意わざの一つであって、当人も自信をもっていた。ずっと後のことだが、銀座の教文館で偶然中桐に行き合わせたことがある。あそこは帰国するアメリカ人の宣教師が処分して行くのであろう、古書をたくさん置いてあった。その棚を彼が捜すのを見ると、一冊一冊指で抑えながら丹念に見て行くのである。なるほどあれなら掘り出しものもするであろうし、見逃しもなかろうと思ったことであった。》

衣更着信については以前も何度が触れている。

衣更着信詩集

笠原三津子宛葉書

衣更着信の死亡記事も何故かまったく関係のない文庫本の間からひょいと現れた。朝日新聞二〇〇四年九月二〇日。

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また書肆季節社の政田については頻繁に言及した時期があったが、久ぶりの登場となった。

政田岑生

北園克衛と政田岑生

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by sumus2013 | 2015-06-06 21:30 | うどん県あれこれ | Comments(0)

悠遠忌

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『吉村昭研究』30・記念号が届いた。特集1・力作評論、そして特集2・ここが凄いぞ!吉村昭。その特集2に「ベールを編むスゴさ」と題して『戦艦武蔵』のスゴさを書かせてもらった。


第7回悠遠忌 吉村昭と学習院大学

落語 古今亭文菊「井戸の茶碗」
講演 寺崎裕則「吉村昭の世界」

日時 8月1日(土)14:30〜16:30
   荒川区荒川7-50-9
入場 一般2000円
問い合わせ 電話・ファクス 0898-66-1556
主催:吉村昭研究会

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by sumus2013 | 2015-06-06 20:28 | 文筆=林哲夫 | Comments(0)

西荻街角ミニミニ古本市

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□名称:【西荻街角ミニミニ古本市】
□日時:2015年6月6日(土)・7日(日) 11時〜19時
□参加店 ※敬称略
 聖智文庫 (神奈川・藤沢 http://www5.ocn.ne.jp/~syouchi/)
 古書善行堂 (京都 http://zenkohdo.shop-pro.jp/)
 林哲夫 (京都 http://sumus.exblog.jp/)
 古書あやかしや (広島・ネット古書店 http://homepage1.nifty.com/maiden/)
古本屋ツアー・イン・ジャパン

盛林堂のきまぐれ店番日記


リチャード・ミルトン、F.E. ベンソン、コリンス+ヂツケンス『幽霊船』今日泊亜蘭翻訳怪奇小説コレクション(書肆盛林堂、二〇一五年六月六日)も届いた。「今日泊亜蘭インタビュー」が抜群に面白い。例えばこういう発言。

《それから、エリザ・オルゼシュコってポーランドの女流作家の小説を、エスペラント語から訳した本を一冊出しました。その頃は紀伊國屋はまだ炭屋で丸善もそんな本は置かない、東京堂にエスペラント・コーナーがあってね。ポーランドの他にブルガリヤやハンガリーの本が大分エスペラント語になってたね。オルゼシュコの小説はSFじゃないけどいい話でね。》

今日泊の訳したオルゼシュコ(エリザ・オジェシュコヴァ)は『慈愛夫人』というタイトルらしいが、さすがに(?)検索しても出てこない。オルゼシュコは『女の運命』が大正三年にすでに翻訳紹介され、同じ作品が『寡婦マルタ』として昭和二年に刊行されてよく読まれた(清見陸郎訳、改造社、昭和四年に改造文庫に入る)。紀伊國屋書店が炭屋というのだから今日泊の翻訳もこの時期だろう。とすると十七か十八歳である。

後藤斉「『寡婦マルタ』とその受容」

《佐藤春夫のところへ行ったんですよ。春夫は、僕の親父の水島爾保布とは同人誌なんかやってた仲間で、子供の頃から知っててね。子供時分に、川路歌子さんに連れられて春夫の所へ行ったことがある。タバコ屋の二階か何かで、机に向かってキャラメルをしゃぶりながら小説を書いていたのを覚えてる。それが、子供の僕が側にいても、ひとりでキャラメルを喰ってて、呉れねえんだよ。歌子が「あんたねえ、坊やがいるのにキャラメルのひとつもあげないって法はありませんよ」とか言ってね。春夫が「ああ、そうか」って言って、キャラメルを二つ呉れたっけ(笑)。》

書肆盛林堂

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by sumus2013 | 2015-06-05 21:37 | もよおしいろいろ | Comments(0)

河岸の古本屋

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本棚の整理をしている。今回は思い切って文庫本を大方処分してグッと数を減らすつもりだが、昔買った本ほど線引きがあったりして(ということは読んでいるのだ。まったく記憶に無いけど……)、古書としても流通できそうにない本が多いのに閉口している。もともと安いボロ本しか買ってないし。(七月のメリーゴーランド京都では例によって、いや例年以上に大放出しますので御期待ください)

村松剛『評伝アンドレ・マルロオ』(中公文庫、一九八九年九月一〇日)。この本にも最初の方に何箇所か鉛筆の線が見えた。チェッと舌打ちして、消しゴムを取り上げたのだが、印をつけたところを読んでみるとなるほど面白い。ただしそこにしかマークはなかった。他は読んでいないようだ。

マルロオはパリのエコール・デュ・テュルゴ(高卒というより中卒くらいの感じだろう。後年のマルロオは一流高校のリセ・コンドルセを卒業したと詐称していたそうだ)を一九一八年に卒業。本屋で働いていた。【引用文では例によって改行を一行アキに変えた】

《マルロオは小さな本屋に働き口を見つけた。本屋はマドレーヌ広場の、マドレーヌ寺院に向かって左手にあって、主人の名をルネ=ルイ・ドワイヨンという。

 ドワイヨンは一九一七年の末から、稀覯本や高級文学書専門の貸本屋を経営していたが、のちに稀覯本の復刻、出版を思いたった。そのためには、稀覯本をさがし出してくる助手が必用である。その助手として雇われたのが、マルロオだった。

 そのころマルロオは、セイヌ河の反対がわの、ラスパイユ通りに面するアパルトマン(オテル・リュテシア)に住んでいた。彼は朝、家を出てパリの本屋を歩きまわる(セイヌ河の露店の古本屋を歩くときには、ここの店開きは遅いから午後になった)。十一時にドワイヨンの店にあらわれ、調査結果を報告し、代金と報酬とを請求し、翌日まで姿を消す。

《貧乏な、第一次大戦の戦後派青年である。ルネ=ルイ・ドワイヨンは、この助手の有能さによろこんでいた。青年の事務的な態度や、冷たい皮肉な表情には閉口したらしい。それでも話をしているうちに、次第にうちとけてきた。彼は本の出版のほかに、一九二〇年の春から新しい文学世代にねらいをつけた月刊雑誌を刊行することにしてた。その雑誌に、何か書いてみないかと、ドワイヨンはマルロオにいった。雑誌の名は「ラ・コネッサンス」である。

この後マルロオはダダ世代の弟分として活躍を始めるのだが、詳しくは本書をご参照あれ。

もう一冊、アナトール・フランス『シルヴェストル・ボナールの罪』(伊吹武彦訳、岩波文庫、一九七五年七月一六日)にも線引きがあった。昔の小生は本文の文章に沿って線引き(傍線)することはせず、天のマージンに行頭をつなぐような横線を引く、あるいは山形線、または一本線をピッと行頭から上に引く、といったようなマーキングをしていた。だから消すのは割と簡単だし本文には消しゴムがほとんどかからない。しかし数が多いと、なんでこんなにチェックしたんだろう! とわがことながら舌打ちが出る。『シルヴェストル・ボナールの罪』は何箇所もあるので消すのは諦めた。なお現在は九分九厘線引きや書き込みはしない(読み潰しのつもりでかかる本だけ)。

《あらゆるものに限りない柔らかさを与えるほのかな灰色の朝、私は窓越しにセーヌ河やその河岸通りを眺めるのが好きである。かつて私はナポリの入江に澄み切った光をなげる紺青の空を見たことがある。しかしわがパリの空にはもっといのちが、情けが、霊が通っている。パリの空は人の目のようにあるいは笑い、あるいは脅かし、あるいは愛撫し、あるいは悲しみあるいは喜ぶ。》

《古本屋が手すりの上に古本の箱をおく。上っ張りを風になびかせ、いつも家のそとに暮らしているこの善良な精神のあきんだたちは、雨露風雪にきたえられて、ついには大寺院の古い石像そっくりになってしまう。これはみんな私の知り合いである。私はこの人たちの箱の前を通るごとに、ないとは夢にも知らなかったのにしかも今まで蔵書にはなかった古本をたいてい何かしら抜いてくる。》

《ところが情熱はやはり私を悩ましている。世に忘れられた一僧侶の筆になる数ページ、ペーター・シェーファーの名もない徒弟が刷りあげた数ページのために眠られぬ夜が幾夜かあった。もしこのうるわしい熱情が私のなかに消えて行けば、それは私自身が次第に消えて行くことになる。われわれの情熱はわれわれ自身である。私の本は私である。私は古本のように老いしなびている。》

あるいは

《私にとってこの世界には言葉のほか何もないほど私は語学にこりかたまっている。人間はそれぞれ買ってに人生の夢を見るものである。私は書斎のなかで人生の夢を見てきた。いよいよこの世を去るべき時が来たら、どうか本をならべた書棚の前の梯子の上で死なせていただきたいものである。》

伊吹武彦の翻訳はじつに調子がいい。一説によれば伊吹はまったく辞書を開かず、自分の原稿を書くようにスラスラ翻訳していったと言われている。正確かどうかは原文と較べなければ分らないが、日本語で読む分には心地よい筆致である。原文で読んでみたくなった。

なお「古本屋が手すりの上に古本の箱をおく」とあるのは昔は毎朝古本を運んできていたため。現在は常設の緑色の箱が置かれている。また最後の引用にある「書棚の前の梯子」とは以前紹介した平凡社ライブラリーの表紙絵のようなものだろうか。

鶴ヶ谷真一『増補書を読んで羊を失う』



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by sumus2013 | 2015-06-05 21:34 | 古書日録 | Comments(0)

新宿駅

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郵便はかき「新宿駅」(『主婦之友』第十六巻第九号付録、一九三二年九月一日)。説明文にいわく

《新宿駅は、震災後の新宿界隈の発展に応じて、つい二三年前に新築されたものですが、今日では既に狭隘を感じるようになり、大新宿駅改築のことが、計画されてゐるさうであります。現在では新宿駅が一日に呑吐する乗降客は、東京駅よりも上野駅よりも大阪駅よりも断然多く、日本一の数字を示してゐます。》

『新宿駅八十年のあゆみ』(オリコミ、一九六四年)によれば昭和五年当時における新宿駅の一日平均乗降客は十八万四千七百人(中央線、山手線、小田原急行電車、信州・甲府からの乗客を合わせる、『東京日日新聞』昭和五年六月二日の記事による)。ただしウィキ「新宿駅」の東京府統計によれば昭和五年度は国鉄と小田急を合わせても86755人。

《2013年度の各社局における1日平均乗降人員を合算した値は約335万人となり、日本のみならず世界一の乗降人員を誇る駅である。ただし、この値は京王新線・都営新宿線間の相互直通人員、および都営地下鉄線間の乗換人員を含んだ値である。開業当初の乗車人員が1日平均36人であることから(降車人員が同じ36人と仮定すると)約5万倍にまで膨れ上がった計算になる。

2008年に副都心線が開業した影響で、一部の旅客が新宿三丁目駅に分散されたため、2007年度をピークにJR東日本および東京メトロを中心として利用客数は減少傾向にある。》(ウィキ)

その新宿駅も明治十八年三月一日に日鉄(日本鉄道会社)の品川線(赤羽〜品川)の営業とともに開業したときには一日平均の乗降客はたったの三十六人だったとは、まるで田舎の駅だった。新宿停車場の図。

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時代が不明だが、同書より「昔の新宿駅ホームの売店」
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そして次はやはり同書より「大正14年5月1日新築の国鉄新宿駅」。建物が奇麗に塗装されているのが目立つ。というのは最初の昭和七年の写真ではすでに建物がかなり汚れている。《つい二三年前》ではなく、正しくは丸六年前に新築されたものだった。昭和七年のバスは省営バスのようだ。説明文にある大新宿駅改築》は昭和八年に開始され昭和九年に竣工した。下はおそらくその頃の写真であろうか。昭和二十年に戦災を受けたが昭和三十七年に取り壊されるまで持ちこたえた。

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武蔵野美術大学は中央線国分寺から西武線で鷹ノ台下車。在学中はそこに下宿していた。ということで学生時代には新宿がもっとも身近な繁華街だった。映画は武蔵野館も含めたいてい新宿で見たし、新宿将棋センターにもけっこう通った。歌舞伎町に実家のある友人もできたし。その次に親しいのは上野駅、すなわち美術館・博物館通い。次が池袋か。西武美術館ができてからだが。そして帰郷上京の玄関である東京駅。当時(一九七〇年代後半)は御茶ノ水辺りもよくは知らなかった。卒業して阿佐ヶ谷にしばらく住んでいたころからおりにふれ神田をぶらつくようになった。むろんまだ美術雑誌のバックナンバーや安い図録を探すだけの古本初心者だったのだが……。


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by sumus2013 | 2015-06-04 21:04 | 古書日録 | Comments(0)

資本主義的グローバリゼーション

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2015年6月30日発行

著者 マーティン・ハート=ランズバーグ
訳者 岩佐和幸
装幀 林 哲夫

発行所 高菅出版
http://www.takasuga.co.jp

210×148mm


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by sumus2013 | 2015-06-03 19:56 | 装幀=林哲夫 | Comments(2)