林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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武庫川の雲

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神戸へ。ギャラリー島田での「本への偏愛」出品作を持参。その帰途、街の草に立ち寄る。昨年十一月以来。加納さん、「どっこも悪いとこないよ」と笑っていた。会えるときに会っておかないとね。「最近、Mさん、来てへんよ、元気?」とのことです、Mさん。

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本棚整理中のためとくに何かを求めたわけではないが、あれこれ引っ張り出して見せてもらう。詩集や詩の雑誌などは珍しいものが、堆積物の下からヒョッコリ現れたりするので油断はできない。戦前のカメラ雑誌が何冊か。しばらくあれこれ雑談。一九八五年開店とのこと。三十周年ではないか!


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by sumus2013 | 2015-06-21 20:04 | 古書日録 | Comments(4)

古書店紀行2 アスタルテ書房

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『ARE』第二号(AREPRESS、一九九五年二月一日、表紙=林哲夫)に「古書店紀行2」としてアスタルテ書房佐々木氏に登場してもらった。山本善行と二人で移転後の御幸町の店舗でいろいろお話をうかがった。……中古レコード店は同じフロアだったのか。

《山本 澁澤さんの文章にも残っていますね。あの三条の店のロビーが、ガラス張りになっててね、三条通りが見えて、という文章が確か。
林 私も開店当初、山本芳樹さんに教えていただいてお邪魔しました。
山本 あそこの店が初めてですか?
佐々木 そうです。
山本 あれだけのお店するときにはある程度個人で集められた本ゆうのがあったわけですか。
佐々木 ええ、ぼくがやっぱり中学生のころから古本屋行ってましたしね。当時だから文庫本とかそんなもんしか買えなかったけど、ほんと好きだったんですよ。で、十二年ぐらい前かな、まずあのスペースがありまして、友人が中古レコード屋をやるというのでそのスペースを分けて…。で、自分が今まで買っていた本と、後に妻となる人がいるんですが、その人がけっこう私と傾向が似た本を買っていたんですよ。三島由紀夫とか澁澤さんも、そのへんから、まずダブった本から店へ出して、だから開店したときは棚はスカスカでした。
林 澁澤さんとはどういうきっかけで?。
佐々木 その前にね、生田先生とお会いしてて、先生の関係で。けっこう澁澤さんは京都が好きだったから、年に二、三回は来られて、お酒も好きだったし。これ皆さん書いてらっしゃるけど、小柄なんですよね。一六〇ちょいぐらいなんかな…、今の奥さんと同じぐらいの身長で、本当にこう胸を張って腕を振り上げて、大きく見えるように歩いてらっしゃいましたね…。
林 NHKで特集があったのを見ると、声がすごいハスキーなんですね。
佐々木 ちょっと違うイメージ持つかもしれないけど、アレしかないっていう感じなんですね。》

《山本 生田耕作先生とは?。
佐々木 店をやる、もちろん前から。結局、店名のアスタルテっていうのも、僕はやはり日夏耿之介とか齋藤磯雄とかね、その辺の影響を受けて、難しい画数の多い読めないような店名を考えていたんですよ、それ一〇箇ぐらいね、ああだこうだと、薔薇十字社やないけど、薔薇ナントカ館とかね、いろいろ候補があったんですよ。で、生田先生がまだ神戸にお住まいのとき、地下鉄の駅で電車待ちしてるときに「今度店やるんですけどもなかなか決定的にいい名前が浮かばなくって」というような話をしていると、生田先生も実は昔、本屋をやりたかった、どうせやるなら古本屋。で、一つ考えていた名前がある。「それは何ですか?」「アスタルテ」…響きはなかなかいいし、あとでふっと残るような…、何回か呪文のように繰り返したら…「これいいですね、もらいました!」ってね。フフフ。漢字にしなくて良かった。もう書くの大変ですよ、ハハハハハ。》

《生田先生が亡くなったときにね、誰に電話していいものか迷ったんですよ。あんまり東京の人に言うのもなんだと思ったんです。だから金子國義さんと…。それと、澁澤さんのお葬式の時は僕一人で行くつもりにしていたんですよ、先生は「彼とは疎遠になってるから行かない」と前日までは言うておられたんですね。前日の晩、自宅に電話かかってきて「僕もフランス文学やってきて、昔からのフランス文学仲間はそんなに居ないし、佐々木さんやっぱりお葬式だけは行くから」と。で、先生と一緒に澁澤さんのお葬式に行った、てゆうことがあったんです。だから澁澤さんの奥さんには電話しました…。》

《山本 佐々木さんはご自宅の本棚にはどんなものを?。
佐々木 それは内緒にしといた方がいいんじゃないですか、ハハハハ。
山本 店の本とは全然違う?。
佐々木 全然違うことはないです。お世話になった生田先生、澁澤さんに関するものは全部あります。澁澤さんのサドだけでも凄い量ですし…。
山本 僕らがね、古本屋さんとお話させてもらって気になるのは、やっぱり本が好きな人が多いですわね、ただ、だから売るとゆうことと自分の所有とゆうことの境目てゆうか、バランスゆうか…、それでここにある本は自分の本とゆう感じがあるんですか。
佐々木 うーん、最初はありましたね。でも商売は商売、店に置いてる本全部自分の目に適ったってゆうわけではないです。ま、かなりそういうセンスみたいなものは気をつけてはいるんですけども。だけど今もこれからも、幸田露伴、尾崎紅葉なんか流行らないんじゃないですか。貫一お宮の世界なんか、日本じゃないてゆう感じでしょ。その点、鏡花ってゆうのは今ちょっと変なブームなんですよ。妖怪、怪奇、幻想の方から…。まあいいんだけど、僕は『婦系図』とか『日本橋』とかね、あっちの方のものが好きなんですよ。本当に今の日本に失われた、奇麗な日本語でね…、本じゃないんだけど、これ一見、背中が本ふうでしょ。『花柳章太郎名舞台選』。古本屋で買った、レコードなんです。シングル盤の大きさなんやけど三三回転、五枚セット。昭和四〇年に亡くなってんですよね。多分その年に出したと思うんです。これがまたいいんですよ。婦系図、滝の白糸、日本橋…。
山本 よく行かれる古本屋とかありますか。
佐々木 行きません。あまり行っても無駄ってゆう感じするので。ただ、たまにこうゆうもんが僕にとっては掘り出しですよ。きっとこれ、売れずにずっと古本屋にあって、これからも先もこういうもんは流行らないと思うんですよ。》

……このくらいで止めておこう。インタービュー当日の雰囲気は今もよく覚えている。三時間くらいじっくり三人で話し込んだ。山本氏の質問が今から思えば意味深長である。下の写真はその日に撮影したうちの二枚。

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by sumus2013 | 2015-06-20 20:43 | 古書日録 | Comments(4)

スミカズ・ひでを展

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マン・レイ石原さんが開店当時のアスタルテ書房の写真を掲載されている。三条通りの河原町と木屋町の中ほど北側、池田屋ビル三階にあった。下の階は中古レコード店ではなかったろうか(同じフロアだったそうです)。

追悼 佐々木一彌

アスタルテ書房は開店(一九八四年八月)のときから知っている。山本芳樹さん(バイロスのコレクターとして知られた)から「知人が京都で古書店を始めますのでのぞいてみてください」という手紙をもらった。どういうわけで山本さんと交流していたかというと、当時住んでいた伏見区で親しくしていた画材店の奥さんが廣政かほるさん(生田耕作のパートナー)と学生時代からの親友だったため、その紹介で山本氏が神戸元町でギャラリーの顧問をしておられたときに個展をやらせてもらったのである。山本氏は神戸における生田グループ(仮りにこう呼ぶだけのことです)の一員だった。もう何年も前に故人となられた山本氏とも数々の想い出がある。ジェントルマンという言葉の似合う数寄者だった。

ということでこちらも第一次アスタルテ書房の展覧会風景を紹介する。これらは大阪で開催したスミカズ展のことを佐々木氏に話したところ、アスタルテ書房における「スミカズ・ひでを展」(一九八五年一〇月二五日〜一一月二〇日)の展示写真を貸してくださった。それを複写したものである。上は生田耕作と並ぶ佐々木氏。

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かなりゆったりした空間だったが、展示の様子でそれがよく分ると思う。壁面の絵はほとんどすべて「ひでを」の作品。三枚目写真左端の絵葉書だけがスミカズ。ショーケースにはスミカズの肉筆スケッチ(大阪街頭風景)六十葉が並んでいたようだが、これは宇崎明夫さん所蔵のものと思う。ひでをの絵は店舗移転の後も最後まで何点か展示されていた。スミカズの画手本も数冊長い間書棚に挿してあった(それは小生がスミカズを調べ始めたころに買い求めた)。日記を検見してみると十一月一日、百万遍の古本まつりの帰りに立ち寄っている。文中「凡画廊」というのは加古川にあった画廊・喫茶。

《大正頃の夢二風な二人の画家の作品を集めた珍しいもの。宇崎純一は、凡画廊でもやったのでわりと知っているつもりだったが、なかなかいろいろと葉書や画手本を出していて、おもしろく感じた。ひでをは不詳の作家で、ちょっとだけ、甲斐庄楠音をおもわすようなところがある。》

マン・レイさんの言及しておられる「ピエール・ルイスの世界」も見ていた。一九八四年八月二九日。最終日である。

《今月オープンしたばかりの美術書の店、自家ビルでゆったりと空間をとり、これからの企画次第ではおもしろい店になるかもしれない。
 そこで'79のみづゑを買ったが、瑛九特集号で、はじめて瑛九の全体像に近いものを知った。すばらしい画家である。

偉そうなこと書いているわりにはショボい買物だ。他には山本氏のコレクションだろうが「バイロスの世界」展も行われている。一九八五年一月。

《『CC夫人の閨房』のオリヂナル本やヘリオグラビュールの諸作および、当時の小説挿画入本など興味深くながめた。蔵書票も良かったが、これらのブック・ワークもなかなかのもの。とりわけ注目したのはバイロスマッペの印字の下に鉛筆淡彩の素描のある一葉である。肉筆には特別な情感がこもっているものだ。多くのかえるに見守られて花環を作る少女(?)の図だが、軽い味わい、雰囲気の好い佳品となっている。なんでも本の間にはさまっていたものだとか。めぐり合わせの妙である。》

このあたりのこと、おぼろげにしか記憶していない。とにかく、古書の世界の奥深さを教えてくれた本屋だった。

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by sumus2013 | 2015-06-19 20:49 | 古書日録 | Comments(0)

アスタルテ書房誄

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今年の初め頃に撮らせてもらったアスタルテ書房。結局、最後にお会いしたのはすでに書いたように五月十六日になってしまった。五月八日に泉鏡花記念館で行われた澁澤龍子さんのトーク「澁澤達彦との日々」に金沢まで出掛けたと楽しそうに話しておられた。日本酒が安くてうまかったそうだ。その無理がたたったわけでもないのだろうが、医者からすぐに入院するように言われているとも。ちょっと待って欲しいと入院を延期してもらっている、肺炎が悪化すると命にかかわる……という言葉通り咳き込む回数が多かったのが気になったのだが、まさかこんなに早いとは想像もしていなかった。

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昔の切り抜きを探し出した。一九九一年一月二九日付朝日新聞夕刊「現代人物誌 アスタルテ書房佐々木一彌[ささきかずや]さん」(文・黛哲郎、写真・住友惇)

《大衆文化の洪水の中にあっておよそ「反時代的」に生きる。三十七歳の若さを考えれば、まことに珍しい存在》

《並ぶ書物もなかなかの凝りようで、シュールレアリスム関係を主に、みなひと癖あるものばかり。海の向こうのバタイユ、ブルトン、マンディアルグ、あるいは荷風、露伴、紅葉、鏡花、谷崎、三島……等々と、あるじの好みを映し出す。
 亡き文学者の澁澤龍彦が、これらの書物をじっと見て「ひとに売るのは惜しい」といったとか。この一言がアスタルテ書房を説き明かす。》

《「ここへくる前に河原町三条でやっていたんですが、その時は看板もあった。そこである程度の顧客をつかんで、こういうぼくのやり方に賛同してくれることが営業的にもわかったんです」
「お客さんの大体は東京で、地元では生田耕作さん(京大名誉教授)ぐらい。広告は出さないという方針を守っているのは、いちげんでこられても困るから。経験からいえるが、店で中年のおばさんなんかにワイワイ別の話をされたり。精神衛生上もわるい。それなら知ってる人だけでいいじゃないか、と」》

河原町三条の店は広かった。そこではたしか生田耕作肝入りの宇崎純一展なども開催されたはずだ(現在の店舗は当時の住居だった)。小生が伏見区に住んでいた頃で、思い返せばいろいろな出来事があった。「広告は出さない」というものの数え切れないほどの各種媒体の記事に取り上げられてきた。百円均一の文庫本や雑本も少しは並んでいたが、それは若い人が来ても何か買えるものがあった方がいいという配慮だと聞いた。反時代的にして心優しい古書店主だった。


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by sumus2013 | 2015-06-18 21:48 | 古書日録 | Comments(2)

アスタルテ書房主死去

三月記(仮題)

訃報 「アスタルテ書房」店主・佐々木氏ご逝去
http://3gatsu.seesaa.net/article/420830976.html
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by sumus2013 | 2015-06-18 11:15 | 古書日録 | Comments(0)

印度の奇術師

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甲賀三郎『印度の奇術師』(書肆盛林堂、二〇一五年六月一六日、表紙=茂田井武)届く。一目まず茂田井の表紙が気に入った。本書はデジタル・リプリントエディション。

《一見この本は、初版本の複写覆刻のようであるが、刊行にあたり、現在可能かぎりのデジタル処理処理のうえ、文字とびなどをデジタル象嵌、文字補正をして編集作業をおこなった。》(善渡爾宗衛)

《「印度の奇術師」は、今日の問題社 昭和十七年八月刊が獅子内俊次の最後の作品となる。初出は雑誌掲載か単行本であるか、不明である。》(同)

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昨日、梶井基次郎の「檸檬」についてややテクニックに走った感じと書いたのは次のような部分である。

《見わたすと、その檸檬の色彩はガチヤガチヤした色の階調をひつそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまつて、カーンと冴えかへつてゐた。》(「檸檬」)

ガチヤガチヤやカーンに頼っているのが気に入らない。と思ったのだが、オノマトペに頼るというのは、別に悪いことではないのかも知れないと、本日、本書『印度の奇術師』を読み始めて考え直した。

《所が、中はしーんとしてゐる。午後十時過ぎ、亭々と聳える杉林の中で、天地万物は静まり返つてゐるから、もし車の中に人がゐれば、呼吸遣ひが聞こえる筈である。然し、中はしーんとしてゐる。》(『印度の奇術師』)

二度現れる「しーん」。しーんは静寂を表わすオノマトペ(?)である。漫画でおなじみ。手塚治虫はこう言っている。

《「音でない音」を描くこともある。音ひとつしない場面に「シーン」と書くのは、じつはなにをかくそうぼくが始めたものだ。》(『マンガの描き方』光文社、一九七七年)

シーンはもちろん手塚治虫が考え出したのでないことはこの昭和十七年の『印度の奇術師』に用いられているから明らかである。漫画のなかで最初に応用したという意味なら再考を要するが。

管見では嘉村礒多「秋立つまで」(一九三〇年)の冒頭に《界隈はシインと鎭まつてゐた》と書かれているし、幸田露伴「観画談」(一九二五年)はオノマトペ中心に書かれた作品で、尾形亀之助「ある来訪者への接待」さえ連想させるが、「シーン」(岩波文庫一九九三年版による)もちゃんと登場している。もっと古いところで森田草平「煤煙」(一九〇九年)に《四邊[あたり]が森[しん]とする》ともある。《森と閑か》は漱石の「門」にも出ている。また円朝「怪談牡丹灯籠」(若林玵蔵筆記、一八八六年版)では《一瞬世間が寂[しん]と致し水の流れも止り草木も睡る》とある。

漢語には「沈沈」(シンシン、チンチン)という表現があり「水の深いさま」「静まりひっそりしたさま」「夜のふけゆくさま」「小さい音の静かに聞こえるさま」などを意味している(『字源』)。白川静『字統』によれば「沈」は本源的には人を犠牲として水底深く沈める呪術行為を示すものであったらしい。こうなると静けさも身にしみる。

オノマトペは古くて新しい、新しくて古い表現。オノマトペア(onomatopoeia)とはギリシャ語で「言葉を作る」ことを意味するそうである。そこにやや安易さが見えるような気がするのだが、ただ、効果は抜群だ。

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by sumus2013 | 2015-06-17 20:32 | おすすめ本棚 | Comments(0)

梶井基次郎全集

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高桐書院版『梶井基次郎全集』についてムッシュKこと柏倉先生が書いてくださった。昨日ここで梶井を取り上げたのは全くの偶然である。

梶井基次郎全集Ⅱ ムッシュKの日々の便り

柏倉康夫『評伝梶井基次郎』

ということで久しぶりに架蔵の高桐書院版『梶井基次郎全集』第一巻(一九四八年二月一〇日)と第二巻(一九四七年一二月二〇日)を取り出した。薄い白っぽいカバーがあるべきなのだが(カバーは文字だけの意匠)、そしてカバー付きも持っていたはずなのだが、今はこれしか見つからなかった。題字は川端康成である。淀野は川端とは湯ヶ島で知り合って以来ずっと家族付き合いをしていた。

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検印は「隆印」で編纂者淀野のもの。左、第一巻の巻末遊び紙にエクスリブリスが貼付されている。Y.ODE と読めるように思うが「O」ではないかも?

ざっとめくっていて「「檸檬」を挿話とする断片」がふと目に付いて読み進めていると当然ながら丸善のくだりにさしかかった。

《そしてその末丸善へ入つた。
 その日は常に私を楽しませてくれたオードコロンの赤い壜もその洒落た切子硝子のスタイルも私を喜ばさなかつた。私はいつも見る古くからあるアングルの分厚の本の写真版を見よう[ママ]としたが、それも手にした瞬間開くのが億劫になつてしつた[ママ]。そして私は心に變なたくらみを抱いた。》

と、ここで「檸檬」の方はどうなっていたかな? という考えが浮かび、巻頭に置かれた「檸檬」の丸善に入るあたりを探してみた。すると、次のようにあった。

《何處をどう歩いたのだらう、私が最後に立つたのは丸善の前だつた。平常あんなに避けてゐた丸善が其の時の私には易々と入れるやうに思へた。
「今日は一つ入つてみてやらう」そして私はづかづか入つて行つた。》

おや? 丸善についてまったく逆のことを書いている。《常に私を楽しませてくれた》と《平常あんなに避けてゐた》……どっちなんだろう。

そしてもうひとつの「檸檬」のヴァリアントである「瀬山の話」へとページをめくって行った。こんな風に書かれている。

《舞台は變つて丸善になる。
 その頃私は以前あんなにも繁く足踏した丸善からまる切り遠ざかつてゐた。本を買つてよむ氣もしないし、本を買ふ金がなかつたのは勿論、何だか本の背革や、金文字や、その前に立つてゐる落ちついた学生の顔が何だか私を脅かすやうな氣がしてゐたのだ。》

なるほど、以前は楽しかったが、最近は苦しくなって遠ざかっていた、そういうことか。そして「瀬山の話」ではこの後さらに丸善に入ることが享楽だった頃の様子を細かに描き足している。それは「「檸檬」を挿話とする断片」で簡略化され、さらに「檸檬」ではあっさりと数行で片付けられる。

この推敲は彫像が削られてだんだんジャコメッティの棒人間みたいになるようでもあるが、「檸檬」の形が必ずしもベストだとは思えない。ややテクニックに走った感じがある。『青空』掲載で紙数の都合もあったのかもしれない。

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by sumus2013 | 2015-06-16 21:05 | 古書日録 | Comments(6)

梶井基次郎小説全集

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『梶井基次郎小説全集』上下巻(作品社、一九三七年三月五日)。作品社の本はある程度集めているが、これはごく最近入手したもの。

作品社出版目録(初稿)

リストにもあるように前年の昭和十一年に函入上製本(下図)が刊行されていた。その普及版ということでシンプルな装本になっている。それがまたいい。作品社にはこういう二段構えの出版が多いようだ。

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久しぶりにあちらこちら梶井を読み返す。青春時代のなんともやりきれない焦燥感に胸がムッとするほど。例えば「ある心の風景」より「四」。テキストは作品社普及版に拠る。

喬は丸太町の橋の袂たもとから加茂磧へ下りて行つた。磧に面した家々が、其處に午後の日蔭を作つてゐた。
 護岸工事に使ふ小石が積んであつた。それは秋日の下で一種の強い匂ひをたててゐた。荒神橋の方に遠心乾燥器が草原に轉つてゐた。そのあたりで測量の巻尺が光つていた。
 川水は荒神橋の下手で簾のやうになつて落ちてゐる。夏草の茂つた中洲の彼方で、浅瀬は輝きながらサラサラ鳴つてゐた。鶺鴒が飛んでゐた。
 背を刺すやうな日表は、蔭となると流石秋の冷たさが跼つてゐた。喬は其處に腰を下した。
「人が通る、車が通る」と思つた。また、
「街では自分は苦しい」と思つた。
 川向ふの道を徒歩や車が通つてゐた。川添の公設市場。タールの樽が積んである小屋。空地では家を建てるのか人びとが働いてゐた。
 川上からは時どき風が吹いて来た。カサコソと彼の坐つてゐる前を、皺になつた新聞紙が押されて行つた。小石に阻まれ、一しきり風に堪へてゐたが、ガックリ一つ轉ると、また運ばれて行つた。
 二人の子供に一匹の犬が川上の方へ歩いて行く。犬は戻つて、ちよつとその新聞紙を嗅いでみ、また子供のあとへついて行つた。
 川の此方岸には高い欅の樹が葉を茂らせてゐる。喬たかしは風に戦いでゐるその高い梢に心は惹かれた。稍々暫らく凝視つてゐるうちに、彼の心の裡のなにかがその梢に棲り、高い氣流のなかで小さい葉と共に揺れ青い枝と共に撓んでゐるのが感じられた。
「ああこの氣持」と喬は思つた。「視みること、それはもうなにか[三字傍点]なのだ。自分の魂の一部分或ひは全部がそれに乗り移ることなのだ」
 喬はそんなことを思つた。毎夜のやうに彼の坐る窓邊、その誘惑――病鬱や生活の苦澁が鎮められ、ある距りをおいて眺められるものとなる心の不思議が、此處の高い欅の梢にも感じられるのだつた。
「街では自分は苦しい」
 北には加茂の森が赤い鳥居を點じてゐた。その上に遠い山々は累つて見える。比叡山――それを背景にして、紡績工場の煙突が煙を立登らせてゐた。赤煉瓦れんがの建物。ポスト。荒神橋には自転車が通り、パラソルや馬力が動いてゐた。日蔭は磧に伸び、物賣りのラッパが鳴つてゐた。

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黄変した新聞の切り抜きが挟まれていた。朝日新聞の「一冊の本〈236〉小島信夫」。梶井基次郎小説全集を取り上げている。東大生だった小島は中村真一郎に黄色い布張りの梶井基次郎全集(六蜂書房、一九三四年)を見せた……

《あれは本郷の大学に入りたてのころだった。それまで私が座右においていたのは、作品社刊、普及版の梶井基全集二巻であった。しかしこの二巻にはない文章がはいっていたのと、梶井の写真や筆跡がのっていたので、この豪華本の古本を神田で四円五十銭で手に入れ、喜んでいたのだろう、と思う。》

一高のとき友人の沢木譲次に《武蔵野書院(?)から出ていた普及版ふうの『檸檬』(れもん)》を見せられすっかり傾倒してしまった。《普及版ふうの『檸檬』》とは武蔵野書院・稲光堂が昭和八年に出した『檸檬』だろうか?

《しばらくして(昭和十二年三月)作品社から二巻本が出た。
 フランスふうの軽装本でコットンふうの紙質のものだった。私はこの本と心中したいような気持になった。》

《実は、この作品社刊の普及版の紙と梶井の小説とが、切りはなすことが出来ないようにピッタリと合っていて、それ以前、それ以後のほかのどの本を見ても、それだけの効果はあげていない、ということをいいたいのだ。これは私だけの感想だろうか。》

小島信夫のこの感想は貴重である。そのくらいこの本を愛した青年がいた。梶井の作風とこの装幀がピッタリかどうか、作品社の普及版の多くはこのシンプルな装幀なので、作品社本に詳しくなると、単純にそうは思えなくなる。しかし小島の意見を作品社を切り盛りしていた小野松二が聞いたら、きっと言葉を詰まらせるのではないかと夢想したりもする。


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by sumus2013 | 2015-06-15 20:54 | 古書日録 | Comments(2)

創作時代

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『創作時代』第二年第八号(文藝聯盟社、発行兼編輯人=中口秀人、一九二八年八月一〇日)《表紙及びカツト……澤壽郎・白土直哉》。

しばらく前にこんな雑誌がありますと某書店さんに見せてもらった。作品社の小野松二が寄稿しているので教えてくださったのだ。「「1928」に就いて」と題して小野が編集していた同人雑誌について記している。1928』の詳細は『サンパン』に連載した拙稿「小野松二と作品社」のその一およびその二に書いているのでここでは省く。手短かに言えば小野と京都大学の文科(小野は英文科撰科卒)でいっしょだった五人の仲間そして在学中の一人が昭和三年三月に創刊した同人雑誌である(小野と同時に英文科の撰科を卒業した者に寿岳文章がいるが、ここには参加していない)。

《我々も亦、嘗ては京大予科の学生であつた時の友情と、文学的情熱によつて、お互にお互の自由を尊重しながら、お互に自由にその翼を展さうとしてゐるのである。》(「1928」に就いて)

撰科でなく「京大予科」とあるのが気になるが、まあこだわっても仕方がない。小野の原稿は同人雑誌の在り方を批判的に書いたもの。

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ただし『創作時代』の編集者の希望はそれとは少し違っていたようだ。同年、この誌名をめぐってちょっとした事件が起こっていた。
1928』創刊直後に『一九二八年』という紛らわしい名前の別の雑誌が取次の登録を先に済ませてしまったため1928』は取次に扱いを断られたというのだ。

《僕に与へられた問題には、もう一つ「1928」の編輯、経営、傾向、抱負等の「等」が残つてゐる。この「等」でもつて本誌の編輯者は僕に何をいはせようとしたのか。聡明な彼は、或は僕に「1928」が創刊されて間もなく、わざわざ「千九百二十八年」と改題した雑誌をやつつけろといふつもりだつたかも知れない。併し彼は「1928」の相手としては余りに反響のない傍流的な雑誌であることが明らかになつた。だから今まであまりにも問題にしてゐたことが寧ろ大人気なかつた位に思つてゐる。はじめから黙殺すべきだつた。(病床にて)「1928」に就いて)

この文章は様々な内容を含んでおり『サンパン』連載その二に書いた文章の訂正を迫るものがある。例えば『千九百二十八年』というタイトル。拙稿では第五号のタイトル
『一九二八年』を採用しているが、第一号は
千九百二十八年』という表記だったのかもしれない。改題した》にもひっかかる。改題ということはそれ以前は別の名前で出ていたということだ。

また(病床にて)とあるのも気になる。小野は十代のときに肋膜炎を発しており、何度も入院、療養していたようだが、昭和三年にも病臥していたのである。

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『創作時代』の目次。「同人雑誌の経営・編輯・傾向・抱負」特集は参考になりそうだ。他には稲垣足穂が「八月の朝のちよつとした話」を寄稿している。カナブンは所蔵。



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by sumus2013 | 2015-06-14 21:21 | 古書日録 | Comments(0)

霜蟹その他

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中川一政装幀のつづき。高浜虚子『霜蟹』(新聲閣、一九四二年)の表紙。ある古本屋さんがわざわざ台紙に貼って送ってくれた。「こういうの好きでしょ?」「好きです」。『霜蟹』には洋紙本の他に和紙特製本があり、後者にはそこそこいい値段が付いている。蟹さんだけでもちょっと渋い額に入れて飾りたいな…と思った、が、そのまま櫃底に眠って何年にもなる。やっとふたたび陽の目を見た。


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「俳優座パンフレット『中橋公館』」(劇場通信社、一九四七年五月一日)。真船豊原作。原作単行本(櫻井書店、一九四六年)は青山二郎の装幀だ。


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『国民演劇』第一年第九号(牧野書店、一九三一年一一月一日)。


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『囲碁春秋』第九号(岩谷書店、一九四八年一一月二〇日)。初期『詩学』の版元・岩谷書店は囲碁雑誌も出していたのか!

本誌に「GIと東洋的微笑」という一ページのコントがある。これが昭和二十三年頃の風景として興味深い。三人の先生(棋士のこと)が日本棋院を出たのは夏の夕暮れ時だった。ここで言う日本棋院は昭和二十三年に港区高輪に再建された本部を指すのだろう(昭和四十六年に現在地市ヶ谷に移転している)。三人の先生は酔っ払いのGI(アメリカ軍人の俗称……俗称だったんですね)にからまれる。

《この詩情豊かな夕暮の一刻を三分も歩いたでせうか、三先生は突如「ヘイジョー」なる余り聞き慣れぬ一語によつて、我にかへりました。ハツとして前を見ると何時の間に現れたのかあちらの兵隊さんが一人眼の先に立つてゐるではありませんか。三先生が一通りびつくりし終つて、更にその兵隊さんを仔細に点検すると、この兵隊さんは一杯きこしめして人生が大いに楽しくなつてゐることが判りましたこんな際如何に処すべきかは終戦後引続き生存を継続してゐる日本人なら当然心得てゐる筈です。で三先生はニツコリ笑つたのです。つまりラフカデヨ・ハーンがいみじくも「オリエンタルスマイル」と名づけたかの日本的含蓄に富む微笑を。》

……とまだこの後もドタバタが続くがそれは省略。「ヘイジョー」というのがいかにも占領下という感じ。「ジョー Joe」はアメリカ白人が黒人を呼ぶときに使う。ジョーは名前であって名前でない。アジア人全般に対しては普通グーク gook というようだが、このGIがジャップとは言わずジョーと言ったのはあるいは友好的に呼び掛けたのかもしれない(?)。

ついでに人種対抗の蔑称といえば、黒人は白人のことをウィリー、メキシコ人は白人のことをグリンゴ、ハワイ原住民は米本土の白人のことをハオリーと呼ぶそうだ。またメキシコ人はスペイン人のことをガチュピンと呼ぶ。ガチャピンって!(もちろん時代とともに変っているとは思いますが)

『ドン・キホーテ』には村々がそれぞれ蔑称でののしりあうことを諷したくだりがあるが、トレード人は「なすび作り」、マドリード人は「ぐじらわらんべ」、セビーリャ人は「石鹸づくり」などと呼ばれたそうだ(会田由訳)。やれやれ。

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by sumus2013 | 2015-06-12 21:01 | 古書日録 | Comments(0)