林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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日本名所図絵3

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上田維曉(文斎)著作・青木恒三郎校正『内国旅行日本名所図絵 巻之一 五畿内之部』(嵩山堂、一八八九年一一月二九日発行)。本書には奥付が二枚あり、早い方は明治二十一年十月三日発行としてあり、定価金三十銭。遅い方が明治二十二年十一月二十九日発行で金四十銭。どうやら巻末に新しい奥付を貼付けただけように見受けられる(ということは再版ではなく単なる値上げ)。

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『近代大阪の出版』(創元社、二〇一〇年)をどこに仕舞ったか、ここ数日捜していた。嵩山堂についての論考を読み返そうと思ったわけだが、少し前に本棚整理で移動したため行方不明になっていた。やっと発見。

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そこに収められている青木育志「青木嵩山堂の出版活動」より、適宜引用してみる。

青木嵩山堂は明治一〇(一八七七)年代半ばから大正一〇年(一九二一)頃まで活動した。

《始まりの時期は明らかではない。大坂府立中之島図書館発行の『大阪本屋仲間記録』では明治一三年(一八八〇)一月六日、青木嵩山堂の創始者である青木恒三郎が入会届けを出したことが記述されている。

青木嵩山堂の経営者は青木恒三郎で、文久三年(一八六三)生まれ、大正一五年(一九二六)死去の人物である。恒三郎は上田家の出身であり、大阪の町医者で薬局経営の上田文斎の三男であった。上田家は代々蘭学の町医者であった。

文斎の次男上田貞次郎は家業の薬学の知識があり、関西薬学校(大阪大学薬学部の前身)を設立、初代校長を務める一方、心斎橋筋北詰に写真材料店を開業した。自ら写真を写し、写真の収集と聖書の収集で知られる。》

上田貞次郎はママ。本ブログでも上田貞治郎の著書『実地製造化学』を先日紹介したところ。恒三郎は自身で執筆もし、また親兄弟の本を出版していたわけだ。

貞次郎の弟恒三郎は大阪の青木家に養子に入り、出版業「青木嵩山堂」を起こした。そして心斎橋北詰と東京日本橋に店を出した。

《恒三郎は出版業で成功し、その資金で不動産売買や骨董収集に精を出した。》

《「嵩山堂」という商号は、もちろん中国の「嵩山」からとっている。》《「青木」嵩山堂としたのは、多くの同時代の他の「嵩山堂」から自己を区別するためであった。志賀直哉の『暗夜行路』によれば、東京日本橋の青木嵩山堂の近くに「小林」嵩山堂があった。明治出版の研究者によれば、小林嵩山堂は江戸時代から続いていた老舗らしい。》《それから言えば、どうも青木の方が小林を真似したというのが真相らしい。》

おそらくここで言う小林嵩山堂は小林嵩山房であろうかと思うが確証はない。

青木嵩山堂は出版、印刷、小売りを兼業していた。書店としては他社の出版物も扱った(洋書も含む)。通信販売を他に先駆けて行った。出版目録をほぼ毎月発行していた。雑誌以外のあらゆるジャンルの出版物を扱った総合出版社であった。文芸における代表的な出版物では幸田露伴『五重塔』、村上浪六『当世五人男』、黒岩涙香『噫無情』など。

《自社発行件数は大正七年では約一一六〇件であったが[『大正書籍総目録』大正七年]、明治四四年(一九一一)では約一五七〇件であった(『明治書籍総目録』の明治四四年版)。》

《世界旅行案内書の『世界旅行萬国名所図絵』は経営者の青木恒三郎自身の編集によるもので、七巻シリーズで、明治一八年(一八八五)半ばから翌年末までに順次刊行された。日本旅行案内書の『内国旅行日本名所図絵』は恒三郎の実父の上田文斎(号は維曉)の著になるもので、同じく七巻シリーズであり、明治二二年(一八八九)半ばから翌年末までに順次発行された。いずれも非常な人気であったと言う。

本書の二枚奥付に従えば『日本名所図絵』の初刊は明治二十一年のようである。なお、おそらくが文斎であろう。

『大正書籍総目録』から言えば、大正七年から一二年の間に廃業したらしい。『大正書籍総目録』では、大正七年版には社名が載っているが、大正一二年版には載っていないからである。前掲の湯川本[湯川松次郎『上方の出版と文化』]では、大正一〇頃廃業したとの記述がある。

廃業の理由については青木の後継者が出版業を嫌ったからという湯川松次郎説を採りながらこう結論している。

《前掲の湯川本では次のように記されている。すなわち、「かくして商状は益々盛大だったが、(青木恒三郎)氏に二人の娘があり、その婿君は二人共高商出身だったが、双方とも出版業を嫌ったのか、氏の意向であったのか、大正一〇年ごろ出版物の紙型及び在庫品の一切を市会開催して売払い閉店して終った」。》

《これは、いわば経営者・後継者の出版業嫌悪説とでも言うべきものである。湯川の話では婿が二人となっているが、正しくは三人の婿に二人の息子であって、恒三郎本人を入れて六人ともが嫌ったというのが真実のようである。》

潔いとも言えようが、やはり本屋は一代ということなのだろう。以下参考までに巻之一より京阪の主要スポットを描いた銅版画を紹介しておく。

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左「疏水開鑿之景」、右「三条橋之景」


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左「鉾之図」、右「新京極通之景」


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「新京極通之景」拡大


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「梅田停車場之景」


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「心斎橋之景」


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「道頓堀之景」


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「宝塚温泉之景」








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by sumus2013 | 2015-04-09 17:28 | 古書日録 | Comments(0)

書影の森プルーフ

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『書影の森』、最終プルーフが届いた。B5サイズに截断されているのでレイアウトの仕上がり具合がよく分る。インデザインの画面、プリンターでの刷り出し、何度も確認はしているが、モノとしてこういう形で確かめてやっと安心できる。正直、いい感じです。

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臼田さんのテキストはゆったりと組んである。


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個人的に好きなページ。渡邊一夫の装幀ばかり。左上の『楽しき雑談』は渡邊本を集め始めた頃に手に入れたもので思い出深い。まだ神戸に住んでいた。


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吉岡実の装幀本ばかり。一九七〇年代。いずれも布装である。本にとってもまだまだ幸せな時代だった。


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ちくま文庫のページ。岡崎武志『古本でお散歩』は臼田さんの選択には入っていなかったが、デザイナーの特権で入れさせてもらった。実際、すっきりした装幀(南伸坊)で気に入っている。


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間村俊一さん。これは当然臼田さんのコレクションに入っている。間村さんも筑摩とは縁が深い。ちくま新書のフォーマットも担当。


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クラフトエヴィング商會も今世紀になってからの筑摩の顔である。プリマー新書はなんとも爽やか。


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PR誌『ちくま』の全一月号(一九六九〜二〇一四)および復刊号その他を加えて52冊掲載。小生表紙画のものも二点ある。

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「デザイナー・装幀担当者略歴+索引」


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奥付。筑摩の検印紙は数種(三種は確認)あるが、そのうちのを描いたものを貼付けた、わけではなく印刷です。言うまでもなく、この紙は光沢のある校正用の紙で、実際にはナチュラル・ホワイト系のマットな紙に刷る。


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by sumus2013 | 2015-04-08 16:14 | 装幀=林哲夫 | Comments(0)

日本名所図絵2


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上田維曉(文斎)著作・青木恒三郎校正『内国旅行日本名所図絵 巻之三 東海道之部続 一名東京及近傍名所独案内』(嵩山堂、一八八九年五月九日発行)。表紙右下隅に《大阪森川石印》とある。

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題字は「正二位侯爵醍醐忠順卿」。《座視漫遊》とはうまい。本書の特長を端的に表わす四文字熟語。醍醐忠順(だいごただおさ)は幕末の公卿。仁孝、孝明、明治の三帝に仕えた。初代大阪府知事。

東海道の続は箱根からスタート。「THE HOT SPRINGS OF HAKONE」という英文説明あり。「箱根山七湯全景」は絶景なり。

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細部を拡大すると少々荒っぽいが、本のタテが十五センチほどで、この拡大図の実寸はタテ三センチ程度なのだから許してもいいだろう。これ以上細かいとかえって視覚効果は弱くなるかもしれない。

箱根から鎌倉、横須賀、横浜、東京へと旅して千葉、栃木へと旅は続くが、本書は針金平綴じのため開きが悪くそのあたりはスキャンできない。東京の名所いくつかカメラ撮影を試みた。参考まで。

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国会議事堂之景


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滝野川之景
現在の東京都北区滝野川だろうが、名前の通りの景観である。


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教育博物館之景
明治二十二年六月、東京美術学校に土地建物を譲って閉館している。


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新橋之景


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銀座街之景
銀座の柳はもうこのころから見られるようだ。
この絵の雰囲気はパリのシャンゼリゼを思わせる。
新橋も銀座も外国人の姿が目立ったようである。


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両国橋之景
川蒸気「永島丸」が就航していたのは明治十三〜十六年とのこと。

次いで巻末の広告。内国旅行シリーズの以前に『世界旅行万国名所図絵』七巻(および地図)も発行されていた。今気付いたが、この広告では内国旅行の既刊本定価が二十二銭と二十五銭になっている。ところが本書三ノ巻の奥付では四十銭。一ノ巻も二十二銭ではなく三十銭だから広告に偽りありだ。銅板印刷においてはこういった訂正が容易でないから放置していたのだろうか。

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***


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上田維曉(文斎)著作・青木恒三郎校正『内国旅行日本名所図絵 巻之四 東山道之部』(嵩山堂、一八八九年八月二七日発行)。マーブル模様にもヴァリエーションがある。

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右が「三井寺之景」で左が「高観音之景」。「高観音之景」を拡大してみるとこういう感じである。濃淡をはっきりつけて、陰翳や遠近の効果を出している。インクの拭き取り具合で変化をつける。レンブラントなどの作品にも見られる銅版画の伝統的な技法。

第四巻は近江から美濃、飛騨、信濃、上野、下野、盤城、羽前、羽後と北上するコースである。見所少なくないが(例えば富岡製紙工場など)ここでは略する。

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by sumus2013 | 2015-04-07 20:42 | 古書日録 | Comments(0)

日本名所図絵東海道之部

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上田維曉(文斎)著作・青木恒三郎校正『内国旅行日本名所図絵 東海道之部 ILLUSTRATED GUIDE BOOK FOR TRAVELLERS ROUND JAPAN』(嵩山堂、一八八九年一月二七日発行)。


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表見返しのマーブル紙


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右「伊賀之国赤目四十八瀑ノ景」、左「名張川之景」


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右「旅舎樋口之景」、左「走り湯之景」


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青木嵩山堂の本はこれまでも取り上げてきた。明治の出版界では無視することのできない重要な版元である。

吉川登編『近代大阪の出版』
http://sumus.exblog.jp/12890268/

本書も小生架蔵の書籍ではない。某氏より借覧している。某氏いわく

19世紀日本の印刷・造本・装釘の技とセンスとを駆使したシリーズと思います。その割には当時としては一般にも比較的手の出しやすい価格だった、と何処かで読んだ憶えがあります。

端本は偶〜に見かけますが、揃いではなかなかないですね。桐箱入りのを目録で見かけたことがありますが、とても発註を考えられるような値段ではありませんでした。

架蔵のものは、当初7冊組の意外に廉く出ているのを見つけて雀躍求めたところ、予想に反して二+四が欠け、三+六がダブっているものでした。その後抜けている分をそれぞれバラで入手したのですが、でもお蔭で異版も目にすることができましたので何が幸いするかわからないものだと思っております。

昭和49年に中央出版から覆刻版が出ていたようですが、これも今は絶版らしいですね。

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背布の厚表紙。天・地・木口の三方にマーブル模様。見返しも別種のマーブル紙。英文タイトル(本文にも一部英文説明あり)。図版もテキストもすべて銅板刷り。明治二十年代というとまだ写真製版は普及していなかったようだから当然なのだろうが、微細な線による描写が妙な迫真力をもっている。ただ挿絵の元になったのは実景ではなく写真のようである(写真は幕末から実用化されていた)。そこがまた何ともキッチュな取り合わせ。あやしい魅力が溢れている。

定価は三十銭から四十銭。嵩山堂は幸田露伴の小説も出しており『尾花集』(明治二十五年)には定価の記載がないが、『真西遊記』(明治三十五年)は四十銭だ。だいたい同じ価格帯である。これを安いと見るかどうかはともかくとして『日本名所図絵』の方がきっとずっとお得な感じはしただろう。

明日以降もこのシリーズを紹介してゆく。


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by sumus2013 | 2015-04-06 21:15 | 古書日録 | Comments(0)

岡本 わが町

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中島俊郎編『岡本 わが町 岡本からの文化発信』(神戸新聞総合出版センター、二〇一五年四月一〇日)を恵贈たまわった。御礼申し上げます。上の地図は巻頭口絵より「兵庫県摂津国菟原郡 本庄九ヶ村/山路庄三ヶ村 全図」(明治十二年、白い部分が岡本)。凡例の表記がなんとも愛らしい。

《岡本は芦屋と住吉の間にはさまれた、人口一万人足らずの小さな街である。岡本に半世紀暮らし、個人一人ひとりの姿勢、意見、生き方を根本にすえながら、お互いが共有できる「ひとつの歩み」を、本書で示すことができれば、その目的は果たせたと考えていいのではないだろうか。
 これは岡本という町のいわば〈自分史〉、〈個人史〉なのである。郷土史というような大上段に構えるつもりなどさらさらない。しかし、岡本に暮らしてきただけの感想に過ぎない、とは考えてはいない。住民が互いの意見を共有することで、自らを見直すきっかけを提供し、この土地に住むということを確認したいものだ。》(「はじめに」中島俊郎)

神戸に住んでいた頃、ときおり岡本、摂津本山あたりに足を伸ばした。現在のようにいろいろなショップが建ち並ぶという感じではなかったものの、すでにそういうおしゃれな街として発展する途上ではあったように思う。震災(一九九五年一月一七日)の前日にも岡本で昼食を摂り、雑貨店で陶器の小皿などを買った。奇跡的にそのときの器は震災を生き延びた。だから岡本というと震災の前日を思い出す。あの平和な時間が一夜明けると一瞬にして地獄と変じた。

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同じく口絵より橋本桂園「丘本春装」(一八八八)。桂園は堺の人。岡田半江に学び山水花鳥をよくした。

……とそのくらいの岡本体験だったわけだが、本書は歴史、地誌、文化史の面から多くの識者が筆を執り、また古くからの住人の方々が思い出を語っておられる。きわめて興味深く岡本というものを多角的に知ることが出来る本だ。梅林、二楽荘、櫻守、大水害、だんじり…などが繰り返し語られるが、なかでも谷崎潤一郎が八年ほど住んだということが岡本知識人にとっては一種の勲章だということが分る。そしてまたその旧谷崎邸の保存運動が実らなかったこと、これがちょっとしたトラウマになっているらしいことも。

そういう意味では編者の中島氏が少年時代に旧谷崎邸でかくれんぼをしたことから「陰翳礼賛」の著者が明るい住居を好んだという矛盾するようなしないような説を紹介しておられるのがひとしお面白く感じられた。また「蓼食ふ虫」に挿絵を描く小出楢重の元(芦屋)へ出来上がった原稿を運ぶ人がいたというのも、今からでは考えられない話だ。小出は原稿を読んでも、内容に沿った挿絵はつけなかった。小説から受けた印象を絵にしたのだという。

もうひとつ谷崎の思い出として藤岡敏一「岡本に暮らして」のなかでこう語られている。

《谷崎潤一郎は岡本在住時、邸宅から以前岡本駅前にあった郵便局に通っていたのが目撃されています。当時は電話がなく中西商店をよく利用していたそうです。》

郵便局に通ったくらい当たり前だろう。しかしそれが伝説になる。文豪とはそういうものか。たしかに岡本の個人史である。


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by sumus2013 | 2015-04-05 20:47 | おすすめ本棚 | Comments(2)

高津宮観桜会

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恒例の大阪高津宮でのイチジク(一軸)観桜会が開催された。昨日の嵐で満開のさくらはかなり散り乱れたようだったが、それでも好天で人出は少なくなかった。こちら、桜は素通り。会場の富亭へ。主催者の橋爪先生(左の立っている方)と茶旗をかかげる明尾先生。イチジク会の旗である。毎度ながら「清風ではのうて濁風です」と笑いをとる。

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正面の女性の軸は、昭和になってからの甲斐庄楠音。これはいい絵だった。下左は北野恒富。
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同じく珍しい恒富(三点とも)の掛軸の説明をする白沢庵氏。
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宮武外骨コレクションおよび手前は大正時代の挿絵スクラップなど。
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宝井其角(?)の発句、自画。右は藤原俊成の歌切。
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頼春水の書簡(丸川一郎宛)。春水の手紙はほとんどがこのようにびっしり書き込まれているそうだ。
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他にもいろいろ出陳されていたが、このくらいで。そうそう、牛津先生のお嬢様にもお会いできた! 花よりイチジクの一日だった。


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by sumus2013 | 2015-04-04 20:58 | もよおしいろいろ | Comments(2)

悲しいことなどないけれど

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安久昭男『悲しいことなどないけれどさもしいことならどっこいあるさ』(龜鳴屋、二〇一五年一月三一日、カバー絵=鈴木翁二、造本設計=龜鳴屋)。またまた龜鳴屋さんの予想だにできない作品集が刊行された。

龜鳴屋

著者の安久昭男(あんきゅうあきお)氏は一九五七年新潟県生まれ。早稲田大学卒業。表題作で第一回早稲田文学新人賞受賞(一九八五年)。現在は公民館に勤務しながら小説を発表している。

表題作がまた小説とは思えない長篇の散文詩のような饒舌体で成り立っている。敢えて言えばジョイスの「フィネガンズウェイク」を意識したようなダジャレ連発、意識の流れ的な意味のありそうでなさそうな会話、独白がえんえんと続く作品。論より証拠。表題のセリフが連発される部分を抜いてみる。

「北風ブンブン北からブンブンいちもにもなくブンブンブン」
「恋をして詩人になったのだね」
「いらかの波と雲の波ずっと向うにあの子の家が……徒らに昔を思い出さすなよ」
「思い出されるだけが昔の取柄さ」
「夢は今もめぐりて、夢みられるだけが夢の取柄」
「悲しまれるのだけが悲しみの取柄」
「悲しいことなどないけれど」
さもしいことならどっこいあるさ」
「寂しいことなどないけれど」
「わびしいことならどっこいあるさ」
「悲しいことなどないけれど
 さもしいことならどっさりあるさ」
「どっさりでない! どっこいだ」
「悲しいことなどないけれど
 さもしいことならどっこいあるさ」
「寂しいことなどないけれど」
「わびしいことならどっこいあるさ」
「悲しいことなどないけれど
 さもしいことならどっさりあるさ」
「どっこいじゃないのかい」
「どっさりになる場合もある」
「さもしいというのはどれくらいの意味だい」
「そんなことを訊くなそんなことを訊いて耳学問をつけるつもりかい」
「すいません」
「そんな態度が大変さもしい」
「すいません」

……というような調子である。ジョイスというより坂口安吾か中村正常、いや杉浦茂かな、赤塚不二夫? とにかくポップでキッチュでどこか物寂しい情感のこもった作品である。表題作の他に二篇の短篇「んー My Sweet Lord」(『早稲田文学』一九八三年二月号)と「飯豊山行備忘録」(書き下ろし)も収録されている。完成度では「んー My Sweet Lord」がもっとも高い。

面白いのは表紙(カバーではなく)に「早稲田文学新人賞選考座談会」の抜粋が刷られていること。参加者は三田誠広、山川健一、鈴木貞美、立松和平、平岡篤頼。欠席選評が荒川洋治、中上健次。鈴木氏が《彼の持ち味というのは昭和初期のナンセンスとかペーソスに似ていると思うんですが》というのは正しい。日本でもジョイスが流行した時代だ(かなりこじつけてます)。他には平岡が妥当な批評をしているが、中上は全否定。荒川氏の短評がいちばん正直なところか。

安久昭男氏の作は、才気が感じられてたのしめた。会話のことばは妙につくりものめいていて感心しない。小説らしさというものをはねのけているところはいいが、これは体力[二字傍点]のわざ。あまり伸びる人ではない。

妙につくりものめいていて」という評言だが、むろん意識的にやっているので、その意図は「んー My Sweet Lord」の結末においてはっきり分る。この仕掛けは見事に成功している。





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by sumus2013 | 2015-04-03 19:56 | おすすめ本棚 | Comments(0)

画引単語篇

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著述並画・松川半山『童蒙画引単語篇巻一』(梅原亀七、一八七五年二月発布)。ブログ用にと某氏に提供していただいたもの。松川半山、本名は奥安信。大阪西横堀に狂歌師鬼粒亭力丸こと松川為一の子として文政元年(一八一八)に生まれた。画は菅松峰に学び風景画を得意として一家を成し曉鐘成の挿絵など多くの仕事を残している。

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冒頭の題字は易堂寺西鼎の筆。大阪府勧業課長、大阪博物場長などを務めた。本書の内容は子ども向けの絵入り字典である。上に目次をスキャンしておいたのでおおよそ判断していただけるだろう。某氏が提供してくださったいちばんの理由は色の名前、とくに緋色が色刷で示されているため。先日この問題を取り上げたばかり。

緋色について

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印刷がちょっと暗い感じにはなっているが《緋 アカキイロ》と明記されている。同じ頁の右手に見える「赤」と較べるとややオレンジがかっている。度合いがどのくらいなのかは明瞭ではないもののアカキイロというのだからアカにキイロがかなり混じっているはずである。

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他にも種々面白い記述がある。当時の言葉が実際にどういうイメージをもっていたのか、おおよそ一目で分るのがありがたい。ルビも発音が分って貴重だ。明治維新直後ならではのものをふたつほど引用してみる。上に図あり。

《とうだい 燈臺 トモシビノウテナ
近年海岸に設け置燈明臺にて船の目的(めあて)なり》

明治の灯台は現存六十七基。明治三年設置の神子元島灯台が現存最古だそうだ。

《でんしんせん 電信線 テレガラフ
西洋ハ勿論日本(につほん)にも追々に成就す東京(とうけい)始め北海道(ほつかいだう)西京(さいけい)大阪(おほさか)神戸(かうべ)より長崎に至り西洋に通信す此速力(そくりき)一時に二十八万八千里に及ぶ也光線(くわうせん)のすミやかなるも之にハ劣ると云実に不思議の機関(きくわん/カラクリ)なり》


日本(につほん)は「ニッポン」と解していいのだろう。この時期はまだ東京(とうけい)に対して京都を西京(さいけい)と称していたようだし大阪(おほさか)は「ざか」と濁らない(本書では濁るカナにはすべて濁点が付くようなので)。いろいろ参考になる。ついでながら光と電波は同じ速度でどちらも約三十万km毎秒である。




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by sumus2013 | 2015-04-02 20:37 | 古書日録 | Comments(0)

四月は残酷な月

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吉田健一『葡萄酒の色』(垂水書房、一九六五年一月三〇日)。三月の初めに必要があって吉田健一の本を何冊か買い求めたうちの一冊。訳詩集である。なかにT・S・エリオット『荒地』の訳があり、その冒頭の詩篇「死人の埋葬」がよく知られる「四月は(もっとも or きわめて)残酷な月」から始まっているので、本日取り上げてみた。

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垂水書房だけあって渋い造本である。むろん活版(印刷者=山田一雄、精興社)。こういう本はもうほとんど見なくなってしまった。嘆くつもりはないけれど少し寂しい。吉田健一訳を原文と付き合わせてみると、いくつか首をかしげる部分がある。

T.S. Eliot (1888–1965). The Waste Land. 1922.
http://www.bartleby.com/201/1.html

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冒頭の the cruellest を単に《残酷な》としたのも何か考えがあってのことだと思ってはみるもののやはり最上級には意味があると見なければならないのではないか。またこの詩の二頁目の最初の行《この赤い岩の下に蔭があり、》は少なくとも小生が参照した一九二二年版には該当する文章はないように思う。別のヴァージョンがあるのかもしれない。他にも細かいひっかかりはあるが、それでも全体の調子は格調高く正直に移した凡庸な訳詩よりもずっといい。そもそも吉田は正確な翻訳というよりも意訳に近い表現を好んだようだ。

もうひとつ残念なのは「死人の埋葬」にはドイツ語とフランス語が織り交ぜられており、しかもかなり重要な役割を果たしているにもかかわらず、和訳ではそれが全く分らない。どうすればいいのかは難しい問題だが、何とか工夫して欲しかった。

先日紹介した『江藤淳と大江健三郎』を読んでいたら大江は深瀬基寛訳のエリオットに深く動かされたということが書いてあった。たしかに『荒地』を読んでみると(恥ずかしながら流し読みでなくじっくり向き合ったのは本日が初めて)その意味が分らなくもない(と言っても大江作品もそんなに沢山は読んでいないのですが)。

思いつきひとつ。「死人の埋葬」を俳句にすれば、この一句?

  さまざまの事おもひ出す櫻かな  桃青

要するに「櫻の樹の下には屍體が埋まつてゐる!」ということである。


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by sumus2013 | 2015-04-01 20:43 | 古書日録 | Comments(0)