林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
カテゴリ
全体
古書日録
もよおしいろいろ
おすすめ本棚
画家=林哲夫
装幀=林哲夫
文筆=林哲夫
喫茶店の時代
うどん県あれこれ
雲遅空想美術館
コレクション
おととこゑ
巴里アンフェール
関西の出版社
彷書月刊総目次
未分類
以前の記事
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
お気に入りブログ
NabeQuest(na...
daily-sumus
Madame100gの不...
最新のコメント
お待ちしております。福あ..
by sumus2013 at 07:47
 終わり頃に伺えるチャン..
by arz2bee at 23:42
女子美人脈、歴史が長いだ..
by sumus2013 at 17:28
大橋鎭子さんの母親、久子..
by 唐澤平吉 at 15:09
お嬢さんも独立されたです..
by sumus2013 at 19:41
かつては家族で前泊して、..
by 牛津 at 18:11
そうですか、同期でしたか..
by sumus2013 at 20:05
なんだか縁でつながってま..
by 大島なえ at 19:31
渋沢敬三は渋沢栄一という..
by sumus2013 at 19:02
昔は四十歳の人がこうい..
by arz2bee at 17:37
メモ帳
最新のトラックバック
天才画家ゴッホの生涯と画..
from dezire_photo &..
ルーベンスの故郷、ヨーロ..
from dezire_photo &..
シャガール、ピカソ、マテ..
from dezire_photo &..
ポン=タヴァン派、総合主..
from dezire_photo &..
視聴率に関係なく選んだ2..
from dezire_photo &..
宝石のような輝をもった印..
from dezire_photo &..
ルネサンス美術の巨匠・ピ..
from dezire_photo &..
既成概念から絵画の解放に..
from dezire_photo &..
既成概念から絵画の解放に..
from dezire_photo &..
過去に来日した傑作を回顧..
from dezire_photo &..
検索
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


<   2015年 03月 ( 33 )   > この月の画像一覧

まっちゃまち

f0307792_19410632.jpg

f0307792_19410401.jpg

『書影でたどる関西の出版100』(創元社、二〇一〇年)より橋爪節也「不思議の女賊洋妾お俊」。上の写真は橋爪さんが自ら松屋町へ出かけて撮影したもの。

昨日の記事『剣聖塚原卜伝』の発売元・榎本書店についてコメントいただいたので思い出した。まっちゃまち(松屋町)は赤本の聖地なのであった。

《東京オリンピックの年に小学校に入学し、人形や玩具の問屋街、松屋町の近くで育った私は、末吉橋の交差点付近、卸しの本屋に積み上られた、花火のような色彩とグロテスクな絵柄が表紙となった、お化けの漫画が無性に欲しかったことが忘れられない。

《戦後すぐ松屋町では「赤本」と呼ばれる漫画本が乱造され、駄菓子の仕入れに来る商人に売られていた。漫画界の巨人・手塚治虫も松屋町の「赤本」出版社からスタートしたことは有名である。しかしさらに昔、戦前の松屋町でも、赤色を表紙に好んで用いて、同じく「赤本」と呼ばれた粗雑な出版物が出ていた。

《版元の代表格が本書の榎本松之助である。日清戦争直後、大阪平民館の名で絵草紙類を出版し、明治二十九年に『平民之友』を創刊する。実用書も含む多彩な本を、法令館、榎本書店などの名称で出版した。榎本自身も鉄骨山人を号して世界情勢を論じたり、自らの画と作による「コドモ画バナシ」などを刊行した。》

なるほど、なるほど。『書影でたどる関西の出版100』、いい本だねえ(自画自賛)。榎本法令館および赤本に関する関連記事は以下の通り。

法令館/榎本法令館




[PR]
by sumus2013 | 2015-03-12 20:05 | 古書日録 | Comments(2)

剣聖塚原卜伝

f0307792_20174175.jpg

『あやめ文庫 剣聖塚原卜伝』(あやめ書房、一九四九年五月三一日)。あやめ書房は奈良県生駒郡伏見村菖蒲池一三〇三の松浦重夫が発行人である。昭和二十三年から二十四年にかけて多数の少年向けの読物などを出版していたようだ。

f0307792_20173535.jpg

f0307792_20173865.jpg
口絵には「信廣画」とある。おそらく四代長谷川貞信であろう。

四代 長谷川貞信
http://www.ypc.co.jp/bunka/bun5.html

塚原卜伝は伝説的な兵法家である。この本の表紙にもなっているように食事中に宮本武蔵に斬り込まれとっさにナベブタで応戦したというのがお決まりのシーン(もちろんこれはフィクション、武蔵は卜伝歿後の生まれ)。本書は少年時代からの妖怪退治なども織り込まれたさまざまな武勇伝を語って名調子だ。講談調と言ってもいいが、戦前マンガ調と言う方がより似つかわしいかもしれない。

好敵手亀井新十郎との立ち合いシーンを引用してみる。文中、小太郎が卜伝のことで本書では《初めの名は塚原勝義》としている。実際には、幼名は朝孝、諱は高幹。卜部覚賢の子として生まれ塚原安幹の養子となった(ウィキより)。

《此れこそその頃日本一の槍の名人と言われました亀井新十郎、後に太閤秀吉に仕えて、関西の鳳凰とまで云われ、槍で三位(さんみ)の位まで貰つたほどの達人でございます。西の鳳凰に東の麒麟の大立合だから、滅多に見られぬ一生一代の大試合。双方暫くにらみ合つておりましたが、仲々どつちからも仕掛けて行かない。小「エイツ」新「ヤア!」暫くの間、かけ声のみがひゞいておりましたが、やおら小「エイツ」!と一喝、小太郎が気合諸共、とび込みますと、亀井もさる者、心得たりと、さつと身をかわして、すぐさま槍をとり直して、新「ヤツ」と叫んで突き返えす。小「さしつたり」と小太郎、体を左に捻ねると、又繰り出して来る、いなづまの如き槍先。全く数万の見物、只恍惚として美酒に酔えるが如く、シーンとして誰一人声を出す者もをりませぬ。ほんとうに息もとまつた如きしづけさがつゞきますと、その中、如何なる隙があつたりけん、新「エイツ」と突き出して来ました亀井の槍先、塚原は突かれたと思いきや、ヒラリとかわした身のかるさ。スツと槍の流れる所を、「エイ、ヤツ」ピシリツと打込みました木剣、あなやとみますと槍の穂先が、スツカリ折れてしまいました。いや折れたのではなくて、切れたので……。更に切れたと見えしその瞬間、「エイツ」と飛込んで行きますと、あわや近江典膳(おうみてんぜん)の体は真二つと思えましたが、近「ヤツ」と一声(せい)、するどい声がかゝつたと見れば、やにわに、典膳の姿は何処へ行つたか、かき消す如くに見えなくなつてしまつたのでございます。

近江典膳というのはここでは亀井新十郎の偽名である。卜伝も仁科與四郎と名乗っている。亀井新十郎は弘治三年(一五五七)の生まれで慶長十七年(一六一二)歿。卜伝は元亀二年(一五七一)に八十三で歿したと伝えられている(『鹿島史』)から、史実に照らせば試合できる可能性があるとすれば新十郎はローティーン、卜伝は七十代から八十代になっていたであろう。秀吉に重用されたのは事実で、新十郎と卜伝は秀吉の面前で再び立ち合う。しかし二人は身構えたままじっと動かない。

《○「オイ、こりやどうなるんだい。」×「大方、にらめつこと間違えているんだろう、そうすると早く笑つた方が負となるかーー」なんて他愛もない口をきいておりますと、其の内に双方の顔の色が次第に青くなつて来ました》

ということで秀吉は「勝負あった」と声をかけ、相打ちを宣言した。そして卜伝に向かって一万石をやるから家来になれと命じる。卜伝は即座に断る。

《秀「厭だと申すのか、一万石の知行であるぞ」卜「ハツ、塚原は天下を歩きまする武芸者、一万石や二万石でしばらるゝものではござりませぬ、涯なき青空の下(もと)に、日本六十余州は愚か、外国までも股に掛け、身を自由に、「一生涯浪人で了(おわ)る覚悟でござる」と云いつゝ秀吉公の顔をみてニヤリと笑いました。》

この心がけはたいへんよろしい。なお上記の宮本武蔵との闘いは収録されていない。なぜならその話はあやめ文庫の『宮本武蔵』に収録されているから、そちらをお読みください……とな。

f0307792_20173947.jpg
裏表紙


[PR]
by sumus2013 | 2015-03-11 21:44 | 古書日録 | Comments(2)

戦艦武蔵

f0307792_19283774.jpg

吉村昭『戦艦武蔵』(新潮文庫、一九九〇年三十七刷)。ポール・アレン氏が武蔵の船体を発見したというのは大ニュースだった。小生、戦艦にはほとんど興味はない。しかし何年か前に吉村昭の出世作であり代表作であるこの『戦艦武蔵』を読んでいたため船体発見には驚かざるを得なかった。

この小説、じつによく書けている。吉村では『わが文学漂流』が忌憚のない筆致と正確な描写がたいへん参考になる作品でもっとも好きなのだが、武蔵は別の意味で作者の特長が良く引き出された傑作だと思う。小説と実録の中間やや実録より。しかも面白い。

だいたいが大和や武蔵などという大鑑を建造するという方針そのものが誤りだった。日清・日露時代からそのままの方針でやっているのでは航空機が主役になった時代に遅れをとるのも当然だ。それでも日本海軍は卓越した砲撃技術に対する信頼があったため巨艦巨砲主義から容易に脱却できなかった。小銃の例でもそうだが名人芸に頼っていては技術の進歩に追いつけなくなる。ずっと後までレーダーさえ備えていなかったというのだから。

《しかし一方には、航空機の急速な発達に注目した航空主兵主義が、山本五十六海軍大将、大西滝治郎海軍少将らを中心に海軍部内を支配しはじめ、その表われとして開戦と同時に航空機による真珠湾攻撃という形をとったのである。そして、その二日後におこなわれたマレー沖海戦では、航空兵力が海上兵力に優位を示すことが決定的な事実となってあらわれた。
 渡辺は、横須賀海軍工廠で建造中の第三号艦につづいて呉工廠造船ドックで起工されていた第四号艦が、工事半ばで中止命令を受け、ひそかに解体されたことを知らされた。

実際、武蔵も米軍の航空機に執拗に攻撃されて沈没したのであった。昭和十九年十月二十二日ブルネイを出撃。フィリピン諸島北部パラワン島の水路で摩耶の乗組員を救助。ミンドロ島南方を迂回してシブヤン海に進んだ。そこで米軍につかまった。さて、ここから沈没までの描写が壮絶なのだが、それは直接読んでいただいた方がよかろう。十月二十四日、沈没の直前から沈没までを部分的に引用しておく。何次にもわたる攻撃で多数の直撃弾を受け多くの魚雷を命中させられた武蔵。

《猪口艦長は、シブヤン海の北岸に座礁することを考え、艦首をその方向に向けて進ませたが、機関室へも海水が流れこんで、途中で機関がとまってしまった。同時に二次電源も消えて艦内は闇になった。
 艦長は副長に命じて、
「総員上甲板」
 という指令を出させた。》

《「退艦用意」
 副長の口から声がもれた。かれの顔は、激しくゆがんでいた。この艦は沈まないという思いがまだ残っている。が、退艦発令の時機を失してしまえば、多くの乗組員の生命がうばわれるのだ。
 その時艦の傾斜が或る限度を越えたのか、突然、右舷に集められた重量物が轟音を立てて左舷へ動きはじめた。滑ってくる重量物に圧しつぶされる者の叫びが所々であがった。》

《艦の傾斜速度は急に早まり、海水を大きく波立たせて左に横転すると、艦首を下にして、徐々に艦尾を持上げはじめた。艦にしがみついている乗組員たちの姿が、薄暗くなった空を背景に艦尾の方へしきりと移動しているのが見える。
 艦首が没し、やがて艦橋が海中に没すると直立するように艦尾が海面に残った。それでも人々の移動はつづき、スクリューにも十数名の尚も上方へ上方へと這いのぼる人影がくっきりと見られた。艦尾とともにそれらの人影が海面から消えたのはそれから間もなくであった。

全乗務員二千三百九十九名中千三百七十六名の生存者は、駆逐艦清霜、浜風に救助されてマニラへ向かったが、マニラに上陸させては武蔵の沈没が知られてしまうという理由でコレヒドールへ送られた。

《海軍にとって、かれらは、すでに人の眼から隔離しておきたい存在だった。武蔵乗組員という名は、かき消したかったのだ。かれらの所属はどこにもなかった。》

生存者の半数は瀬戸内海の小島へ移送され軟禁同様の生活を強いられ、残りの半数は現地でマニラ防衛隊などに配属され多くが戦死したという。

[PR]
by sumus2013 | 2015-03-10 20:49 | 古書日録 | Comments(0)

明治作詩含英

f0307792_20192297.jpg
橋本海関『天下一品明治作詩含英 巻之上』(文栄堂書楼、一八八三年六月)を某先生より頂戴した。《この本を手にした時から林さんの顔が浮かんでいました》とのこと。深謝申し上げます。作詩含英とは漢詩を作るのための参考書である。この表紙がちょっと変っている。和綴じ本に和紙カバーをかけ、その上にタイトル紙を貼付けてある(黒枠内、黒枠も含む)。察するにこれは袋に印刷されていた表題を切り取ってカバーに流用したものであろう。本表紙には例のごとく縦長の題簽が貼ってあるのみ。

和本の袋

著者の海関橋本小六は嘉永五年(一八五二)播磨に生まれている。名は徳、字は有則。父文水は明石藩の学問方、祖父は武芸の指南役を勤めていた。維新後は兵庫師範学校、神戸中学の教師となり、本書の刊行された明治十六年に長男の橋本貫一(画家の橋本関雪)をもうけているが、貫一が五歳のときに出奔した。詳しくは下記サイトを。

橋本海関先生の墓


f0307792_20192189.jpg
f0307792_20191430.jpg
序には木瓜菴と署名があるが誰なのか? 校閲は岡本黄石。井伊直弼亡き後、彦根藩の政を動かしていた尊王攘夷派の志士で漢詩人としても名高い。

本文「詩学綱領」はこのような言葉で始まっている。句点と読点の別がない。

《凡ソ世ニ楽事多シト雖モ詩文ヲ作ル楽シミニ優ル者ナシ。何トナレバ游賞楽事は一タビ過グレバ其迹ナシ。若シ之ヲ詩文ニ托セバ僅々タル片言隻辞ヲ以テ。吾游賞楽事ハ勿論。吾ガ喜怒哀楽。心志思欲。愛憎感慨ヲ摸写シ。天地古今。人物政事。山水花月。琴棋書画。神仏仙怪。一切万物ヲ写シ。而シテ其精髄ヲ鐘(アツ)メ英華ヲ会シ。之ヲ天下ニ伝ヘ。之ヲ後世ニ遺ス。豈ニ楽シムベキニ非ズヤ。況ンヤ方今(タダイマ)文明ノ世ニ当リ。太平ノ恩ニ浴スル者ニシテ。文筆ニ親シマズ。志想ヲ吐露セズ。沈々黙々(クチツマヘモノイハヌ)トシテ木石ノ如ク。百年ヲ閑過シテ可ナランヤ。故ニ人トシテ詩文ヲ学バザル者ハ。方今文明社会(ナカマ)ニ容レラレザル所ナリ。》

f0307792_20191293.jpg
f0307792_20190706.jpg
色刷りの圏点は初めて見たような気がする。本文は銅板刷りだが、圏点も銅板だろうか。木版らしくはない。色刷りは四丁にわたっている。

f0307792_20191096.jpg

明治の文学というと新体詩だとか言文一致ということになりがちだが、明治時代を通じて漢詩はかなり盛んに作られていた。こういう書物もまだまだ需要があったわけである。


[PR]
by sumus2013 | 2015-03-09 21:22 | 古書日録 | Comments(0)

伝説の彦根

f0307792_19581305.jpg
f0307792_19581181.jpg


宮田常蔵『伝説の彦根』(彦根史談会、一九五四年一月一五日、装釘=著者自画)。宮田常蔵はコックであり、俳人であり(高浜虚子に師事)、能楽師、野草研究家。俳号が思洋、画号が紫陽。レストランを経営していたというだけあって本書でも食に関するエッセイが目に留まる。

例えば「跡の絶えた彦根牛の味噌漬」。江戸時代から牛肉食は行われていた。井伊直弼が桜田門外で水戸浪士のために倒されたのは万延元年三月三日。

《その遠い原因は、徳川家世子問題をめぐって、水戸藩主徳川斉昭と井伊直弼の意見の対立も一つ、更にもつと原因をさかのぼると、牛肉を食わせよ、食わさぬと、まるで牛肉屋の前で喧嘩でもしている書生ッぽ見たいなことが、井伊家と水戸家を仲違いさすような事になつた。》

《もともと彦根は元禄時代から黄牛(あめうし)と云つて、特別に飼ひならした茶色の牝牛の肉を、養老の秘薬として味噌漬にして贈答に用いた。このことについては、大石内蔵介から、堀部弥兵衛に宛てた手紙も、京都祇園の万亭に現存して居り、それには
  口上、可然方より内々に到来にまかせ進上致し候、彦根産黄牛味噌漬、養老品故其許には重宝かと存じ候、倅主悦などにまゐらせ候ばかへつて悪しかるべし、大笑
   十二日   大石内蔵介
  堀部弥兵衛どの
 とあり、幕末の詩人頼山陽も、山紫水明荘でこれを食し、一詩を賦した記録もある。》

ところが清凉寺で修行したこともあった井伊直弼は殺生を好まず、領内での牛馬の屠殺を禁じた。従って黄牛の味噌漬も作れなくなった。

《ところが、一日、殿中で水戸斉昭は直弼大老をとらえて、
「近ごろ養老の秘薬を贈つてくれぬが、寒い折りには何より珍重である、是非この度も届けて呉れるように」
 と懇望されたが、謹厳な直弼のことであるから
「実は今年より国中で牛馬の屠殺を禁じたから、牛肉を食することができない」
 と断った。》

斉昭は再三牛肉を所望したが直弼はガンとして受け入れなかったそうだ。

《それでその後殿中で会つても、そつぽを向いていまいましがつた。その中に将軍世子問題が起り、牛肉の意地からも反対に廻つた。そして遂に彦根が水戸に斬られる騒動と相成つた。其時以来名物黄牛の味噌漬は途絶えてしまつた。》

まことしやかな伝説である。

千成亭 近江牛の味噌漬
http://www.sennaritei.co.jp/category/11.html

彦根名産には鮒鮓(ふなずし)もある。「米飯を腐らして作る鮒寿司」より。

《井伊家が彦根藩主となつて、直孝の時より例年徳川将軍家に、春秋二期に献ずるのが例となり、春を鮒鮓、秋を葉紅鮒と云つた。》

《鮒鮓というので、知らぬ人は押し鮓か握鮓のように思つているが、八寸から一尺二、三寸の大きな鮒を、丸のまゝ塩漬にして、一、二ケ月をおき、塩のまわつた頃、水洗いしたものに、焚きたての米飯を、腹やあぎとの中へ押しこみ、更に外側を米飯でつゝんで桶に漬け込み、水を張つて半年以上経てから取り出して食うもので、他の鮓は魚の味で飯を食するが、鮒鮓は米飯を腐らして得た特異の臭気の高い鮒を、飯を捨てゝ食するものである。鮒も、他府県の人の常識にはずれた、大きさであることを知る必要がある。味醂粕につけなおすと異臭が少なくなり、アミノサンを多く含んでいるので、絶好の保健食である。》

塩を大量に使い、米を腐らせて捨ててしまうとは、鮒鮓とはきわめて贅沢な食品である。以下いずれも蕪村句。引用は穎原退蔵『蕪村句集』(岩波文庫、一九四四年十刷)より。季は夏。蕪村はよほど鮒鮓を好んだとみえる。

 なれ過ぎた鮓をあるじの遺恨哉

 鮓桶をこれへと樹下に床几哉

 鮓つけて誰待としもなき身哉  明和八年

 鮒ずしや彦根が城に雲かゝる  安永六年

 鮒ずしの便も遠き夏野かな   明和五年

 鮓を圧す我酒醸す隣あり   (新花摘)

 鮓をおす石上に詩を題すべく (新花摘)

 すし桶を洗へば浅き遊魚かな (新花摘)

 真しらげのよね一升や鮓のめし (新花摘)

 卓上の鮓に目寒し観魚亭    (新花摘)

 鮓の石に五更の鐘のひゞきかな (新花摘)

 寂寞と昼間を鮓のなれ加減   (新花摘)

 夢さめてあはやとひらく一夜鮓 (安永末年、蕪村遺稿)

 木の下に鮓の口切るあるじ哉  (蕪村遺稿)


f0307792_19581062.jpg
本書の表4に貼られている書店レッテル。三密堂書店の向いにあったが、現在は百万遍へ移転している。

富山房書店(下京区寺町通仏光寺角)

富山房書店 左京区田中関田町2-14

[PR]
by sumus2013 | 2015-03-08 21:11 | 古書日録 | Comments(0)

鳩笛

f0307792_20214742.jpg

小雨だったが神戸まで出かけた。梅田恭子さんと石井誠の作品が見たくて(ギャラリー島田)。その帰り道にちょっとのぞいた古本屋でこんなもを。調べてみると青森県弘前市の下川原で二百年ほども前から作られている鳩笛だった。尾羽の穴から息を吹き込むと「ホー、ホー」とどちらかというとフクロウのようなのんびりした音を出す。



f0307792_20210780.jpg
こちらは佐賀の郷土玩具展のはがき。佐賀では尾崎人形にテテップウと呼ぶ鳩笛があるそうだ。

尾崎人形 鳩笛(テテップウ)
https://sagaippindou.stores.jp/#!/items/545d37202b349284560002e4

鳩笛、テテップウを吹く高柳政廣さん

[PR]
by sumus2013 | 2015-03-08 17:48 | コレクション | Comments(0)

銀座百点

f0307792_20011094.jpg

『銀座百点』の表紙が一月号からクラフト・エヴィング商會に替わった。これまで佐野繁次郎からはじまって、佐藤明、濱谷浩、秋山庄太郎という写真家が一九六九〜七三年の間を担当した他は風間完、近岡善次郎、脇田和、そして小杉小二郎と画家ばかりが表紙を飾っていたが、ここにきて装幀の専門家が受け持つことになったわけだ。銀座も変った……と言っていいのだろうか。

《銀座百点は六十周年を迎えました。みなさまのご愛読とご支援に、心より感謝を申し上げます。今月号より新たな顔ぶれで、未来への一歩を踏み出します。》(一月号「編集夜話」より)


美術出版社が倒産したというニュースを某氏が教えてくださった。驚いた。

「美術手帖」など出版
明治38年創業の老舗出版社
株式会社美術出版社
民事再生法の適用を申請
負債26億2000万円


[PR]
by sumus2013 | 2015-03-07 20:14 | おすすめ本棚 | Comments(2)

古本河岸から

f0307792_20382042.jpg


『古本河岸から』No.8(吉田悦之、一九八八年一〇月一〇日、版画=畑農照雄)およびNo.10(一九八八年一二月二四日)を某氏より頂戴した。B4両面印刷を三枚重ねでB5十二頁の冊子にしてある。綴じはない。どうやら月刊らしい。発行人の吉田悦之氏は

プロフィール:1957年、三重県松阪市生まれ。1980年、國學院大学文学部卒業。財団法人鈴屋遺跡保存会・本居宣長記念館館長。著作に『2001年宣長探し』

という人物である。仕事柄もあるのだろうが、相当な古本通のようだ。八号の記事は安西勝「よしなし草」、小島瓔禮(よしゆき)「秋葉文庫のこと」、岩切信一郎「古書日渉」、そして「後記」。小島氏(民俗学者、琉球大教授)が秋葉文庫(三重町の町長も務めた蔵書家・伊東東のライブラリー)について書いておられるなかに次のような文章があって共感した。

《われわれが一人の人の蔵書に興味を抱くのは、研究者あるいは文筆家にとって、蔵書とは、自筆であるか印刷であるかを問わず、その人の体の一部分だからである。血や肉に相当する知性の倉庫である。脳細胞の一種といったほうがよいかもしれない。蔵書は業績の一部であると私は考えている。》

《深い研究をするためには、自分の蔵書だけで用が足りるものではない。しかし、精密な作業をしようとおもえばおもうほど、手元に書物が必要になる。結局、自分の仕事に必要な本を集めて、家に積みあげることになる。その人の業績と蔵書とは、一枚の紙の表と裏のようなものである。》

……たしかに。研究においても「持っているもの勝ち」が真理である。持っているべきは書物なり資料なりであって、結局は「丸いものや四角いもの」に帰着する。「深い研究をするためには」どうしてもそうなる。これに関して岩切氏の「古書日渉」にこういうくだりがあった。

《和本古書の老舗朝倉屋、さすが和綴の書物ばかりである。確かに喉から手が出るほどほしいものもあるが手に取って見せてもらうしかない。いいお値段である。》《買うとしても一冊を丹念に調べて、それだけで予算をはるかにオーバーすることになる。もう一つの和本、肉筆錦絵の老舗文行堂、軸ものと短冊を見せてもらうのを楽しみにしている。珍品もあったが一万〜七万、八万では手が出ない。ボーナス前だけに悔しさは募る。》

第十号の記事は悳俊彦(いさおとしひこ)「先物買いと掘り出し自慢」、山田俊幸「古書日渉」。山田先生こんなところにも書いておられたか。京都古書古美術店というくだりが面白い。繁華街から外れた古本屋(この店がどこなのかは書かれていない、あそこかまたは……?)。同行者は吉田氏である。

《京都の古本屋に山東京伝の絵や宣長の短冊があるから見にゆこうということになった。》《京伝の方はしばらく捜したが、どこかにいってしまったとのこと、宣長は昨日発送しましたと言っていたのに、京伝を捜しているうちに出てきましたと出してきた。宣長は同行者の方なので、そちらに渡す。彼は手にとってしばらくながめていたが、有り難うございましたといって返していた。彼は数冊の本を買い、私は何も手にせずその店をでた。
歩きながら、短冊について聞いてみると、字は似てますが、短冊の幅が少々狭いですね、でも買っていたら本物になったでしょうね。と妙なことを言う。つまりは、本物かどうかは、本人の思い入れが決めるということだろうか。いずれにしても、その短冊が本物だろうが贋物だろうが、本当に欲しいと思わなかったということらしい。こうした潔さは岩切君にもある。目ききの条件の一つだろう。因みに値段は八千円だった。》

吉田氏の註記によればこの宣長の短冊はたぶん《宣長の不出来品と間違えられるかもしれない贋物》だそうだ。

やっぱりこういう紙の手作り冊子がいいなあ……とブログをずっと続けていると思ってしまう。






[PR]
by sumus2013 | 2015-03-06 21:31 | 古書日録 | Comments(0)

ホーム・ライフ

f0307792_19265182.jpg

『ホーム・ライフ』第六巻第五号(大阪毎日新聞社、一九四〇年五月一日)。大毎のグラフ雑誌。昭和十五年春頃の生活が写真入りで幅広くとらえられている。中学入試の熱狂ぶり、甲子園の選抜野球(第十七回、岐阜商業優勝)など、戦中とは言えまだまだ余裕たっぷりに見える。ただ、この雑誌の目玉はグラフ記事ではなく佐野繁次郎の挿絵なのだ。八点掲載。佐野集成の挿絵リスト未収録。雑誌が34cm×25cmと大判のためスキャナーに収まらず以下の画像は見ての通り誌面の一部分だけになった。あしからず。

f0307792_19522981.jpg
f0307792_19522880.jpg
f0307792_19522503.jpg
f0307792_19522467.jpg
f0307792_19522241.jpg
f0307792_19522094.jpg
f0307792_19521972.jpg
f0307792_19521716.jpg
にじみを生かした墨描きで日本画家などが取り上げないモチーフを大胆に描いているところに新味がある。佐野はアカデミックなデッサンを習っていないわけだが、デッサンという意味ではちゃんと物の芯がとらえられているから安心して見られるように思う。


f0307792_19585134.jpg
先月、南青山のギャラリー石榴で開催されていた展覧会「落書きの作法」案内状。佐野繁次郎のパピエ・コレ(左)が出品されていたようだ。






[PR]
by sumus2013 | 2015-03-05 20:05 | 古書日録 | Comments(2)

性文化

f0307792_19401163.jpg

『性文化』第3号(畝傍書房、一九四七年一一月二〇日)。こちらも善行堂にて。いわゆるカストリ雑誌。畝傍書房は戦前から戦中にかけて活溌な出版活動を示している。国学関係、学術、歴史、古典、時局的な出版など時代に即した出版内容である。戦後はいつ頃まで続いたのか、はっきりしないが、とにかくしばらくは持ちこたえたようだ。
本誌の発行人は金子好雄。発行所住所は東京都千代田区神田神保町一ノ一四。「編輯後記」にいわく

《エロテイシズムと云つてもピンからキリまであるが、本誌は常に高尚なエロテイシズムを保つてゆきたいと考えてゐる。》《小説家が、詩人が、画家が、医学者が、そしてまた、教育者が、評論家が、それぞれの立場から性の開放を叫ぶ本誌こそ、将に本邦雑誌界の異色である。》(能瀬皎一郎)

《坂口安吾の言葉を借りる訳ではないが、人間よ堕ちよ、読書子よ堕ちてゆけと叫んで止まない。男よ、女よ、堕ちてゆけ、其処に天国へ通ずる最も手近な道がある。
 絵空事ではなく、泥田の中に、「性文化」の中に、真珠を探した事がありますか……冗談じやあ無い、一体君達の目は何処に着いて居るんです。
 こう言ひ乍らも私は、貴君方の前に一つのものを示さうとして居る。》(岩波信三)

金子および能瀬については不明。岩波信三は『性知識』(風俗社)、そして『推理界』(浪速書房、一九六七年七月創刊〜七〇年七月、三十八冊)の最初の編集名義人になっている。

f0307792_20063882.jpg
「高尚なエロテイシズム」という言葉通り、表紙裏には堀口大學の詩「風景」が刷られている。挿絵は「KN」のサインから西研太郎と思われる。参考までに全文引用してみる。

 ああ 女体の曲線は
 うねり 波うち またよれる
 ああ 美しい やはらかい
 牛乳の海に浮いた
 日あたりのいい三角小島
 褐色の羊歯(しだ)がしげつて
 やさしい曲線がふつくらと三つに流れ
 島のなかほど おお 美学の中心
 こんもりした谷間(たにあひ)の木影に
 島番の一つ家(や)の尖つた屋根が見えかくれ
 桃色の尖つた屋根が ああ 見えかくれ


ノーコメントということで。目次もまた参考までに。深尾須磨子、柴田錬三郎、美川きよ……。画家では岡田謙三や中尾進の名前が見える。

f0307792_20124190.jpg
f0307792_20342181.jpg

岡田謙三はさすがと思わせる挿絵である。野見山暁治みたい……。裏表紙はヘイゼル・ブルックス。一九二四年南アフリカ、ケープ・タウン生まれの女優。一九四七年の「Body and Soul」が代表作。

f0307792_20203703.jpg


畝傍書房で検索していると式場隆三郎『夜の向日葵(テオの手紙)』(一九四二年一一月二〇日)を発行していることが分った。それなら去年買ったまま積んどく状態である。書影のみ掲げておく。発行者は吉村清、発行所住所は東京市麹町区九段一丁目十六番地となっている。

f0307792_20185336.jpg



[PR]
by sumus2013 | 2015-03-04 20:30 | 古書日録 | Comments(0)