林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
カテゴリ
全体
古書日録
もよおしいろいろ
おすすめ本棚
画家=林哲夫
装幀=林哲夫
文筆=林哲夫
喫茶店の時代
うどん県あれこれ
雲遅空想美術館
コレクション
おととこゑ
巴里アンフェール
関西の出版社
彷書月刊総目次
未分類
以前の記事
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
お気に入りブログ
NabeQuest(na...
daily-sumus
Madame100gの不...
最新のコメント
お待ちしております。福あ..
by sumus2013 at 07:47
 終わり頃に伺えるチャン..
by arz2bee at 23:42
女子美人脈、歴史が長いだ..
by sumus2013 at 17:28
大橋鎭子さんの母親、久子..
by 唐澤平吉 at 15:09
お嬢さんも独立されたです..
by sumus2013 at 19:41
かつては家族で前泊して、..
by 牛津 at 18:11
そうですか、同期でしたか..
by sumus2013 at 20:05
なんだか縁でつながってま..
by 大島なえ at 19:31
渋沢敬三は渋沢栄一という..
by sumus2013 at 19:02
昔は四十歳の人がこうい..
by arz2bee at 17:37
メモ帳
最新のトラックバック
天才画家ゴッホの生涯と画..
from dezire_photo &..
ルーベンスの故郷、ヨーロ..
from dezire_photo &..
シャガール、ピカソ、マテ..
from dezire_photo &..
ポン=タヴァン派、総合主..
from dezire_photo &..
視聴率に関係なく選んだ2..
from dezire_photo &..
宝石のような輝をもった印..
from dezire_photo &..
ルネサンス美術の巨匠・ピ..
from dezire_photo &..
既成概念から絵画の解放に..
from dezire_photo &..
既成概念から絵画の解放に..
from dezire_photo &..
過去に来日した傑作を回顧..
from dezire_photo &..
検索
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


<   2015年 02月 ( 34 )   > この月の画像一覧

晩年の父2

f0307792_19085555.jpg


小堀杏奴『晩年の父』よりいつものように書物関連など気になる部分を引いてみる。まずは父の書斎。

《死ぬ頃の父の書斎は玄関から近い六畳だつた。部屋は昼間でも暗く、夏になつて庭の樹木の葉が生ひ茂ると人の顔に青く反射して見え、冷い空気が感じられた。
 書物のいつぱい詰まつたガラス戸棚を背にして、疊の上にも積み重ねた本の間に机を置いて、父は埋まるやうに坐つてゐた。
 反対側の壁も、天井に届くまで本の詰まつた棚の層であつた。

《玄関にも本棚があつて父の蔵書の一部があり、此処には何時も書生がゐた。
 此の玄関から廊下を左に行つて一寸折れると南向に庭に面して父の書斎と四畳半が続き、四畳半の北に洋室がついてゐた。》

《此の四畳半から一寸板の間があつて洋室になつてゐた。
 一番最初私の覚えてゐるのは其処が兄の書斎であつた事だ。
 薬臭くて色んな本や、道具が並べてある。中でも恐ろしいのは白い骸骨がある事で、それ故私は一度も此の部屋に這入つた事がない。》

《庭のずつと北の隅に父の書物を入れる大きな土蔵があつた。
 土蔵の向うは隣家の海津[かいづ](多分こんな字だと思つた)と云ふ質屋になつてゐる。》《東向きに石段のついた入口があつて、黴臭い冷い空気の充ちた蔵の中には書物がいつばいつまつてゐた。
 入口に揃へてある藁の草履をはいて私は父の腰につかまつて二階迄登つた事もある。
 南に小さい窓があつて其処から中庭が見下された。》

神田の古本も登場する。

《これは随分晩年の出来事だから私は明瞭(はつきり)覚えてゐるが、其の日私は髪を切つた。
 そして今迄姉のお古ばかり貰つてゐた私が、初めてつくつて貰つた、黒地に様様の華美な色でやたら縞のある御召の新しい単衣を著て、父に連れられて神田の古本市に行つた。
 料理屋の二階にある、細長く折曲つた広い日本座敷に所所かたまつて、本屋が古本を山のやうに積上げて商ひをしてゐた。
 父は一つ一つの本の山の前で立ち止まつたが、大抵どの商人とも顔馴染になつてゐて、方方で引止められては話込むのであつた。
 かうして方方の本屋から少しづつ本を注文してゐる間、私は退屈になつてそこらに出てゐる画の這入つた本や、錦絵などを眺めてゐた。自分の本を買つた後で、父は私に女大学の本を買つて呉れた。
 これは今でも何んの意味も無く保存してゐるが、さうして実は其の中の挿絵を一寸見たきり詰まらなさうなので遂に一字も読まずに終つてしまつたが、父が買つて呉れたと言ふだけで大切にしてとつてある。》

「料理屋の二階」とあるが大正五年八月小川町に東京図書倶楽部ができるまでは古書業者の市会は錦町の松本亭、三崎町の吉田屋、青柳亭、鍛冶町の今金、猿楽町の天ぷら屋三亀などの席を借りて行われていた。『東京古書組合五十年史』(一九七五年再版)によれば

《神田青柳亭で開かれていた和本市が一、六の日、柏原徳蔵、伊藤福太郎、吉田吉五郎の市が五、八の日、それに素人のお客を加えたのが珍書会であったが、そこへさらに本郷の志久本の楠林らの和本市が加わり、それらが一つにまとまって常市会をつくったのが四十五年頃であった。これが東京古典会の前身である。

とのことで素人の客がのぞける市会もすでにあったようだ。

中西屋も出てくる。

《それなのにクリスマスが来ると二人は揃つて街に出掛け、子供達が知らない間に不断から欲しがつてゐる様様の玩具を買集めて、そつと家に運ばせるのであつた。
 かうした買物が遅く迄かかる時には、二人は竹葉や天金や方方の料理屋で食事をした。
 長い吊鐘マントを著た父が母と二人で中西屋の飾窓を覘込んでゐる姿が眼に見えるやうな気がする。》

《薔薇色のジャケツを貰つた上に、中西屋で雑誌「赤い鳥」から発行した童話集を二十冊ぐらゐ一度に買つて貰つた。
 其の他にも色色の玩具があつて、最後のクリスマスは忘れられない程楽しかつた。》

明治の中西屋店頭風景
http://sumus.exblog.jp/13651057/




[PR]
by sumus2013 | 2015-02-11 20:17 | 古書日録 | Comments(0)

女子美術学校


『最近調査男女東京遊学案内』より女子美術学校の案内ページ。

f0307792_19085005.jpg


f0307792_19084001.jpg

f0307792_19083077.jpg


f0307792_19081937.jpg

女子美術学校の実習風景(一九一五年頃)
http://sumus.exblog.jp/5626845/

女子美術学校 洋画部
http://sumus.exblog.jp/5457365/

亀高文子も女子美

[PR]
by sumus2013 | 2015-02-11 19:12 | 古書日録 | Comments(0)

世界探検家 菅野力夫

f0307792_20494623.jpg


『福島民報』本年一月十日から二月七日まで五回にわたって菅野俊之氏による「世界探検家 菅野力夫」が連載された。そのコピーを頂戴したので紹介しておく。菅野力夫(すがのりきお)の特異なキャラクターがよく分る楽しい読物になっている。

小生も菅野については少しだけ触れたことがある。そこで紹介した絵葉書は菅野俊之氏の手許へ渡った。多少なりともお役に立てたようだ。

世界探検家 菅野力夫 第一回海外踏破実況
http://sumus.exblog.jp/14074225/


[PR]
by sumus2013 | 2015-02-10 20:56 | おすすめ本棚 | Comments(0)

晩年の父

f0307792_19432684.jpg

小堀杏奴『晩年の父』(岩波書店、一九四二年八月一〇日九刷)。小堀杏奴のたしか『回想』(東峰書房、一九四二年)が印象に残っていたため、これを均一で拾ったのだが、文字通り「拾い物」だった。

昨日の『男女東京遊学案内』との関連でこんなくだりが目に留まる。

《[姉の茉莉が]結婚してからも、私は姉が寂しがるので、度度台町へ連れて行かれた。
 父や母と一緒に食事に招かれる事も多かった。そこには兄の甥や姪達が多勢遊びに来てゐて、よく私達と一緒に遊んだ。その中の一人に非常に悪戯(いたづら)な男の子がゐて、よく私を困らせた。
 仏英和へ入学した時、喜んで徽章を付けて行くと、其の男の子が、
仏英和なんて吝(けち)な学校だ、そんな学校へ入つたつて一寸も偉くないぞ」
とひやかした。
 私は云ひ返す事も出来ず、黙つてゐると、父が、
「そんな事を云つたつて、お前の所の房子も仏英和へ入つてゐるぢやあないか」
と穏やかな調子ではあるが、何時になくきつぱりした声で云つて呉れた。
「なんでえ、一寸仮に入つてゐるんだ。もう直き余處(よそ)の学校へ変るんだよ」
と、其の子は少してれたやうに、だが一層むきになつて答へた。》

ここで「仏英和」と出ているのは現・白百合学園のことだろうと思う。『男女東京遊学案内』では「高等女子仏英和学校」として掲載されている。仏英和は表猿楽町にあったから観潮楼からはそう遠くはない。

高等女子仏英和学校

所在 神田区表猿楽町
目的 女子に必要なる高等普通の教育を施し優良の女子を養成するにあり
修業年限及学年 修業年限は本科四ヶ年外国語専科を二箇年となし一学年を分ちて三学期とす
 但本科の課程を終へたる後更に外国語専科第六学年の課程を修せしむ
入学資格 品行方正身体健全なる満十二歳以上の女子にして尋常小学校の課程を卒へたるもの又は之と同等以上の学力を有するもの
 但本科には満十六歳以上、外国語専科、英語速成科には満二十歳以上の女子の入学を許さず
学科 学科を分ちて本科、外国語専科、英語速成科の三種とす
 但随意科として手芸及音楽を授く学科課程及修業年限は別に之を定めず
学費
 一、入学金 金壹円
 二、授業料 左の如し(但八月は徴収せず七月九月は半額とす)

本科 第一学年〜第五学年  一箇月 金二円五十銭
外国語専科 一語   一箇月 金二円
      二語兼修 一箇月 金三円
英語速成科 各学年  一箇月 金一円 

寄宿舎 本校は寄宿舎を設け監督を厳重にし訓育保健に留意し父兄委托の任に背かざらんことを期す
 但入舎を許す十六歳未満の者に限る
寄宿舎費用左の如し
寄宿食料 和食   一箇月 金七円
     和様折衷 一箇月 金十一円
     洋食   一箇月 金十五円
寄宿舎費 一箇月 金一円

以上でほぼ全部の記述である。寄宿舎の食事が三種類に分かれているのが注意をひく。洋食ばかりだと和食の倍以上の費用がかかったわけだ。

杏奴は大正二年に仏英和の幼稚園に入学、同尋常小学校へ進み、途中、誠之尋常小学校へ転校した後、仏英和高等女学校(表記はウィキによる)へ大正十一年に入学している。

『晩年の父』の内容については明日あらためて。

[PR]
by sumus2013 | 2015-02-10 20:40 | 古書日録 | Comments(0)

男女東京遊学案内

f0307792_19573448.jpg


『最近調査男女東京遊学案内』(修学堂書店、一九一四年七月一五日)。編纂者は川西房治郎、発行者は辻本末吉。文字通り東京の学校案内である。や、これは便利だ。当時も便利だったろうが、今は別の意味でたいへん重宝な学校案内となっている。

男子学校八十八、女子学校三十三。帝国大学から各種学校まで網羅しており、どういうオーダーで配列されているのか、すぐには分りかねるが、とにかく中学校から商業学校、工業学校、実業学校、医科歯科、音楽、外国語、私立大学、簿記学校、予備校などと続いて東京帝国大学、美術学校などが登場、商船学校で男子の部終り。女子は日本女子大から高等女学校、高等師範、女子美術学校、商業女学校、実業女学校、女子医専、産婆学校、裁縫学校などときて聖心女学院まで。

f0307792_20203846.jpg


内容は…、まあ、学校案内だから、こんなものだろう。東京帝大のページを参考までに。

f0307792_20210031.jpg

f0307792_20222064.jpg

川西房治郎はこの年に同じ修学堂書店の『改正日本六法全書』と『改正府県制郡制』の編纂も手がけている。社主の辻本末吉は大倉書店で修業したようで、修学堂から大正七年に独立した鈴木一平が興したのが現在の大修館書店である。大修館の修は修学堂の修をもらったという。修学堂は学習参考書、辞書、実用書など堅い出版物が中心だ。本書の広告ページもそういったタイトルで占められている。店主のマニフェスト。

f0307792_20222381.jpg

「東京遊学案内」なる書物は明治中期から毎年のように雑誌『少年園』(一八八八〜九五)が発行していたようだが、追々各社が追随してにぎやかになって行った。国会で調べて見たらかなり所蔵されている。下記はその一部(デジタル化されているものも少なくない)。ただし古本としては珍しいようだ。

東京遊學案内 黒川文淵/編述 少年園/編輯 山縣順 1890
東京遊学案内 改訂増補 中編 大橋又四郎/編 少年園 1890
東京遊学案内 改訂増補 下篇 大橋又四郎/編 少年園 1890
東京遊學案内 黒川隆一 編 少年園 1893
東京遊學案内 黒川俊隆 編輯 少年園 1894
女子東京遊学案内 積文堂 1901
東京遊學案内 少年園 編 内外出版協會 1902
男女東京遊学案内 : 最新試験問題 酒井勉 著 修学堂書店 1903
最近東京遊学案内 山徳丑之輔 編 明進堂 1903
最近東京遊学案内 受験学会/編 東華堂 1905
男女東京遊学案内 原田東風 編 大学館 1905
女子遊学便覧 : 実地精査 中村千代松 (木公) 編 女子文壇社 1906
最近調査男子東京遊学案内 今井翠巌 編 博文館 1909
最新調査男女東京遊学案内 青年教育会 編 博愛館 1910
男女東京遊学案内 明治38-43年 酒井勉 編 修学堂 1910
東京遊学案内 帝国教育会 編 大洋堂書店 1913
最新東京遊学案内 大正3年改正 東華堂編輯部 東華堂 1914
新撰東京遊学案内 集文館 編 集文館 1916
入学選定男女東京遊学案内と学校の評判 太田英隆 著 二松堂書店 1918


[PR]
by sumus2013 | 2015-02-09 20:21 | 古書日録 | Comments(2)

緋色について

f0307792_19521326.jpg


柏倉先生よりユリイカ連載マラルメ新訳の第二回を頂戴した。深謝いたします。ちょうどいただいたときに右京中央図書館へ出かける用事があったため、本誌の表紙だけを撮影してきた。羽良多平吉の手に掛かると高倉健もちょいと雰囲気が違って見える。

今回は「窓 他七篇」。原典の配列がそうなっているわけだが、色彩がとくに意識された作品群のように思った。青空・青(Azur)に加えてブルー(bleu)や青白い(pâle)という単語によって全体を覆うようなトーンが作られ、そこへ金色(or)、白(blanc)、黄褐色(fauve)、血の赤が振り撒かれるという、ギュスターヴ・モローのようでもありホイッスラーのようにも思える絵作りである。

きわめて読み取り難いけれども、マラルメのイメージの源はきちんと筋が通っている。それらの詩句がなんと見事に解きほぐされた日本語に置き換えられていることか。小生ごときが「さすがだ」という感想をもらすのはなんともおこがましいが、それでもやはりさすがである。

f0307792_20120752.jpg


書き入れが汚くて申し訳ない。ひとつだけ、誤訳というのではなく、辞書にも「緋色」としてあったりするので、これは一般認識における誤解ではないかと思うのだが「緋色」は「紫色」ではない。原文で用いられている「pourpre」は次のような色味である(マラルメがどういう色を想定していたかが本当は問題なのだが、ここでは問いようがないので留保しておく)。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Pourpre

この仏ウィキの記述でカラーチャートの中央に位置づけられている「pourpre」は日本人が見てもごく普通に「紫」であろう。では、緋色とはどんな色か? こんな色である。左下の四〇番。上村六郎・小河その『学用色名辞典』(甲鳥書林、一九五一年六月三〇日)より。

f0307792_20164507.jpg

見ての通り、オレンジがかった赤である、というよりオレンジ。この緋色についてはすでに過去ブログにおいて本書から引用しているのでそちらを参照していただこう。

流行色カード
http://sumus.exblog.jp/13324017/

緋色の研究
http://sumus.exblog.jp/13334294/

緋色とは火色の訛かとも言われている。火の色は黄みがかった赤である。ただ前掲書でも言及されているように蘇芳紫の赤(紫がかった深い赤)のような色だと考えられていた時期もあったようだから辞書類がそれを踏襲していればプールプル(紫)を緋色と記述しても不思議ではない。

例えば、寺田寅彦の「旅日記から」に《合歓花のやうな緋色の満開したのや》とあるようだが(『色の手帖』小学館より)、合歓花はおおむね紫がかったピンクである(いろいろ種類はあるかもしれませんが)。これは緋色が誤解されている例になるかもしれない。

話変って小生がある美術研究所に通っていたころ、フランスから帰ったばかりの講師がいた(当時はたしか東京芸大の助手を兼ねていた)。何かと言うとフランス語を使う、ちょっとキザオな先生だった(御本人にしてみれば自然に口をついて出たのでしょうね)。油絵の時間には紫色の使い方にうるさく、ひつこく「プルプル」を連発していた。いつしかその講師は「プルプル先生」と呼ばれるようになった。今は昔のものがたり。



[PR]
by sumus2013 | 2015-02-08 20:47 | 古書日録 | Comments(3)

模造文庫

f0307792_20503384.jpg


【ほんのシネマ】「007ドクター・ノオ」(テレンス・ヤング監督、一九六二年公開)のオープニングのすぐ後、英国諜報部のジャマイカ駐在員が定時の通信をする場面。本棚に手を伸ばし……

f0307792_20503240.jpg
開いてみますと、あら不思議、通信機があらわれました。

f0307792_20503075.jpg
窓の外から丸見えなんですけど。この直後に敵方の来襲でこのおばさんは殺されてしまうのであった。見かけだけの書棚については以前にも触れたことがある。

仮想文庫(ビブリオテーク・フィクチーヴ)ないし
模造文庫(ビブリオテーク・ファクチス)
http://sumus.exblog.jp/18399011/





[PR]
by sumus2013 | 2015-02-07 20:59 | 古書日録 | Comments(3)

FOURTH

f0307792_21054198.jpg

一枚の古写真。体育祭だろうか? 学生たちが勢揃い。IIIIの旗に「FOURT(H)」の看板だから第四クラスなのか。これだけ人間が集まっているんだから何か手がかりはあるに違いないと思うのだが……。野球のユニフォームを着て胸の英文が読める生徒が二人。どちらも「KYOKUCHU」である。キョク? キョーク? 旧制中学校だろうとは思うが、そうすると、けっこう時代はさかのぼるのか。分らないことばかり。ご教示を。

f0307792_21053927.jpg
f0307792_21053741.jpg
f0307792_21053581.jpg
f0307792_21053376.jpg


[PR]
by sumus2013 | 2015-02-06 21:14 | 古書日録 | Comments(0)

お雪の一生

f0307792_21284975.jpg

『家庭少女小説お雪の一生』(綱島書店、一九二一年一〇月五日)。開巻第一ページ目には《高山笹波》と明記されている。奥付では《編輯者 さ々ふね》とあり表紙の右上にも《さゝふね編著[稿?]画》とあるので、笹波が誤植か、別人ということも考えられなくもないけれど、さあどうなんでしょう、というところ。

f0307792_21284829.jpg
本文挿絵。時代は日露戦争前夜。ストーリーは上野動物園の前の茶店にお雪という美人の娘が働いているのに目をつけた看護兵二人が冷やかしにやってくるところから始まる。上の図はその二人。

その茶店は谷中の八百屋のおかみが経営している。お雪は八百屋の主人の妹。働き者の夫婦には赤子ができたばかりで幸せに暮らしていたのだが、まず母親が急死。そして火事になってべっぴんの妹が顔に火傷。乳飲み子をかかえた夫は困り果てる……という大転回。

八百屋の主人もやはり元は看護兵だった。あるとき上司だった軍医に出会う。今は開業している。軍医は赤子に乳を与えて、当座の金を渡し、妹の火傷も治療してしまう。めでたしめでたし……のはずが

《お雪は軍医の骨折によつて、火傷は跡形もなく癒(なを)つたが、其年の暮には何時の間にか此軍医殿の妾になつて居た。蓋し軍医は以前からお雪の美人である事を知つて居たのである。》

チャンチャン。

描写のなかでおやっと思った二三のくだりを引いてみる。まず優しい夫。

《横町の瀧さんとは縁日の大道へ古道具の露店を出す男で、夜を更かすにも拘らず女房より先に起出で飯を炊き茶を沸し、其から女房の手洗(てうづ)の水までを汲む男である。》

火事の原因も興味深い。

《何でも夜の十一時過ぎだツたの、徳さんの隣の宅(うち)で洋燈(らんぷ)を引繰覆(ひつくりかへ)したのですの。早く近所の人をお呼びなされば可いのに貴郎、内密(ないしよ)で以て灰を打掛(ぶつか)けたり水を灌(か)けたりしたんでしやう。何しろ座敷一面に石油が流れて夫(それ)に火が付いたのですから、何(ど)うして消えるもんですか、近所の人がほら火事だ、と云つた時には最(も)う其宅は焼けて了(しま)つてゝよ。》

女房に死なれた夫が赤子を抱えて吐くせりふ。

《「はい、女房に死なれたものですから、実にお恥しい次第ですが、牛乳を買ふ事も出来ませんで乳汁(ちゝ)を貰ひに参りましたのでございます。」》

牛乳で乳児を育てるのはもう少し大きくなってからかとも思うが。ついでに乳をくれた人が《真個(ほんと)に可愛(かあい)い赤さんです事ねえ》としゃべっていることも書き留めておこう。「赤さん」と言った。

綱島書店は明治四十年頃から昭和二十年代まで出版物がある。田山花袋の小説なども出版しているが、実用書、児童書などへと転換して五十年近く生き延びたようだ。









[PR]
by sumus2013 | 2015-02-05 22:09 | 古書日録 | Comments(0)

TARÔ SAN

f0307792_18400178.jpg

『ローマ字読本(第一種)TARÔ SAN』(文部省、東京書籍、一九四八年七月三〇日)。先日の京都古書会館にて。表紙画にひとめぼれ。画家の名前が明記されていない。サインもない。どこかで見た画風だが……思い出せない。


f0307792_18520761.jpg


f0307792_18521036.jpg
f0307792_18525813.jpg
小学校の絵があったので大きめに掲げておく。『実地有益大全』の小学校とはずいぶん趣が異なる(六十年以上のへだたり)。この雰囲気は小生が昭和三十年代に通った木造校舎にかなり近いものである。おそらく校門の両側に植えられている樹木は桜であろう(断言はしないが)。わが小学校は塀や柵ではなく茶樹の生垣で囲まれていた。

f0307792_18570795.jpg
タイトルの「Ô」で分るようにこれは訓令式とよばれるローマ字表記である。「ち」も「chi」ではなく「ti」となる。

1947年(昭和22年)の文部省通達[19](訓令式とヘボン式の両方を解説していた)ではサーカムフレックスとアポストロフィを使うとしており、1937年(昭和12年)の内閣訓令が事務的な手違いで誤っていたと言われているが、昭和20年代の教育現場(小学校4~6年生)ではどちらでも良いと教えるように文部省が指導していた。》(ウィキ「ローマ字」)

ローマ字の使用は、日本語を表記する場合、固有名詞が中心だから、ある意味てきとうでよかったとも言える。

f0307792_19101093.jpg




[PR]
by sumus2013 | 2015-02-04 19:20 | 古書日録 | Comments(0)